All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 131 - Chapter 140

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第131話

凪は誠の手を払いのけ、そのまま彼の胸に身を預けた。「だから全部、あなたのせいよ。いつまでも離婚しないあなたが悪いのよ」誠は凪の髪を弄びながら、「俺には杉本家の力が必要なんだ」と呟く。凪は冷たく鼻を鳴らした。「海斗のことはどうするの?」「君たちは海外へ行け。生活費は渡す」「嫌よ。絶対に離れないわ」凪は勢いよく身を起こし、唇を噛みしめた。自分が去ってしまえば、また綾がつけ上がるだけだ。やっとの思いで中野家から追い出したのだ。負けを認めるつもりはない。「あの時、あなたが直接綾を片付けていれば、私もこんな屈辱を味わわずに済んだのよ」「パシッ!」という乾いた音と共に、誠が持っていたシャンパングラスが床に叩きつけられ、酒と破片が周囲に飛び散った。彼は凪の胸ぐらを掴み、その眼光は獣のように鋭い。「君があの時、彼女を拉致するなんていう暴挙に出るからだ!湊の意図を試すなんて余計なことをして、おかげで今は青木社長の猛攻に晒され、息もできない状況だ!」「私に怒鳴らないでよ!私と海斗に貸しがあるのはあなたの方よ!」凪は誠を突き飛ばすと、鳴り出したスマホをカバンから取り出した。電話の向こうから海斗の泣きそうな声が聞こえる。「ママ、どこに行ったの?」「ごめんね。ママは、海斗と離れないといけなくなるかもしれないの」「いやだ!」海斗は悲しそうに湊の方を見やり、頬を涙で濡らしていた。湊は渋々と頷いた。「ママ、中野おじさんが帰ってきなって」「中野おじさんに伝えて。私は海外へ行くから、海斗は預けるわって」言葉を終えるか否か、電話からは海斗の絶叫が聞こえてきた。湊がスマホを奪うと、「凪、俺が悪かった。海斗はお前がいないとダメみたいだ」と言った。声は重く、湊は頭を抱えていた。この決断を下す際、海斗の心など微塵も考えていなかったのだ。これでは、自分の父と一体何が違うというのか?「湊、ありがとう」電話を切った凪は勝利の笑みを浮かべたが、誠の氷のような冷ややかな視線に気づくと、表情を硬くした。「やっぱりあなたの息子って強みになるわね」誠は答えず、ただ腰を折って大きなガラスの破片を拾い上げ、ゴミ箱へ放り投げた。その動作には、凍りつくような冷たさが漂っていた。「何か怒ってる?」凪が不安げ
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第132話

翌日、綾が中野グループに出社すると、もう陰口を堂々と叩く者はいなかった。だが、皆の冷ややかな視線は変わらない。まるでおいしいところを綾に奪われたかのように、誰もが綾を毛嫌いしていた。人の偏見なんてものは根深いものだ。ちょっとやそっとで覆ることはないのだ。いちいち気に病んでもきりがない。度を越さない限り、仕事に支障はないだろう。誰かを恨み続けるのも疲れるし、怒りもすぐに消えてしまう。そんな性格だった。午後、オフィスのドアを控えめにノックする音が響いた。「綾ちゃん」綾が振り返ると、そこには見知った顔があり、思わず笑みがこぼれた。「美羽さん?誠さんに会いに来たんですか?」美羽のために椅子を引き、綾は急いで飲み物を入れた。互いに忙しく、会うのは久しぶりだ。「颯太からあなたがここにいるって聞いて、様子を見に来たわ」「美羽さんは颯太さんとそんなに仲が良かったんですか?」以前、一緒にパーティーへ行った時、彼らが知り合いなのは知っていたが、プライベートで連絡を取り合うほど親しいとは知らなかった。「私たちの苗字が何か忘れたの?」と、美羽はいたずらっぽく笑った。「美羽さんと颯太さんって、親戚だったんですか!?」綾は驚いて言葉を失った。今まで美羽から杉本家のことなんて聞いたことがなかったからだ。「颯太の叔母にあたるのよ。でも……私は愛人の子だから、表向きは関係ない存在ね。同じ名字でも、一族としては遠い親戚という扱いよ」美羽は淡々と言ったが、綾は内心の驚きを隠せなかった。初めて知る衝撃の事実に、呆然とその場に立ち尽くした。そんな綾を見て、美羽はどこかスッキリした表情を浮かべた。「お茶、私にくれるんじゃないの?」ハッとした綾は、慌ててカップを差し出した。「これ、友人が贈ってくれたハーブティーなんです。どうぞ」「いい香りね」香りを堪能し、美羽は真剣な眼差しを綾に向けた。「このこと、誰にも言わないでね」秘密を打ち明けられる相手は、綾しかいない気がした。結婚してからずっと、本当の妹のように接してくれたかけがえのない人。綾は何度もうなずいた。「もちろんです。誰にも言いません」富裕層の隠し子なんて、どこにでも転がっているありふれた話に過ぎないのだ。「今回のプロジェクト、実は私
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第133話

