All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 481 - Chapter 490

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第481話

研究所へ行くと、綾は颯太に妊娠したことを伝えた。続けて、「心配しないで。仕事には絶対に穴を開けないから」と言い添えた。颯太は一瞬ぼんやりしたが、すぐに苦笑して言った。「仕事より体が大事だ。今後は技術的な指導だけでいいから、現場には出なくていいよ」「ありがとう、颯太さん」「水くさいな。仲間なんだから遠慮しないで」颯太の言葉は軽やかだったが、その目から光は消えていた。「念のため言っておくが、月に一度来てくれるだけで十分だ。リモートワークでも構わないぞ」「そこまでしなくても大丈夫よ。じゃ、仕事に戻るね」綾はデスクに戻り、魔法瓶を取り出した。幸子から、できるだけカフェインは控えて水を飲むようにと言い含められていた。午前中、わずか2時間で手元の業務を終えた綾は、残りの時間を部下への指導に充てた。妊娠初期のためか、体調に変わりはなく、子供の存在さえ実感できなかった。昼が近づくと、休憩時間前なのに幸子が食事を届けてくれた。しかも颯太の分まである。いわゆる「付き合い」というやつだ。おいしいものには目がない颯太は、差し入れとあれば断るはずもなく、弁当を受け取って隣で食べ始めた。幸子の食事を二人で食べることで、綾が妊娠を理由に仕事時間が減ってしまうことへの罪悪感も、少しは薄れるだろう。「山下さん、本格レストラン顔負けの味ですね」一口スープを飲んだ颯太が、心からそう絶賛した。幸子は目を細めて笑った。「毎日届けるつもりだから、二人で食べてくださいね。一人分も二人分も同じですよ」「まさか俺みたいな男が、妊婦食の御相伴にあずかることになるとは」綾は吹き出すと、「栄養食って言うのよ」とツッコミを入れた。幸子はあれこれと小言を続けた。「実家の方から地鶏を送ってもらうようにしてるんです。産後は栄養をしっかり摂らないといけませんからね。毎日、お味噌汁や魚、それに根菜もしっかり食べてもらわないと……ああ、それでもまだ足りないくらいかもしれません」話は止まらない。幸子の様子なら、本当に人魚が存在するなら、綾のために人魚の肉でも探し出しかねない勢いだった。自分の身を案じてくれる存在のありがたさに、綾の心は温かくなった。颯太は幸子の言葉を心に留めていた。仕事を終えて寮に戻ると、ベッドであれこれ考え、結局母親の真由美
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第482話

翌日、綾が退勤しようとすると、颯太がサプリメントを大量に持って彼女の車のところへやってきた。「綾さん、これは母や姉たちに贈られたものなんだけど、食べきれなくてね。姉が綾さんの妊娠を知って、ぜひ食べてほしいと預かってきたんだ。迷惑でなければ受け取ってほしい」綾はそれらのサプリメントを見て驚いた。どれも高価で、めったに手に入らない貴重なものばかりだ。彼女は丁重に断った。「颯太さん、目上の方からそんな高価なものは受け取れないよ。代わりにお礼を伝えてくれないかしら?」樹や颯太とは面識があるが、他の杉本家の人々とは親交がない以上、受け取る理由はなかった。颯太は聞こえなかったかのように、サプリメントを後部座席に置くと、さっさと車のドアを閉めてしまった。「実はね、これ自分で買ったものなんだ。断られるのが怖くて、嘘をついてしまった」綾は少しだけ目を丸くし、やがてふわりと微笑んだ。「それなら、遠慮なく頂くわ。ありがとう」颯太の遠慮は理解できた。だが、こうして正直に打ち明けてくれたのなら、素直に受け取るのが一番だと綾は感じた。颯太は納得したように微笑んだ。少し慎重になりすぎていたようだ。「それじゃ、颯太さん。私はこれで失礼するわね」車に乗り込んだ綾は、急いで帰宅せず、少し遠回りをして産後ケアのホテルへ向かった。退院した明里が宿泊している場所だ。綾はいくつものサプリメントを明里にお見舞いとして手渡し、しばらくユズちゃんをあやしてから帰路についた。「山下さん、明日お休みを頂いて、神社に行こうと思ってるの」お腹の子の祈願だけでなく、湊のためにお守りも買いたかったのだ。幸子は手際よく夕食を並べると、気遣った。「いいですね。ただ、境内へ向かう石段は歩くのも大変でしょう?体調は大丈夫なのでしょうか?」「大丈夫よ。医者からも、適度に運動するようにと言われているから」綾は手渡された箸を受け取り、「山下さんも、もう片付けはいいから一緒に座って食べて」と言った。家には二人きりなのだから、一緒に夕食をとることにした。向かい側に座った幸子は穏やかに話した。「私も妊娠中にその神社でお参りしたんです。それから毎年欠かさずお礼に行っていますが、家族全員、何事もなく穏やかに過ごせていますよ」自分の家族の話をする幸子の口調は、どこか優しげだ
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第483話

