All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話

健吾は自嘲気味に笑った。綾はあんな男のために、きっぱりと自分のもとを去っていったのだ。綾の中では、自分は湊にすら劣る男だったということか。「そう、かもしれないわね」綾は手を離してステップを止めると、何も言わなかった。「とにかく、助けてくれてありがとう。それと、この間のフェンシング館であなたを傷つけてしまったこと、本当にごめんなさい」綾は健吾に深くお辞儀をすると、ダンスフロアを後にした。これ以上、健吾と一緒にいるわけにはいかなかった。もう少し一緒にいたら、心の中の苦しみをすべてぶちまけてしまいそうだった。でも、もうお互い結婚している身だ。そんなことを打ち明けるべき関係じゃない。健吾は呆然と立ち尽くし、踊る人々の向こう側に見える綾の華奢な背中を、ただじっと見つめていた。我ながら馬鹿げている。綾を心配するなんて。忘れるところだった。彼女は人の真心を裏切るのが、何よりも得意な女だった。「あの、一曲ご一緒していただけませんか?」一人の女性が勇気を振り絞って健吾の前に立つと、震える声で尋ねた。健吾は彼女を見下ろし、優しく微笑んだ。「申し訳ありません。もう失礼しなければならないので。あなたと踊れないのが心残りです」「そうですか。お気をつけて」女性は道を譲った。断られたものの、健吾の紳士的な受け答えに気分を良くした。綾が外に出ると、颯太がすでに車を回して待っていた。「行きましょう。旦那さんからあなたを頼まれましたよ」「颯太さん、ありがとうございます」綾はドアを開けて助手席に座ると、シートベルトを締めた。颯太は、好奇心に満ちた目で綾の一連の動作を黙って見守っていた。車が広い通りに出て安定して走り出すと、颯太は大きく息を吸った。「中野社長が本当にあなたの奥さん……違う、あなたが旦那さん……いや、えっと……本当に結婚してるんですか!?あの中野社長と?」綾は「ええ」と頷いた。「結婚してもう5年ですよ」颯太は頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられたようだった。別にお酒を飲んでいるわけでもないのに。綾は全く結婚しているようには見えない。それに、もし結婚していたとしても、夫が湊みたいなクズ男だなんてありえない。湊の妻が綾だと知った瞬間、颯太の中で湊の評価は「一途な男」から「クズ男」へと一変して
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第42話

あっという間に和子の命日がやってきた。綾は早めに墓地に着き、スタッフと当日の流れを確認していた。墓地の草葉には朝露がたくさんついていた。綾のズボンの裾はすっかり濡れてしまい、ベンチに座って乾かしていた。ふと顔を上げると、目に映るのは墓石ばかりだった。朝の光が、綾の透き通るような顔を照らす。その瞳には、どこか憂いが宿っていた。綾は、死ぬことが怖かった。30分ほど経って、誠と美羽がやってきた。誠は黒いコートを羽織っていた。中野家の人間らしい血の気の少ない顔には、レトロな金縁の眼鏡をかけている。その雰囲気は湊とよく似ていて、暗く、冷たい感じがした。綾は立ち上がって挨拶した。「誠さん、美羽さん」美羽は笑顔で手を振ってくれたが、誠は無表情で頷くだけだった。「湊はどうした?車椅子で来たとしても、もう着いている時間だろう」「誠さんは五体満足ですけど、今着いたばかりじゃないですか?」綾は穏やかな口調で、にこやかにそう言い返した。笑顔で返されてしまっては、さすがの誠も腹を立てるわけにはいかない。美羽はくすりと笑って、綾の腕に自分の腕を絡めた。「ここ数日、大変だったでしょ。お花やお食事の場所を手配して、親戚にも連絡してくれて」「ううん、大変じゃないです。おばあさんが私にしてくれたことに比べたら、これくらい何でもないです」綾は決して忘れられない。