All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話

綾は強い眼差しで言った。「今あきらめるよりは、ずっといいわ」達也もその通りだと思った。綾は、湊のために何度も手を尽くしていて、本当に大変そうだ。「あの件、本当に誠さんが関わっているのか?」「健吾がまだ調べてくれているわ」しかし、健吾がこれ以上調査を続けるわけがない。彼には関係のないことなのだから。綾のこの言葉は、凪に聞かせるためのものだった。綾は、凪が本当に湊を愛しているから戻ってきたとは思えなかった。たとえ好きという気持ちがあったとしても、それは本物ではないだろう。もし凪が湊に死ぬまで変わらない愛を誓っていたのなら、その性格からして、昔二宮家の言いなりになるはずがなかったのだ。湊は自分の魅力を買いかぶりすぎているし、凪の下心を見くびっている。湊が意識不明の間、綾は彼と親しい取締役たちを自ら訪ねて回った。しかし、会社の利益が何よりも優先される。たとえ彼らが湊の味方をしてくれたとしても、大多数の取締役たちには対抗できないだろう。綾は、和子からもらった指輪を指で回しながらしばらく考え込み、美羽に電話をかけた。「美羽さん、今お時間ありますか?よろしければ、お茶でもいかがですか」「綾ちゃんね。湊の容体はどうなの?」「うん、大丈夫ですよ」「そう、それならよかったわ」電話の向こうで少し間があった。しばらくして、美羽が再び口を開いた。「ごめんなさい、最近忙しくて。お茶はまた今度に。じゃあ、切るわね」綾はため息をつき、腕を組んで廊下を行ったり来たりした。綾にしてみれば、中野グループの社長の座なんてどうでもよかった。どのみち湊は株主だから、毎年かなりの配当金がもらえるのだ。でも、湊がその地位を大切にしていることを、綾はよく知っていた。この数年間、湊は休みなく働いてきた。すべてはグループ内での自分の立場を固めるためだった。明日の朝、取締役会が開かれれば、湊は経営陣から外されてしまう。なんとかして、別の方法を考えなければならない。綾はスマホの連絡先リストをスクロールした。すると、ある名前が目に飛び込んできた。この前のパーティーで、健吾が言っていたのを思い出した。中野グループが青菊グループとの提携に興味を示していると。青菊グループのほうが明らかに立場が上だから、協力の条件を提示することもでき
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第62話

あたりは鳥の声ひとつ聞こえないほど静まり返っていた。綾はスマホを両手で握りしめ、息を殺して待っていた。画面の明かりが、青ざめた顔と、隠しきれない不安を映し出す。道の両側から迫ってくるような闇に、思わず鳥肌が立った。永遠のように感じられる十数分が過ぎた後、ついに健吾から返信が来た。【上がってこい】綾は窓の外の薄暗い森を見て、一瞬ためらった。それでも車を降り、コートの前をしっかり合わせて、ゲートを越えて山頂へ向かって歩き出した。綾は足元だけを見つめ、周りを見たり、振り返ったりする勇気もなかった。息が荒くなり、だんだん足が速くなって、最後にはほとんど走るような状態だった。「きゃあ!」道の途中で、綾は突然壁のようなものにぶつかり、思わず悲鳴をあげた。「そんなに俺に会いたかったのか?」健吾が手を伸ばして綾を支える。レトロな街灯のオレンジ色の光が、二人の周りをぼんやりと照らしていた。綾が顔を上げると、男の深い青色の瞳と視線が合った。光と影が、その彫りの深い整った顔立ちを際立たせ、まるで肖像画のようだった。健吾は、記憶の中でいつも輝いている光だった。彼がいたからこそ、自分の過去は輝いていたのだ。綾はうつむいたまま黙り込んでしまった。あれほど会いたいと焦っていたのに、いざ本人を目の前にすると、何から話していいのか分からなかった。自分が傷つけた元カレに、今の夫を助けてほしいと頼むなんて。どう考えても虫が良すぎる話だ。