All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 821 - Chapter 830

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第821話

「湊がもう片づけてくれた。でもあの時、私に反発する勇気をくれてありがとう」健吾は綾の顔をちらりと見てから、思わずこう尋ねた。「一体、彼らとなにがあったんだ?」綾を見ていると、とても自分から争いを起こすようなタイプには見えなかったからだ。綾は指先をぎゅっと絡め、白くなるまで強く握りしめていた。少し沈黙してから、彼女はぽつりと語りだした。「いじめられたのは凛から。彼女の家に半年居候してたんだけど、その間に叔父さんが亡くなって……凛は私のせいで叔父さんを死なせたって決めつけたんだ」自分の子供の頃の話を誰かに話すなんて、綾にとって稀なことだった。まして、それほど親しくない相手にはなおさらだ。たとえ何が真実か分かっていても、肉親から憎まれ傷つけられた過去を口にするのは、やはり辛いものだ。でもなぜか、健吾の前だと、その痛みも予想外に淡々と言うことができた。多分、今日の雨はあまりにも激しく、車窓を隔てて、窮屈な車内の小さな空間に囲まれたからだろう。あるいは、ただ静かに自分の話を聞いてくれる健吾の姿が、重くのしかかっていた辛い出来事の痛みを少し和らげてくれたのかもしれない。それを言い終えると、車内には再び雨の音だけが残された。ふと綾は窓ガラスに映る彼の姿をこっそり見上げた。そこに浮かぶ彼の輪郭は、穏やかで、どこか頼もしさを感じさせた。やがて健吾は冷たく笑い捨てた。「その凛ってやつも、ずいぶんと思い過ごしたものだな。そもそもお前にそんな力があるんなら、あんな風に人からいじめられて縮こまったりしてないだろ」そう言われ、綾は意地を張るように言った。「ただ、あんな人たちといちいち争うのが面倒だっただけ。学業に差し支えるし」健吾が低く笑うと、マイバッハはタイミングよく停まった。おかげで綾の気まずさもいくらか和らいだ。「じゃあこれで。送ってくれてありがとう」綾がドアを開けて降りようとすると、健吾に呼び止められ、傘を差し出された。「これを持ってけ」「ありがとう」走ればすぐだと断ろうと思ったが、「いらない」なんて言ったらまた健吾に茶化されそうだったので、素直に受け取った。それから、帰宅後、彼女は熱いシャワーを浴びてから健吾にメッセージを送る。【傘をありがとう。月曜に返す】すぐに健吾は返信してきた。【好きにすれば
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第822話

すると、紀之は顔を強張らせて尋ねた。「国際クラスへの編入だって?」「はい、家族が決めてくれたことですので。校長先生もご存じのはずです。では、失礼します」綾は淡々と微笑んで、クラスメートが驚きに目を見開く中、潔く教室を後にした。振り返ることはなかった。もう二度と、彼らとは関わりたくなかったから。そこで、ちょうど通りがかった国際クラスの担任が、廊下で綾を見つけると笑顔で足を止めた。「学年1位さん、ようこそ我がクラスへ」綾は少しはにかんで、「はい、先生、こちらこそ」と答えた。「さあ、こっちへおいで」教壇に立った国際クラスの担任が声を張り上げる。「みんな、紹介するよ。単元テストで学年1位をとった中野さんだ。今日からこのクラスの仲間になる。拍手で迎えてやってくれ!」拍手の湧き上がる中、綾は深々とお辞儀をした。体を起こすと、無意識に健吾の方を向いた。国際クラスの担任は健吾の前の空席を指差した。「あそこの席に座るといい。前に座っていた生徒がちょうど留学に行ったから」そう言われ、綾は思わずドキッとして、「はい、先生」と答えた。そして、彼女が健吾の前の席まで歩いていくと、彼と軽く目が合ったので会釈をして着席した。授業が始まるのに合わせて、教科書と文房具を几帳面に並べた。1限目のチャイムが鳴り、健吾がふと顔を上げると、前には姿勢よく座る少女の姿があった。ポニーテールを背に垂らし、ノートを取る姿はとても真剣だった。国際クラスは大学進学を見越した独自の授業が中心で、大学入学共通テストのためだけに必死に知識を詰め込むような雰囲気ではなかった。幅広い学びが得られる環境に、綾は安堵した。休み時間になると、弘幸が綾の机に駆け寄って椅子を引いた。「すごいよな!綾ちゃん、クラスを変えるって決めたら本当にすぐ変えるんだな」そう言われ、綾は微笑んで答えた。「ここの方が落ち着けそうだし」「大歓迎だよ!」と弘幸が手を差し出す。「国際クラスを代表して、正式に歓迎の挨拶をさせてくれ」綾は少し戸惑いながらも、素早く相手の手を握り返した。弘幸は嬉しそうに手をこすり合わせて興奮した様子で言った。「お前は1位、青木は2位だろ?これで『お坊ちゃまクラス』なんて呼ばせないぞ」綾が後ろを振り返ると、健吾が一人でタブレットを見てい
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第823話