道端で凍えて意識を失いかけた時、和子がぎゅっと抱きしめてくれた、あの人生で一番の温もりを。二人がそんな話をしていると、湊がやって来た。綾の顔が、見る見るうちに曇っていく。凪と、海斗も一緒だったからだ。美羽が誠に視線を送ると、誠の目は海斗に釘付けになっていた。綾は拳を握りしめ、指の関節が白くなる。「湊、これはどういうこと?」病院で美羽に探りを入れられた時、自分は湊のために誤魔化してあげたのに。それなのに、湊ときたら、こんな場所にまで二人を連れてくるなんて。こんな特別な日に、しかも海斗の顔を見れば、親戚たちは何があったのかすぐに察してしまうでしょ。凪が口を開いた。「私がお願いしたの。おばあさんが生きていた頃、私もお孫さんのお嫁さん同然だったから。お参りくらい、許されるよね?」綾は構わず湊を見据える。「湊、これが正しいと思ってるの?」湊の許可なく
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第43話

和子は夢に新井光生(あらい こうき)と彩花が出てきたと言っていた。二人は、綾の面倒をどうか見てほしいと、和子にお願いしたそうだ。人に頼まれたことは、誠実にやり遂げる。それが和子の信条だった。綾が湊に対して責任を感じるのは、たぶん、小さいころから和子に影響されてきたせいだ。綾はしゃがみこみ、指でそっと墓石の遺影のほこりを払った。そして持ってきたサザンカを、もう少しお墓の前に寄せた。お墓参りには菊の花が普通だけど、和子はサザンカが好きだった。和子はまだ元気なころから、自分が死んだら必ずサザンカを供えてほしいと、綾に頼んでいた。それから間もなく、親戚たちが次々とやってきた。親戚たちは、凪の姿を見て驚いたようだった。かつて湊と凪の婚約パーティーはとても盛大で、みんな出席していたからだ。それに、海斗の顔立ち。中野家の三代前までのご先祖の面影が、その子の顔にはっきりと見て取れた。みんな示し合わせたかのように、綾のほうを見た。彼女の顔から何かを読み取ろうとしていた。怒り、恨み、それとも屈辱だろうか。しかし、綾は終始落ち着き、品のある態度を崩さなかった。そして、すべての弔問客がお参りを終えるまで、段取りよく進めた。親戚たちは疑いの気持ちを抱いていたが、綾の態度にはまったく隙がなかった。お墓参りが終わり、一行は会食のためにホテルへ移動した。綾は自分の車で来ていたので、エンジンをかけようとした。すると、美羽が車の窓をノックした。「車に乗せて」「誠さんは?」「誠が、二宮さんと海斗くんは自分の車に乗せるって。親戚に変な噂を立てられないように、だって」美羽は助手席に座った。綾は車列の最後尾についていった。綾は考え込んでいた。「会社では湊と対立してるのに、親戚の前では、さすがは誠さんです。ちゃんと中野家のメンツを守るんですね」美羽も同意した。「ほんと、そうよね。今日の誠が、あんなに長男らしくふるまうなんて、私ですら思わなかったわ」綾は海斗のことを思った。中野家の次の代の長男が、まさか婚外子だなんて。「美羽さん。誠さんと話していた、養子の件はどうなりました?」誠は子供ができにくい体質だった。そのため、美羽と結婚して8年経つが、二人の間に子供はいなかった。この2年ほど、美羽はずっと女の子を養子にしたいと
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第44話

「どうかしら?」凪はふんと鼻を鳴らし、わざと一歩下がって、誠の革靴を踏みつけた。「I国にいた時はしょっちゅう会えてたのに、国内に戻ってきてからは会うのも大変だなんてね」誠は、普段の真面目で落ち着いた雰囲気から打って変わって、軽薄な笑みを浮かべると、凪の顎を掴んだ。「君は湊の元婚約者で、今はあいつの家に住んでるんだろ。誰かに見られたらどうするんだ?」凪は無理やり顔を上げさせられながら、冷たく鼻で笑った。「昔、私がまだ湊の婚約者だった時でさえ、あなたは平気で私に手を出してきたじゃない?今さら怖くなったの?