「行くぞ」健吾は、再び歩き始めた。綾は後ろをついていく。健吾は背筋がすっと伸びていて、大股なのに、歩くペースはゆっくりだから、綾は楽についていけた。まだ付き合っていなかった高校生の頃、どこかへ出かけるときはいつも、綾は健吾に前を歩いてもらっていた。彼の姿が視界に入っているだけで、なぜか安心できたのだ。大学生になってデートするようになってからは、いつも隣で手を繋いで歩いていた。健吾の指はすらりと長くて力強く、彼に手を握られていると、とても安心した。後ろから差す光でできた自分の影が、前を歩く健吾の影を追いかけているように見えた。「何の用だ?」健吾は、振り返らずに尋ねた。綾は指をもじもじさせながら、歩くペースを落とす。唇が鉛のように重くて、なかなか言葉が出てこない。
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第63話

綾は言いかけてやめ、そっと盗み見るように健吾をうかがった。彼の表情は冷たく、何の感情も読み取れなかった。「提携を切り札にして、湊をここに残してもらうことは……できないかな?」健吾は綾を横目で見た。もはや、あざ笑う気さえ起きないようだった。「綾。俺たちはどういう関係だ?俺がお前を助ける義理はないだろう?」綾は言葉を失い、口を開いたまま立ち尽くした。冷たい風が体に吹き込み、内臓まで凍えるように痛かった。この状況で健吾が追い打ちをかけてこないだけでもありがたいことなのに、助けてほしいなんて、自分でもどうかしている。でも、もう他に頼れる人がいなかったのだ。「その代わり、あなたの言うことは何でもするから」健吾は鼻で笑った。「俺の何を手伝えるっていうんだ?俺は車椅子を押してくれる女も、飯を作ってくれる女もいらない。それ以外に、お前に何ができる?」綾はうつむいた。たしかに、健吾にとって自分には何の利用価値もなかった。「ごめんなさい、お邪魔だったわね」綾は凍えた手をこすり合わせながら、山を下りていった。山の夜は冷え込みが厳しく、心まで麻痺していくようだった。「送ってやる」健吾は綾の後ろをついて歩いた。綾が暗闇を怖がることを知っていたからだ。なのに、湊のためなら、たった一人でこの山道を歩けるらしい。数歩先を歩く見慣れた姿を見ていると、健吾の心は冷たい風よりも激しくざわついていた。腹が立つというよりは、おそらく嫉妬のせいだろう。ゲートのところまで来ると、綾は振り返って微笑んだ。「送ってくれてありがとう」彼女は健吾に手を振って車に乗り込むと、ツンとする鼻の奥を揉んだ。健吾はゲートの向こう側で、車のテールランプが遠ざかっていくのを見送っていた。しばらく一人で佇んでいたが、やがてスマホを取り出した。「戻ってこい。助けてやる」綾との電話を切ると、健吾はすぐにマルスにかけた。「中野グループの会長に連絡しろ。提携の件、同意すると伝えろ」「しかし、中野グループとは絶対に手を組まないと仰っていたのでは?」「気が変わった」健吾は再び現れた車のヘッドライトを見ると、スマホをポケットにしまい、ゲートを越えた。彼は助手席に座った。「車を出せ」綾は訳が分からず尋ねた。「どこへ?」もう真夜中
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第64話

綾は、スイートルームのベッドに横になっていた。でも、寝返りをうつばかりで、なかなか寝つけない。健吾の行動の真意が分からず、胸のざわつきがおさまらなかった。ほとんど眠れないまま夜が明けると、ドアの外からひそひそ話が聞こえてきた。綾がドアを開けると、そこにはマルスが立っていた。「中野グループには何時に行くの?」「お前は来なくていい。俺が解決する」健吾は鏡の前で黒いシャツを整え、チャコールグレーのサテンのネクタイを締めた。マルスは、綾の目の下にできた濃い隈と、対照的に上機嫌な健吾を見て、思わずニヤリと笑った。「綾さん、どうぞお気になさらず、休んでいてください」からかうようなマルスの視線に、綾は穴があったら入りたい気分だった。