その親戚から言われたひどい言葉のせいで、10歳だった綾は、ドレスやティアラを見せびらかすことをやめ、部屋の隅でじっとするようになった。大人の何気ない一言が、少女の心をひどく傷つけたのだ。そのせいで、せっかくの誕生日会も、彼女にとっては辛いだけの思い出になってしまった。その日以来、彼女は自分の感情を誰にも見せないよう、心を閉ざした。だから、たとえテストで1位の成績をとっても、A組のクラスメートや紀之へのあてつけで、すこしだけ調子に乗ってみせるくらいのことしかできなかった。一方、弘幸は気まずい空気に気づき、とりなそうと声をかけた。「綾ちゃん、席を俺の前に変えたらどうだ?」綾は制服の端をギュッと握り締める。返事をしようとすると、健吾が遮るように言った。「彼女は、そんなことで先生を煩わせるようなことはしない」綾は肩を落とし、弘幸の方を見て小さく微笑んだ。「ありがとう。でも、今の席で大丈夫だよ」弘幸は面白くなさそうに健吾を横目で見て、もう一度綾を誘った。「近くに新しい本屋ができたんだ。放課後、一緒に行かない?」参考書が欲しかった綾は、頷いた。「うん、いいね」弘幸は机に手をつき、距離を詰めながら聞いた。「じゃあ、今週末はどうだ?」でも綾は、「週末はいつも友達と会う約束をしているから」と言った。「友達ってこの前、一緒に映画に行ってたキレイな子?彼女はどこの学校なんだ?」「彼女は国際高校だよ」「俺も今度、一緒に遊んでもいい?」だが、綾は明里が弘幸を苦手に思っていることを思い出し、申し訳なさそうに言った。「ごめんね。彼女、ちょっと人見知りで」片や、二人のやり取りがうるさかったのか、健吾は不機嫌そうに口を挟んだ。「そんなのラインで話したらどうだ?」そう言われ、綾は唇を引き結び、俯いて教科書を開いた。弘幸は肩をすくめ、自分の席に戻るとスマホを取り出した。【青木っていつも偉そうにしてるから、気にすんなよ。次は二人で遊びに行こうぜ、あいつ抜きで】しかし、綾のスマホは常にマナーモードで、学校ではあまり見ていないため、そのメッセージには気づかなかった。それに彼女も、健吾のさっきの態度に腹は立てていなかった。弘幸と自分がお喋りしてて、少し騒がしかったのも事実だから。昼休み、綾は列に並ぶのが面倒で、教室で勉強をし
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第824話