「今回は美羽が助けてくれなかったら、やり返すこともできなかった」誠の凛々しい表情が少し緩み、凪を引き寄せようと腕を伸ばした。凪はそれをひらりとかわし、呆れたように誠を睨みつけた。「言いたいことは言ったし、もう行くわね」誠の反応を見て、凪は告げ口しようという気を完全に失くした。今伝えたところで、誠は秘密を守るよう自分に圧をかけてくるだけだ。後から秘密が漏れれば、真っ先に自分を疑うに違いない。いっそのこと秘密は自分で握っておいた方がいい。杉本家や中野家が関わる話なら、後々必ず大きな武器になる。そう考えると、誠のことで抱えていたどんよりとした気分が一気に晴れた。エレベーターが開くと、中には美羽が乗っていた。「美羽さん、会長なら会長室にいらっしゃいますよ」美羽は凪を一瞥すると、それ以上関心を示さずに目をそらした。美羽は他人の家庭に割って入る女が大嫌いだった。母が権力に惑わされて愛人になったせいで、自分はこれまでどれほど苦しんできたことか。外から見れば誰もがうらやむ華やかな生活だが、中身はドロドロの泥沼なのだ。美羽がドアを押し開けると、誠はデスクで書類に目を通していた。「どうした、何かあったか?」「綾ちゃんの様子を見に来たの。義理の妹なんだから、もう少し大事にしてあげなさいよ」美羽は誠の後ろに回り込み、デスクの書類をのぞき込んだ。しかし、すぐに興味を失った美羽は、近くのソファに腰を下ろした。誠は顔を上げたまま、言った。「あいつには湊がついている。君が心配することはない」「湊はやり方が乱暴よ。さっきだって、ここにくる途中でひどい噂話を耳にしたわ。社員たちがみんな、二宮さんの方を湊の妻だって信じてるの。本当におかしな話よね!」美羽が声を荒らげて言っても、誠は一向に目を向けようとしなかった。「あいつが湊と組んで俺を出し抜こうとした時、俺を義兄だとは認めていなかったはずだ。君も身の程をわきまえろ」誠は書類を放り出すと、足早に部屋を出ようとした。「仕事中だ。用がないならどこかで時間を潰してろ。君が会社にちょくちょく出入りしても、そんなつまらない話をするだけだ」美羽は何か言いかけたが、返事を待たずに誠は去っていった。何か用件でもない限り、誠は自分と二人きりになるのを避ける。最初
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第134話

