All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 801 - Chapter 810

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第801話

道の両側を車が行き交う中、健吾は高級車の後部座席から窓の外を眺めていた。少女のポニーテールが、駆けるたびに軽やかに揺れている。綾が背負ったカバンは教科書でパンパンに膨らみ、ずっしりと重そうだ。車はすぐに綾を追い越し、背後に置いていく。健吾がバックミラー越しにちらりと確認すると、少女の影はどんどん小さくなり、やがて視界から消えた。帰りの子を乗せた送迎車が次々と横を過ぎるのを眺め、綾はふと羨ましそうな眼差しを向けた。誰かが自分を待ってくれている――そんな光景を、綾はもうずっと経験していない。しかし、その瞳はすぐに静けさを取り戻し、彼女は再び前を向いて歩き続けた。一台の車が横に並び、窓から顔を出した充がわざと大声で呼びかけてくる。「綾ちゃん、乗せてやろうか?」聞こえないふりをして、綾は足早にその場を離れた。しばらく歩いてから、逃げるように駅へ向かう自分の姿が、なんだか滑稽に思えてきた。きっと朝から充に待ち伏せされていたのだ。執拗にいじめてくる相手に対し、逃げ回るだけでは何の効果もない。そう考えるとふっと肩の力が抜け、歩調を緩めてゆっくりと前へ進んだ。家に帰ると、和子はまだ戻っていなかった。綾は書斎で一人で宿題をこなし、ペンの音だけが響いていた。課題を進めているうちに、家がひどく広く、がらんとしていることに気がついた。誠は留学中、湊は大学、そして和子は仕事漬け。自分だけが、この場所に執着しすぎているのだろうか?それでも和子が帰宅すれば、たわいもない話を交わし、夕食後には二人で散歩に行くこともある。そんな日常の穏やかさが、学校のひどい日常とは切り離された別の世界のようだった。だが、この安らぎがあるからこそ、明日もまた向き合うための勇気が湧いてくるのだ。1週間が経ち、金曜の放課後、綾は軽やかな足取りで校門を後にした。湊が週末には戻るという約束をしていた。それだけが、今の救いだった。門をくぐったところで、忌々しい充がヘラヘラと笑いながら近づいてくる。「綾ちゃん、一緒に帰ろうよ」綾は眉をひそめて顔を背けると、充の背後に大好きな人の姿があった。「湊!」綾は声を弾ませて充を追い越し、湊の元へと駆け寄る。湊は大股で歩み寄り、当然のように綾のカバンを受け取ると、視線をちらりと後ろの充に向けた
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第802話

綾は首を横に振り、充に向かって突き放すような口調で言った。「あなたには何の興味もないわ。デタラメを並べるのはやめて」湊は、綾の素直で控えめな性格を知っている。綾がこんなことに関わる嘘をつくはずがないと信じていた。湊は充を冷ややかな目で見つめた。「綾が大学を卒業するまで、家の者は交際を許していない。彼女に近づくな」そう言い捨てると、湊は綾の腕を引いて車へ向かった。車が本線に合流して落ち着くと、湊は横を見て落ち着いた声で尋ねた。「俺が手を貸して解決しようか?」綾は慌てて首を振った。「ううん、大丈夫。これ以上ひどいようなら先生に相談するから」湊は少し頷き、こう言った。「綾自身が納得しているならそれでいい。もし俺が首を突っ込めば、クラスでの関係が気まずくなるだろうしな。ただ、自分じゃどうしようもなくなったら、俺を頼れよ」綾は感謝を込めて湊を見つめた。喉が少し詰まるような感覚がして、控えめに笑った。「ありがとう、湊。気にしないで、ただ相手を避けていればいいから」もし湊が問題の処理に乗り出せば、自分がクラスで孤立していることまで知られてしまうはずだ。そうなれば湊が解決すべき問題が増え、次から次へと尾を引いて収拾がつかなくなるに決まっている。そもそも、湊は遠くの東都中央大学にいる。ずっとそばにいて守り続けてもらうなんて不可能だ。どんなことも、結局は自分自身で受け止めなければならない。それは自分自身の人生における課題であり、成長のために必要な道のりなのだから。湊は思わず手を伸ばし、綾の頭を優しく撫でた。「嫌な思いをさせる相手からは離れていろ。綾は中野家の大切な宝だ。誰かに媚びへつらう必要なんてない」綾の心に温かな光が灯る。けれどその温かさの奥底で、どこかやり場のない切なさがこみ上げた。中野家にとっては宝物でも、学校ではあんな扱いを受けている。急に自分自身が不憫になり、鼻の奥がツンとして、窓の外の景色から顔を背けて視線を隠した。数秒たってから、綾は小さな声で甘えるように言った。「来週から体力作りメインの新入生合宿があるんだけど、最後まで頑張れるか心配になっちゃって」湊は綾を見て、秋の清々しい光のような穏やかな眼差しを向けた。「ずっと俺と一緒に鍛えてきただろう?無駄なことはしてないさ。心配するな、綾なら絶対大丈
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第803話

