All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 71 - Chapter 80

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第71話

幸子はスープだけでなく、綾のために簡単な料理まで作ってくれた。湊はいつの間にか向かいに座り、取り皿を用意してあげた。「海斗が急にお腹を酷く痛がって、それで病院に駆けつけたんだ」綾は「うん」と頷いた。「別に何もなかった?」彼女は湊のことは見ずに、料理を口に運んだ。「特に何も見つからなくて、病院に着く頃にはもうすっかり良くなってたんだ」湊の声は穏やかで、この光景はなんとも奇妙だった。食卓で向かい合う夫婦。夫が愛人との子供を心配し、妻がそれを穏やかに聞いている、実に和やかな一場面だ。「さっきお前からの着信とメッセージに気づいたんだ。海斗を驚かせないように、スマホをマナーモードにしてて」「湊、説明なんていいのよ。みんなが無事ならそれで十分」綾は微笑んでみせた。幸子の料理は本当に美味しい。離婚したら、絶対に幸子の雇用権を勝ち取ろう。湊は、一心不乱に食事を味わう綾を見つめた。彼女は昔と変わらず、思いやりがあって優しい。しかし、湊の心には言葉にできない違和感がよぎっていた。目の前にいる綾は、まるで抜け殻だけがそこにいるかのようだ。綾は寝る前に隆から風邪薬をもらったが、夜中になってやっぱり熱が出てしまった。体は火照ってとても熱く、頭の上には石が乗っているかのよう。足元はまるで雲の上を歩いているみたいで、歩くとふらふらする。綾は朦朧としながら服を着て、剛に電話をかけた。剛は綾を最寄りの公立病院へ連れて行った。医師は入院して点滴を受けるように勧めた。家に帰ると湊にうつしてしまうかもしれないと思い、綾は入院手続きをすることにした。一人で、病室のベッドに横たわっていた。頭がひどく痛む。隣のベッドには、付き添いのいない老婦人がいた。顔を布団にうずめ、どこが痛いのか、くぐもったうめき声をあげている。綾は老婦人を可哀想に思い、声をかけた。「あの、お水が飲みたかったら声をかけてくださいね」「ごめんねぇ。お水を一杯もらえないかな」と、老婦人はため息まじりに言った。綾はベッドに両手をついて起き上がると、マスクを着け、手を洗ってから、老婦人のために水を注いであげた。「起きるの手伝いましょうか?」「ありがとうねぇ」老婦人は布団から顔を出し、土気色の顔をのぞかせた。「お水をちょうだい」綾は動かなか
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第72話

綾は優香から逃れるため、夜のうちに退院手続きを済ませると、黒崎病院に入院した。朝、湊から電話がかかってきた。「どこにいる?」湊は目を覚ますと、剛から事情を聞いてすぐに病院へ駆けつけた。しかし、看護師から綾は高熱のまま退院したと告げられたのだ。「達也さんの病院にいるの」「今から行く」電話を切ってから間もなく、湊がやってきた。幸子も一緒だった。「奥様、お加減はいかがですか?旦那様に言われて、朝食をいくつか作ってきました。どうぞ召し上がってください。病気の時こそ、しっかり食べないと」幸子が朝食をテーブルに並べると、湊は綾の額にそっと手を当てた。「まだ熱があるな。他にどこか辛いところはあるか?」「ううん、もう大丈夫」綾は、湊にうつさないようにとマスクをしていた。「湊、もう帰って」自分は注射を打てば済むけれど、もし湊にうつってしまったら大変だ。「どこにも行かない。お前のそばにいる。昨日の夜、お前をあそこに残したせいで寒い思いをさせてしまった。俺の責任だ」湊は申し訳なさそうな顔で、綾の前髪をそっと撫でた。綾は顔をそむけてそれを避けると、「帰らないなら、せめて私から離れていて」と言った。「わかった。お前の言う通りにするよ」「前の病院で、誰かに会ったりした?」綾は優香のことを思い出し、そう尋ねた。「お前のことを聞いてくる妙なおばあさんがいたが、相手にしなかった。知り合いか?」湊はプライバシーを重視する性格なので、普通はそういった見知らぬ人には取り合わない。「知らない」もう優香とは会うこともないだろう、と綾は思った。もう二度と会いたくないとも願っていた。昼近くになって、湊は凪からの一本の電話で呼び出された。海斗がご飯を食べようとしないらしい。病室に再び一人になった綾は、ズキズキと痛む頭を抱え、ベッドにぽつんと横たわっていた。昼食にも手をつけなかった。午後、看護師が点滴を二本打ってくれたが、綾はずっと夢うつつの状態だった。ようやく深い眠りから目を覚ますと、窓の外はすでに薄暗くなっていた。虚しさと寂しさが綾を襲い、まるで世界から一人だけ取り残されたような気分になった。月曜日は自分が担当するプロジェクトの定例会議があった。綾は医師に強い薬を処方してもらい、無理やり会社へ向
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第73話