綾は青菊グループに車を回し、健吾を迎えに行った。健吾は悠然と助手席に座ると、車が家とは反対方向へ向かっていることに気づき、眉を上げて尋ねた。「どこに行くんだ?」「食事よ」綾は短く答えた。先に健吾を家まで送り届けてから颯太に会うのは時間が足りない。仕方なく健吾を連れて行くことにしたのだ。健吾は綾を横目で見て、冗談めかして言った。「これってデート?」綾は健吾をひと睨みした。外国育ちは開放的だと聞いてはいたが、本当らしい。健吾もまさにそうだ。結婚しているにもかかわらず、平気で元カノに軽い調子で口説き文句を吐くのだ。もっとも、他の人が相手なら情熱的な誘いなのだろうが、健吾の場合はただの当てこすりに過ぎない。折しも夕方のラッシュアワーで、綾はしばらく走ってようやく駐車場を見つけた。彼女は健吾を連れて細い路地に入っていった。通りには提灯が並んでいる。灯火の中に料理の匂いが立ち込め、路地に温かみを添えていた。健吾は、大学の前にあった飲食街をふと思い出した。当時はよく、こうして人混みの中で肩を並べて歩いたものだ。手をつなぎ、肩を寄せ合って。時には通行人とぶつかって綾が自分の腕の中に倒れ込むこともあったが、怒るどころか楽しげに笑い、むしろもっとすり寄ってきたものだ。今、綾は少し先を歩き、左右を見渡して店を探しながら、時折後ろを向いて自分が付いてきているかを確認する。【もうすぐ着くわ】綾が颯太への返信に目を落としていたその時、勢いよく誰かとぶつかって身体が大きく傾いた。すると、大きな手が即座に彼女の体を支えた。綾が腕の方を見ると、そこには包帯が巻かれた健吾の右手があった。衣服越しではあったが、まるで掌の熱が直に伝わってくるかのようだった。何気ない動作のはずなのに、綾の胸は激しく高鳴った。「ありがとう」「人が多いから、気をつけて」健吾は手を離すと、わざとらしく綾にぴたりと寄り添って歩き出し、その目元には作戦がうまくいったというような薄笑いが浮かんでいた。「ここよ」綾は地元の料理屋ののれんをくぐり、健吾に先に入るよう促した。店内で一人座っていた颯太を見た瞬間、健吾の表情が途端に凍りついた。「夕食の相手はあいつか?」「そうよ、さあ入って」綾は颯太に手を振り、足早に歩み寄った。
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第135話

健吾は、綾の方を見て問いかけた。「今、どこに住んでるんだ?」「しばらく明里の所にいたけど、今は会社の寮に移ったわ」隠しても無駄だろうと、正直に答えた。健吾ならもう、中野家を出たことを知っているはずだから。「まだ時間があるな。寮に戻って少し話そう」そう言って、健吾は迷わず助手席に乗り込んだ。何がしたいのか分からないまま、綾は健吾を寮へと車を走らせた。「どうぞ。狭いけど。あなたに来ていただくには、少し不釣り合いかもしれないね」健吾はふっと笑うと、躊躇なく中へ足を踏み入れた。「じゃあ、俺はこれで帰ります」颯太が車の鍵を握りしめたまま、隣の部屋のドアを見つめて言う。綾はすがれるような思いで頼んだ。「中に入って、少し座っていって」健吾と二人きりになるのは避けたい。今の健吾を相手に、何が起きるか予想がつかないから。「分かった」颯太は待っていたかのように、嬉しそうに頷いた。健吾はソファにどっかと座り、部屋を見回すと、いつもの意地の悪い笑みを浮かべた。「旦那さんから追い出されて、家もなしってわけか?」「私の方から出てきたのよ」と綾が言い返した。「どっちでも同じだろう。結局、あそこにはいられなくなったんだ」健吾は口角を上げると、今度は颯太の方をじっと見つめた。「でしょう?颯太さん?」困惑する綾の表情を見て、颯太が穏やかな口調で庇った。「綾さんには彼女の考えがあるんです。それを尊重していますから」「健吾、もう帰って」と綾が告げた。やはりただ皮肉を言いに来ただけだ。心底どうでもいい。もううんざりだ。健吾はからかうような表情を収めると言った。「颯太さん、綾と少し二人で話してもいいでしょうか?」「ええ、どうぞ」颯太が立ち上がり、静かにドアを閉めて出ていった。綾は腕を組んで、無表情のまま健吾を睨みつけた。「離婚を考えてるなら、俺が力になる」その声は低く響き、真っ直ぐに綾の心へと刺さった。綾はこぶしを強く握り締め、込み上げる感情を抑え込んで一言だけ告げた。「不要よ」健吾とは、関わりを絶つのが一番だ。健吾がいつの間にか歩み寄っていて、熱い眼差しを綾に注いでいた。「フェンシング館で俺を挑発した時の言葉……あれは本心なのか?」綾からは遠ざかろうと何度も自分に言い聞かせてい
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第136話

