All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 141 - Chapter 150

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第141話

綾は親しい人もおらず、目立たないように隅で静かに過ごしていた。ケーキ入刀の時間になり、主役が恭平のエスコートで、優雅に螺旋階段を降りてきた。綾が顔を上げた瞬間、体が凍りついた。高橋凛(たかはし りん)?「皆さん、私の大切な親友――凛の誕生日を、盛大にお祝いしましょう!」甲高いその声の主は凪だった。自分の従姉が、凪と親友だなんて。「お、綾ちゃん。久しぶりだな」下品な笑い声とともに、深緑のストライプスーツを着た男が近づいてきた。綾は眉をひそめた。見た瞬間に思い出した。高木充(たかぎ みつる)。高校の時の一つ上の先輩だ。かつて自分が受けたいじめの主犯格が、目の前にいる。「綾ちゃん、相変わらずいい女だな。あのとき俺がもう少しうまくやってたら、最初は俺のものだったかもしれないのにな」充は下卑た笑みを浮かべてそう言った。吐き気をこらえながら、綾は尋ねた。「なんでここにいるの?」「もちろん、友達の誕生日を祝いに来たのさ」充は勝ち誇ったように笑った。綾の中で、すべてが繋がった。「あのいじめ、凛の指示だったのね?」誰にでも優しくしてきた自分が、なぜあれほどの憎悪を買ったのか、ずっと分からなかった。一時は、充たちに命すら脅かされるほどの危機もあった。あの時、健吾がいなければ、今頃どうなっていたか分からない。「お前が凛のお父さんの人生を壊したんだ。凛はあれでも手加減してたんだぞ」充は低い声で、綾の耳元に顔を寄せてきた。「それと、お前の顔が昔からずっと俺のタイプでさ。今でも夢に出てくるよ」綾が逃げようとしたが、数人の男に囲まれ、人の目から遮られてしまった。「綾ちゃん、元気にしてたか?」「久しぶり。俺たちのこと、忘れたなんて言わせないぞ」その顔ぶれは、かつてのいじめの参加者そのものだった。一生忘れることのない、悪夢のような顔だ。昏く絶望的な記憶が蘇り、抑えていた怒りが心の奥で爆発しそうだった。それと同時に、口は乾き、体中に火照るような熱さが広がっていた。飲んだのは、一口だけだったのに……綾は悟った。このパーティーそのものが、かつての悪夢を再現する罠だったのだと。15歳の時に感じた恐怖が、津波のように襲いかかってきた。赤らんだ綾の頬を見て、充の欲望は隠しきれなくな
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第142話

充が危険に気づいた時には、すでにガラスの破片が皮膚に突き刺さっていた。「がはっ!」恐怖に満ちた叫び声は花火の音に消されたが、充が恐れていた致命的な一撃はなかった。ガラス片は皮膚を突き刺しただけ。動脈までは届いていなかった。太い手が綾の手首を掴み、軽く引くと、ガラス片を引き抜いた。「こんなクズに手を汚す必要はない」健吾はハンカチを取り出すと、綾の手に付いた血をそっと拭った。首から流れる血を必死に押さえる充は、生気を失っていた。「青木……またお前か?」健吾はI国に帰ったと聞いていた。なぜここにいる?健吾は綾の手が汚れていないことを確認し、ゆっくりと目を上げた。その瞳には見たこともないほど凶暴な光が宿っていた。健吾の圧倒的な威圧感に気圧され、充は一歩後ずさった。綾は意識が朦朧としていた。荒い息をつきながら、健吾の腕にすがりつくように体重を預ける。体内で無数の蟻が這い回っているかのような、耐え難い焦燥感と熱っぽさに理性が蝕まれていた。「健吾、ここから出して。早く」真っ赤に潤んだ瞳で懇願する声には、熱を帯びた媚びるような響きがあった。「綾、花火を見ようよ」外から戻ってきた凪が、足早に駆け寄ってきた。充の姿を見て、凪の顔から血の気が引く。「なんてこと!どうしたのこれ?」その叫び声で戻ってきた客たちが足を止め、綾に視線を注いだ。「あれ、例の不倫騒動の中野夫人じゃ……」「抱きついてるあの男は誰?公衆の面前で、なんてはしたない」「中野社長じゃないのは確かね。あんな色目を使って、まるで食べようとしてるみたい」「中野社長、わざわざ弁明会見まで開いたのに。なんてだらしないのかしら!」「……」そんな陰口が雑音となって耳に入ってくる。綾は全身を駆け巡る熱波にのまれ、意識を失いかけていた。「そこをどけ!」健吾はジャケットを脱いで綾の頭から被せると、目の前に立ちはだかる凪を氷のような目で見据えた。「青木社長、綾は酔ってるみたいなので、お任せするわけにはいきません。親族の方がこちらにいらっしゃいますし、私が引き取りますから」凪は退かず、綾の腕を強引に引き剥がそうとした。凛がすかさず割って入った。「青木社長に手間をかけさせるわけにはいきません。綾は私の従妹ですので、私にお
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第143話