「マルスさん、あなたが思っているようなことじゃないですから」「マルス、行くぞ」健吾は黒のスーツジャケットを羽織り、スイートルームを出ていった。綾は長居するつもりもなく、急いで身支度を済ませると病院へ向かい、連絡を待つことにした。湊はまだ意識が戻らず、達也が手配した看護師が付き添っていた。綾は少し仮眠をとると、ノートパソコンを開いてリモートワークを始めた。最近は颯太の図面作成を手伝っているから、研究所へ行かなくても仕事はできた。お昼が近づいてきた頃、湊の秘書から連絡が入った。【奥様、峠は越えました!ひとまず安心して大丈夫です】綾はほっと胸をなでおろした。心の重荷がすっと消え、急いで健吾にラインを送った。【ありがとう】健吾からは、にっこり笑った絵文字が一つだけ返ってきた。仕事のグループラインで一番よく使われる絵文字だけど、健吾から送られてくると、綾はなんだか不気味な感じがした。でも、健吾が助けてくれたのは事実だ。他のことはもう、なるようにしかならない。湊が目を覚ましたその日、東都では初雪が降っていた。細かい雪が、しんしんと音もなく舞い落ちる。夕暮れ時、街灯がともりはじめると、街全体がぼんやりと霞んで、非現実的なほどロマンチックに見えた。綾は窓際の椅子に座り、温かいお茶を両手で包みながら、達也が話す心臓の解剖方法について聞いていた。達也の話があまりに生々しいので、聞いているうちに、綾は窓の外の雪にまで血の匂いがするような気がしてきた。看護師がド
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第65話

湊は凪を見て言った。「凪、海斗のことがあるから、もう帰りなさい。俺は大丈夫だから」凪は口をへの字に曲げると、不機嫌な顔で部屋を出て行った。「大丈夫?」と綾は聞いた。湊は答えず、綾に手を伸ばした。綾がその手を取ると、湊は首を横に振った。綾は一瞬ためらったが、ゆっくりと身をかがめた。湊は綾の頬に触れた。「痩せたな。すまない、守ってやれなくて」「私のために川に飛び込んでくれたじゃない?これ以上、何を望むっていうの?」綾の瞳には、心からの感謝と、少しばかりの後ろめたさが浮かんでいた。「もしあの夜、俺が一緒に行くって言い張っていたら、こんなことには……」湊は手を引っ込めた。綾は無事だったが、彼の後悔は消えなかった。でも、綾自身はそれほど気にしていなかった。二人ともこんな経験は初めてだったし、まさか児童発達支援センターの前で拉致されるなんて、誰も想像できなかっただろう。それに、一生、湊に守られて生きていくわけにもいかない。色々な壁にぶつかってこそ、人は本当に成長できるのだから。「何か食べたいものはある?」「先に秘書に電話させてくれ」綾は湊にスマホを渡すと、ドアを閉めて廊下で待った。しばらくして、湊が綾を部屋に呼び入れた。彼の顔色はあまり良くなかった。「青木社長に助けを求めたのか?」「あの時はあなたも意識がなくて、どうしようもなくて彼に頼るしかなかったの」と綾は説明した。湊は訝しげな顔つきだ。「彼は、何か特別な条件を出してこなかったのか?」「ううん、事業の利益を譲るっていう話だけだった」ホテルのスイートルームの件は、綾は言い出せなかった。何もなかったとはいえ、元恋人同士の男女が深夜に同じスイートルームに泊まったのだ。そんなことを口にすれば、どう言い訳しても信じてもらえないだろう。湊はほっとした表情を見せた。「もう彼とは連絡を取るな。お前を助けてくれた礼は、俺が改めて直接言う」綾は曖昧に「うん」と返事をし、話題を変えた。「今日、初雪が降ったよ。温かいコーンスープ、飲みたくない?」これは和子の得意料理だ。毎年、冬になって初雪が降ると、和子は決まって上機嫌でこのスープを作ってくれた。シンプルな料理なのに、不思議と、和子が作るスープは他とは比べ物にならないくらい美味しかった
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第66話