健吾は立ち上がってソファに腰を下ろした。「座れ」綾は健吾の向かいに座った。「健吾、一体何の会議?」時計の針は11時を指している。普通の会社員なら、とっくに帰っている時間だ。会議なんて名ばかりで、本当の目的は自分を困らせることだろう。健吾は淡々と言った。「前の企画書を出してくれ」綾がバッグから書類を取り出そうとすると、中身が多すぎたのか、口紅やウエットティッシュ、車の鍵、薬の瓶まで一緒に飛び出してしまった。綾は気まずくなって、慌ててそれらを拾い集めた。「これ、どうぞ」綾は書類を両手で健吾に差し出した。「もう目を通してある」健吾は万年筆のキャップを外すと、ちらりと綾に視線を送った。「こっちに座れよ。そんなに離れていて、見えるのか?」綾はぎこちなく健吾の隣に腰掛け、できるだけ距離を保とうとした。「ここ、それからここ、あとここも。全部予算オーバーだ……」健吾は俯いて企画書に何かを書き込みながら、問題点を綾に説明した。綾は真剣に耳を傾け、手元のノートにメモを取った。どこか懐かしい、すっきりとした香りがふわりと漂う。その香りは、あるような、ないような、とても淡いものだった。綾は、高校時代に健吾から勉強を教わったときのことを思い出していた。自分は成績は優秀な方だったが、地理だけはいつも苦手で、何から手をつけていいか分からなくなることが多かった。テストが終わるたび、健吾は自分と教室に残り、先生よりも熱心に、間違えた問題を解説してくれたものだ。どれくらい時間が経っただろうか。ふと健吾が顔を上げて綾を見た。その目には、どこか諦めたような色が浮かんでいた。「分かったか?」綾は慌てて頷いた。「うん。ありがとう、明日すぐに修正する」健吾は一瞬きょとんとした。そしてすぐに目を伏せたが、長いまつ毛のせいで、その表情は少し憂いを帯びて見えた。「もう、帰れ」「じゃ、今日はこれで」綾は立ち上がると、にこやかなビジネススマイルを浮かべた。「ゴホッ、ゴホゴホッ!」社長室のドアを開けた途端、冷たい風が吹き込んできた。もともと喉がかゆかった綾は、咳が止まらなくなってしまった。ドアを閉め、トイレに入ると洗面台に向かって咳き込んだ。涙が出るほど咳き込むと、頭がくらくらしてきた。綾は両手で水を
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第74話