陸が小走りで後を追い、車のドアを開けた。「青木社長、お気をつけてお帰りください」凛は凪を睨み、声を潜めて言った。「あなたのせいでめちゃくちゃだよ!」凪も同様に鬱屈していた。いつも健吾が台無しにするのだ。「綾をいじめようとしたのは、そっちでしょ?」「まさか青木社長が来るなんて。しかもあんなに偉い人だなんて知らないでしょ」凛は健吾の先輩だが、彼の裕福な実家のことしか知らなかった。だがこの界隈では、金持ちなんていくらでもいる。陸があれほど平伏する相手なら、ただ金を持っているだけではないはずだ。「まさか、この誕生日パーティーに来るなんてね」凪は吐き捨てるように言った。健吾は中野グループでさえ相手にしないのだ、松本家など眼中にもないだろう。凛はその言葉に心苦しさを覚えながらも、それが事実であることを認めざるを得なかった。母が松本家に嫁ぐまで、自分には凪や充といった連中と遊ぶ資格すらなかったのだ。「綾の尻軽女、どうして何もしないで全てを手に入れられるのよ!」父が亡くなる前、家には莫大な財産が入った。もし綾が父を死に追いやっていなければ、松本家は間違いなくセレブの仲間入りを果たせただろうに。今さら陸の顔色をうかがって、肩身の狭い思いをすることもなかったはずだ。凪は恨めしげに言った。「青木社長がいなくなれば、綾なんて何でもないただの女よ」凛が何か言おうとしたその時、陸が大股でこちらへ歩いてくるのが見えた。「こっちへ来い!」凛は陸について書斎に入り、びくびくしながらそばに立った。「お義父さん、綾が酔っているように見えたので、青木社長に連れて行かせたくなかっただけ。わざと青木社長に逆らったわけじゃないの」「お前の周りのろくでもない友達に、余計なことを言うなと伝えておけ。それができなければ、今すぐこの家から出ていけ!」陸は凛を指さし、怒りのあまり顔を真っ赤にしていた。これが健吾に取り入る唯一のチャンスだったかもしれないのに、あろうことか相手の機嫌を損ねてしまった。凛は慌てて言った。「絶対に外部へ漏らさないようにさせるわ」陸は少し冷静さを取り戻した。「あの綾さんと仲良くしておくんだ。家に遊びに来るよう何度も誘いなさい、いいな?」「分かった」凛は従順に頷いたが、心の中では納得がいか
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第144話