湊はまだ免許を持っていないため、家の運転手に送ってもらうことになった。車内で隣に座っていた綾は、ふと唇を引き結びながら笑った。「湊、18歳になるのがそんなに待ち遠しいの?」湊は肩をすくめた。「免許を取れば、休みの日にどこへでも車で連れて行ってあげられるだろう?俺が運転手をしてあげるんだ、悪くないだろ?」綾は首を少しかしげて、湊の言う生活を想像し、口元をほころばせた。「確かに、悪くないわね」綾は運転手に気を使っていたが、湊にお願いするのは少しも苦にならなかった。湊は、その言葉を受け取った瞬間、胸の奥で何かが揺れるような感覚に陥り、一瞬どうしていいか分からなくなった。彼は表情を悟られないよう窓の外へ視線を向け、通り過ぎる街路樹をぼんやりと眺めた。30分後、ショッピングモールに入った。綾は湊の後について回った。湊は迷うことなく、日焼け止めやインソール、アフターケア用品、それに体力補給の栄養ドリンクなどを次々と買い物かごに放り込み、まるで棚の品をすべて綾に買い与えるかのようだった。「湊、これで十分よ」綾は思わず湊の袖をつかみ、かごに物を入れるのを止めた。合宿を前に緊張していたが、自分はそんなに甘やかされるような人ではないと思っていたのだ。湊は買い物かごの中身を確認すると、綾の言葉を聞き流し、手持ちのハンディ扇風機まで追加した。「合宿先で指導員が使わせないかもしれないけど、カバンに入れておけ。いざという時に必要かもしれないから」綾は仕方なく、微笑んだ。「分かった。湊の言う通りにするわ」そろそろレジへ向かうかと思いきや、湊は歩みを止めず、文房具売り場へと綾を連れて行った。「ノートやペンに不足はないか?」言われてみると、綾はちょうどノートが足りなくなっていたことを思い出した。ただ、この店の品物はどれも高く、ペン一本でも数千円はした。綾は歩みを止め、遠慮した。「湊、ペンなら帰りに本屋で買うから」湊はため息をついた。中野家は、綾を大切な令嬢として育ててきた。服も身の回りのものもすべて最高級品だ。それなのに、なぜこんなに控えめな子に育ってしまったのか?「綾は中野家の一員だ。立派な資産家の家系なんだから、もっと自分にお金を使いなさい」湊は綾のカバンを軽く引っ張ると、気の毒そうに付け加えた。「俺が買ってやった高
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第804話

