Tous les chapitres de : Chapitre 131 - Chapitre 140

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0130-悔しい

雨は、さらに激しさを増していた。風が屋上の端を唸るように吹き抜ける。奥田は、航平に襟元を強く掴まれたまま。一言も返せなかった。――今の航平の顔が。あまりにも痛々しかったから。ずっと鈍かった感情。ずっと押し殺してきた感情。気づくのが遅すぎた感情。その全部が、今この瞬間、完全に決壊していた。「……航平」奥田の声は掠れていた。だが航平は、すぐに遮る。「名前呼ぶな」俯いたまま。呼吸が激しく乱れている。「今のお前みたいな顔、一番嫌いなんだよ」奥田がわずかに目を見開く。航平は奥歯を強く噛み締めた。「死にそうなくらい苦しいくせに」「いつも、“平気です”みたいな顔しやがって」雨が顎を伝って落ちていく。それが雨なのか涙なのか、もうわからない。「お前、いつも思ってるだろ」「自分さえ残れば」「相手は幸せになれるって」「でもさ――」航平は赤くなった目を上げた。声が震えている。「残されたほうが」「一番苦しいんだよ」空気が静まり返る。奥田の瞳が小さく揺れた。その言葉。昔、神谷澪も言っていた。――【忘れられるのって、やっぱ悔しいんだよな】そして今。航平は雨の中で。ようやく、その痛みを自分の手で受け取った。奥田の胸が激しく痛む。思わず手を伸ばした。航平に触れたくて。けれど、その指先が届く寸前。身体が、透け始めた。航平の顔色が変わる。「……奥田!?」奥田自身も、一瞬硬直する。次の瞬間。足元の地面に、黒い亀裂が広がった。まるで“向こう側”が再び口を開いたように。風の中から。あの怪物の残滓のような囁きが聞こえる。「戻っておいで――」「こここそ、お前たちの居場所だ――」航平は振り返った。屋上の中央。そこに、巨大な黒い裂け目が現れていた。内部では、果てのない黄昏が渦巻いている。まるで“あちら側”への入口。そして奥田の身体は。少しずつ、その裂け目へ引き寄せられていた。奥田の顔が青ざめる。「……逃げろ!!」彼は勢いよく航平を突き飛ばした。「触るな!!」だが航平は、狂ったみたいに再び彼を掴む。「黙れ!!」裂け目が急速に広がっていく。屋上全体が激しく揺れた。遠くでは校舎の窓ガラスが次々と砕け散る。雨音。風。不気味な囁き。全部が混ざり合う。そして、あの声がさらに鮮明にな
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0131-嫉妬

風が止んだ。世界そのものが、音を失ったみたいだった。荒れ狂っていた黒い影たち。そのすべてが、空中で静止する。裂け目の奥。黄昏色の光が、ゆっくりと灯り始めた。そして次の瞬間。見慣れた人影が。静かに、その中から歩いてくる。航平の呼吸が止まる。「……澪?」神谷澪は裂け目の中心に立っていた。制服の上着を肩に引っかけたまま。黒髪は風に乱れている。記憶の中と同じ姿。――なのに、どこか違った。彼の身体は。ほとんど透けていた。今にも、光になって消えてしまいそうなくらいに。それでも彼は笑う。いつもの、あの気だるそうな調子で。「お前らさぁ」「うるさすぎ」空気が微かに揺れる。奥田はその場で固まっていた。瞳が小さく震えている。信じられないものを見るみたいに。「……なんで、まだここにいるんだ」神谷澪は小さく首を傾げた。「なに?」「俺が戻ってきたの、そんなに嫌だった?」「そういう意味じゃない!!」奥田の声が、初めて乱れる。神谷澪は低く笑った。「わかってるよ」裂け目の奥から、冷たい風が吹き抜ける。そこには、あの黄昏の匂いが残っていた。黒い影たちがざわめき始める。まるで彼を恐れているように。あるいは、必死に止めようとしているように。神谷澪は自分の手を見下ろした。指先が、少しずつ光へ変わっていく。「もう時間がないんだ」静かな声だった。航平の胸が強く締めつけられる。「……どういう意味だよ」神谷澪は数秒黙った。それから、ゆっくり顔を上げる。その瞳は。初めて見るくらい、静かだった。「“あれ”は、まだ死んでない」空気が凍る。裂け目の奥から。また、低い笑い声が響いた。「“手放せない気持ち”が残っている限り――」「お前たちが互いを求める限り――」「私は、何度でも生まれる」闇がゆっくり蠢く。無数の目が潜んでいるみたいに。彼らを見つめていた。けれど神谷澪は振り返らない。ただ、静かに言う。「完全には消せないんだよ」「だって、あれは最初から――」「人の感情から生まれたものだから」「嫉妬」「好きって気持ち」「独占欲」「失うのが怖いって感情」「そういうものがある限り――」「あれも消えない」航平の指先が強く震えた。「じゃあ、どうすればいいんだよ」神谷澪はふっと笑う。「閉じ込めれ
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0132-帰りたい