健吾は視線を上げ、込み上げてくる感情を抑え込んだ。綾は、二人の距離が離れているのが不満な様子だった。健吾の掌から不意に感触が消えた。綾が少し起き上がり、強靭な太ももの上に膝をついて、体全体を彼に密着させた。スラリと伸びた脚が温かいシートに触れ、綾は邪魔な服を全部脱ぎ捨てたい気分になった。か弱い手つきで健吾のシャツの襟を掴むと、大きく隆起した喉仏と美しい鎖骨があらわになった。過去と現実が脳裏で交錯する。綾はかつて健吾から教わったしぐさを思い出した。体をせり出し、貪るように唇を重ねた。喉仏にふと温かい感触が走り、健吾は息をのんで小さく唸った。彼は綾の首を両手で押さえつけ、充血した瞳はうつむいた。体の中で火の球が弾けそうな衝動を抑えていた。「綾、後悔しないか?」「健吾、部屋にまで誘っておいて、欲しくないなんて言うの?」綾は健吾の手を振り払うように顔を上げ、唇は濡れたように艶めいていた。健吾の理性が完全に崩れ去り、堰を切ったように熱が込み上げた。……黒のベントレーが静かに道路を走る。外は寒いが、車内の空気は濃厚に濁っていた。「っ――」唇の痛みに、窒息しそうになっていた綾が正気を取り戻した。思考が追いつかないうちに、またその箇所が熱い吐息で覆われた。綾は相手を突き飛ばし、不安げに見開いた。上に乗っていたその顔を見た瞬間、頭が真っ白になった。健吾だ。自分は服が乱れ、胸をはだけた健吾の上に押し付けていた。「だめ、やめて……」綾は慌ててシートに転げ落ちると、健吾のスーツの上着をひったくって体を隠した。「ご、ごめんなさい、薬を盛られたの。全然分からなくて……」体も顔も熱くて火が出そうだった。ただ支離滅裂な言い訳しかできなかった。相手が健吾だとは分かっていた。でも、まだ5年前だと思い込んでいたのだ。健吾は、乱れた呼吸を耳にしながらも無言を貫いた。窓の外を鋭い瞳で見つめながら、ゆっくりとシャツのボタンを留め始めた。白く細長い指がボタンを扱う姿は、落ち着いていて気品があり、先ほどの男とは別人のようだった。一番上のボタンが引きちぎれていが、健吾は襟を整え、何事もなかったかのように身なりを正した。綾は大きな上着に縮こまり、息を切らせていた。さっきの感触の名残で、体は火照る一方
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第145話

健吾は布団をめくりあげ、「風呂に入ってこい。湯を張っておいた」と言った。綾は上体を起こし、顔を赤らめて謝った。「ごめんなさい、私……」健吾は冷ややかに言い放った。「今日起きたことは全部忘れてくれ」彼はさらにこう付け加えた。「俺たちの間だけの話だ。お前とパーティーの連中については、後で借りを返してもらう」「ええ」綾はうなずき、バスルームに入った。疲れきった体を熱いお湯に沈めた。湯気の温かさが肌に染み込み、少しだけ心がほぐれた。同僚に誘われてパーティーに行っただけなのに、なぜこんなことに?この半年、経験した苦労の元凶は間違いなく凪の仕業だ。今はさらに、凛も加わっている。今日の出来事に、周りの連中以外に伯母の松本千佳(まつもと ちか)も一枚噛んでいるのだろうか?千佳は母に似ていた。だから自分も少し千佳に似ているのかも知れない。引き取られた当初、周囲はみんな、自分の方が凛よりも娘みたいだとからかった。冗談とはいえ、幼い頃の不安定な心の少しの救いになっていた。新井家を除けば、唯一の血縁者は千佳だけだった。新井家については言わずもがなだ。両親の遺産を食いつぶした挙げ句、自分の血まで吸おうとしてくる。ヒルみたいな親族とは、一日も早く縁を切ったほうがいい。湊が優香を実家に送り返したのは、渡りに船だった。服役中の叔父については記憶も薄い。なんとなく父に似ていた気がする。父より少し背が低かったか。自分を家から追い出した千佳には恐怖と困惑しかない。怨念はないが、ただ悲しかった。当時はみんなが自分のせいで伯父の高橋透真(たかはし とうま)が死んだと言っていたから、子供心に信じ込んでいた。幼い自分は深い罪悪感に囚われた。その呪いは今でも抜けない。自分の中にそんな傷が残っているかさえ、今はもう分からない。誰かを慕いたい。だから透真や千佳の中に、いつまでも両親の面影を探していたのかも。だが悲しいことに、血のつながりの薄さは年々感じていくばかりだ……子供が欲しいのは、そんな子供に両親や祖父母の面影を重ねたいからかもしれない。綾は体を湯に沈める。優しく包まれる感覚は、かつての母の腕の中を思い出させる。誰かに酷い扱いを受けたり、追い詰められたりするたび、両親のいない現実を突きつけられる。
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第146話