体から急に力が抜け、まるで何かに引きずり込まれるかのように、足取りが重くなった。幸子が異変に気づき、綾の手をそっと支えた。「ビアンカさん、私たちはお参りを済ませたので、先に帰りますね」幸子は綾の子供が健吾の子供であることや、二人の過去も知っている。今は身重の綾が、健吾の隣に見知らぬ女性がいるのを見たら、心穏やかでいられないはずだ。ビアンカは綾を呼び止めた。「少し待ってて、お昼は一緒に食べよう」「ごめんなさい、ビアンカちゃん。少し疲れちゃって、早く家に帰って休みたいの」幸子も急いで取り繕った。「ええ、それに妊……」言い終わらないうちに、綾は言葉を遮った。「ビアンカちゃん、また今度ね」綾は3人の間を通り過ぎると、石段をゆっくりと降りていった。後ろで、健吾は綾の背中を追いかけた。冷たい瞳が、一瞬だけ揺らいだように見えた。ソフィアが彼に尋ねる。「あれが前の奥さん?」健吾は何も答えなかった。綾の影が石段の果て、山の霧の中に消えてようやく視線を戻し、力強い足取りで上へ向かった。綾の様子からして、どうも体調が万全ではないようだ。境内に入り、健吾が手を洗う姿を見て、ソフィアは驚きを隠せなかった。「チェッコ、熱心な唯物論者じゃなかったかしら?」健吾は前に進むと静かに目を閉じ、両手を合わせた。「例外もある」彼は冷淡に言い放った。「それで、何を祈っているの?」ソフィアがさらに尋ねた。健吾は答えない。祈る時、頭の中は綾の顔だけで一杯だった。他には何もいらない。ただ、綾以外は。神社の外では、森を通り抜ける風が低く鳴り、まるで溜息をついているかのようだった。その夜、綾のもとにビアンカからビデオ通話が入った。通話を受け、スマホをスタンドに立てて作業を続けた。「綾、どうして指に針を刺してるの?」画面を覗き込んだビアンカが、驚いて声を上げる。「ビアンカちゃん、これは血糖値を測っているのよ」綾は穿刺針を片付け、指先を脱脂綿で押さえた。「病気なの?」「ううん、ただの定期チェックよ」お腹の子をとても大切に思っているから、人一倍注意しているのだ。血糖値と血圧は、3日に一度欠かさず調べていた。綾はビアンカと話していると、幸子が湯気が立ってるお椀を持って部屋に入ってきた。「綾様
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第484話