「誰か一人は、残らなきゃいけない」神谷澪の声は静かだった。けれど、その一言は。一瞬で空気そのものを押し潰した。航平の瞳が大きく揺れる。「ダメだ――!!」彼は反射的に駆け出した。だが次の瞬間。足元の闇が激しく蠢く。無数の黒い影が、一斉に彼の足首へ絡みついた。強引に、その場へ引き止める。「航平!」奥田が咄嗟に彼を掴んだ。そして裂け目の奥から。あの怪物の声が、低く笑う。「そうだよ」「一人残ればいい」「そのほうが、美しいだろう?」「“手放せない気持ち”が残る限り――」「門は決して閉じない」「だから」「誰か一人は、ここで私と一緒にいなくちゃねぇ」空気が凍りつく。だが神谷澪は、その声など聞こえていないみたいだった。ただ、自分の身体を見下ろしている。光の粒が、少しずつ零れていく。どんどん透けていく身体。まるで、風に吹かれたら消えてしまいそうだった。彼はふっと笑う。「……でも、これでいいのかもな」「最後くらい」「自分で決められるんだから」奥田は強く歯を食いしばった。感情が、激しく揺れている。「また、それかよ」神谷澪が小さく目を瞬かせる。「……何が?」「勝手に全部決めるところだよ」奥田の声は掠れていた。「昔もそうだった」「今もそうだ」「お前、一回でも考えたことあんのかよ」「残された側が、それを受け入れられるかどうか」空気が微かに震えた。神谷澪が、言葉を失う。奥田は一歩ずつ、彼へ近づいていく。「お前、自分が残れば全部終わると思ってんのか?」「それで誰かが楽になると思ってんのかよ!?」風が激しく吹き荒れる。奥田の声も、もう抑えられない。「お前が死んだあと――」「航平がどんな顔してたか知ってるか!?」「俺が、どうなってたか知ってるかよ!!」神谷澪の睫毛が、小さく震えた。何かが、深く刺さったみたいに。奥田は荒く息を吐く。目は真っ赤だった。「……もう嫌なんだよ」「お前がいつも」『自分さえ消えればいい』って顔してるの」静寂。息が詰まるほどの沈黙。航平は呆然と奥田を見ていた。――初めてだった。奥田が。本当に全部を吐き出したのは。抑え込むことも。引き下がることもせずに。神谷澪は長く黙っていた。やがて、小さく笑う。「お前さ」「最近ほんと、航平に似てきたな」「
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0133-怪物

