All Chapters of 「子供はいらない」と言った夫の裏切り: Chapter 1 - Chapter 10

15 Chapters

第1話

私は生まれつき甘い香りがして、肩には海棠の花みたいなアザがあるの。夫の福田颯太(ふくだ そうた)はそんな私にぞっこんで、毎日私のそばから離れようとしなかった。結婚して10年。私たちはキッチン、ソファ、車の中……時には公共施設のトイレでも体を重ねた。彼は記念日を一度も忘れたことがない。私と一緒にいるために、海外研修のチャンスを諦めたことだってあった。でも今年の彼の誕生日の日、颯太はきちんとした身なりで私の前に立ってこう言った。「今年の誕生日は、家で過ごさない」私が口を開く前に、彼はポケットから一枚の家族写真を取り出した。そこには、優しそうな女性とかわいい男の子が写っていた。颯太は二人を抱きしめて、幸せそうに微笑んでいた。「彼らといると、もう一つの居場所がある気がするんだ。今年の誕生日は、彼らと一緒に過ごしたいんだ」私は全身が震え、涙で滲む目で彼を見つめた。「私たち、結婚して10年よ。今さら、外にも家庭があるなんて言うわけ?」彼の冷たい表情を見て、この結婚はもう続ける意味がないと悟った。私はかすれた声で言った。「颯太、離婚しましょう」颯太は眉間にしわを寄せ、わけがわからないという顔で言った。「このままじゃダメなのか?なぜ離婚なんだ?」……かつて私のことを命よりも大事にしてくれたはずの男が、今では悪びれる様子もなく私を見ている。まるで浮気がごく当たり前のことだと言わんばかりの態度だった。彼の平然とした態度にもう我慢ができなくて、私は写真を彼の手から奪い取ると、粉々に引き裂いた。「颯太!あんたは私に隠れて外に女を囲って、子どもまで作ってたんじゃない!それで、どうして離婚なんだ、なんて聞けるわけ!?子供はいらないって言い出したのはあなたでしょう。私がどれだけお願いしても、あなたは聞き入れてくれなかったじゃない?こっちが聞きたいわ!どうしてなのって!」颯太はただそこに立って、取り乱す私を見ていた。しばらくすると、彼は呆れたように言った。「もういいだろう、千佳(ちか)。騒ぐのはやめろ。お前ももう子供じゃないんだ。若い女の子みたいに嫉妬で騒ぐのはみっともない。この写真が嫌なら、これからはもう見せないようにする」彼の他人事のような言い方は、まるで私だけがヒステリックに騒いで
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第2話

颯太の真剣な言葉を聞いて、私はどこか現実感がないような、ぼんやりとした気持ちになった。胸は張り裂けそうなくらい苦しいのに、頭だけは冴えわたっていた。私は彼の目をまっすぐに見つめて、尋ねた。「いつからのことなの?」颯太は視線を泳がせながら言った。「もう6年以上になるかな」心の奥底で固く信じていたものが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。結婚して10年。そのうちの6年間も、彼は浮気をしていたなんて。私は、全く気づかなかった。深い悲しみに包まれると、今まで見過ごしてきた些細な出来事が、波のように押し寄せてきた。颯太はいつも深夜まで残業で、疲れ切った様子で家に帰ってきた。それなのに、いつも私の大好きな夜食を買ってきてくれた。私は彼の隣に座って、その日の他愛もない出来事や、面白い話を聞くのが好きだった。友人たちとの集まりで、彼が上の空でスマホをいじっていても、仕事の急ぎの連絡だと思って、気を遣ってお酒を代わりに断ってあげたりもした。すべてが明らかになった今、自分がどれだけ馬鹿だったのか、思い知らされた。一人で眠りについた、数えきれないほどの夜。飲み会で彼が酔っ払ってないかと、心配でたまらなかった夜。そのとき、彼は一体どこにいたんだろう?そして、誰と一緒にいたんだろう?一つ一つの思い出が、改めて見つめ直され、過去の出来事が全く違うものに変わってしまった。涙が勝手に溢れてきて、服の襟を濡らしていく。でも、声をあげて泣く気力さえ、もう残っていなかった。「どうして?」私の声はか細かったけど、彼にははっきりと聞こえたようだった。颯太は私の隣に座り、うつむいていた。しばらく黙りこんでいたけど、やがてゆっくりと口を開いた。「胡桃ちゃんは、お前とは違う。彼女は若くて、すごく元気なんだ。遊ぶのが大好きなのに、俺のために手料理を作ってくれる。俺が疲れている時には、気分転換に連れ出してくれるし、俺の決断をいつも応援してくれる」そう話す彼の口元は、幸せそうに少しだけ緩んでいた。そして私に視線を戻すと、その瞳の輝きは消え失せた。「千佳、お前のことは愛してる。でも、たまには俺も愛されたいんだ」颯太の言葉は、どれも本心から出ているのがわかった。だからこそ、鋭い刃物のように私の胸に突き刺さっ
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第3話