綾は数日間、入院していた。その間、湊は二度見舞いに来た。風邪はもうほとんど治っていたけれど、綾は退院したくなかった。病院は家よりも静かだし、自由でいられたからだ。達也から病院のベッドに余裕があると聞いて、綾はさらに数日間の入院延長を申し込んだ。今日は国際的な技術見本市が開かれていて、たくさんのコンセプトモデルが展示されていた。それを見てみようと、颯太が綾を誘った。綾はとても興味があったので、もちろん断らなかった。念花グループもブースを出していて、杏奈と技術部の社員数名が担当していた。綾は彼らに挨拶をすませると、中野グループの知り合いに会うのを避けるため、一人で展示を見て回ることにした。ブースをいくつか通り過ぎたところで、青菊グループのブースが目に入った。青菊グループの展示テーマは「人と、無限の可能性」だ。綾はその斬新なアイデアに惹きつけられ、足を止めた。綾が夢中になっているのを見たスタッフが、笑顔で話しかけてきた。「ご説明いたしましょうか?」「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」綾は首を横に振った。大体の内容は、理解できたからだ。人類にとって「無限」という言葉は、あまりにも壮大でつかみどころがない。科学の力だけで、この言葉が意味するものを実現できるのか、綾には分からなかった。「綾、奇遇だな」仕立ての良い黒いスーツを着こなした健吾が、こちらへ歩いてきた。その洗練された佇まいは、多くの人の目を引いていた。健吾の腕に絡む金髪の女性を見ると、その視線には羨望の色が混じった。綾はぎゅっと拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込んだ。健吾とのビデオ通話で、この女性の顔は見たことがある。その時、彼女が自分に敵意を向けていたことも、はっきりと覚えていた。「こんにちは」なんて綺麗な人だろう。健吾の隣にいる女性は、背が高くて華やかだった。二人が並んで立つ姿は、まさにお似合いのカップルだった。綾は礼儀正しく挨拶をすると、他のブースへ向かおうとした。健吾と妻が仲睦まじく寄り添う姿を見て、本当なら祝福すべきなのに、心の中はチクっと痛んだ。綾はこの気持ちが嫌だった。まるで他人の幸せを妬む自分が浅ましく思えて、ひどく惨めに思えた。「ねぇ、早く行こうよ。面白いものが見たいわ」綾の後ろで、ビアン
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第75話

綾は顔を上げ、深く息を吐いた。母のことを思うたび、綾は鼻の奥がツンとして、目に涙が浮かんでしまう。綾は口元を歪め、赤くなった目もそのままに、湊をじっと見つめた。「あなたのせいで、母の形見を失うところだったのよ。あれは、杉本おじさんが手に入れてくれたものなの」湊ははっと息をのみ、様々な感情が胸にこみ上げてきて、両手を固く握りしめた。なぜ言ってくれなかったんだと綾に聞きたかった。でも、すぐに思い出したんだ。当時の自分は、綾に事情を聞こうともせず、一方的に競売の機会を奪ってしまったことを。唇をかすかに動かし、ようやく「ごめん」と一言だけ絞り出した。綾はスタッフにあの偽物のブローチを持ってこさせると、自らそれを両手で持って綾の前に差し出した。「受け取ってくれ。どうしても嫌なら、捨ててくれても構わない」綾にとって、「薔薇の心」は世界に一つしかない。どれだけうまく真似しても、偽物は偽物でしかないのだ。でも彼女は断らず、それを受け取った。「捨てるなんて、もったいないわ。こんなに素敵で高価なブローチだもの。誰かにプレゼントするのにちょうどいいわね。そう思わない?凪」凪は珍しく取り乱し、声を荒げて問い詰めた。「湊、私の埋め合わせをしてくれるって言ったじゃない?」「今までだって、いくらでも埋め合わせはしてきただろう?」湊は一瞬いらだちを顔に浮かべると、冷たく言い放った。「凪、今は仕事中だ」凪は周りの奇妙な視線に気づき、恥ずかしさのあまり穴があったら入りたい気持ちだった。自分は湊の前ではいつも物分かりのいい女を演じてきた。それなのに、初めてわがままを言った途端に、湊はうんざりした顔を見せた。そのくせ綾が元カレとまだごたごたしていても、湊は綾を受け入れている。やはり、自分の直感は正しかった。初めて中野家を訪れたとき、湊が綾に向ける眼差しを見て、あれは兄が妹に向けるものではないと、うすうす感じていたのだ。それが悔しくて、何度も綾に嫌がらせをした。そうすることで、自分の立場を見せつけようとしたのだ。綾は反抗もせず、吐き気がするほど弱々しかった。それなのに湊はそんな綾に甘く、この妹とやらを目に入れても痛くない様子だった。凪は怒りを抑え、「失礼、ごめんなさい」と言った。どんなに落ちぶれても、これ以上笑い
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第76話