「航平!!」奥田の顔色が一瞬で変わった。次の瞬間。黒い腕が一斉に航平へ襲いかかる。速すぎて、目で追えない。空気を裂くような悲鳴が響いた。無数の声。無数の囁き。【ここに残れ――】【行かないで――】【ずっと一緒にいよう――】航平が反応するより先に。身体は裂け目へと引きずり込まれていた。「――っ!!」強烈な浮遊感。足元が完全に崩れ落ちる。裂け目の奥。無数の瞳が一斉に開いた。そのすべてが、航平を見ている。怪物が歓喜の声を上げた。「消えかけの魂よりも――」「やはり、お前のほうが相応しい」「航平!」奥田が飛び込む。必死に腕を伸ばし。航平の手を掴んだ。だが凄まじい力が。なおも航平を闇へ引きずっていく。地面は次々と砕ける。奥田の身体も半分近く引き込まれていた。神谷澪の表情が変わる。「まずい――!」彼も駆け出した。しかし黒い影が一瞬で絡みつく。まるで最初から警戒していたかのように。「離せ!!」神谷澪が初めて本気で叫んだ。黄昏が暴走する。眩い光が辺りを焼き尽くす。だが影は止まらない。むしろ彼の身体へ群がり。残された力を喰い尽くそうとしていた。怪物が嗤う。「当然だろう?」「“門”が最も欲しているのは――」「彼なのだから」空気が冷えた。航平の呼吸が止まる。「……どういう意味だ」怪物の口元が歪む。「彼はね」「誰よりも“手放せない”人間だからだ」「鈍感なくせに」「誰よりも失うことを恐れている」「少しでも温もりを与えられれば」「必死に掴もうとする」闇が波打つ。まるで感情そのものの海。「こういう人間は――」「永遠の黄昏に、最も相応しい」航平の胸が強く痛んだ。否定できなかった。神谷澪を失うのが怖かった。奥田を失うのが怖かった。最後に一人になるのが怖かった。だから。ほんの一瞬だけ。本当に思ってしまったのだ。――ここで時間が止まれば。――誰も失わずに済むんじゃないかと。怪物は、その弱さを見逃さない。奥田は必死に航平を引き寄せる。腕には深い傷が走り。血が雨に流れていた。「そいつの言葉を聞くな!!」しかし囁きは止まらない。むしろ優しくなる。甘く。心の奥へ染み込むように。「航平――」「ここなら」「奥田は永遠にお前のそばにいる」「神谷澪も消えない」
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0134-好き

「お前は、生きることを選んでいいんだ」奥田のその言葉が落ちた瞬間。裂け目全体が激しく震えた。まるで何かが根元から引き裂かれたように。航平へ絡みついていた黒い影たちが。一斉に悲鳴を上げる。【嘘だ――!!】【人間が“永遠”を捨てられるはずがない!!】【お前たちは失うことを恐れている!!】闇が荒れ狂う。制御を失った大波のように。だが航平は。ただ奥田を見つめていた。胸が苦しい。痛いほどに。そして、ようやく理解した。奥田が本当に恐れていたものを。それは。想いが届かないことじゃない。自分の気持ちが。航平を縛る鎖になることだった。航平が“好きだから”ではなく。“放っておけないから”残ることだった。だから彼は逃げた。耐え続けた。何もなかったふりをして。風がさらに強く吹く。奥田の手は震えていた。指先から流れる血が、雨に混じって落ちていく。それでも彼は離さない。「航平……」声はもう掠れていた。「戻ってこい」静寂。次の瞬間。航平はもう片方の手を伸ばした。そして。奥田の腕を、強く掴んだ。闇が暴走する。「――あり得ない!!」無数の腕が襲いかかる。裂け目へ引きずり戻そうとする。だが今度の航平は揺らがなかった。奥田を真っ直ぐ見つめる。激しく息をしながら。「お前、間違ってる」奥田が目を見開いた。航平は掠れた声で言う。「俺は確かに、人が悲しむのが嫌だ」「失うのも怖い」「でも――」歯を食いしばりながら。裂け目から自分の身体を引き上げていく。「今、お前のそばにいたいのは」「同情じゃない」「責任感でもない」「お前を傷つけたくないからでもない」闇が彼の身体を引き裂こうとする。それでも航平は目を逸らさない。「ただ――」「お前が好きだからだ」世界が静止した。奥田の瞳が大きく揺れる。そして次の瞬間。黒い影たちが絶叫した。何か決定的なものが砕けたみたいに。怪物が初めて本気で怒り狂う。「黙れえぇぇぇぇぇ――!!」轟音。裂け目が爆発する。無数の闇が二人へ襲いかかった。――その瞬間。背後から光が広がった。神谷澪だった。裂け目の中心に立っている。身体はほとんど光そのものになっていた。それでも両手を広げ。暴走する闇を押さえつけている。「今だ!!」初めて焦りを滲ませた声
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0135-最後