綾は湊の機嫌を取ろうと、陳列棚から適当に万年筆を手に取ると、彼の前へ差し出した。「湊、これ買って」湊は驚いたような表情を見せたが、即座に笑顔で応じた。「ああ、いいよ。他にも欲しいものがあれば何でも選べ」綾は小さく首を横に振り、控えめに言った。「今はこれでいい。また何か思いついたら言うから」湊は実におだてに弱く、こうしてお金を使ってさえいれば簡単に喜ぶのだから楽なものだ。綾が微笑みながら箱に入った万年筆を買い物かごへ入れると、湊は丁寧にインクも選び、その隣にそっと添えた。「湊、じゃあお会計をして帰ろっか」綾はそう言って振り返った途端、見慣れた整った顔立ちが不意に視界に入り、思わず足を止めた。「青木くん?」反射的に口に出してしまったその声は、自分でも驚くほど弾んでいた。名前を呼んでしまったことに、すぐ気まずさを感じた。そもそも健吾とは、数回顔を合わせた程度で、会話すらほとんどしたことがない関係だ。対面の棚でノートを選んでいた健吾は、自分の名前を呼ばれたことに気づくと、こちらを向いてじっと視線を向けた。学校ではいつも制服姿の綾だが、今日は水色のワンピースを着ており、その姿は驚くほど華奢で清楚に見えた。健吾は軽く会釈をすると、淡々と言った。「やあ」綾は顔が真っ赤になるのを感じ、指先でスカートを強く握りしめた。唇を噛み締めながら、勇気を出して聞いてみた。「一人なの?」「ああ」と健吾は答え、手元にあったノートを数冊引き抜くと、距離を感じさせる丁寧な物言いで続けた。「会計して帰るよ。じゃあ」「じゃあね」と返したものの、立ち尽くしたままその背中を見送る綾の心の、胸の奥で芽生えかけていた小さな喜びは、彼のそっけない態度にあっけなくしぼんでしまった。湊はずっとすぐそばに立ち、今の綾の様子をすべて見ていた。眉をわずかにひそめた湊は、健吾の背中をそれとなく値踏みするように眺めてから、綾に問いかけた。「さっきの留学生みたいな男、クラスメイトか?」我に返った綾は、小さく説明した。「ううん、隣の国際クラスの子だよ」湊はなおも突っ込んだ。「まだ学期が始まって1週間だろ?なぜそんな人が顔見知りなんだ?」綾が社交的な方ではなく、むしろ自分からは決して声をかけない性格であることを知っているからだ。綾は詳しく話すのも面
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第805話

二人は肩を並べて駐車場へと向かった。綾はふとつぶやいた。「早く大学生になりたいな」クラスメートは決して友好的とは言えず、、綾は今の高校生活にあまり馴染めていなかった。湊は小さく口角を上げた。大学生になったらなったで、今が懐かしくなるかもしれない。人はいつもそうだ。過去を惜しみ、未来を夢見るばかりで、今日という一日に文句ばかり言う。今この瞬間こそが唯一自分だけのものなのに。地下駐車場の薄暗い中、二人は順番に車に乗り込んだ。もう一台の黒いマイバッハの後部座席から、健吾は窓越しに二人の車が静かに走り去るのを見つめていた。綾と隣の人の関係はなんだろう?兄妹か、それとも恋人か?あの男が自分を見た時、その目には明らかな警戒心と敵意が宿っていた。健吾がまぶたを閉じても、頭の中には綾の水色のワンピース姿がこびりついて離れない。あんなにおとなしくて従順そうな彼女が、本当に恋なんかしているのだろうか?健吾は小さく首を振り、雑念を追い払うと、運転手に車を出すよう指示した。高校までI国でずっと暮らしてきた健吾は、今年になって東都に転校したばかりだ。こちらに友人は少なく、弘幸とも学校で挨拶を交わす程度で、週末は連絡すら取らない。校内で綾を見かけた時、どこか似たような孤独を感じていたのだが、今は確信が持てない。おそらく、綾は自分の思っていたような人物ではないのかもしれない。弘幸は綾と話が盛り上がっているようだが、果たして週末にやり取りなどするのだろうか?月曜日になれば、弘幸から何か聞けるかもしれない。その頃、綾は湊の隣で、合宿の注意事項を適当に聞き流しながら、頭の中で健吾の姿を思い描いていた。学校の騒がしい男子たちとは違い、健吾は凛々しくて物静かだった。いつも弘幸と一緒でも、一人でいるかのような独特の空気を纏っている。その雰囲気には、見覚えがあるような気がした。綾は深く息を吸い込み、強引にその影を追い払おうとした。彼がどんな人物であれ、気にするべきではないのだ。気を紛らわせるために外国語の単語を黙々と復唱するが、幼い頃からの英才教育で身についた知識は川の流れのようにすり抜けていく。逆に、頭の中の雑音をかき乱すだけだった。湊は綾の落ち着きのない様子に気づき、心配そうに尋ねた。「どうしたんだ?具合でも悪いか?」
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第806話