食べて、水を飲み、呼吸さえしていれば、いつものような日々は続いていく。しかも綾には今、守るべき大切な存在があり、生きる理由があるのだから。どんなに嵐が吹き荒れても、その思いを支えに、しっかりと地に足をつけて歩んでいけるはずだった。健吾の結婚を知ったのは、神社での偶然の再会から7日後のことだった。その結婚はあまりにも盛大で、関わりたくなくて避けていたにもかかわらず、否応なしに情報は飛び込んできた。写真も動画も溢れかえり、世間からの祝福の声で埋め尽くされていた。SNSでは二人の美貌を称える投稿ばかりで、「運命の二人」という言葉を見るのにも慣れてしまった。自分と健吾の短い結婚生活など、誰の目にも留まらず、まるで最初からなかったことのようだ。颯太や明里、そして湊でさえ、綾が自暴自棄にならないかといつも気にかけていた。だが本人は平静を装い、職場に通い、明里のところや病院に顔を出す日常を送っていた。ただ、一人ベッドに横たわる静かな夜は、否応なしに健吾の面影が脳裏に浮かんだ。でも、それがどうしたというのだろう?綾は自分の心に正直でいようと思った。今もまだ、健吾を恋しく思うことを認めることにしたのだ。自分のようなただの人間にとって、どれほど深い恋心であっても、時間と共に薄れていくものだと知っている。自分を無理に追い込む必要なんてない。時の流れに任せればいいのだ。何千キロも離れた、I国でのこと。いつもと変わらない陽光が差し込む朝、マルスは部屋で一晩中座り込んでいた健吾を見つけた。顔は真っ青で、両目は生気を失い、頬は痩せこけて、命を吸い取られたようだった。普段は隙のない健吾だが、着ていたシャツはしわくちゃになっていた。「健吾様、いかがされましたか?」「マルス……催眠術が、解けてしまった」健吾の声は掠れていて、深い絶望に打ちのめされていた。綾にしてきた数々の行いを思い返し、呼吸さえままならないほどの苦痛に悶えた。その記憶は鋭利な刃物となって脳裏を突き刺し、生涯、自分を許すことはできないだろう。マルスは言いかけてから、静かに言葉を返した。「健吾様、まずはビアンカ様を東都へ送ることが先決です。そうしなければ、すべてが水の泡になります」「父が明日到着する。あの女と調印式を行うはずだ」生みの親
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第485話

健吾の瞳には、色欲はもちろん、これといった感情の欠片さえなかった。だが、神社で綾とすれ違った時の、健吾のどこか悲しげで苦悶に満ちた表情をソフィアは今も忘れていない。「入れ」健吾の声は、すっかり静けさを取り戻していた。ソフィアが扉を開けると、足元には破片が散らばっていた。ソフィアは理由を聞く前に、まずはメイドを呼んで掃除させた。使用人が退室すると、ようやく彼女は切り出した。「昨夜は、何を考えていたの?」「ビアンカのことだ」健吾は適当な言い訳を口にする。「綾さんのことでしょ?」ソフィアは臆することなく核心を突いた。一歩近づき、こう続けた。「もう綾さんと離婚し、追い出して私と入籍した。仮に今私たちが離れたとして、あなたと綾さんに戻れる可能性があると思っているの?」「関係ないだろ。父がビアンカを迎えに来たら、契約は終わりだ」「私はそれでもいいけど、カタリナさんが黙っていないし、ルカさんも面白がらないんじゃない?」健吾が鼻で笑いを浮かべる。その瞳には怒りが宿っていた。彼らに失望する資格などあるのか?「ソフィア、考えは人それぞれだ。君はグループの権力を求めるが、俺が欲しいのは自由だ」ソフィアは隣に座ると、タバコを取り出し1本差し出した。健吾が受け取らないので、そのまま自分で口にくわえ、火をつけた。揺れる炎に照らされたソフィアの横顔。権力を渇望するのは、ある意味自由への欲求と変わらない。健吾と違って、自分には逃げ場となる東都なんてなかったのだから。自分の手でグループをコントロールしてこそ、やっと未来を選び取る権利が得られる。煙を吐き出し、ソフィアはゆっくり言った。「もうちょっとだけ、この婚姻を続けてみない?」「契約違反をするつもりか?」健吾の低く冷ややかな声が、凍りつくような威圧感を放つ。ソフィアは灰皿でタバコをもみ消し、健吾の肩にもたれかかるように近づいた。「大丈夫よ。違約なんて考えてない。ただ最近接していて、あなたに興味が出てきたの。強者同士のタッグも悪くない選択だと思わない?」もし夫を選ぶなら、健吾以上に相応しい男はいない。誠実で、広い心を持ち、そして一途だ。たとえその誠実さの対象が自分でなくても。それでもいい、試してみたい。綾が健吾の心に深く刻まれているなら、自分にだってで
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第486話