その聞きなれた声を耳にして、綾はすぐに気が晴れて、にっこりと笑みを浮かべた。「今行く」彼女は凛たちを追い越し、そこに立っていた健吾のほうへ向かった。少年は制服に身を包み、白いシャツに黒いズボン姿。すっきりとした端正な顔立ちで、どこか爽やかだった。綾がすぐそばまで歩み寄ると、健吾は向きを変えて歩き出した。綾は彼の後ろにぴったりついていった。「助けてくれてありがとう。食堂に行くって言ってなかったっけ?なんでここに?」「今から行くところだ」健吾は振り返りもせず、涼しげな声で答えた。初秋とはいえ、まだ暑さが残る中、綾は少年の後ろについて歩いていた。彼の服から漂うほのかな洗剤の匂いを嗅ぐと、まるで冷たいレモネードを一口飲んだ時のように、身体と心がすーっと軽くなるのを感じた。二人が並んで食堂に入ると、弘幸がこちらに向かって手を振った。綾は弘幸に笑い返した。その時、彼の向かいに座っている女子生徒に気づいた。しかし、健吾は見て見ぬ振りをして、手際よく食事を済ませると、空いている別のテーブルへ移動した。綾も彼についていき、健吾の向かいに座った。「友達のところに行かなくていいの?」そう言われ、健吾が顔を上げた。その澄み切った青い瞳の美しさに、綾は一瞬見とれてしまった。彼女は小声で言った。「あなたと一緒に座ってもいい?」弘幸は熱心に接してくれるけど、綾はなぜか健吾と一緒にいる時の方がずっと落ち着くのだ。そんな風にまっすぐ伝えられるとは思っていなかったのか、健吾は一瞬きょとんとしたが、すぐに視線を落として食事を続けた。もとから、二人とも無口なほうだから、食事中はほとんど言葉を交わさなかった。ついに、食事が終わる頃、綾は堪えきれず切り出した。「放課後、新しくできた本屋に行かない?」健吾はすぐには返事をせず、逆質問を返してきた。「俺に付き合ってほしいのか?」綾は顔を赤らめ、頷いた。「うん、あなたにも来てほしいの」弘幸があまりに親しげに接してくるので、クラスでは二人の関係を疑うような噂も出始めていたから。やましいことは何もないけれど、根も葉もない噂のせいで誰かに迷惑をかけるのは避けたいそう綾は思った。それに、個人的な気持ちもあった。学校での姿しか知らない健吾が、普段どんな生活をしているのか少し興味
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第825話

綾と健吾は教室に入ると、前後の席にそれぞれ腰を下ろした。綾はあくびをして、暇つぶしに本を読もうとしたところ、そこへ弘幸がやって来た。「昼ご飯、なんで俺と一緒に食べなかったんだ?」健吾がいたからと正直に言うわけにもいかず、綾は適当に濁した。「友達と一緒だったから、邪魔しちゃ悪いと思って」弘幸はすかさず弁解した。「あの子は俺に気があって、しつこく誘ってきているだけだよ。誤解するなよ」綾は頭を掻きながら悩んだ。一体、何に対しての誤解なのだろう?思い当たらなかったから、綾ははぐらかすように軽く笑い、声を潜めて言った。「寝ている人もいるから、大きな声で話すのはやめよう」弘幸は指でOKサインを作って言った。「わかった。放課後待ってて」弘幸が席に戻るのを見届け、綾が後ろを振り返ると、健吾の席はすでに空になっていた。いつの間にいなくなったのだろう。それから、綾はしばらく静かに本を読んだ後、そっと教室を抜け出した。そして、彼女だけの秘密基地――小さな花園にあるガジュマルの木へ向かった。A組にいた頃、綾はこの木の下でひと休みするのが日課だった。ここなら静かで、誰にも邪魔されない。ガジュマルの木へ向かって歩いていた綾は、木のそばにある石のテーブルの横で、長身の少年が気だるげにもたれかかっている姿を見つけた。健吾だった。彼はたった一人で、本を手に取って読書に耽っているのだった。綾はその場に立ったまま、数秒間静かに彼を見つめた。そして、声をかけることなく、ガジュマルの木の下へ腰を下ろした。つるっとした木の幹に背中を預け、綾は静かに目を閉じた。頬を撫でるそよ風がやけに心地よかった。近くの池を吹き抜けた風は、むせ返るような熱気を追い払い、体温をすっと下げてくれた。気がつくと、あくびをこぼしながらそのまま深い眠りに落ちていた。一方、少し離れた先で、健吾がふと顔を上げ、ガジュマルの木の方向を見つめた。木漏れ日の中で、綾は目を閉じ、陶器のような白い頬がほんのりとピンクに染まり、後れ毛が風に揺られていた。硬い木の幹にもたれて、あんなにぐっすり眠れるなんて……大した適応力だ。かつて健吾は綾が中野家で虐げられているのではないかと疑ったこともあった。しかし、彼女が湊の話をする時に見せた、深い信頼と幸せに満ちた眼差しに偽りを感じられ
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第826話