健吾は手を開いた。その手のひらには、非常に高価なブルーダイヤモンドのピアスがひとつ、乗せられていた。空気が一瞬で凍りついた。綾はまるで氷の洞窟に突き落とされたかのように、信じられない思いで健吾を見つめた。あのピアスは、和子からもらった18歳の成人祝いだった。そして、健吾と初めて結ばれた夜に、その片方を愛の証として彼に渡したのだ。綾は震える手で、そのピアスを取ろうと手を伸ばした。しかし健吾はさっと手を握りしめ、凛々しい眉をつり上げた。「俺の勘違いか。確かお前が、中野社長を助けてくれって頼みに来た時に、これを俺にくれたんじゃなかったか?」「いいえ、誰にも渡していない。それを返して」綾は息を深く吸い込み、決然とした眼差しを向けた。「健吾、私はふしだらな女ではない。そんな冗談で、私を侮辱するのはやめて」5年越しに突きつけられた健吾の復讐に、綾は悔しがる資格すらなかった。怒りさえも、体面を保つために押し殺さなければならないのだ。「綾、他人が触ったものなんてもういらないだろう」それまで黙っていた湊が、ゆっくりと口を開いた。その声には何の感情もこもっていなかった。「井上、車を出して」綾の瞳が潤み、健吾を深く見つめた後、車の窓を閉めた。胸が詰まりそうだ。失望と苦痛が入り混じっていた。どうして健吾が、こんな恥知らずな真似をするのだろう?健吾はその場に立ち尽くし、綾を乗せた黒いマイバッハが去っていくのを目で追っていた。綾たちをからかったことへの快感はなかった。それどころか、まるで心に雪が積もったように、重く、冷たい気持ちが広がっていた。ふしだらな女?そんなひどい言葉で綾に仕返しをしようと思ったことなんて一度もない。ただ……綾の心の中も、瞳の中も、湊でいっぱいなのが許せなかっただけだ。「健吾様、中野社長は綾さんのことを信じきっているようですね」マルスはポケットに手を突っ込みながら、なぜ健吾が他人の仲を裂こうとするのか、理解に苦しんでいた。健吾はマルスを一瞥すると、黙って車に乗り込み、アクセルを踏んで走り去った。マルスは一人、呆然と風の中に立ち尽くすだけだった。「湊、私、健吾とは何もなかったの。泊まったのはスイートルームだったわ。彼は私を恨んでいるの。5年前、私が彼を裏切ったことへの仕返しなのよ
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第67話

「綾、今夜、俺とパーティーに来てくれ」綾はきょとんとした。湊がパーティーに誘ってくれたのは、これが初めてだったからだ。「湊、凪と行ってきて。私は家でデザイン画を描いていたいから」行きたくない。特に湊と一緒に行くなんて、絶対に嫌だった。あと1年もしないうちに離婚するのに、今さら湊の妻としてパーティーに出るなんて、どういうつもりなの?どうせ湊の妻が離婚したのか死んだのか、知っている人なんてほとんどいない。それなら、このまま「存在しない人」でいたほうがいい。湊が部屋に入ってくると、それまで明るかった瞳がすっと暗くなり、ドレスの入った袋をテーブルに置いた。「これは妻としての義務だ。俺を怒らせるな」「湊、私は……」湊は綾の言葉を遮った。「1時間後に出るぞ」その口調は有無を言わせぬほど、強引だった。綾は仕方なく、袋を持って2階へ身支度をしに向かった。湊が買ってきたのは、体のラインが美しく見える、黒いリトルブラックドレスだった。フォーマルだけど派手すぎず、クラシックで洗練されたデザインだ。綾はつややかな黒髪をうなじでまとめ、シンプルな真珠のアクセサリーをつけただけだった。湊と1年後の離婚を約束してから、綾はその1年がとても長く感じられていた。今は、まるで籠の中にいる鳥のようだった。昔は穏やかで幸せだと思っていた毎日が、今では息苦しくてたまらない。「うちの綾は本当に綺麗だ」湊はエレベーターで降りてきた美しい綾の姿に、心から感嘆の声を漏らした。輝く瞳にやわらかな笑み。あらわになった肌は、光を放つように白かった。