見られたら、奥さんと別れて私と結婚すればいいじゃない?」誠は凪の首筋に息を吹きかけながら囁いた。「湊を中野グループから追い出すのを手伝ってくれるなら、すぐにでも結婚してやるよ」「誠さん。気持ちと損得は別よ。一緒にしないで。あなたが離婚するまで、私は誰の味方もしないわ」凪は身をよじって誠の腕から逃れようとした。しかし、誠は彼女をぐっと押さえつけ、洗面台に腰を押し当てた。「わかった。君の言う通りにしよう」大柄な体が覆いかぶさってくる。誠は、蛇口をひねって水を勢いよく流し始めた。外を誰かが通り過ぎたが、聞こえるのはじゃあじゃあと流れる水の音だけだった。10分後、誠は身なりを整えて個室に戻った。「すみません、急な仕事の電話が入ってしまいまして」誠は招待客に笑顔を見せ、グラスを掲げた。「皆さん、お待たせしてしまい、申し訳ありませんでした」グラスのお酒を飲み干した後、凪もご機嫌な様子で戻ってきた。「美羽さん、ありがとう。この子、わがまま言いませんでしたか?」「いえ、大丈夫ですよ」美羽は引きつった笑みを浮かべた。ほんの少しの間に、海斗は美羽の足に泥だらけの靴を何度もこすりつけていたのだ。もし湊がすぐに止めに入らなければ、油でべとべとの手が美羽の服に伸びてくるところだった。忙しい1日が終わり、夜になって、綾はようやく一人の時間を持てた。彼女は書斎で一人きりでいる湊を見つけた。「湊、今、時間ある?話がしたいの」湊はちらりと顔を上げた。「ちょうど俺も、話があったところだ」綾は湊にはちみつ入りの水を持ってきて、向かいの席に座った。湊は喉が乾燥しやすく、声がかすれがちだった。だから、綾は
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第45話

綾の瞳に浮かぶ悲しみに、湊の胸は鋭くえぐられるように痛んだ。「1年だ。1年後、それでもお前が出ていきたいと言うなら、俺はもう止めない。その代わり、この1年間は離婚の話を一切持ち出すな」綾が自分のもとを去るはずがない。湊はそう信じていた。凪親子が現れたせいで、綾が一時的に冷静さを欠いているだけだ。凪親子の件を片付ければ、また昔のように二人で寄り添い、お互いだけを求め合う関係に戻れるはずだ。「ええ、わかったわ。約束よ」長い人生に比べたら、1年なんてあっという間だ。この束縛から逃れられるのなら。綾はそう思い、迷わず湊の提案を受け入れた。湊は綾の美しい顔をじっと見つめた。離婚したいと言っているのに、その表情はいつものように穏やかだった。思わず手を伸ばし、綾の頬に触れようとした。けれど、綾はひらりと背を向け、扉の向こうの光の中へと消えていった。――1年という約束を交わした後、綾は仕事にすべての情熱を注いだ。その努力は実を結び、研究は飛躍的な進歩を遂げた。颯太は綾の才能に感嘆し、残念そうに言った。「綾さんほどの才能があるのに、大学院に進まなかったなんて本当にもったいないですよ」「もちろん、勉強はずっと続けてます。大学じゃないですけど、家でね」綾は勉強をやめたことなど一度もなかった。専門分野に関する講座を自費で購入し、学び続けていたのだ。「叔父さんが、今度の新製品発表では綾さんの名前もクレジットに入れるべきだって言ってました」綾は少し考えて言った。「本名は使わないで……エレナという名前でお願いします」それは高校生の時、健吾にねだってつけてもらった外国語の名前だった。エレナ。光り輝き、希望に満ち溢れている、という意味だ。手元の仕事を片付けると、綾は颯太と一緒に児童発達支援センターへ視察に向かった。念花グループは、障がいを持つ人々を支援するための専門部署を立ち上げていた。支援センターの設立に留まらず、特別支援学校や専門病院の建設にも資金を提供しているのだ。念花が障がい者向けの新しい製品を開発するたびに、報酬を支払って、彼らにモニターとして試用してもらっている。今日、二人が訪れた支援センターは、14歳以下の子供たちばかりを預かる施設だった。毎日、車椅子の湊と暮らしていても、これほど多