綾は足早に会場を出た。冷たい空気を吸い込むと、頭がずいぶんすっきりした。まだ時間も早いから、先に研究所へ戻ることにした。湊のために開発している歩行補助装置の研究が、少し行き詰まっていたからだ。集めた資料が山積みになったまま、自分が目を通すのを待っている。白髪の老人が向かいから歩いてきて、綾の前で足を止め、横からしげしげと彼女を眺めた。「綾さん?」綾はぱっと顔を輝かせ、驚きの声をあげた。「原田先生!」原田亮太(はらだ りょうた)は、何年も会っていなかった、かつての教え子との再会に、目を細めて喜んだ。「5年ぶりだな。君は全然変わらない、学生の頃のままだ」綾は自分の服装を見下ろして、照れくさそうに笑った。黒のショート丈カシミアコートに、学生みたいな白いセーター。実験するには、この格好が一番動きやすいのだ。「先生も展示会にいらしたんですか?」「ああ、早くに来てね。もう見終わったから、ちょうど帰るところだよ」綾は車の鍵を振って見せた。「先生、私がお送りしますよ」「いやいや、車で来てるんだよ。そんなに老け込んで見えるかね?」亮太は綾の真似をして、手の中の鍵をじゃらりと振ってみせた。綾は綾は慌てて笑顔を作り、首を振った。「とんでもないです!先生はいつまでもお若いままですから」「そうだ。せっかく会えたんだし、今夜うちに来なさい。七輪を囲んで一杯やろうじゃないか」亮太はどんよりとした空を見上げ、指でくいっと飲む仕草をした。「今にも雪が降り出しそうだ。こんな夜は、一杯やりたくなるだろう?」綾は微笑んだ。「先生からのお誘いですもの。もちろん、伺います」亮太は理工学の権威なのに、文人のようにロマンチックな心を持っていた。東都中央大学に通っていた頃、綾はこの親しみやすい老教授が大好きだった。授業がない日には、よく健吾と二人で亮太の家に上がりこんでは、ご馳走になっていた。亮太が語る歴史上の人物の恋物語を聞くのが、とても楽しかったのだ。亮太の妻は国文学の教授で、夫婦二人で話し始めると、いつまでも話が尽きることがなかった。仕事を終えると、綾は湊にメッセージを送った。これから恩師の家で食事をすることを伝えるためだ。この前の拉致事件以来、湊は綾の行動をとても気にかけるようになった。1日に数回も、どこ
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第77話

「さあ、食事にしようか。酒だ、酒!」亮太は待ちきれない様子で手をこすると、湯気の立つ徳利を手に取り、それぞれの杯になみなみと酒を注いだ。「君たちは本当に面白いな。一緒に来ないのはまだいいとして、それどころか、それぞれ別々に贈り物まで持ってくるとはな。昔は君たち二人を博士課程まで進ませてやりたかったんだが、どうしても先に結婚するって言って聞かなかったな。でも、もうそんなに経つのか。今子供はいるのかい?」綾は、おかずを取ろうとした手をぴたりと止め、そのまま引っ込めた。大学を卒業する前、二人はお互いさえいればそれでいいと、本気で思っていた。たとえ宇宙人が地球を侵略して、人々の愛を禁じたとしても、自分たちだけは引き離せないと信じていた。あの頃は結婚に憧れて、二人きりの生活を心から待ち望んでいた。けれど、現実はそんなに甘くなかった。冷酷な宇宙人なんていなくても、二人はあっけなく別々の道を歩むことになった。健吾にとって、自分こそがその憎むべき宇宙人だったのかもしれない。綾がそう考えていると、さっき取ろうとしていたおかずが、そっと彼女の取り皿に置かれた。健吾は、綾の前に皿を置き直し、亮太夫妻に微笑みかけた。「ええ、結婚はしています。まだ子供はいませんが」綾は驚いて健吾を見たが、彼は平然と談笑していた。亮太は何も気づかず、からかうように言った。「なんだ?私と百合みたいに、子どもは作らない主義かい?」健吾は少し顔を傾け、綾を一瞥した。「将来的には、二人くらい欲しいと思っています」綾はうわの空で酒を一口飲んだ。子供は二人欲しいと、昔はよく健吾と話していた。綾は一人っ子だったので、両親が亡くなってからは、この世にたった一人で生きてきた。もし兄弟がいれば、辛いことがあっても甘えて泣きつけるのに、と思っていた。宴もたけなわの頃、百合は黙り込んでいる綾に声をかけた。「綾さん。中野さんが事故に遭って、両脚が不自由になったって聞いたけど、今はどうしてるの?」百合も湊を教えたことがあり、才能豊かな学生としてよく覚えていたのだ。一見すると軽薄そうだが、内面はとても思慮深い子だった。「まだ歩けないんです。今、歩行支援デバイスを研究していて……もしかしたら原田先生にご相談することもあるかもしれません」そう言
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第78話