明里が昼過ぎまで寝ていたせいで、綾が後藤家で明里と合流できたのは夕方近くになってからだった。胡桃がわざわざ車を出して、二人を市街地まで送ってくれた。「明里、綾ちゃん、しっかり遊んできなさいね。夜ごはんを食べ終える頃に迎えに来るから」綾は礼儀正しく頷いた。「ありがとうございます」「お母さん、またね」明里は手を振り、綾を連れてショッピングモールの中へと入っていった。「最近メイクを習ってるの。まずコスメショップに行こうよ」綾は映画を観る予定しかなかったが、誘われるままブランドのコスメショップへと向かった。綾にはメイクの経験などほとんどないため、並んでいる製品の区別もつかない。まばゆいばかりの陳列台を眺めて、目が回りそうだった。明里はしっかりと予習してきたようで、どれがどんなコスメなのか完璧に把握していた。「ねえ綾、このファンデーション試してみようよ。この色のリップ、絶対綾に似合うはずだよ。ちょっと綾の眉をペンシルで整えさせて!このアイシャドウも、絶対に合う!」「……」綾はまるで実験台にされたように、明里にされるがままにメイクを楽しんだ。明里が目星をつけていたコスメを試し終わる頃には、綾は完璧なフルメイクに仕上がっていた。明里は目を輝かせて綾を見つめ、鏡の前に押し出した。「わあ、そのフルメイクで学校に行ったら、絶対みんな学校一の美女だって思うよ!」綾は鏡に映った自分の姿を見て、戸惑いを隠せなかった。普段はすっぴんで、高校生とはいえ顔立ちにはまだあどけなさが残っている。鏡の中にいる自分は、どこか大人びていて、色っぽかった。明里は何度も綾の顔をじろじろと見つめた後、小さく首を横に振った。「あれ、なんだかすっぴんのほうが可愛いかも。メイクが綾の素の美しさを消してる気がする」綾は少し恥ずかしそうに言った。「落としたほうがいいかな?」慣れない自分に違和感がありつつも、心の中で少しわくわくもしていた。「いいよ、今のままで。どっちみち可愛いしね」明里は店員を呼んで言った。「今試したメイク用品、全部2セットずつください」そして、スマホでサッと支払いを済ませると、梱包された1セットを綾に手渡した。「高校生になったお祝い!」「でも、メイクなんてあまりしないし……自分にとっ
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第807話

弘幸は明里の方を向くとこう言った。「ねえ、席を代わらない?俺は綾ちゃんの隣がいいんだ。君は俺の連れの青木の隣にしてくれよ」明里は一目で健吾に目を奪われた。自分の学校で見かけるような凡庸な男たちとは、比べ物にならないほど際立っていたからだ。明里は即座にうなずいた。「いいわよ!綾もいろんな友達を作った方がいいもんね」そう言うと、彼女は綾の肘を軽くつついた。綾はすぐに明里の意図を察した。またいつもの「面食い」が始まったのだ。「代わりたければそうすれば」と、綾は返した。それから、何気なく健吾の方を見た。彼は無表情で、席替えのことなどどうでもいいといった風だった。健吾も実際そうだった。弘幸がうるさすぎて疲れるくらいなら、綾の友達の方が大人しいだろうと期待していたからだ。もちろん、綾が隣に座ってくれるならもっと良かった。彼女は口数が少なくて気が楽だからだ。数人は手続きを済ませ、シアターに入った。綾と弘幸が隣り合う。右側には数人挟んで健吾が、その隣に明里が座った。上映までの間、チラチラとそちらを窺った。映画が始まる前、明里は健吾に何か話しかけていたが、健吾は気のない返事で、かすかに眉をひそめていた。ずいぶんと冷たい人ね、と明里は心の中で彼を思って毒づいた。シアターが暗くなり映画が始まると、明里は視線を正面のスクリーンに戻した。すると、右手の暗がりから熱っぽい視線が綾の顔をなでていた。健吾は人ごみ越しに、静かに綾を観察していた。今日のメイクは派手すぎだ。口紅以外はすべて余計で、綾本来の清楚で涼しげな魅力がかえって消されている。ただ、口紅の色は似合っている。スクリーンに集中するその小さな唇が少しだけ開いていて、見ていて可愛らしい。健吾はゴクリと喉を鳴らした。視線を外しても、またすぐにそちらを見てしまう。隣の明里が小さな声で感想を言ってくるが、健吾はうわの空で返事をするだけで、内容は一つも耳に入らなかった。どれくらい経っただろうか。ふと意識をスクリーンに向けると、男女がキスをしていた。ここで初めて、自分たちが恋愛映画を見に来ていることに気づいた。しかし健吾も気づいていなかった。その瞬間、自分をそっと見つめる視線があったことに。綾は頬を熱くし、接吻シーンからわざと目をそらした。よそを向こうとし
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第808話