白い光がすべてを呑み込んだ。世界が崩れ始める。耳に残るのは、甲高い轟音だけ。航平が最後に見たのは――黄昏の真ん中に立つ神谷澪の背中だった。小さく。遠く。まるで、あの夏からようやく卒業できた人のように。そして次の瞬間――轟ッ!!!すべての音が消えた。…………風は穏やかだった。まぶたの上に陽射しが落ちる。航平はゆっくりと目を開けた。視界に映ったのは。見慣れた屋上だった。裂け目はない。黒い影もない。終わることのなかったあの黄昏もない。空は眩しいほど澄み渡っていた。まるで、すべてがようやく終わったかのように。航平の呼吸が一瞬止まる。次の瞬間。勢いよく身体を起こした。「奥田――!」少し離れた場所で。奥田がフェンスにもたれながら地面に座っていた。制服は少し乱れ。顔色も青白い。彼もまた、今しがた目を覚ましたばかりのようだった。声を聞き。ゆっくりと顔を上げる。視線がぶつかった瞬間。空気がふっと静まった。風が屋上を吹き抜ける。どちらも何も言わない。まるで。目の前の相手が本当に存在しているのかを確かめるように。長い沈黙のあと。航平はふいに立ち上がった。そして一歩ずつ。奥田のもとへ歩いていく。奥田も反射的に立ち上がろうとした。だが次の瞬間。航平は勢いよく彼を抱きしめた。痛いほど強い力で。奥田の身体が一瞬で硬直する。胸が小さく震えた。「……航平?」航平は答えない。ただ、必死に抱きしめる。呼吸は乱れきっていた。まるで今になってようやく。奥田が本当に消えていなかったことを実感したように。本当に戻ってきたのだと。風が静かに吹く。奥田はゆっくりと手を上げた。少しだけ迷う。数秒のためらい。それでも最後には。そっと航平の背中へ腕を回した。胸の奥で張り詰めていた何かが。少しずつほどけていく。「……終わったな」奥田が小さく呟く。だが航平は、ふいに目を閉じた。声は少し掠れていた。「……まだだ」奥田がわずかに目を見開く。次の瞬間。航平は低い声で言った。「俺たち――」「まだ、ちゃんとあいつに別れを言えてない」
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0136-実は

空気がふっと静かになった。風が誰もいない屋上を吹き抜ける。遠くから、放課後の校内放送が聞こえてきた。かすかに。けれど、それがようやく現実へ戻ってきたことを教えてくれる。奥田は黙ったまま航平を見つめていた。しばらくして。小さく頷く。「……ああ」二人は並んでフェンスの前に立った。夕陽がゆっくりと沈んでいく。あの黄昏によく似ていた。けれど、まったく違う。今回は。裂け目もない。闇もない。そこにあるのは、本物の夕焼けだけだった。航平は長い間、黙って空を見ていた。そして静かに口を開く。「俺さ、ずっと思ってたんだ」「澪って、わがままだなって」「いつも人に答えを求めるし」「騒がしいし」「何でもかき回して」「面倒ばっかり起こすし」奥田が小さく笑う。「それは間違ってないな」少しだけ空気が和らいだ。だが航平は目を伏せる。「でも」「もし澪がいなかったら」「俺たち、多分ずっと気づかなかった」「自分が何から逃げてたのか」風が前髪を揺らす。航平の声は少しずつ小さくなった。「澪は、ただ怖かったんだと思う」「最後に誰からも選ばれないことが」「いつか」「本当に俺たちに忘れられることが」再び静寂が降りる。奥田は沈みゆく夕陽を見つめていた。長い沈黙のあと。ぽつりと呟く。「……実はさ」「俺、昔は澪に嫉妬してた」航平が驚いて振り向く。奥田は苦笑した。「だって、あいつは簡単にできるんだよ」「俺にはできないことを」「お前のそばに行くことも」「好きだって言うことも」「苦しいって顔をすることも」そして少し言葉を切る。「俺は――」「嫉妬してることすら認められなかった」航平の胸が痛んだ。ようやく理解できたからだ。奥田がどれほど長い間、自分を押し殺して生きてきたのか。いつも一歩引いて。感情を隠して。全部を胸の奥へ押し込めて。自分が壊れそうになっても。誰かの負担になることだけは避けようとしていた。廊下の方から風が吹く。奥田がふっと笑った。「なのに最後は」「澪のほうが先に気づいてたんだよな」航平の脳裏に、あの言葉が蘇る。――【お前が本当に手放せないのは、最初から俺じゃない】胸の奥が、じわりと痛んだ。長い沈黙。やがて航平が静かに言う。「……俺たち」「もう澪を忘れたりしないよ」奥田は
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0137-夕陽