「雪が降ってきたね」1日中曇っていた空から、ようやく夜遅くになって雪が舞い始めた。綾は健吾から身を離すと、手のひらを空に向け、舞い落ちる雪を追いかけた。はかない雪は、温かい手のひらに触れたとたん、すっと溶けて水になった。また雪を掴もうと手を伸ばし、そしてゆっくりと手のひらを開いて、じっと見つめた。健吾は綾のすぐそばに立っていた。ひとひらの雪が、ゆっくりと舞い降りて彼女の長いまつげにそっと乗るのが見えた。綾が顔を上げると、オレンジ色の街灯の光がその瞳に差し込み、まつげの下でキラキラと輝いて見えた。息をのむほど、きれいだった。その光景を目にした健吾の心に、なぜか苛立ちが生まれた。思わず、綾から目をそらす。でも、3秒と経たないうちに、また見てしまった。まるで何かに引き寄せられるように、見ずにはいられなかった。幸い、その焦ったい時間は長くは続かなかった。一台の車がそばに停まり、男女が一人ずつ降りてきた。健吾は綾の車のキーを女性の方に渡すと、「綾を家まで送ってあげて」と頼んだ。それを聞いた綾は、不満そうに口を尖らせた。「帰りたくない。私には帰る家なんてないもの」健吾はぶっきらぼうに言った。「家はある。お前の帰りを待っている夫がいるだろう」綾は嫌だとばかりに街灯にしがみつくと、きっぱりした口調で言った。「帰らない!家から追い出されたんだもの!そもそも、ここに戻ってくるべきじゃなかったんだわ」健吾は根気よく手を離すよう説得したが、綾が気をそらした隙に、その体をひょいと横抱きにして車に押し込んだ。「車を出してくれ」綾の車は、次第に深くなる雪の中に消えていった。あたりはしんと静まり返っている。「健吾様、このところ中野グループの内紛が激化しています。中野社長は、まるで狂ったように大量の株を買い集めているとのことです」車の中で、マルスが淡々と報告する。健吾は軽く目を閉じ、後部座席に気だるげにもたれかかる。そのせいで、首筋のきれいなラインがはっきりと見えた。「放っておけ。だが、いざという時には手を貸してやれ」今夜はそれほど飲んでいない。ほろ酔い程度だ。それなのに、心の中はひどくかき乱されていた。「マルス、フェンシング館へ」――綾が目を覚ますと、すでに翌朝の10時を過ぎていた。カーテン
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第79話