綾は下を向き、自分の頬をそっと叩いた。帰りに風邪薬でも買おう。そうすれば、胸の熱も引くだろう。健吾はその様子を見て、低く笑った。明里は顔を向け、一緒に笑いながら言った。「二人が幸せそうに見える?」「ああ」と健吾が短く返した。2時間後、映画はようやく終わった。結末は主人公たちが離れ離れになって再会するというもので、二人が結局結ばれたのかは分からないままだった。出口に向かう途中、弘幸が名残惜しそうに尋ねた。「綾ちゃん、最後は映画の二人が一緒になれたと思う?」綾は少し考えてから、真面目に答えた。「一緒になっていてほしいな」互いに想い合っているなら、結ばれるべきだよね?明里が会話に加わり、違う見方をした。「主人公の男性は出会う前に二人と付き合って、別れている間にまた一人と。一方のヒロインは彼が初めて。主人公の男性は、ヒロインに見合ってないと思うな」綾も一理あると思い直し、言った。「確かに。それなら一緒にならないほうがいいかもね」言葉が終わるか終わらないかのうちに、背後から鼻で笑う音が聞こえた。振り返ると健吾のからかうような視線とぶつかり、綾は頬を赤らめて責めた。「何を笑ってるの?」健吾は「可愛いから」という言葉を飲み込み、「何でもない」とだけ答えた。弘幸が二人の会話を遮り、提案した。「夜、一緒に飯でも食べないか?」「いいよ!」明里が即座に賛成した。まだ健吾のラインを知らない明里は、このまま別れるのが心残りだった。「綾、私たちだけで食べても退屈だし、一緒に行こうよ」綾は黙ったままだった。先ほどの嘲笑のような笑みが気に障ったからだ。だが、楽しみにしている明里の顔を見て、断るのが申し訳なくなった。弘幸は綾が同意したものと思い、健吾にすがるような口調で言った。「一緒に食べよう、な?」拒絶されることも覚悟していたが、健吾はあっさりと「ああ」と答えた。弘幸は健吾が撤回しないよう、慌てて近くの店を予約した。一行がレストランの個室に入ると、弘幸は当たり前のように綾の隣に座った。明里が綾の向かいに座ろうとしたところで、健吾が先にその席を押さえたため、明里は弘幸の正面に座ることになった。弘幸がQRコードを読み込み、デジタルメニューを出して綾に手渡した。「何でも好きなの頼みなよ。俺のおごり
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第809話