健吾が道の端まで歩いたところで、マルスもやってきた。後部座席に座り、綾が持っていた黒猫の置物を取り出す。彼女が言った言葉を繰り返し反芻するが、どうも何かが引っかかる。屋敷に到着すると、マルスは健吾の手元を見て小声で釘を刺した。「健吾様、ビアンカ様が大事にしているそれ、決して失くさないでくださいね」ビアンカは思い込んだら一直線の性格で、一度機嫌を損ねると手がつけられない。健吾は胸を締め付けられる思いで聞き返す。「これはビアンカのものか?」「ええ、I国の占い師が贈ったものです。ずっと窓辺に置いてありました。あまり縁起が良さそうではないので片付けようとしたのですが、ビアンカ様が絶対に譲りませんでしたから」何かに気づいた健吾は、足早にビアンカの部屋へ飛び込んだ。窓辺には、何ひとつなかった。まさかこの黒猫の置物は、ビアンカが綾に贈ったものなのか?健吾は即座にビアンカに電話をかけたが、出たのはI国の使用人だった。「健吾様、ビアンカ様はお出かけになりました。スマホは家に忘れていったようです」「いつ戻る?」「だいたい1週間後かと」通話を終え、健吾はいつビアンカが黒猫の置物を手放したのかと思い悩む。しばらく考えて、綾の番号へ発信した。コールが2回鳴ると、そのままブツリと切られた。綾は電源を切り、スマホを横に置いた。健吾の嘘つき。前は彼がタクシーを拾えないんじゃないかと心配して、屋上にこっそり覗きに行ったのに、そこで見かけたのはマルスだった。後で青菊グループの社員から遠回しに聞き出したが、マルスは毎日健吾と一緒に会社へ行っていたらしい。マルスは最初からI国に帰ってなかったんだ。送り迎えも、食事の支度も、服のボタンを外すのも、全部自分をからかうための遊びだったのね。昨夜の「手伝いが必要か」という言葉も、また何か悪巧みを考えているに決まっている。綾は布団に潜り込み、頭まで毛布を被った。どこからか冷たい風が入り込んでくるようで、体全体が芯から冷えていく。言いようのない浮遊感が胸元から広がり、手足の先まで毒のように染み渡る。朝起きても、昨日よりさらに体が重く感じるだけだった。だから会社で湊に凪親子の話をされても、反応が鈍くなった。「海斗はまだ小さくて俺から離れられないし、凪からも離れ
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第137話

「よく分からないけど、突然出てきたわよね。念花グループも本当にやり手というか、底知れないわね」「トップクラスの人材を送り込むとか言ってたのに、杉本さんもエレナさんも来てなくて、来たのはただの縁故採用」「中野さん自身の能力は悪くないけど、人柄がね……」「しっ!形式上はまだ社長夫人だから。変なこと言わないで」一人が外を確認し、誰もいないのを見てからタバコに火をつけた。「まあでも、ここに来たのが中野さんで良かったよ。これだけ美人なら目の保養になるし。もしそのエレナさんとやらがブスだったら、毎日出社するのが苦痛でしかないだろ」男たちは声を合わせて笑った。喫煙室には、その場にいる本人たちだけが気づかない、濁った空気が立ち込めていた。……多くのことを経験した今、綾は他人の目をそれほど気にしなくなった。凪たちが戻ってきたばかりの頃、世間体を気にして恥ずかしく思い、湊と言い争うこともあった。でも今や世間から後ろ指を指され、どん底を味わったことで、逆に心が落ち着いていた。本当に守るべきは世間体ではなく、自分の誇りだ。婚姻によって与えられる虚しい名誉など、何の役にも立たない。中野グループで自分の陰口が聞こえた時は、必ず言い返すようになった。中野グループの社長夫人としてではなく、念花グループのチームリーダーとしてだ。ここ数日で実力を見せつけたおかげで、綾を疑う声は消えていった。綾はその状況を心地よく感じていた。まるで女武将になった気分だった。退社前、健吾かからメッセージが届いた。【仕事終わりに迎えに行く。お礼に飯をごちそうする。他の奴とは約束するなよ】【昨夜マルスさんを見かけたわ。しかも彼、ずっとこの街から出てないのね】健吾はメッセージを見て、苛立たしげにスマホをテーブルに叩きつけた。「おい、マルス!」怒気を察したマルスは、怯えた様子で近づいてきた。「はい、健吾様。どうかされましたか?」健吾は手を伸ばし、「車のキーをよこせ」と言った。「どちらへ行かれるんですか?怪我も完治しておりませんので、お送りしますよ」「惨めな姿を見せに行くんだよ。君がいたら余計に惨めな姿を晒すことになる」健吾は鍵を奪い取ると、自分一人で中野グループへと向かった。もし黒猫の置物の件で何か誤解があるなら、
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第138話