あれから――日常は、少しずつ元の姿を取り戻していった。学校にあった怪談は消えた。「黄昏教室」にまつわる噂も、まるで最初から存在しなかったかのように静かに消えていった。誰も、あの不可思議な出来事について語らなくなった。教師たちはいつも通り授業を行い、部活動も再び活気を取り戻した。放課後の廊下には、相変わらず賑やかな声が響いている。何もかもが、以前と変わらない。けれど航平は、ときどきふと立ち止まってしまうことがあった。旧校舎の前を通るとき。無意識に足を止めてしまう。夕暮れ時、誰もいない教室を見かけると、つい中を覗いてしまう。まるで次の瞬間――誰かが窓辺に頬杖をついて、気だるそうに呼びかけてくる気がするのだ。「航平――」そう言って笑いながら、紙くずを投げてくる。けれど毎回、そこにあるのは空っぽの教室と、吹き抜ける風だけだった。何もない。……「またぼーっとしてるのか?」不意に耳元で声がした。航平は我に返る。振り向くと、奥田が隣に立っていた。夕陽がその横顔を照らしている。以前よりずっと柔らかい表情だった。少なくとも、誰も寄せつけないような雰囲気はもうない。航平は小さく笑った。「別に。」奥田は明らかに信じていなかったが、それ以上は追及しなかった。代わりに、手に持っていた温かい飲み物を差し出す。「早く行かないと、電車に間に合わないぞ。」航平はそれを受け取った。指先が奥田の掌に触れた瞬間、二人ともわずかに動きを止める。空気がふっと静かになった。あの日以来。二人の間には、確かに変わったものがあった。けれど、誰もそのことをはっきり言葉にはしていない。まだ、お互いに慣れていないのだ。先に視線を逸らしたのは奥田だった。小さな声で言う。「……行こう。」だが次の瞬間。航平はふいに彼の腕を掴んだ。奥田の身体がびくりと強張る。「航平?」夕陽に染まった廊下。周囲では生徒たちが行き交っている。けれど誰も二人を気にしていなかった。航平は数秒黙り込んだあと、静かに口を開く。「いつまで逃げるつもり?」空気が一瞬で張り詰めた。奥田の呼吸がわずかに乱れる。「俺は別に――」「嘘だ。」航平は真っ直ぐ彼を見つめる。「最近ずっと避けてる。」「放課後は先に帰るし。」「メッセージの返信も遅
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0138-黄昏教室