3日後、ニュースで充が警察に連行される姿を目にした。充親子は重大な不正行為に関わっており、懲役20年は免れないそうだ。まさに因果応報。ざまあない。長年、心を蝕んでいた重い澱のようなものが、ついに消えていくのを感じた。あの吐き気のするような顔が、もう十何年も続いた悪夢から消えていく。その夜も、いつも通り研究所へ残業しに行くと、恭平がいた。半年間一緒に働いて、恭平が真面目で誠実な人なのは分かっている。誕生日パーティーのいざこざとは無関係だ。なのに今日に限って、恭平は口もきいてくれない。笑顔で挨拶しても、顔を上げようともしなかった。黙っていられない性分の綾は、凪や凛が何か吹き込んだのではないかと不安になり、恭平の横に歩み寄った。「石田さん、何か気に障るようなことでもしましたか?」「何を言っているんですか?あなたは今や中野社長の奥様で、青木社長の元カノでしょう?こちらが機嫌を損ねる立場じゃありませんよ」恭平は皮肉っぽく吐き捨て、データのファイルをめくる手が荒い。綾は呆気に取られた。研究所に来てしばらくして、婚活を勧められたから既婚だと言っただけだ。湊の妻であることは、颯太が周囲にバラして広まったに過ぎない。それでも、皆は「中野さん」とか「綾さん」と呼んでくれる。健吾との関係に至っては、誕生日パーティーの騒動までは颯太しか知らなかった。「奥様」という言葉が、あまりに痛々しく突き刺さった。綾は無理に笑いながら尋ねた。「石田さん、何かの間違いじゃありませんか?」「凛はあなたのいとこでしょう?年に一度の誕生日をわざわざ酒に酔ったフリをしてぶち壊し、青木社長をバックに難癖をつけて……そのせいで凛はお父さんに怒られたんですよ」恭平が顔を上げ、失望しきった目で見つめてきた。「子供の頃のつまらない揉め事を、いつまで根に持ってるんですか?私が人を見る目がなかったんです。あなたは清廉潔白だと思っていたが、根性は腐ってますね。パーティーに誘ったことを後悔してますよ」一連の叱責で理解した。凛がまた、被害者ぶって裏工作をしたのだ。酔ったフリをして誕生日パーティーを荒らしたことにされたのだろう。「私たち、一緒に働いてきましたよね。私はそんな風に見えますか?」「人は見た目じゃ分からないです。凛は俺の恋人で
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第147話

「平気よ。ただ、ちょっと悲しいだけ」綾がカバンからチョコレートを取り出し、差し出した。「さっきは、私のために言ってくれてありがとう」聡は包みを開け、半分に折って綾に渡した。「中野さんの人となりは、一番よく知っていますから」その飾らない言葉で、綾の胸のつかえがふっと消えた。人の噂話で自分を判断するような相手のために、怒る時間はもったいない。毎日研究所で共に汗を流し、真面目に働き、周囲に気を配る。それを間近で見ているのに、恭平は凛の言葉にばかり耳を傾けるのだ。実直な働きぶりに対し、肝心な見る目がないとはこのことだ。「先に戻るわね。あなたも気をつけて」寮を出た綾は、水月郷で暮らしていた。通勤時間はかかるが、寮よりは遥かに快適だった。しかし、部屋のどこかに仕掛けられた盗聴器を思うと、まるで自分まで映画の登場人物のひとりになったような気分になる。このところ、離婚に向けて新しい住まいをひそかに探していた。時期を見て、湊に切り出すつもりだ。位置情報や盗聴器、隠しカメラをすべて突き止めてから、このマンションを売り払う。それが終われば自由になれる。車で水月郷に入った時、街灯の下にいる二人連れが視界に入り、思わず目を疑った。凪と誠が並んで小道を歩いている。接点などなかったはずの二人が、なぜここで会っているのか?夜の闇に紛れた親しげな距離感は、明らかにただの関係ではない。綾はこっそり車を止め、息を殺してスマホを構え、顔が判別できるほど鮮明な写真が撮れた。真っ先に、美羽に話したいと思った。だが、凪と誠が手を組んで湊から何かを画策しているのだとしたら、軽はずみな行動で気づかれるのが怖い。誠が二宮家とビジネスの関わりがあるのは知っている。だが、凪は同じ界隈の人じゃない。婚約後、凪が中野家に来るたびに誠に事務的に接していただけで、誠に至っては一言の微笑みも返さなかったはずだ。それも全て演技だったのか?瞬時に、背筋が凍るような推論が頭を駆け巡った。あの拉致の黒幕がこの二人だとしたら、全てのピースが合致する。凪が自分を消し、誠が湊の命を狙う。動機は明確だ。自分たちが事故で亡くなれば、遺産は当然、凪の息子である海斗へと渡る。そこで凪がDNA鑑定を持ち出し、誠が海斗を正当な甥だと認めれば、すべ
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第148話