車内で、湊は沈黙する綾の方を向いた。日が沈み、車窓からは夕陽が差し込んでいる。柔らかな光が綾をふんわりと包み込んでいた。頬杖をつく彼女の指先は、まるで半透明のヒスイのように白く、繊細だった。繊細な横顔に光が当たり、肌の表面にある薄い産毛まで浮き彫りにしていた。こぼれ落ちた髪は、光に照らされて柔らかな褐色に輝いている。ただ静かに座っているだけなのに、綾が放つ穏やかな夕陽の静寂が、世間の喧騒を消し去り、まるで美しい一枚の絵画のようだった。湊が初めて綾にときめいたのも、ちょうどこんな夕暮れ時だった。出先から戻ったとき、金色の夕陽を背にして、膝丈の赤いスカートを着た綾が、庭で和子が飼っている白猫と遊んでいた。髪に葉っぱがついていることに気づいた彼女が、少しだけ頭を傾けると、垂れた前髪が瞳を覆った。綾はそれをすぐに払いのけることはせず、真っ先にこっちへ手を振って、可愛らしく笑った。自分が反応を返してから、綾はやっと指先で髪を耳にかけ、満足そうな笑顔を見せた。ただ髪をかき上げるだけの日常的な動作なのに、胸の奥で、何かが小さく動いたような気がした。小さな振動が、体中の神経を震わせた瞬間、世界から音が消えた。何かが、決定的に変わってしまったのだ。¸でもあの日は、誠が決めた婚約を承諾するために出かけたのだ。もし……もし綾のあの姿を見るのがもっと早かったなら、人生はこんなことにならなかったかもしれない。幸い、今こうして綾は、妻として自分のそばにいる。「夜は何を食べようか?」湊は手を伸ばし、優しく綾の髪に触れた。彼は健吾のことが頭をよぎったが、この半年ずっと喧嘩ばかりだったことを思い出し、せっかくの穏やかな空気を壊したくなくて口を閉じた。「お腹空いてないから、この辺で降ろして。タクシーで帰るわ」綾は上の空でそう言った。湊を使って健吾と距離を置いているとはいえ、別に湊と親しくなりたいわけではなかった。「なら俺の食事に付き合え」湊はレストランを指定し、剛は無言で車を走らせた。「一人で中に入れっていうのか?」目的地に着くと、湊は車椅子に座り、全く気の乗らない綾を微笑ましく見つめた。マイバッハは走り去り、仕方なく綾は湊を押し、レストランへと入った。すぐに店員がやってきて、二人を落ち
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第139話