健吾は背が高く、歩幅も広いため、綾は小走りでやっと追いつくくらいだった。本屋はオープンしたばかりで、放課後ということもあり、大勢の生徒で賑わっていた。健吾は本屋の外に立つと、中へ入るのを少し待つことにした。「混んでるから、空くのを待とう」綾もそれに同意し、彼のそばで大人しく待った。すると、弘幸が綾に近づいてきた。「綾ちゃん、アイスおごろうか?」綾は遠慮がちに微笑んだ。「ううん、いいのよ。ありがとう」彼女は和子から胃に負担をかけないよう、アイスクリームは1日1個までと厳しく言われていた。しかし、弘幸は諦めずまた聞いてきた。「どこに住んでるんだ?うちの母が迎えに来るから、ついでに送っていくよ」「大丈夫。地下鉄で帰るから」弘幸の迎えの車がどちらの方向へ行くのかを、綾はすでに知っていた。自分の家とは真逆の方向だ。こうしてしつこく話しかける弘幸にも、綾はいつも通り穏やかに応えた。一方で、健吾だけは何も言わずにそばに立ち、何度も眉をひそめていた。店内の混雑が少し落ち着くと、彼は何も言わずに店の中へ入った。すると、綾も弘幸を促した。「私たちも中に行こう」中に入ると、彼女は迷わず学習コーナーへ直行し、科目ごとに数冊ずつ参考書を選び、さらに問題集もカゴに入れた。弘幸は驚いて目を丸くした。「そんなにやりきれるの?」「まあね。家にいてもすることないし」学校から帰って勉強して、それが終わる頃に和子が帰宅し、一緒に晩ご飯を食べるのが綾の日課だ。食後に和子と軽く散歩をすると、もう和子が休む時間になる。夜はそれなりに起きているので、いつも本を読むか、問題集を解いている。ドラマはというと、高校生になってからは見ていない。長いドラマだと何十話もあって、時間の無駄だと思うからだ。週末だけはリビングのシアタールームにこもって、名作と言われる映画を観ることにしている。弘幸が持っていた小説を手に取った。「こういう小説とか読まないの?クラスの女子が結構読んでるけど」「文学を専攻してる人が家にいるから、家にはいろんな本があるの」小学生の頃から、綾は湊の読み聞かせで本に親しんできた。中身が難しくても、とにかく手にとって開くのが習慣だった。高校の国語で宿題になるような名著も、ほとんど読み終えていた。弘幸は感心
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第827話

しかし、綾は断った。「ありがとう、でも大丈夫。地下鉄で帰るから」「そっか。じゃあ、俺はさきに行くよ」弘幸はそう言うと、迎えの車に乗り込んだ。綾は健吾の方を向き、「あなたのお迎えの車は?」と聞いた。健吾は短く言った。「俺も地下鉄だ」それを聞いて、綾は目を輝かせた。「じゃあ一緒だね!」そう言ってすぐに、綾はまた少しだけ目を細め、何かを窺うように健吾を見つめた。「青木くんは、地下鉄なんて乗ったことあるの?」健吾は問い返す。「地下鉄に乗るのに、そんな特別なコツでもいるのか?」「まあ、それはないけど」そう呟くと綾は、彼を引き連れて地下鉄の入り口へ向かった。夕方の帰宅ラッシュで、ホームは非常に混雑していた。でも、綾は人混みを縫って歩くのには慣れていた。細い体で、彼女はすいすいと地下鉄に乗り込んだ。振り返ると、健吾が外で立ち往生していたのだった。人波に揉まれながら、彼は眉間に深く皺を寄せていた。やっぱりお坊ちゃん育ちだね。綾は苦笑いしながら一歩下がり、彼の腕を掴んで思い切り車内へと引き込んだ。次の瞬間、健吾は混雑する車内の真ん中にいた。こんな時、つり革どころか、座席も勿論空いていないものだ。揺れる車内で綾を見た健吾は、片手でポールを握り、もう片方の手で綾のカバンの紐をしっかり掴んだ。背後から支えるような力を感じた綾が振り返ると、それは健吾だった。人で混み合った車内で、健吾はさりげなく綾を庇うように前に立っていた。彼の気配はすぐそばにあり、心臓の鼓動まで聞こえそうなほど近い。そこから漂うかすかな香りが、ふわりと綾の鼻をくすぐった。地下鉄を降りて肩を並べて歩き出すと、風が二人の間を通り抜け、思わず胸が高鳴った。綾は何か話そうとしたけれど、言葉が出てこなかった。多分、緑の木々に囲まれ、花の香りにも酔いしれたのだろう、帰り道はいつにもまして短く感じられた。気がつくと、二人は中野邸の前に着いていた。立ち止まり、綾は顔を上げて健吾を見上げた。自分と同じ高校生とはいえ、健吾は背が高くすらっとしている。それに比べ自分はまだまだ身長が伸び始めたくらいだ。こうして彼の前に立っているとまるで、学年すら違っているように思えた。「今日は一緒に帰ってくれてありがとう」健吾はぶっきらぼうに返す。
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第828話