颯太はため息を一つこぼした。深呼吸をしてから、また口の端をあげて、私に笑いかけた。「千佳、俺の誕生日プレゼントは?」毎年、彼は私にこう訊くのだった。当日になれば渡すのに、彼は一刻も待てないみたいだった。今年は彼に、養子を迎えようかと相談しようと思っていた。長年、子供を欲しがらない彼の態度を見て、私は彼が子供のできない体なのだと勘違いしていた。彼のプライドを傷つけないように、一度も尋ねたことはなかった。なんだ、彼は子供ができないんじゃなくて、ただ私との子供が欲しくなかっただけだったんだ。私が答えないでいると、彼はそれ以上何も聞かず、スマホを見始めた。彼が拡大表示した画面には、藤堂胡桃(とうどう くるみ)という名前の女の写真が写っていた。彼がうっかりボイスメッセージを開くと、元気いっぱいの声がスピーカーから飛び出してきた。「颯太さん、あなたが好きな料理をたくさん作ったんだよ。いつ来るの?こっそり教えるね。ご飯を食べ終わったら陸は母の家に行くから。そうしたら、二人っきりだね……楽しみにしてて」颯太はそれを聞いてすっかり機嫌が良くなり、私が隣にいることなんて全く気にしていない様子だった。彼は自然な様子でスマホを手に取り、返信した。「そうか?楽しみだな。今夜は陸がいないから、たっぷり可愛がってやるよ」颯太は上着を手に取りながら、胡桃をなだめていた。「わかったよ。すぐ会いに行くからな。いいだろう?」ドアの方まで来たところで、彼はやっと私の存在に気づいたかのように、振り返って笑いながら言った。「家のことは後で人を呼んで片付けさせるから。割れたお皿の破片には絶対に触るなよ。俺が帰ってくる時には、誕生日プレゼントが見られると嬉しいな」体の芯まで冷え切って、全身が震えた。感情も感覚も、まるで抜き取られたみたいだった。体からはすっかり生気が失われていた。向こうは待ちきれなくなったのか、また電話をかけてきた。颯太はすぐに出た。「颯太、そのドアから一歩でも出たら、私たちは離婚よ」彼は気のない返事をすると、また靴を履き続けた。家を出る間際になって、彼はやっと名残惜しそうに電話を切った。そして、振り返って私に尋ねた。「千佳、さっきなんて言った?」私が口を開く前に、彼は笑
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第4話