奥田が航平を抱きしめたその時――夕陽はちょうど地平線の向こうへ沈もうとしていた。風は穏やかで。世界には二人の鼓動しか残っていないようだった。けれど、その瞬間。航平は何かを聞いた。ピッ。ごく小さな音。まるで電子時計がリセットされる時のような音だった。航平の身体がぴくりと強張る。奥田はすぐに気づいた。「どうした?」航平は眉をひそめた。今の音。聞き覚えがある。背筋が冷たくなるほどに。まるで――黄昏教室が現れる前。時間が止まるたびに響いていたあの音と同じだった。ピッ。再び音が鳴る。今度は奥田も聞いた。二人は同時に顔を上げた。廊下の先。壁に掛けられた電子時計の数字が突然点滅し始める。17:4217:4217:42同じ数字が何度も繰り返される。まるで電波障害でも起こしているかのように。次の瞬間。校内放送が突然ひとりでに起動した。耳障りなノイズが校舎中に響き渡る。生徒たちは一斉に足を止めた。「何だ?」「放送機器の故障?」「誰かのイタズラじゃない?」ざわめきが広がる中――放送から、知らない少女の声が流れた。かすれていて。冷たくて。まるで遥か遠くから届いているような声だった。『午後六時以降、図書館へ入らないでください。』その場にいた全員が凍りつく。放送は続いた。『午後六時以降、図書館へ入らないでください。』『地下書庫から聞こえる声に応答しないでください。』『存在しない四列目の書架を見つけた場合。』『直ちにその場を離れてください。』ザザッ――放送が途切れた。校内は静寂に包まれる。次の瞬間。すべての電子機器が同時に正常へ戻った。まるで何事もなかったかのように。生徒たちはすぐに騒ぎ始める。笑う者。動画を撮る者。学校のイベントだろうと言う者。けれど。航平と奥田だけは動けなかった。二人には分かっていた。こんなもの。絶対に悪ふざけなんかじゃない。風が廊下を吹き抜ける。奥田が低く呟いた。「……聞こえたか?」航平は頷く。顔色は少し青ざめていた。「ああ。」「黄昏教室が始まった時と同じだ。」二人は黙り込む。そして同時に顔を上げた。視線の先は校舎の反対側。そこには――図書館があった。夕陽に照らされた図書館。その最上階の窓の奥に。ぼんやりとした人影が立
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0139-失踪生徒登録簿

翌日。放送事件の話題は、完全に学校中へ広がっていた。掲示板。SNSのグループチャット。さらには職員室でさえ話題になっている。放送設備の故障だと言う者もいれば、生徒会の企画だと言う者もいた。中には昨夜、本当に図書館の屋上に人影を見たと断言する者までいた。だが警備員が確認に向かった時には、そこには誰もいなかったらしい。昼休み。航平が教室へ入ると、後ろの席の男子たちが興奮した様子で手招きした。「おい、航平! これ見ろよ!」差し出されたスマホの画面には、盗撮されたらしい動画が映っていた。昨夜の放送が終わった直後に撮影されたものだ。カメラは図書館の最上階を映している。ぼやけた窓の向こうに、確かに黒い人影が立っていた。動画はほんの数秒しかない。だが最後の一瞬、その影はこちらへ顔を向けたように見えた。教室が一瞬静まり返る。その顔は、ぼやけているにもかかわらず、若い少年だと分かった。しかも――異様なほど美しかった。「うわ……」「ちょっと怖くね?」「マジで幽霊じゃないのか?」周囲が口々に騒ぎ始める。だが航平は、ただ画面を見つめ続けていた。呼吸が重くなる。あの一瞬、本当に神谷澪を見た気がしたからだ。「航平?」誰かに呼ばれ、航平ははっと我に返った。適当な言い訳をして教室を出る。階段の踊り場には、すでに奥田が待っていた。どうやら彼も動画を見たらしい。二人は視線を交わす。言葉はなかった。だが考えていることは同じだった。数分後、奥田が口を開いた。「今夜、行ってみるか」航平は頷く。「俺もそう思ってた」放課後。図書館はいつも通り開館していた。生徒たちが出入りし、特に変わった様子はない。だが午後五時五十五分。閉館を知らせるアナウンスが流れる。最後の利用者が帰り、司書が施錠を始めた。しかし航平と奥田は外へ出なかった。二人はあらかじめ、三階の一番奥にある資料室へ身を隠していた。扉が閉まった瞬間、図書館全体が静寂に包まれる。午後六時。ピッ――聞き覚えのある音が響いた。二人は同時に顔を上げる。壁の時計が止まっていた。秒針が動かない。スマホの電波も消えている。外の風の音さえ聞こえない。世界そのものが凍りついたようだった。奥田の表情が変わる。「また始まったな」
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