中野家で湊がバスルームでシャワーを浴びている最中、書斎の机の上のスマホが鳴った。たまたま書斎にいた凪が、画面の通知欄にある綾の名前を目にし、表情を強張らせた。周囲を素早く見回し、誰もいないことを確認すると、凪は湊のスマホを手に取り、チャット画面を開いた。綾から届いたメッセージを見た瞬間、凪の神経は張り詰めた。「よくもまあ、陰でコソコソと。本当に救いようがないわね」凪はそう毒づき、素早い手つきで画面を操作して、立て続けに二つのメッセージを送信した。【二度と凪を陥れるようなことを言うな。凪が何をしているか全て知っているんだ、お前ごときが余計な真似をする必要はない】【凪は俺の息子の母親で、何よりも大事な存在だ。もう二度と送ってくるな、おまえの顔も見たくない!】凪はしばらく画面を睨みつけ、返信が来ないことを確認すると、すぐに綾とのやり取りをすべて削除した。これまでの綾を見ていれば分かる。あの清廉ぶった頑固な女が、食い下がってくることはないと確信していたからだ。外から足音が聞こえてくると、凪はすかさずスマホを閉じ、何事もなかったかのように海斗と絵本を読み始めた。湊が車椅子で部屋に入り、いつもの習慣で綾のチャット画面を開こうとする。これからおやすみのメッセージを送ろうとした時、凪が彼を遮った。「湊、海斗と絵本を読んであげて。私、スキンケアしてくるから」「ああ、分かった」湊はスマホを置き、海斗を抱き寄せた。達也から子供を授かるのはもう難しいと告げられて以来、湊にとって海斗は以前にも増してかけがえのない存在となっていた。最高級の教育を受けさせるため、湊は海斗が通う国際学校の出資者となり、スポーツ施設まで一新させていた。海斗は聡明で吸収も早く、多少のお調子者な性格も湊には愛おしくさえ思えた。湊は海斗を見つめ、不意に尋ねた。「海斗、これから俺の息子になってくれないか?」「いいよ!中野おじさんだーいすき!」海斗は手を叩いて喜んだ。白くてふっくらした頬の上で、瞳が希望に満ちて輝いていた。外見だけでも、誰から見ても愛らしい子だった。湊もつられて笑ったが、その瞳の奥には深い影が宿っていた。脚が「完治」したのち、綾に自分が子供を持てない体であると打ち明ければ、きっと彼女も海斗を受け入れてくれるはずだ。
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第149話