リビングは、めちゃくちゃに荒らされていた。私が少しずつ、愛情を込めて作り上げてきたこの家は、もう見る影もなかった。そのとき、スマホがぶるっと震えた。胡桃からの友達申請だった。承認すると、すぐに一枚の家族写真が送られてきた。写真には、バースデーハットをかぶった颯太が写っていた。彼の胸には、セクシーなワンピース姿の胡桃が寄り添っている。胡桃の隣には見知らぬ男女がいて、満面の笑みを浮かべていた。そして、颯太の反対側には……なんと、颯太の両親がいた。実の娘のように可愛がってくれた二人がにこやかに笑っていた。そして、その膝の上には、颯太の息子である福田陸(ふくだ りく)が座っていた。「颯太さんの妻という肩書きだけ持っていても意味がないわ。颯太さんが本当に愛しているのは、私なの。颯太さんの両親はあなたのことが気に入らなかったらしいわね。ずいぶん時間がかかって、やっと認めてもらったんだって?でも、彼らは私に初めて会った時に、将来のお嫁さんに受け継がれる家宝をプレゼントしてくれたのよ」胡桃の言う通りだった。颯太の両親は、家柄の良くない私のことなんて、認めていなかったんだ。颯太が一週間もハンガーストライキをして、やっと私のことを認めてくれた。その後、長い時間をかけて、ようやく実の娘のように可愛がってくれるようになった。そうか、全部、ただの演技だったんだ。苦々しい笑みがこぼれた。この「ゲーム」で、私だけが完全に負けたんだ。またスマホが鳴った。今度は颯太からだった。彼の声は相変わらず優しくて、まるで私たちの間に何もなかったかのようだった。「千佳、明日、お前がずっと行きたがっていたレストランに行こう。父さんたちも一緒だよ。久しぶりに、みんなで食事しよう」離婚のことも、彼の両親に話さないといけない。私はそう思って、「わかった」と答えた。翌日、私はTシャツとジーンズというラフな格好で約束の場所へ向かった。今までは、体裁を考えて、いつもきちんと身なりを整えていた。でも、今はもう、自分が楽でいられる服が着たかった。颯太の両親は私の姿を見て少し驚いたようだったが、結局なにも言わなかった。颯太の母が私の手を取った。「千佳ちゃん、しばらく見ないうちに、また痩せたわね。若い子たちの真似して、ダイエットな
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第5話

先に口を開いたのは、胡桃だった。「千佳さん、突然お邪魔してすみません。これ、私からのお土産です」口調はやわらかで下手に出ているのに、私を見る目は勝ち誇っていた。私は彼女を無視して、袋を掲げたままの彼女を放っておいた。でも、彼女のそばにいた子供が、いきなり私のお腹めがけて突進してきた。「悪い女!ママをいじめるな!出ていけ!」私の足にぶつかる寸前で、颯太が険しい顔でその子をぐっと引き留めた。「誰がそんな口の聞き方を教えたんだ?」彼はまるで厳しい父親のようだった。残念なことに、教えている相手は、私たちの子どもではなかった。陸は彼の剣幕に怯えて、泣きながら颯太の母親である福田玲奈(ふくだ れな)の胸に飛び込んだ。潔癖症のはずの玲奈は、その子がオーダーメイドのワンピースに鼻水をこすりつけるのを、なすがままにさせていた。そして、その子の背中を優しく撫でてあやしていた。その目には責めるような色はなく、ただただ孫を可愛がる愛情だけがあった。玲奈も、知っていたんだ。福田家はみんな、とっくの昔に知っていたんだ。胡桃が不機嫌な顔をした。颯太は彼女を自分の隣に座らせると、私の隣にぴったりとくっついて座った。「胡桃ちゃんはまだ若いし、初めての母親なんだ。彼女たちのことを、もう少し理解してあげてほしい」幸せそうな家族の光景を見つめながら、私の心はどんどん冷えていく。私は無表情でカバンから数枚の書類を取り出し、彼に差し出した。颯太はそれを受け取ると、中身を確かめもせずに、私が指し示す箇所に、迷うことなくサインをした。「これからは、買いたいものがあったらカードを使いなよ。わざわざサインなんていらないから。俺の金は、全部お前のものだ。好きに使えばいい」玲奈も陸をあやし終え、気まずそうに私に笑いかけた。「そうそう。これから颯太があなたを怒らせたら、どんどん彼のお金を使いなさい。千佳ちゃん、陸はまだ何も分からないのよ。だから、大目に見てあげて。あなたが颯太の妻であることは、これからも変わらないわ。でもね、福田家には後継ぎも必要なの」一見、慰めているような言葉だったけど、そこにははっきりと非難の色がこもっていた。福田家に跡継ぎを産んであげられないことを、責めているんだ。でも、玲奈は知らない。そもそも結婚
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第6話