健吾は怒るどころか、逆に満足げに笑った。これくらい強気な綾であれば安心だ。誰かの言いなりになって虐げられることもないだろう。自分が綾を深く傷つけたのだから、彼女が怒るのは当然だ。むしろ、綾が自分を着信拒否にして距離を置こうとしている程度では、まだ足りないくらいだと健吾は感じていた。昔、綾は格闘技などを習うべきではなかった。射撃を習って、隙を見て自分を一発で撃ち殺すべきだったのだ。スマホの画面に一滴、熱い涙が落ちて既読の付かない画面を滲ませた。窓の外では暴風が吹き荒れ、枝がガラスをパシッと叩く音が、まるで胸を打ちつけているようだった。健吾は背もたれに体を預けて片手で胸を押さえ、歪んだ表情のまま音もなく涙をこぼした。エステ家の当主として、また青木グループの後継者として、欲しい権力はすべて手の中にあった。それなのに、一番欲しかったものだけは何度も失い、どんどん遠ざかっていく。「チェッコ!」ビアンカが突然ドアを開けて飛び込んできた。「明日、冬馬さんが私を迎えに来るの?」健吾は顔を逸らして涙を拭い、荒ぶる心を必死に抑え込んだ。「ああ。これからは東都で暮らすことになる。二度と戻ってくる必要はない」「チェッコは?」とビアンカが尋ねる。ビアンカはI国を好んでいなかったが、健吾がここにいる。健吾か、それとも東都か。どちらか一つ選べと言われたら、迷わず健吾を選ぶつもりだ。健吾は答えず、穏やかに笑って言った。「ビアンカ、父さんたちがお前を大切に育ててくれるよ。誰もお前を他の人に差し出したりしない。これからは、あそこがお前の唯一の居場所になるんだ。綾と颯太さんも東都にいる。二人と一緒に遊べばいい」二人の名前を聞いた途端、ビアンカはそれ以上何も聞き返さなかった。「チェッコ、ルーサーとソフィアも一緒に連れて行って!」4人とも大切な友達であり、誰とも別れたくなかったのだ。「ルーサーは実家の仕事が忙しい。それに、もうすぐ婚約するからな」ビアンカの表情が険しくなり、声がうわずった。「嘘よ、ルーサーは綾が好きだって言ってたもん」「ビアンカ。好きといってもいろいろある。綾はあくまでルーサーにとって、数多くいるお気に入りの女の一人に過ぎないんだ」どう説明すればいいのか健吾には分からなかった。ルーサーは好色で賭け事も
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第487話

ビアンカは口を尖らせ、寂しそうに言った。「でも、チェッコもソフィアも東都には行かないみたいだし、二人とも一緒に付いてきてほしいな」綾は少し沈黙した後、唇を噛みしめてビアンカを慰めた。「大丈夫よ。東都に行けば、新しい友達がきっとできるわ」ビアンカは頷いた。「そうだね。あと、綾と颯太さんもいるし。颯太さんにはしばらく会っていないから、戻ったらまたみんなで遊ぼう」そう言うと、時間も遅かったため、二人は早めに眠ることにした。綾とビアンカは手短に会話を済ませると、ビデオ通話を切ってそれぞれ眠りについた。悩み事を抱え続けられない性格のビアンカは、すぐに寝入った。綾は両目を閉じたが、脳裏はかえって冴え渡っていた。綾は健吾を完全に失った現実を受け入れつつあった。そして確信していた。もうすぐ、この痛みからも完全に自由になれるはずだ。ビアンカは、空がうっすらと明るくなる頃に目を覚ました。寝坊することなく、荷物をまとめるよう使用人を急かした。もう二度と戻らないと考え、持ち物が増えてしまい、最終的に大きなスーツケース5つ分にもなった。荷造りを終えると、リビングのソファに腰かけ、おとなしく冬馬が迎えに来るのを待った。カタリナがバスローブ姿で出てくると、大人しく座るビアンカの姿に少し違和感を覚えた。ビアンカはカタリナがリビングに入ってきたことに気づくと、「ママ」と怯えたように声を絞り出し、うつむいて指先を弄った。もう出ていくというタイミングだったせいか、その情けない姿を見たカタリナは、珍しく怒らなかった。「ビアンカ、東都に行っても、どこの子か聞かれたら『青木家の子だ』と言いなさい。エステ家のことなど口にするんじゃないわ。分かった?」「はい」ビアンカは声を潜めて返事をした。大声を上げてカタリナを怒らせるのが怖かったからだ。それに、青木家の子として振る舞う方が好きだった。エステ家には何も良い思い出がないのだ。二人の間でそれ以上の会話はなく、リビングは静寂に包まれた。カタリナはコーヒーを飲みながら、ファッション雑誌のページをめくっている。ビアンカはひたすらうつむいて、自分の爪をいじっていた。ママは自分の顔を好まない。「馬鹿みたいな顔」と言うからだ。でも、綾は自分の顔を見て褒めてくれた。まるで洋人形みたいに綺麗で可
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第488話