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第46話

「今日はどこに行ってたんだ?」湊は優しい目をして、とても親しげな口調で尋ねた。彼は車椅子を綾のところまで動かすと、ダイニングホールまで押していくよう目で合図した。「明里のところへ手伝いに行ってたの。お店がオープンしたから」綾は車椅子を押しながら、静かな口調で答えた。完全に嘘というわけではない。実際、出勤前にテープカットには参加したのだから。「そうか。動物が好きだし、これからは気分転換に時々行くといい」明里が店を開くことは聞いていたので、湊は疑わなかった。綾は明里と一番仲が良いから、行くのは当然だと思っていたのだ。綾は小さく「うん」と返事をしながら、湊をダイニングテーブルのそばまで押していった。これが湊という男。自信家で、ほとんど傲慢と言っていいほどだ。彼が「仕事を辞めろ」と言えば、こっちが素直に言うことを聞いて念花グループを辞めると信じきっている。湊が凪と仕事に追われ、いつも二人で行動している間も、綾はいつも通り出勤していた。特に隠す必要すらなかった。湊は綾の日常にまったく関心がないのだから。凪の腕には、宝石がびっしりと埋め込まれた金のブレスレットがあった。精巧な作りで、見た目からも重そうだ。海斗の首には、小さな布袋入りのお守りがぶら下がっていた。色あせているのに、不思議と存在感があった。綾にはそれらに見覚えがあった。湊の母親の形見で、湊が誰にも触らせない品だ。自分でさえ、引越しの時にちらっと目にしただけだったのに。今、それらは凪親子の身につけられていた。綾は目を伏せ、湊の食器を並べると、その場を離れようとした。「お前はもう食べたんだろうし、海斗に食べさせてやってくれ。凪にはゆっくり食事をさせてあげたい」湊の口調は何でもないことのようで、まるで海斗の世話をするのが皆の役目だと言っているかのようだった。綾は黙って凪から子供用のお椀を受け取った。こんな些細なことで言い争う必要はないからだ。「おかずはいらない!スープが飲みたい!」海斗はぷいっと顔をそむけると、むちむちの腕を思い切り振った。その手が、ちょうどスープのお椀に当たってしまったのだ。お椀がひっくり返り、熱いスープが綾の手に一気にかかった。「あっ!」綾は痛みに息をのんだ。手の甲は見る見るうちに赤くなり、すぐにいく
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第47話

綾の心は、何の感情もわかなかった。湊との間に子供をつくるなんて考えられない。彼の今さらの気遣いも、もういらなかった。湊はうつむき、静かな口調で言った。「火傷の賠償金だ。1億2000万振り込む。それでどうだ?」綾は火傷した手を持ち上げ、静かに見つめた。赤く腫れた水ぶくれは痛々しく、ズキズキとした痛みは少しも和らいでいない。「1億2000万、ね。あなたは本当に気前がいいわ」綾の声は静かだったが、しっかりとした響きがあった。「そのお金、もらうわ。わざとじゃなくても、火傷させられたんだもの」一見すると償いのようだけど、本当は凪親子をかばっているだけ。こっちが火傷をしても、凪親子は謝る必要がない。湊がこうやって代わりに後始末をしてくれるから。1億2000万で自分を黙らせ、凪親子に嫌な思いをさせずに済むなら、湊にとっては安いものでしょ。湊は呆然と綾を見た。「火傷させられた」という言葉が、やけに耳に突き刺さったからだ。綾は手当をされた手を引くと、立ち上がってダイニングを出て行った。エレベーターに消えていく後ろ姿を、湊は見送った。いつも素直だった綾が、いつのまにか鋭いトゲを隠し持つようになっていた。部屋に戻っても、手の痛みは引かなかった。綾は身支度を整えてベッドに入り、明里にラインを送った。【明里、これから仕事に行くアリバイ作りに協力して。あなたのお店を手伝ってるってことにしてほしいの】【もちろんよ!綾が浮気したって、こっちは喜んで協力するわよ】メッセージに続いて、明里は写真が一枚送られてきた。