その人は——まだ、夢の続きの中にいた。ホームルーム開始を告げるチャイムが鳴り、教室のざわめきは、水にゆっくり沈められるように、少しずつ静まっていく。窓の外では桜が風に舞い、やがて何かに導かれるように、校舎の奥へと吸い込まれていった。規則正しい足音が床を叩く。扉が開き、眼鏡をかけた若い教師が入ってくる。出席簿を手に、穏やかで通る声で告げた。「みなさん、はじめまして。本日から二年B組の担任を務めます。国語担当の森本です」その声は教室に響いているはずなのに、航平の耳には、まるで水越しのように届いた。黒板にチョークが走る音。隣の席で教科書が開かれるかすかな音。ペンのキャップが外れる小さな音。すべてが、遠い。ただ、目の前の机だけが異様なほど鮮明だった。新しい木目にはまだ保護膜の光沢が残り、触れるとひんやりと冷たい。この「触感」だけが、今ここが現実であることを告げている。けれど——隣にいる、その人。奥田誠真が存在しているという事実が、すべてを再び非現実へと引き戻す。横顔は、作り物のように整っている。額に落ちる前髪、まっすぐな鼻筋、わずかに開いた唇。航平にとって、それらはあまりにも見慣れた輪郭だった。なのに、どこか現実味がない。
最終更新日 : 2026-01-31 続きを読む