飛行機が東都の空港に着いた頃には深夜で、冬馬たちはタクシーで青木家へ向かった。冬馬は移動で疲れ切っていたため、そのまま寝室へ直行した。ビアンカは家の使用人に任せられた。すべて手配済みだったので、ビアンカはシャワーを浴びてすぐ眠る準備を整えた。しかし、普段ならとっくに寝ている時間なのに、今夜はどうしても寝つけなかった。今まで東都へ来る時はいつも健吾が一緒だった。一人で来たのは初めてだ。期待が半分、怖さが半分だった。枕元のライトを見つめてこっそり涙を流し、スマホを開いてメッセージを送った。綾がビアンカからの連絡に気づいたのは、翌朝のことだった。【今、冬馬さんの家にいるけど、少し怖いよ】【綾、メッセージを読んだら、会いに来てくれる?】【チェッコに会いたいな。前はいつも彼がそばにいてくれたのに】送信時刻を確認すると、綾は朝食を済ませてすぐに車を出した。青木家に着くと、ビアンカはちょうど彰人と朝食をとっていた。綾の姿を見つけると、二人は立ち上がって迎えてくれた。「綾ちゃん、おはよう。朝ごはんはもう食べたのかい?」と、彰人が尋ねる。「ええ、もう済ませました。朝早くにすみません、ビアンカちゃんの顔が見たくて」綾はビアンカを抱きしめて笑った。「先にご飯を食べて。食べ終わったら外へ遊びに連れて行ってあげるから」今日、綾は病院に湊のお見舞いに行く予定だった。ビアンカを一人にするのも気が引け、一緒に連れて行くことにしたのだ。「わーい!」沈んでいたビアンカの顔にようやく笑みが戻った。急いで食事を終え、綾にせがむように出発した。「彰人おじいちゃん、昼はビアンカちゃんと外で食べてくるので、帰りを待たなくて大丈夫よ」「迷惑かけて申し訳ないね」彰人は玄関先で見送り、車のテールランプが遠ざかるまでそこを離れなかった。ビアンカが来て屋敷も賑やかになった。健吾の奴も、たまにはいいことをするものだ。だが、やはり綾には合わせる顔がない。一家揃って綾にひどいことをしてきたのだ。あの時、もっと頑なに健吾と綾の結婚に反対していればよかった。「綾、どこへ行くの?」助手席に座ったビアンカが、綾からもらったぬいぐるみで遊びながらワクワクした声で尋ねた。「ビアンカちゃん、これから病院に湊のお見舞いに行くんだけど
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第489話