玲奈は、さっと陸を抱きかかえて立ち上がると、気まずそうな顔をした。でも、すぐに表情を取り繕って、私をなだめるようにこう言った。「千佳ちゃん、急にどうしたの?午後からオークションがあるから、あなたと胡桃ちゃんを連れて行ってあげるわ」私と愛人を一緒くたにしたことに気づいたのか、彼女は気まずそうに笑った。「気に入ったものは何でもお買いなさい。颯太の金なんだから、遠慮なく使っていいのよ。あなたを怒らせる颯太が悪いのよ。胡桃ちゃんはまだ若いし、こういう場にも慣れてないから、一緒に連れて行ってあげましょう。あなたは本当に物分かりのいい人だものね」私は答えず、ただじっと玲奈を見つめた。しばらくの沈黙の後、私は静かに口を開いた。「もしあなたに娘がいたら、その旦那さんがこんな風に堂々と愛人を家に連れてきても許せるんですか?」「そんなこと、許すわけないだろ!」「当たり前よ!絶対にダメに決まってるじゃない!」颯太の両親の声が同時に響くのを聞いて、私は鼻で笑った。二人は気まずそうに席に戻った。なんだ、自分たちがしていることが間違っているって、ちゃんと分かっているんじゃない。ただ、颯太が自分の息子だからというだけで、彼の浮気は許されると思っているんだ。「千佳さん、私は颯太さんのことを心から愛しているんです。どうか、私たちを引き裂かないでください。こんなにかわいい子供だっているんです……」胡桃は悲しげに、目に涙をいっぱいためて言った。その唇は、きゅっと結ばれている。颯太は片手で胡桃の頭をなでながら、もう片方の手を伸ばして私の手を握ろうとした。私が再びその手を振り払うと、彼はわずかに苛立った表情を見せた。「千佳、そんなに胡桃ちゃんを受け入れられないのか?お前はもっと物分かりのいい女だと思っていたよ。彼女がお前の立場を脅かすことはないんだ。どうして、こんな風に事を荒立てるんだ?」なんて堂々とした言い草だろう。まるで浮気したのは私みたいだ。目の前にいるこの男が、まるで知らない人のように感じられた。彼の瞳にもう愛情はなく、私へのうんざりとした気持ちだけが浮かんでいた。「お前は、俺にとって世界一の宝物だよ」と、照れながら囁いた男の面影は、どこにも見当たらない。もう、二度とあの頃には戻れない。何もか
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第7話

急停車したタクシーのせいで、前の座席に体をぶつけてしまった。颯太は、両手を広げてタクシーの前に立ちはだかった。「千佳、話がある」運転手に謝って、私は深呼吸をしてから車を降りた。彼は数歩ほど先に立っている。それなのに、こんなにも彼が遠くに感じられたのは初めてだった。長い沈黙のあと、彼は決心したように口を開いた。「すまない。お前に約束したことを、俺は守れなかった。前に言ったはずだ。もし俺が過ちを犯したら、俺の全財産をお前に渡して償う、と」「ええ」私のそっけない返事を聞いて、彼は一瞬言葉に詰まったが、すぐに続けた。「子供には……俺が必要なんだ。無責任な父親にはなれない」胸が締め付けられるように苦しくなる。10年間の結婚生活が、「無責任な父親にはなれない」という一言で片付けられてしまった。「他に何か償いは要るか?」と、彼は尋ねてきた。私が断ると思ったのか、颯太は付け加えた。「俺にできることなら、何でもお前にやる」私は、ただただ滑稽だと思った。「じゃあ、もし私が、二度と私の前に現れないでって言ったら?」颯太の表情が凍りつき、その瞳は戸惑いの色に染まった。「私が欲しいのは、それだけよ」ほとんど挑発するような私を見て、彼は予想外のことなほど真剣な顔で答えた。「だめだ。その約束はできない。この世界で、お前の身内はもう俺しかいないんだ。俺がお前を支えないと」初秋の夜風がちょっと寒いけど、今の私の気持ちに比べたら、あったかいぐらいだ。ああ、そんなことまだ覚えていてくれたんだ。「できるだけお前の邪魔はしない。でも、何かあった時は必ず駆けつける」颯太は、着ていたトレンチコートを脱いで私の肩にかけた。彼は「じゃあ、元気でな」とだけ言い残し、ためらうことなく背を向けて去っていった。もう別れるって決めたくせに、どうしてそんなに優しい言葉をかけるの?私は肩にかけられた服をひったくるようにして、地面に投げ捨てた。もう、心がこもっていないものなんていらない。家に戻ると、私は自分の荷物をまとめ、すべて慈善団体に寄付してしまった。何もかも手放して一人で家を出る時、むしろ心が軽くなるのを感じた。
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第8話