昨夜の湊の態度に納得がいった。結局、彼と凪が裏で結託して仕組んでいたことだった。無駄に悩んで損をした。「綾、私たちの因縁はまだ終わってないから」凪はそう言って唇を吊り上げ、勝者の笑みを浮かべたままハイヒールを鳴らして去っていった。その背中を見送りながら、綾は冷ややかな目を向けた。まだ終わっていない?それはこっちのセリフだ。夫婦仲を邪魔されたことはさておき、ことの発端は湊の問題が大きかった。だが、その後の拉致や投薬については、健吾がいなければ自分は取り返しのつかないことになっていた。盗撮や根も葉もない噂のせいで、今も周囲の中傷にさらされている。すべてが到底許しがたいことばかりだ。終業後、綾は研究所へ向かった。湊のためにカスタマイズしている歩行補助装置が完成に近づいており、今は正念場だった。かなりの費用がかかるため自腹を切ろうとしていたが、颯太が念花グループの技術向上のためだと強く主張し、会社負担として処理してくれたのだ。研究所に着くと、思わぬ来客がいた。凛だ。綾は無視を決め込んだ。もう恭平とも決別して、彼女に気を使う必要もなかった。綾は出張から戻ったばかりの颯太に歩み寄った。「颯太さん、出張での成果はどう?」「素晴らしい収穫だよ。一言では言い表せないから、今度ゆっくり食事でもしながら話そう」颯太はそう言うと、包装された上品なピンク色のプレゼント箱を差し出した。「海外限定のグッズだよ。出張の土産だ」「ありがとう、颯太さん」綾はその箱を受け取り、心が少し軽くなった。凛はそれを見て笑みをこぼした。「杉本さん、本当に綾に優しいんですね」「そういえば、石田の彼女さんが綾さんの親戚だったとはね。やっぱり、縁がある人間は同じ家に集まるもんだな」と颯太が感心した。「家族じゃなくても、同じ家に入ることもあるけどね」と綾はつぶやいた。颯太はその驚きに浸っていたのか綾のつぶやきには気づかず、「夜遅くなるだろうし、これから3人で食事にいきましょう。おごりますから」と続けた。凛は颯太をじっと観察しながら、不意に恭平の存在がひどく退屈なものに思えてきた。家柄、容姿、人柄。どれをとっても恭平は颯太の足元にも及ばない。「いいですね!恭平から杉本さんのお話はいつも伺っていたので、ぜひ親しくなりたいです」
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第150話

「ごめんね、恭平には悪気はないんだ。ただ私のことを大切にしてくれてるだけだから」そう言って、凛は笑みを浮かべ、綾の手をそっと握った。「家族なんだから、そんなに怒らないでよ」家族?「家族だなんて、思ったこともないわ」綾は冷たく手を振り払った。子供の頃からずっと自分を追い詰めてきた人間を、家族だなんて思えるはずがない。ただの敵でしかない。「颯太さん、もう行くわ」恭平同じ研究所で働いている同僚だ。このことで颯太を困らせたくなかった。「杉本さん、他の部署に移してくれませんか?自分の彼女をいびる人間とはもう働けません」恭平は眼鏡を直し、険しい顔でそう言い放った。颯太は仕方なく頷いた。「明日、異動願を出せ。承認する」凛が腕を掴む。「杉本さん、恭平だけのせいじゃないんです。綾が……」「本人の口から聞きます」颯太は遮り、椅子に掛けていた上着を取って、急いで立ち去った。綾が建物を出てまもなく、後ろから車が追いかけてきた。路肩に車を寄せると、窓を下ろした。「颯太さん?」「乗って。二人で夜食でも食べに行かないか?」颯太はそう言うと、綾を乗せて店へ向かった。颯太に続き、二人はレストランに入った。席に着くと、颯太がすぐさま切り出した。「石田の件はどうなってるんだ?」綾は事情をすべて説明した。健吾が連れ去った後に起きた出来事だけは省いた。「嫌な思いをさせたな」颯太の声は優しく、料理の湯気が漂い、彼の表情を隠した。綾の鼻の奥がツンとした。「颯太さん、信じてくれるの?」知り合ってまだ半年足らずだが、まるで旧友のように心が通じ合っていた。この純粋な信頼こそが、湊との間にあった虚しい関係をより惨めに感じさせた。颯太は小さく笑った。「石田の彼女のことは知らないが、君という人間はよく知っているからな」「まぁ、とりあえず乾杯しよう!」綾は器を手に取り、颯太と小さくカチリと合わせた。温かい料理の余韻の中で、凍りつく冬の寒さも、次の季節へと溶けていくように感じられた。春の訪れとともに、中野グループのプロジェクトも大詰めを迎えた。綾は忙しさに追われ、毎週のプロジェクト会議で青菊グループに通い詰めていた。例の誕生日パーティー以来、健吾の顔を見ることはなかった。東都は広いようで狭
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