それからというもの、綾は放課後になると、毎日健吾と一緒に地下鉄で帰宅するようになった。地下鉄は揺れるが、健吾はいつも彼女の後ろに立ち、距離を保ちつつも何気なく彼女を守るような体勢を取っていた。それには綾もひそかに感心していた。青木家はなんと寛大だろう。ダニエルが何日も休み続けても、何も言われないのだから。尋ねようかと一度は思ったが、口には出さなかった。他人の家庭の事情を詳しく聞くほど、彼らは親しい仲ではなかったからだ。週末、綾はいつも通り明里と遊びに出かけた。二人でデパートをぶらぶらして過ごした。明里が「最近なんだか顔色がいいね」と言うので綾は「よく眠れているからかも」と笑って返した。けれど家に帰り着いた途端、どっと重い疲労感が押し寄せ、骨の軋みからじわりと脱力感が滲み出るようだった。その日の夕方、和子と散歩に出たが、吹く風を浴びた途端、綾は頭がクラクラとした。玄関に入ると、ついに堪えきれず、そのまま崩れ落ちた。耳元で和子が叫ぶ声が響いたが、綾の世界は深い闇に包まれた。完全に意識を失う直前まで、遠くから自分の名前を呼ぶ、和子の声が聞こえたような気がした。何度か朦朧と意識が浮上したが、何も見えず聞こえず、身体が重い繭に閉じ込められたようで、指先ひとつ動かせなかった。その夜、いつも冷静な和子は一睡もできなかった。彼女は綾の手を自分の頬に当てたが、その肌はぎょっとするほど熱を持っていた。翌朝、幸子が静かに声をかけた。「和子様、少し横になられては、あとは私がついておりますから」和子は額を押さえ、綾の顔から一瞬たりとも目を離さず答えた。「綾が目を覚ますまで、休めるわけがないでしょう」一晩の間に医師を何度か変えたが、どの医師も口を揃えて「インフルエンザによる発熱で、少し容態がひどいだけです」としか言わなかった。こうして、和子は綾の看病に夢中で時間も忘れ、学校へ欠席の連絡を入れることすら忘れていた。この時、和子の瞳には、熱で頬を赤く染めて横たわる綾の姿しか映っていなかったのだ。……一方、学校では、国際クラスの担任が、綾が1限目から欠席していることに気づいた。綾はいつも素直で、無断欠席なんて一度もなかったはずだ。そう思って教室の後ろに足を運んだ担任は、綾の後ろの席に座る健吾に尋ねた。「中野さんは今日
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第829話