しなやかな腰つきに、柳のようにすらりとした長い脚。今までの自分は、ただのコレクターに過ぎなかった。宝物をしまい込んで、その価値に気づかず埃をかぶらせていただけだ。今になってようやく、その宝物がどれほど素晴らしい輝きを秘めていたのか、湊は思い知らされた。綾は静かに微笑んだだけで、その褒め言葉を特に喜んでいる様子はなかった。「湊、早く帰ってきてね。海斗と待ってるから」凪がネクタイを持ってきて、湊に結んであげた。湊はそれを拒まず、黙ってネクタイを結んでもらった。「明日、お前のドレスを買いに行こう。海斗の分も新調して、誕生日にはそれを着せよう」綾は湊を待たず、さっさと車に乗り込ん
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第68話

健吾は、グラスを口元に運びかけたまま、ぴたりと動きを止めた。その細長い指が、無意識にグラスの側面をなぞる。彼はグラスをすっと前に差し出し、綾に向かって軽く掲げてみせた。そして、あざ笑うかのように一気に呷った。「これで、本当の意味で自己紹介が済んだね。奥さん」「奥さん」という言葉には、あからさまな皮肉が込められていた。「失礼、妻は人付き合いが苦手でして」「綾、向こうに行こう」湊はまるで自分の所有物だと見せつけるように、綾の手を強く握りしめていた。綾は湊の後をついていき、少し静かな隅の席に腰を下ろした。綾は赤ワインのグラスを手に取り、うわのそらでちびちびと口をつけていた。湊は上機嫌で、仕事仲間との会話に花を咲かせている。誠も来ていた。ただ、妻の美羽は連れていないようだ。誠は健吾を見つけると、すぐに声をかけに行った。「これは青木社長、ご無沙汰しております」健吾は興味がなさそうに、視線も上げなかった。「俺なんかに、何の御用です?それに、中野会長だって俺に会いたくないでしょう」「とんでもないです。青菊グループと協業できるのは、我々中野グループにとって光栄なことです。お会いできて、これほど嬉しいことはありません。どうぞ、一杯」誠は眼鏡の縁を押し上げ、口元に笑みを浮かべた。「いえ、こちらこそ。中野会長の機嫌を損ねて、川にでも沈められたらたまりませんからね」健吾はグラスを掲げた。その瞳は、まるで氷河のように冷たい光を放っている。誠は乾いた笑いを漏らした。「青木社長はご冗談が上手いですね。俺はただのしがない実業家ですよ。会社も、すべて弟がいてこそです」誠はグラスを持ったまま、湊の方を指差した。「あれが弟と、その妻です。二人は幼馴染で、結婚してもう5年になりますが、今も変わらず仲睦まじいですよ」健吾は相槌も打たず、かといってその場を離れようともしなかった。誠は話を続ける。「聞くところによると、弟の妻にはもともと恋人がいたそうなんです。でも、弟の婚約が破談になったと知るやいなや、その恋人とすぐに別れて、うちの祖母に泣きついて、結婚させてくれと頼み込んだとか」健吾はワインをぐいっと呷ったが、その瞳は相変わらず冷ややかで、何も映していなかった。「いやはや、少し飲み過ぎましたかね。青木社長にこんな与
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第69話

ナンパ男は全てお見通しだと言わんばかりの笑みを浮かべた。こういうパーティーに、綺麗な女を連れてくる男は少なくない。しかし酒が進めば、自分が誰かすら忘れてしまう。ましてや連れてきた女のことなど、覚えているはずもなかった。「ここの酒は一般には出回らない特別なものなので、どうぞ好きなだけ飲んでください」綾は少し横にずれて距離をとった。「ごめんなさい、もうこれ以上は飲めません」「そう言わないで、俺の顔を立ててくださいよ」ナンパ男は綾の肩を抱き、酒を彼女の口に無理やり注ぎ込もうとした。綾は恐怖で酔いが半分覚め、必死にもがいた。しかし、会場には音楽が流れ、人々はダンスに興じている。照明はダンスフロアに集中していて、この薄暗い隅に気づく者は誰もいなかった。