明里のインスタには、彼氏と雪だるまを作っている写真がアップされていた。だから、連絡するのはやめておいた。ハンドルを切り、車は都心の高級マンションへと向かった。以前、湊からもらったマンションがここにある。ちょうどいい高さの部屋で、大きな窓の外には、雪をかぶった木々のこずえが広がっていた。しばらくして、颯太が冷たい空気をまとってやってきた。「颯太さん、研究の邪魔じゃなないでしょうか?」「こんなに綺麗な雪景色だし、たまには機械たちにも休みをあげないといきませんね」颯太は笑いながら薄いグレーのマフラーを外し、部屋に唯一あった一人掛けの椅子に掛けた。この部屋はまだ内装工事前だった。綾はリフォームの設計図を描くために、颯太に部屋の採寸を手伝ってもらっていたのだ。設計図ができ次第、リフォームを始めるつもりだ。離婚が成立したら、ちょうどここに引っ越せる。部屋はとても広く、二人がかりで午後の時間をめいっぱい使って、ようやく採寸が終わった。綾は凍えた手をこすり合わせながら、にこやかに尋ねた。「今夜は私がおごります。颯太さん、何が食べたいですか?」「そりゃもちろん、鍋に決まってるでしょう」颯太はマフラーを巻き、ドアを開けて綾を先に通した。「うまい店を知ってますよ。今日、俺と一緒でラッキーですよね」今日は土曜日で、道はかなり混んでいた。30分で行ける距離なのに、結局1時間もかかってしまった。颯太があるショッピングモールの地下駐車場に車を入れると、綾は笑い出した。「颯太さん、どこのお店か分かった気がします」颯太は信じられないという顔で言った。「こんな辺鄙な場所を知ってるんですか?」そこは古くて庶民的なショッピングモールで、有名ブランドは一つも入っていない。だから、お金持ちはまず足を踏み入れない場所だった。颯太はかなりのグルメで、普段からネットで美味しいお店の情報を探しているから、ここを知っていただけだ。「大学の時に来たことがあります。もう何年も来てませんけど。信じられないなら、ついてきてみてくださいよ」綾は慣れた足取りでエレベーターに乗って3階へ向かい、ある鍋料理店の前で立ち止まった。「ほら、言ったでしょう。知ってますって」颯太は親指を立てた。「すごい、グルメな俺も脱帽ですよ」注文する段階にな
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第80話

テーブルを拭いていた綾の手がぴたりと止まったが、すぐに顔を上げてにっこりと笑った。「その通りですよ」颯太は何やら訳ありな雰囲気を感じ取った。しかし、ビアンカがいる手前、綾に直接聞くわけにもいかない。「誤解してるかもしれませんが、うちの綾さんは絶対に悪い人じゃないんですよ」ビアンカは颯太に向き直り、一語一句区切るように言った。「私、彼女が、大っ嫌い」綾は颯太の腕にそっと触れ、もう自分のために庇わないでほしいと合図した。ビアンカの言葉から、健吾が彼女に自分たちの間の出来事を話したのだと察しがついた。もし颯太もこのことを知ったら、きっと自分のことを薄情な女だと思うだろう。健吾とのことについては、結局のところ、自分に非があるのだ。健吾が二つのグラスを持って戻ってきた。綾が立ち上がると、思いがけずその一つが彼女の目の前に置かれた。「もし好みが変わっていなければ、それでいいはずだ」「ありがとう」綾の味の好みは確かに変わっていなかった。さっぱりした味が大好物なのだ。綾はドリンクバーで飲み物をブレンドするのがあまり上手ではなかったが、健吾が作る一杯はいつも絶妙なバランスだった。鍋をつつきながら、健吾と颯太は仕事の話をしていた。ビアンカは食欲旺盛で、終始もくもくと食べていた。健吾が具材を取り分け、ビアンカはそれを食べるのに専念していた。「ビアンカ、揚げ物は少し控えなさい」健吾はビアンカの前の揚げ物を片付けると、エビの殻を剥いてやった。「今日は好きなものを食べていいって言ったじゃない?」ビアンカは甘えた声をだしたが、もう揚げ物に手を伸ばすことはなく、素直にエビを食べた。綾は向かい側にほとんど視線を向けず、自分の器と鍋の間を往復するだけだった。「そちらの研究棟を見学したいのですが、颯太さんに段取りをお願いできますか」健吾はそう言いながら、手ではまたエビの殻を剥いていた。彼は少し身をかがめると、そのエビを綾の器に入れ、それから手を拭いた。その一連の動作は非常に自然で、颯太と共同研究の話まで続けていた。健吾を除いた三人は、それぞれ異なる反応を見せた。颯太は当然、好奇心を抑えきれなかった。綾は驚いた。妻の目の前で、自分にエビを剥いてくれるなんて。剥いてくれたとしても、それを食べる
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