午前八時十六分。列車は高架の上で速度を落とした。窓の外の空はビル群によって細長く切り取られ、灰白色の光が差し込んでいるが、そこには温度というものがなかった。松田航平は人波の渦中に立ち、左手で吊り革を握っている。右肩には、誰かのブリーフケースが押し当てられていた。車両が動き出した瞬間、ぐらりと体が揺れる。彼は無意識のうちに重心をつま先へと移し、わずかに生じた隙間へ身体を滑り込ませた。考えるまでもない。毎朝繰り返される、身体に染みついた動作だった。航平はコートの内ポケットからスマートフォンを取り出す。画面が点灯した瞬間、周囲の騒音がふっと遠のいたような気がした。読書アプリは自動的に立ち上がり、昨日読んでいたページで止まっている。背景には、風に削られた荒野が広がっていた。物語の中のその人物は、誰に背を向けるでもなく、ただ独り立っている。マントは風に引き伸ばされ、一直線に張りつめていた。彼に迷いはなく、そして退路もなかった。航平はしばらく、そのページをじっと見つめていた。すぐには次へ進む気になれなかった。イヤホンはしていない。車内には、鉄と鉄が擦れ合う音が断続的に響いている。だが、その人物の声だけは、まるであらかじめ用意されていたかのように、航平の頭の中で鮮明に再生された。——たとえ一人でも、前へ進め。その言葉が落ちた瞬間、胸の奥で張りつめていた何かが、ふっと緩んだ。列車が分岐を通過し、車両全体が大きく揺れる。乗客たちが低くざわめいた。しかし航平にとって、その一瞬はむしろ静寂に満ちていた。混雑は続き、現実が後退することもない。それでも、ほんのわずかな時間だけ、呼吸ができるような気がした。目の奥が少し熱くなる。だが、俯くことも、隠すこともしなかった。どうせ誰も、隣の男のことなど気に留めはしないのだ。この物語があるから、航平は毎朝、こうして立っていられる。現実の問題は相変わらず混迷を極め、人間関係は言葉にしがたいほど希薄で、自分の価値についても確信が持てない。それでも、あの人物がそこに立っている姿を見るだけで、もう少しだけ耐えられる。彼は現実の存在ではない。けれど航平にとっては、そこらの中途半端な実在の人間よりも、ずっと確かだった。それは逃避ではなく、ある種の「方向感」だった——どこへ向かえばいいのかを見失ったときでも、少なくとも自分は立ち止まってはいない
最終更新日 : 2026-01-20 続きを読む