【見て、私の新しい彼氏。育ちの良さそうな芸術家タイプでしょ。この人よりイケメンの友達がいるんだけど、会ってみない?】【ううん、大丈夫。おやすみ】綾は、返事が遅れると明里が勝手に話を進めてしまいそうで、慌てて断った。スマホを閉じると、部屋は静まり返った。手の甲の火傷が、ズキン、ズキンと痛んだ。心にぽっかりと穴が開いたようで、やり場のない悲しみが押し寄せてきた。――廊下の向こうの部屋では、海斗がまだしくしくと泣いていた。「ママ、お腹すいたよぉ、うぅ……」凪は目を赤くして海斗を抱きしめ、恨めしそうに言った。「もう少しだけ我慢してちょうだい。私たちはここに居させてもらってる身なんだから……」
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第48話

合同発表会は児童発達支援センターのホールで開かれた。綾と颯太は、何か手伝えることがないかと思って早めに現場へ着いていた。ここの子供たちは支援センターで大切に育てられていて、みんな明るくて元気いっぱいだった。ある女の子は両足を切断していて、義足をつけていた。その子はとくに興奮しているみたいだった。綾がメイクをしてあげている間も、ずっとおしゃべりが止まらなかった。「綾お姉ちゃん、私、今夜はロボットダンスを踊るの。この義足でロボットダンスを踊るなんて、すっごくクールじゃない?去年は歩けなかったのに、今年は踊れるようになったんだよ。颯太お兄ちゃんはすごいよ、まるで魔法使いみたい」その義足は颯太が彼女のために特別に開発したものだった。その子の輝くような笑顔を見ていると、綾の心に特別な感情が湧き上がってきた。これが、自分の仕事のやりがいなんだ。これまでは、湊を普通に歩けるようにすることが目標だった。でも、目の前がぱっと開けた気がした。もっと広くて、もっと幸せな目標を見つけられたのだ。湊は目標なんかじゃない。ただの通過点にすぎなかったんだ。合同発表会が始まる前、綾と颯太は前の方の席に座った。座ったとたん、スタッフが一人の男性を案内してきて、綾たちの隣に座らせた。「青木さん、こちらへどうぞ」綾は驚いた。どうして健吾がここに?彼女は気まずさを感じながら挨拶した。「こんにちは」「青木社長、よくお越しくださいました」颯太が綾の向こうから、健吾に声をかけた。そして、颯太は綾に顔を近づけて小声で言った。「俺が招待したんです。あなたの名前を出しておけば、プロジェクトでも目をかけてもらいやすいでしょう」もちろん、招待したときは万に一つも来てくれるなんて思っていなかったけど。健吾のように若くて成功している大物実業家は、普通こういうプライベートな集まりには顔を出さないものだ。綾はとても笑える気分じゃなかった。「どうも、ありがとうございます」自分と健吾は、会うたびに気まずい終わり方をしているのだ。颯太の気遣いは、かえって迷惑なことになる可能性が高かった。「おや?俺に聞かれてはまずい話でも?」二人がひそひそ話していると、不意に健吾の声がした。颯太はとっさに「天気の話をしていたんですよ」とごまかした。
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第49話

綾は眉をひそめて綾を見ていた。綾の左には颯太、右には健吾が座っている。颯太が慌てて説明した。「青木社長はこっちが招待したんです。仕事のパートナーなので」颯太は、どうも湊が健吾に敵意を持っているように感じていた。健吾のほうも、湊のことが気に入らないようだ。この二人がいつから険悪なのかは分からないけど、とりあえず今は問題が起きないようにするしかない。「中野社長、この席にどうぞ」颯太が自分から席を譲ると、湊は遠慮なくその席に座った。綾は湊と健吾の間に挟まれる形になり、ものすごく気まずかった。二人が来るって分かってたら、絶対に来なかったのに。凪が湊の隣に座ったので、颯太はもう一つ隣の席に追いやられてしまった。