綾は後ろに隠れたビアンカの方を向き、彼女の手を握って「大丈夫だよ」と励ました。「湊、ビアンカちゃんは一人で東都に来たの。これからは青木家に住んでもらうことになったわ。彼女の状況はあなたも知っているでしょ。慣れない土地だし、私が必要なの。見捨てるわけにはいかないのよ」ビアンカの精神年齢はまだ数歳程度だ。助けを求める子供の瞳を見て、心を動かされない者はいない。それに以前、エステ家のお城にいた時、ビアンカは自分を受け入れ、守ってくれていたのだ。「とりあえず、中に入って」湊は険しかった表情を少し緩め、病室の中へ入った。「ビアンカちゃん、中に入ろう」綾はビアンカの手を引き、湊の後ろについて歩いた。ビアンカは先ほど湊が見せた怒りに気圧されたのか、すっかりおとなしくなっていた。そんなビアンカを見て、湊は綾が置いていたおやつをビアンカに差し出した。「好きなものを食べていいよ。さっきは取り乱して悪かった」ビアンカはすぐにそれを受け取らず、綾の顔色をうかがった。綾は彼女に代わって受け取り、「食べていいよ。湊はあなたに怒っているわけじゃないから」と言った。「ありがとう」ビアンカは綾の隣に腰掛け、おやつを口に運びながら好奇心いっぱいに湊を観察した。この人は肌が白くて目がきれいで、背が高い。すごく格好いいけど、なんだかすごく痩せている。軽く突いただけでも倒れてしまいそうだ。「いつになったら良くなるの?」湊と話していた綾だったが、急な問いかけに二人は顔を見合わせた。「ビアンカちゃん、どうしたの?」綾が聞き返した。ビアンカは湊を指差し、「だから、いつになったら中野さんが元気になるのかってこと」と言った。「もうすぐよ。退院したら、彼が一緒に遊んでくれるからね」ビアンカは湊の手首に残る点滴の跡を見て、また尋ねた。「痛くないの?」「痛くないよ。気遣ってくれてありがとう」湊はまだビアンカとは親しいわけではない。30代の異国の女性を、数歳の少女として扱うことに少し戸惑いがあった。「私が自分の健康を半分分けてあげれば、もう注射を打たなくて済むようになるよ」ビアンカは真剣な眼差しで、豪快に言い放った。綾は優しく諭すように言った。「ビアンカちゃん、健康は食べ物みたいに気軽に分け合えるものじゃないのよ。
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第490話

「お気遣いなく。私がビアンカちゃんの世話をしているのは、友達だから。あなたの姉だから、というわけじゃないから」綾の声には冷ややかな距離感があり、表情もごくありふれた知り合いと接するように淡々としていた。最も人の心を痛めるのは、このような他人行儀な態度だ。怒りも問い詰めもなく、失望さえも微塵も見せない。健吾としては、むしろ自分を罵ってほしかった。大騒ぎでもしてくれたほうが、まだ綾が自分を意識していると分かる。しかし健吾は分かっていた。綾という人間は、そういう性格ではない。どんなに心を壊して悲しみに沈んでいても、去る時は何も告げず、静かに姿を消すタイプなのだ。「綾、リンゴを剥いてくれないか?」画面の向こうから聞こえる湊の声が、健吾の思索を遮った。その口調はあまりにも親密だった。「いいよ。ビアンカちゃんは何の果物がいい?」綾はナイフを手に取り、湊のためにリンゴを剥き始めた。画面の向こうにいる健吾のことなど、空気のように無視して。距離を置くことは、綾なりの自衛だった。今は妊娠中で、心に余計な波風は立てたくない。誰のことも心に介入させないようにしていた。「メロンが食べたい」ビアンカがメロンを差し出すと、そのまま画面を覗き込み、嬉しそうに言った。「チェッコ、もう切るね。ソフィアの相手をしてあげて」通話が切れると、健吾は額を押さえて苦笑した。ビアンカを東都へ行かせたのは、綾のすぐ側にわざわざ関係をかき乱す「裏切り者」を差し向けたのと同じだった。廊下でマルスが控えめにドアを叩いた。「健吾様、出発の時間です」健吾はスマホをしまい、立ち上がってジャケットを羽織った。部屋から出てくる頃には、もう表情に感情はなかった。ビアンカを送り出し、自分も身を引くのは簡単なことではなかった。その後長い間、健吾は目まぐるしい毎日を送ることになった。時折ビアンカに電話をして綾の近況を遠回しに聞こうとするが、ビアンカは何か口止めでもされているのか、いつも話をはぐらかし、答えを避けた。それも全て、綾からの指示だった。安定期に入ってからお腹の膨らみは隠せなくなっていた。特に、双子のため他の妊婦よりずっと目立った。これ以上隠すのは無理だと悟り、綾はビアンカに自分のことを健吾には話さないよう固く口止めしていたのだ。週末、
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