南の島に降り立つと、じりじりと太陽が照りつける中、潮の香りが顔を撫でた。トレンチコートにパンツ姿の私を、道行く人が不思議そうに見ていた。颯太はいつも忙しくて、仕事は数え切れないほどあった。起業したての頃は、彼もたまには私を連れて出かけてくれた。でも、会社が上場してからは、「忙しい」の一点張りになった。日に日に疲れ切っていく彼が心配で、私もそれ以上は何も言わなかった。颯太は行動が早かった。離婚に同意してくれて、すぐに離婚届を提出してくれた。そして、飛行機に乗る直前に、会社の譲渡契約書が私の手元に届いたのだ。福田グループは東都でも指折りの大手企業だけど、颯太はそんな看板に頼らなかった。彼は怖いもの知らずの勢いで、自力で道を切り拓いたんだ。そして今、彼はそのすべてを私にくれた。彼がこの10年、がむしゃらに働いて築き上げたその会社を、私はあっさりと彼のライバル会社に売り払った。相手を思いやる気持ちなんて、愛がある時にしか生まれないものだ。彼にとっては、そうだったんだろう。そして私にとっても、同じこと。人は、過去ばかり見て生きてはいけない。この見知らぬ小さな島で、私はもう一度、自分を取り戻した。若くて、元気で、よく笑って、よくはしゃぐ。それが、民宿で知り合った友達からの私の評価だった。その時、ふと颯太に言われた言葉が頭をよぎった。「胡桃ちゃんはお前とは違う。彼女は太陽みたいに明るくて、俺に元気をくれるんだ」でもね、颯太。あなたと結婚する前の私は、そうだったんだよ。ここへ旅行に来たばかりだという若い子たちに、一緒にダイビングへ行こうと誘われた。突然の誘いに、私の感傷的な気分は吹き飛んでしまった。過ぎたことはもう過ぎたこと。くよくよ考えても仕方ない。子供の頃に溺れたことがあって、それ以来、川とか海とかが怖くなってしまった。でも今回は、その壁を乗り越えて、もう一度挑戦してみようと思った。ガジュマルと海岸線が、まるで絵のような美しい景色を描いている。ビーチには色んな人がいるけど、みんな楽しそうに笑っているのは同じだ。その雰囲気に後押しされたみたいに、私も手際よく装備を身につけて、海へ飛び込んだ。なぜだか分からないけど、誰かの視線を感じる気がした。でも、そんな勘繰りは、目の前に広
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第9話