湊は幸子の言葉が招く最悪の事態を考え、少しの躊躇もなく、指導教官に事情を説明して大会を棄権した。幸い個人種目だったため、他の学生に迷惑をかけることはなかった。彼は深夜便のチケットを取り、帰国した。そして、病室に姿を現した時には、もう午後になっていた。和子は湊が疲れ切った様子で駆けつけたのを見て、あえて多くを問わなかった。彼女にとっても、どれほど大事な大会であろうと家族とは比べられないのだから、帰国を選んだ湊は正しい選択をしたと思っているのだ。この時彼女は湊を見て、立ち上がり、ベッドサイドの場所を彼に譲った。「医者からは、意識を取り戻せるかもしれないから、綾に話しかけてみてと言われているの」「分かりました」湊は低い声で答え、ベッドサイドに座ると、恐る恐る綾の手を握った。覗き込むと、彼女は青ざめた顔で、長い睫毛に覆われた目を固く閉じ、唇は乾いて皮がむけ、呼吸は浅くて速かった。それを見た湊は胸が張り裂けそうになり、息が詰まるような痛みを覚えた。出来ることなら、綾の苦痛を彼は全て自分の身に引き受けたかった。「綾、戻ったよ」低い声で名前を呼び、親指で彼女の手の甲を優しくなでた。「心配するじゃないか、お願いだから目を覚ましてくれ」彼は独り言のように語りかけた。午後から夕方へ、そして夜中まで続けた。幼い頃のドジ話や、回復したら新しくできたお菓子の店に連れて行くなどの話を声が枯れるまで話し続けたが、それでもやめることはできなかった。医師が何度も入れ替わり立ち代わり様子を見に来たが、首を振るばかりだった。和子は横で、時折胸を押えながら座っていた。もし綾になにかあれば、自分は綾の亡き両親に合わせる顔がなくなってしまうだろう。そこで、幸子は湊の声が枯れているのに気づき、水を運んできた。「湊様、お水を飲んで、少し喉を潤してください」湊は首を振り、再び綾の方を向いて、切ない笑みを浮かべた。「綾、これ以上起きてくれないと、俺の喉が本当にダメになるぞ。そしたら責任を取ってくれるだろうな」すると、その言葉と同時に、彼の手の中で綾の指先がピクリと動いた。それに続いて、綾の瞼がわずかに震え、長い睫毛も微かに動いた。湊は大きく目を見開き、裏返った声で叫んだ。「早く医者を呼んでくれ!」和子はベッドに飛びつき、涙なが
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第830話

翌日、綾が退院したいと強く要望したため、湊は退院の手続きをしてあげた。帰宅後、綾は初めて和子から自分が倒れたことを知った湊が、国際大会を辞退してその日のうちに帰国したことを知ったのだった。そうと知って、彼女は胸に込み上げてくる切なさと申し訳なさ、そしてそれ以上に、言いようのない不安が募った。「湊……私が病気になっても、おばあさんが一番いいお医者さんを手配してくれるはずよ。だから、もう無理しないで。私のせいで、あなたの将来にまで影響が出るようなことにはなってほしくないの」湊は優しい笑みを浮かべ、お茶の入ったコップを差し出しながら言った。「たかが一つの大会だ。俺の将来は、そんなことで影響されないさ」綾は思わず吹き出したが、すぐにわざとむっとした顔を作り、心配半分、脅し半分で言った。「とにかく、次は絶対にダメだからね。さもないと、今度倒れても二度と目を覚まさないんだから!」すると、湊もまた真剣な表情で、彼女のおでこを叩く振りをして言った。「また縁起でもないこと言って……これからは絶対に病気になんてさせないからな」綾と比べれば、大会のことなど大したことではないと湊は思っているのだ。それは病気のときだけでなく、たとえ綾がただ機嫌が悪くてそばにいてほしいと言っただけでも、自分は迷わず大会を捨てて帰ってきていただろう。それに、湊は自分の実力を信じていた。たった一度の大会で、自分の将来が左右されるとは思えなかった。一方、綾はお茶を口にしたが、それでも心の底の不安は消えなかった。顔を上げ、彼女は確かめるかのように尋ねた。「あの……大会ってもう終わっちゃったの?今から戻っても間に合うんじゃない?」湊は困ったように笑い、綾の頭を撫でた。「しっかり休め。変な心配をするな。今回の大会なんてそれほど重要じゃないんだ」そんなことを言われても、綾はどうしても信じられなかった。彼女は部屋に戻ってドアを閉めると、すぐにパソコンで検索をかけた。すると、検索画面に、その大会が有名校の推薦枠に直結していることが書かれているのを見て、綾の気持ちはどん底に沈んだ。これのどこがそれほど重要じゃないっていうんだ。湊は自分一人のために、これほど素晴らしいチャンスを捨てたんだ。そう思うと綾は深いため息をつき、椅子の背にもたれかかった。湊が自分にして
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