「綾と青木社長は、さっきすごく親しそうだったけど、お二人はお知り合いなんですよね?」綾は聞こえないふりをした。凪は自分が描いた絵を見たことがあるし、杉本家のパーティーで健吾がダンスに誘ってくれたことも知っているはずだ。計算高い凪のことだから、自分と健吾の過去を調べないわけがない。健吾は鼻で笑い、その目にはあざけるような色が浮かんでいた。「中野社長と元婚約者さんは本当に仲が良いんですね。いつも一緒だなんて……奥さんの懐の深さには感心しますよ」綾は顔から火が出そうだった。元カレにこんな無様な姿を見られて、しかも馬鹿にされるなんて、これ以上の屈辱はない。「手がこんなに冷たいじゃないか?」湊は綾の両手を握り、健吾に向かって微笑んだ。「妻は、俺がやることは何でも応援してくれるんです。俺の気持ちを分かってくれているから、他人の浅はかな見方なんて気にしません」いいえ、気にする。綾は心の中で叫んだ。自分はとりわけ、健吾にどう思われるかを気にしていた。なぜだか分からないけど、健吾に自分の失敗した結婚生活を見られるのが恥ずかしかった。健吾の視線は二人がつないだ手に少しだけ注がれ、やがて冷たい表情で顔を上げると、薄い唇を一直線に結んだ。綾はステージを見てはいたけれど、気持ちは落ち着かず、心はとっくにどこかへ飛んでいってしまっていた。やがて海斗の出番になると、凪はカメラを湊に押し付けた。「湊、あなたは写真撮るの上手なんだから、海斗のことたくさん撮ってあげて」湊は綾の手を離し、辛抱強く海斗の写真を
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第50話

ドアはロックされ、運転席との仕切りで完全に閉じ込められている。綾は恐怖のあまり声が震えた。「お金なら渡します!いくらでも払いますから!お願いです、降ろしてください……」しかし何の返事もない。運転手はまるで彫刻のように黙り込んでいて、不気味だった。車は猛スピードで郊外に向かい、市街地からどんどん離れていく。泣きついても無駄だと悟った綾は、無理やり自分を落ち着かせた。素早く後部座席を見渡すが、何もない。少し考えた綾は、ハイヒールを脱ぐと、その硬いかかとで力任せに窓の端を叩き始めた。運転手はバックミラーでそれに気づき、「やめろ!」と怒鳴った。綾は聞こえないふりをして、腕に力を込めて叩き続けた。湊の世話をするため、この5年トレーニングを続けてきた。その力が、今まさに役立っている。窓の端にひびが入る。綾はここぞとばかりに力を込めて、叩き続けた。数回強く叩くと、ガラスは音を立てて砕け散った。冷たい風が車内に吹き込み、綾は思わずむせて顔を赤らめた。運転手はアクセルを強く踏み込み、スピードを上げて綾が飛び降りるのを防ごうとした。綾は飛び降りるつもりはなかった。そんなことをすれば自殺行為と同じだ。彼女は手がかりを残そうと、ハイヒールと靴下を次々と窓から投げ捨てた。そして、腕にはめているブレスレットに触れたが、それは外さなかった。これはあまりにも目立つから、道に捨てたら誰かに拾われて隠されてしまうかもしれない。だから身につけておく方がいい。綾は窓の外を見て、車が南区に向かっていると判断した。彼女はすぐさま服の中に手を入れ、白い下着を外した。街灯の光を頼りに、指先を噛み切ると、その血で震える文字を書きなぐった。【郊外、南区】高価で血文字が書かれた下着は、アクセサリーよりも通行人の好奇心をそそり、ネットで拡散されやすい。すべてを終えた綾は、コートをきつく体に巻きつけて寒さをしのぎ、窓の外の景色の変化をじっと見つめていた。吹き付ける風の音が、激しい鼓動をかき消した。車は南区の紅葉山のふもとで止まった。マスクをした男2人が綾を車から引きずり出すと、すぐにナイフが喉元に突きつけられた。「騒ぐなよ、舌を切り落とされたいのか!」綾は首筋にナイフの冷たく硬い感触を感じ、恐怖で足がすくんだ。も
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