足がつっちゃって、一緒に来てた男大生の奥山健一(おくやま けんいち)が顔を赤くしながらマッサージしてくれてた。そしたら、横から黒い影が飛び出してきて、いきなり健一を突き飛ばした。「誰の許可を得て、彼女に触ってるんだ?」颯太は険しい顔で、低く、でも有無を言わせないような声で言った。私はカチンときて、健一の前に立ちはだかり、彼をかばった。私の行動を見て、颯太は驚いたように、そして少し傷ついたような顔をした。「千佳……」彼は不満そうな声で私の名前を呼んだ。颯太はものすごいお金持ちで、出かける時はいつもボディーガードがそばにいる。それでも、昔の私は彼が危ない目に遭うたびに、前に立って守ってあげてた。でも、それはもう昔の話。「なあ千佳、そんな目で見ないでくれよ。ごめん。あいつがお前に近づきすぎてるのを見て……ヤキモチを妬いたんだ」昔の私だったら、彼のそんな言葉に、胸がときめいていたはずだ。でも、今の私には吐き気がするだけだった。「颯太さん、どこに行っちゃったのよ、急にいなくなるんだから」声の主は胡桃だった。彼女は私の姿を認めると、見せつけるように颯太の腕に自分の腕を絡めた。そして、わざとらしく驚いたふりをして言った。「あら、千佳さんもいたのね」太陽の光を浴びて、彼女の指のダイヤモンドの指輪がまぶしく輝いた。私が指輪に気づいたのを見ると、彼女は得意げに手をひらひらさせた。「颯太さんが無理やり買ってくれたの。断っても、『当然だから、受け取って』って譲らないのよ」そばにいた陸は、憎々しげに私をにらみつけている。三人が家族水入らずで並んでいるのを見ても、私の心は不思議なくらい落ち着いていた。「千佳さん、もう戻ろうよ」他の仲間たちも装備を外して、私のところに集まってきた。私は笑顔で「うん」と答えた。健一は私の足がまだ痛むんじゃないかと心配して、そっと支えながらゆっくり歩いてくれた。颯太の横を通り過ぎようとした時、彼の体が強ばったように感じた。そして、私の名前を呼んだ。「千佳……」でも今度は、もう彼のために立ち止まることはなかった。
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第10話

夜。どこで調べたのか、胡桃から私の新しい番号にまた電話がかかってきた。着信音がうるさくて、つい電話に出てしまった。「千佳さん、あなたはもう颯太さんと離婚したのに、どうしてまだしつこく付きまとっているの?」彼女が何を言っているのか理解できなかった。「もう邪魔しないで。私と颯太は、もう何の関係もないから」そう言い終わらないうちに、窓の外で陶器が割れる音がした。気になって窓を開けてみると……颯太は私を見るなり、慌ててしゃがみ込んで破片を片付けようとした。鋭い破片で颯太の手を切ってしまった。でも、彼は痛みを感じていないかのように、平然と続けた。「千佳、じっとしてて。危ないから、俺がやるよ。怪我したら大変だからね」近づいてみると、彼からものすごいお酒の匂いがした。颯太は私の足元から、ゆっくりと顔を上げた。私に気づくと、彼は嬉しそうに立ち上がった。「千佳、出てきてくれたんだな」私が半袖一枚なのを見て、彼は自分の上着を脱ぎながら言った。「ここは暖かいけど、夜はやっぱり少し冷えるからな。体を温めないと、また次の生理で痛いって泣くことになるぞ」颯太は一人でとりとめもなく話し続けた。やがて、それ以上言葉を続けられなくなった。彼は手で顔を覆った。指の間から涙が溢れ出していた。「千佳、どうして何も返してくれないんだ?昔のお前なら、俺の言葉を一つだって聞き流したりしなかったのに。酔って、気持ち悪いんだ。昔みたいに、牛乳を温めてくれないか?頼むから、そんなに冷たくしないでくれ。辛くて死にそうだ……」「颯太」私は彼の名前を呼んだ。私の落ち着いた様子を見て、彼は泣き崩れた。「もう、それ以上言わないでくれ。もう俺を傷つけないでくれ、頼むから」仕事ではやり手で鳴らした社長が、今は見る影もなく、惨めにうずくまっている。「これは、あなたが選んだことでしょう」颯太は子供のように耳を塞いだ。「聞きたくない」「千佳は颯太を愛してるんだ。一生愛してるって、言ってくれたんだ」そう言うと、彼は力なく手を下ろして、私に言った。「千佳、俺は後悔している」彼が浮気したと知った当初は、本当に考えていた。彼が戻ってきてくれるなら、許そう、と。でも、その言葉は、あまりにも遅すぎた。
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