それでも、綾を見つめている時間は少しも退屈しなかった。夕食が終わると、湊はどうしても綾を水月郷まで送ると言い張った。「タクシーで帰すなんて不安だ」「ありがとう」水月郷のマンションには既に入居できるため、綾は湊が疑わないよう拒否しなかった。着く間際、湊が聞いた。「どうして今日は自分の車で来ていないんだ?」綾は胸が跳ね上がった。「塗装が少し剥げちゃって」湊の表情がわずかに和らぐ。「修理に出させるよ。あるいは新しい車を買ってやろうか、選んだら教えてくれ」「週末に自分で出すわ。あの車に慣れているから、買い替えなくていい」車が停まると、綾はシートベルトを外して外に出た。湊は窓を下げて言った。「先に入ってくれ。見届けてから行くよ。おやすみ」「ええ、おやすみ」綾が背を向けると、張り詰めていた神経がようやく緩んだ。曲がり角まで来て振り返ると、黒いマイバッハは既に方向転換して走り去っていた。「綾?」突然の声に驚いて振り返ると、凪が疑わしげな視線を向けていた。「どうしてここにいるの?」綾は手に持っていたフォルダをとっさに差し出し、「仕事で使い走りよ。あなたは?」と聞き返した。湊が自分の住処を凪に伝えていない以上、わざわざ自分からバラす必要はない。「あの杉本社長もあなたに大した優遇をしてないようね。それに、私が誰と会おうが、いちいち報告する義理あるの?」凪は冷ややかな目で綾を一瞥すると、背を向けて去っていった。湊のことを思うと、綾は心の中がどうしても落ち着かない。この部屋を湊に貰った以上、彼には自分がここにいるとバレているのだ。帰宅すると、綾は照明の電源を落とし、ランケーブルを抜いた。道具箱を持ってくると、懐中電灯の光を頼りにリビングから調査を始めた。どうか何も見つからないように。祈るような気持ちだったが、10分も経たないうちにコンセントの裏から余計な配線と、小さな盗聴器が出てきた。「湊……」綾はその場に崩れ落ち、両手で顔を覆った。闇の中で体が震えが止まらない。恐怖、そして信じられないという驚き……湊が、いつの間にこれほど恐ろしい化物になってしまったのだろうか?これはまだ始まりに過ぎない。しかし綾には、これ以上調べる勇気が残っていなかった。「颯太さん、急だけど、一度
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第140話

マルスが健吾を見つけた時、健吾は血統書付きの名馬に乗り、乗馬コースをゆっくりと周回していた。この数日間、健吾の様子がどこかおかしい。乗馬をしているか、一人で犬の散歩をしているばかりだ。「健吾様、ビアンカ様からです」健吾は馬を操り、手際よくスマホを受け取った。「ビアンカ、綾が受け取ったあの黒猫の置物、お前が送ったのか?」「たぶんそう。彼女のこと、嫌いだもの」芝生に寝そべるビアンカは、指先で草をちぎりながら、少し落ち着かない様子で目を逸らした。健吾はしばし沈黙した後、改めて問いかけた。「前にお前に託した綾への贈り物は、間違えずに届けたのか?」ビアンカは唇を噛み、声を少し潜めた。「送ったよ」「ビアンカ、俺は嘘をつかれるのが一番嫌いだぞ」健吾の声が低く響く。「嘘なんてついてない!」ビアンカは拗ねたように、一方的に通話を切ってしまった。健吾はただ確認したかっただけだ。ビアンカが嘘をつくはずがないことは分かっている。考えすぎなのかもしれない。綾が動画を見てなお湊を信じるなら、それだけのことだ。心のどこかで抱いていたかすかな希望も、ただの自分への言い訳にすぎない。「健吾様、今夜はパーティーがあります。少し息抜きしてはいかがですか?」マルスがおずおずと尋ねた。健吾は馬から飛び降り、「興味ない」とだけ返す。「綾さんも参加する可能性があるそうです」マルスは口にしながら少し後ろめたさを感じたが、この世界は狭い。どこかで出くわすかもしれない。ただ、ずっと塞ぎ込んでいる健吾に外の世界を少しでも見てほしかっただけだ。これ以上孤独になられては困る。「俺とは無関係だ」健吾は馬を引き連れて遠ざかっていく。凛々しい背中が、美しい馬の姿と重なり合っていた。……念花の研究所には、休みの日だというのに忙しげな空気が漂っていた。特に綾は平日の中野グループでの勤務に続き、休日も研究に打ち込み、休みという言葉とは無縁だった。同僚の石田恭平(いしだ きょうへい)が冗談めかして言った。「そんなに働いていたら、二番目の杉本さんになりますよ。目には機械とデータしか映っていない、まるで修行僧ですね」修行僧?綾は心当たりがあるようにうなずく。自分にとってここが神社で、この計器やデータこそが心を落ち着かせてくれる「神様」
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