人が何を一番恐れているかは、その人の性格を映し出す鏡のようなものだ。綾は、静かに答えた。「捨てられること」千佳の家に預けられてからずっと、綾は誰かに捨てられることを何よりも恐れていた。健吾は一瞬表情を崩したかと思うと、迷いなくダイスを投げた。「じゃあ次の回を始めよう」綾の回答は少し重苦しかったが、明里はそれを理解した。弘幸は怖くてそれ以上深く突っ込めず、彼らは笑い合いながらゲームを再開した。今度も健吾は6を出したが、綾はたったの2だった……弘幸は懲りずに尋ねる。「綾ちゃん、どっち?」「真実」と、綾は諦めたように言った。綾は健吾に目を向けた。胸は今まさに判決を待つ被告のように、不安で一杯だった。健吾は楽しげに言う。「一番好きなものは何?」綾は穏やかに笑った。「家族よ」捨てられるのが怖い?それでいて一番好きなのが家族?この二つの問いだけで、健吾は綾の家族に起きた不幸や、過去に捨てられたという事実を確信していた。健吾はゲームを終わらせる気がなく、ダイスを投げ、3回目へ進んだ。またも6が出た結果を見て、綾は怪訝そうに健吾の手を凝視した。指はすらりと伸び、均整がとれているが、それ以外の異常は見当たらない。綾は負けず嫌いで、これほど毎回最小の目が出ることに納得がいかなかった。しかし現実は厳しく、3回目も1が出てしまった。綾はふてくされて口を尖らせた。「このダイス、絶対おかしいわ」健吾は笑い飛ばす。「運が悪すぎただけだろ?負けるのが嫌なら、素直に降参しなよ」綾は鼻を鳴らした。「別に負けるのが嫌なわけじゃないわ。次も真実にするから、好きなことを聞いていいわよ」その時、丁度料理が運ばれてきて、健吾はダイスを傍らに避けた。「それは楽しみだ。後で聞くことにしよう」納得がいかない弘幸は茶々を入れる。「俺が代わりに聞こうか?」健吾は眉を上げて綾を見て聞いた。「自分はどうしたい?」健吾の提案を断れば、意地悪な質問をぶつけてくるのではないかと綾は直感した。「とりあえず貸しにしとくわ」後回しにされた問いなんて、食事が終わって解散すればうやむやになるに違いない。「ズルも忘れようとするのも禁止だぞ」と健吾が含み笑いを漏らす。その厳格な眼差しに、綾は本当に逃がす気はないのだと悟った。
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第810話

綾はふふっと笑った。「ううん、少食だから」明里が食器を置いた。「うちのお母さんが迎えに来たから、私たち先に帰るね。ごちそうさま」立ち上がると、綾の横へ行き、手をつないで個室を出た。「綾、あの大森くんと友達なのはいいけど、付き合うのは絶対ダメだよ。あの人はちょっとね……」普段は豪快な性格だが、明里にとって綾は守るべき可愛い妹のような存在だった。こんな時は自然と姉御肌が出てしまい、綾を守ろうとするのだ。「分かってるよ。今はただ、勉強のことだけに集中したいから」綾にとって、弘幸は親切な友達の一人。恋愛対象としてなんて、一度も考えたことはなかった。会計に向かい、店員に個室番号を伝えた。「お会計をお願いします」明里が不思議そうに言った。「え、大森くんがおごってくれるんじゃなかったの?」綾はスマホで決済画面を開いた。「貸しを作りたくないだけだよ。あとで返すのも面倒だし」「だったら私が出すよ。お母さんにもらった家族カードがあるから、好きに使っていいって言われてるし」明里がカバンからカードを探しているうちに、綾は手早く支払いを済ませた。「私たちの仲なんだから気にしないで。うちのおばあさんと湊からのお小遣い、まだ使いきれないくらいあるから」「はあ……まあ、大森くんが得したってことでいいか」明里が姉妹のように綾の腕を組むと、外ではハザードランプをつけた車が待っていた。胡桃が迎えに来ていたのだ。明里がドアを開け、綾を先に乗り込ませた。自分も後に続き、二人で後部座席に座った。すると、胡桃が優しく笑いかけてきた。「綾ちゃん、よかったらうちに寄っていかない?」綾は控えめな声で返した。「すみません、明日から学校の合宿なので、帰って準備しないと……」「そう、残念ね。もう自分の娘みたいに思ってるから。今日は楽しかった?」「お母さん、私と綾……」車窓からは賑やかな街並みが流れていき、車内には和やかな空気が流れていた。綾は座席に寄りかかり、明里たちが楽しそうにおしゃべりするのをぼんやり聞いていた。平凡な幸せに溶け込んでいくような気分だった。二人が立ち去った後の個室。帰ろうとした健吾が、綾の買い物袋が置き忘れられているのに気づいた。少し考えたのち、健吾はその袋を手に取った。先に会計を済ませようとした弘幸
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