ナンパ男が持っていた酒の半分ほどが口に流し込まれ、綾はむせて激しく咳き込んだ。彼女はテーブルの上のグラスを掴むと、相手の不意をついて、その頭に思い切り叩きつけた。そして、外へと走り出した。「湊!」外で酔い覚ましをしていた数人が、綾の方を怪訝な目で見た。綾はそこでようやく、自分の髪が乱れていることに気づき、手でさっと直した。あたりを探し回っても湊の姿は見当たらない。綾は不安になり、バッグからスマホを取り出した。【綾、急用ができたから先に帰る。お前も直接家に帰ってくれ】それは、湊が30分前に送ってきたメッセージだった。主催者の家は山の中腹にあり、タクシーなど全くつかまらない。コートは車の中だ。夜は気温が氷点下5、6度まで下がる。こんなドレス一枚でこの屋敷を出れば、あっという間に凍ってしまうだろう。【湊、井上さんに迎えに来てもらえないかな】しばらく待ったが返信はなく、何度か電話をかけても、誰も出なかった。そこへ、先ほど頭を殴られた男が追いかけてきて、綾の細い腕を乱暴に掴んだ。「もし車がないなら、今夜はうちに泊まっていくといいですよ。うちの両親はいないし、お客さんたちが帰れば、この屋敷は俺たちのものです」「うち」って?ついてない時というのは、本当に何をしても裏目に出るものだ。この家の主に助けを求めようと思っていたのに、その家の息子が当の狼だったとは。「帰ります」綾が腕を引くと、人目があったためか、男は彼女を解放した。男は興
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第70話

綾は、とにかく助かりたい一心で山道を下りていった。その間、2台の車が通りかかったけれど、どちらも止まってはくれなかった。それから数十分ほど歩いただろうか、一台の車が麓から猛スピードで駆け上がってきた。ヘッドライトの明かりで車に乗っている人に気づいた綾は、嬉しさのあまり思わず叫びそうになった。「明里!」「綾、こんな山奥でサバイバルゲームでもしてるの?」急ブレーキの音が、こんなにも心地よく聞こえたことはなかった。明里らしいツッコミも、まるで天からの助けのように感じられた。「明里、どうしてここに?」「私が来なかったら、あなたは凍え死んでたわよ」明里は自分のダウンジャケットで綾を包み込んだ。そして、綾を車に乗せると、湯たんぽと保温ボトルを抱えさせた。綾は少しずつ体の感覚を取り戻すと、くしゃみを一つした。「わざわざ私を迎えに来てくれたの?」「そうよ。知らない人から電話があって、すぐにここへあなたを迎えに来るように言われたの」明里は手慣れた様子でハンドルを切り、車をUターンさせた。「ねえ、綾。一体どういうつもりなの?ワンピース一枚で、しかも山の中で夜道を歩くなんて。カメラでも回ってないか探しちゃった。何かのサバイバル番組の撮影でもしてるのかと思ったわよ」綾は保温ボトルの蓋を開けて一口飲んだ。中には温かいはちみつ湯が入っていた。綾が事の顛末を話すと、明里は心底呆れたという顔をした。「湊に一体どんな急用があったっていうの?あなたをあんな場所に置き去りにするなんて」綾は少し前の拉致事件を思い出し、急に胸騒ぎがした。もう一度電話をかけてみたが、やはり誰も出なかった。「明里……湊、何かあったのかしら?ずっと電話に出ないの」綾にそう言われて、明里も不安になってきた。「きっと仕事で手が離せないのよ。私に電話させたのも、彼が誰かに頼んだんだと思うわ」電話をかけてきたのは、知らない声の男の人だった。明里が綾を家まで送り届けると、ちょうどゴミを捨てに出てきた幸子と鉢合わせした。綾は慌てて車を降りると、声をかけた。「山下さん、湊は家にいない?」「はい、リビングにいらっしゃいますよ」幸子は綾の顔が青白く、唇が紫色になっているのに気づき、慌てて駆け寄ってきた。「奥様、すっかり冷え切って……さあ
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