All Chapters of 再会しても、もう涙は流さない: Chapter 11 - Chapter 20

24 Chapters

第11話

詩織は部屋を簡単に掃除し、スーツケースを開けてすべての服をクローゼットに収納した。割れ物は一つ一つ丁寧に取り出し、棚に並べた。整った新しい部屋を見渡し、詩織はようやく満足して洗面所へ向かい、シャワーを浴びてベッドに入った。機内での睡眠は、あまりにも浅く落ち着かなかったからだ。……次に目を覚ました時、すでに午後二時を回っていた。見知らぬ天井と部屋に、一瞬だけ違和感を覚える。自分が本当にオーストラリアにいるのだと実感するまでに、一分ほどかかった。2月のシドニーは真夏だ。彼女は涼しげなワンピースを選んで着替え、外に出た。国内にいた頃のように完璧に着飾る必要はない。今の詩織は、ただ太陽の光を浴びたかった。まずはレストランで食事をし、そのあと食材を買って帰ろうと考えた。ふと、美味しそうな香りが鼻をくすぐった。詩織の胃袋は瞬時にその香りに捕らえられた。香りに誘われるまま、彼女はあるレストランに入った。看板メニューはステーキらしい。彼女は特製ステーキを注文し、付け合わせのチーズポテトは外してもらった。運ばれてきたステーキを一口食べると、肉質は柔らかくジューシーで、期待以上の美味しさだった。彼女は心から満足して食事を終えた。会計をしようと立ち上がった瞬間、彼女は青ざめた。現金とカードが入った財布を、着替える前の服のポケットに入れたままにしてきてしまったのだ。ワンピースに着替える際、すっかり忘れていた。困り果てて立ち尽くしていると、横からスッとカードが差し出された。「一緒に払います」詩織が驚いて視線を上げると、そこにいたのは、なんと飛行機の客室でブランケットをくれたあの男性だ。この時初めて、彼の素顔をはっきりと見ることができた。骨格が美しく、眉骨と鼻筋のラインが絶妙に際立っている。どこか冷ややかで、近寄りがたいほどの美貌を持った男性だ。詩織は何度も頭を下げた。「あの、どうやってお返しすれば……」「いいえ。優待券がありますから」男性は株主優待券を軽く振って見せた。流暢な母国語に、詩織は少し驚いた。彼はハーフ顔をしていて、あまり母国語を話しそうに見えなかったからだ。しかし、安くない食事代を奢ってもらうわけにはいかない。「いえ、そんなわけにはいきません!絶対にお返
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第12話

結婚式が始まろうとした時、ブドウジュースを持った男の子が突然ホールに走り込んできて、茉優とぶつかってしまった。赤紫色のジュースが、瞬く間に純白のウェディングドレスの大半を染め上げる。彼女は思わず悲鳴を上げた。「私のドレスが!」「どこの家のクソガキよ、誰が入れたの!早くつまみ出しなさい!」騒ぎを聞きつけた賢人が、急いで駆け寄ってきた。そして、茉優の顔に浮かんだ苛立ちと嫌悪の表情を見て、足が止まった。彼の記憶の中の彼女は、いつだって穏やかで物静かな性格だった。どんなハプニングがあっても、これほどヒステリックに怒鳴り散らすことなどなかったはずだ。突然目の当たりにした彼女のその姿に、賢人は戸惑いを隠せなかった。「賢人?いつ来たの?全然気づかなかった」賢人が再び目を上げると、彼女の顔はすでにいつもの淑やかな表情に戻っていた。先ほどの形相とはまるで別人のようだ。「……さっき声が聞こえたから、来てみたんだ。大丈夫か?茉優」「ええ、平気よ。男の子がうっかりジュースをこぼしちゃっただけ。別のドレスに着替えてくるから、ここで待ってて」「ああ、分かった」賢人は頷いた。なぜか分からないが、茉優を見ていると、どこか他人のような違和感を覚えることがあった。それは一時的なものではなく、時折ふとした瞬間に顔を出す感覚だ。以前、一緒に過ごしていた頃とは何かが違う気がする。だが、具体的に何が違うのかは言葉にできない。それに時々、脳裏に浮かぶ顔が茉優ではなく、詩織であることがある。賢人の心の底に、一抹の疑念が兆していた。だが、それを口にするわけにはいかない。茉優はこれから妻になる女性であり、自分は詩織の「お義兄さん」でしかないのだから。「お義兄さん」ふと、車に乗る直前に詩織が呼んだ、あの一言を思い出した。彼女は蒼白な顔で、用意していた結婚祝いの箱を差し出し、去っていった。彼が無意識に呼び止める暇さえなかった。賢人は突然あの箱のことを思い出し、中身を確認しようと思った。エレベーターで駐車場へ降り、車内を探したが、どこにも見当たらない。彼はアシスタントを呼びつけた。「今朝、君に預けた箱はどうした?」「社長、あの……詩織様から頂いた箱のことでしょうか?」突然の問いに、アシスタントは言い淀んだ。
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第13話

「賢人!」横から茉優に何度名前を呼ばれても、彼は何の反応も示さなかった。彼女は苛立ちと焦りを募らせた。招待客たちがざわめき始め、司会者が必死に場を取り繕おうとしているのを見て、茉優はとっさに賢人の腕を小突いた。彼はそこでようやく我に返った。司会者はすかさず「新郎様は準備でお疲れのようです」とフォローを入れた。二人は心ここにあらずの状態で指輪交換を終え、乾杯の時を迎えた。「……気分が悪い。俺は少し休む」賢人はそれだけ言うと、茉優の気持ちなどお構いなしに、その場を後にした。彼女は追いかけて問い詰めたかったが、大勢の招待客を待たせるわけにはいかない。仕方なくその場に残り、愛想笑いを浮かべた。「賢人は昨日、一晩中車を運転していたので、少し疲れが出たみたいです。後ほどまたご挨拶に伺いますね」そう言ってグラスを掲げ、乾杯に応じた。客たちは訝しげな顔をしたが、他人の結婚式で波風を立てるわけにもいかず、何も言わなかった。……賢人がバックヤードに戻ると、すぐにアシスタントが例の箱を差し出した。彼は箱の留め具を外し、蓋を開けた。目に飛び込んできたのは、一本の小さなカセットテープと、一枚の『親子関係断絶誓約書』だった。そこに記された、力強い署名を見て、彼は息を呑んだ。詩織は、家族と不仲だったのか?なぜ、自ら親子の縁を切るような真似を?だが普段、隆史と涼子は茉優に対して非常に献身的だ。その家族の姿と、この書類が結びつかない。賢人の指がカセットテープに触れた。見覚えがあった。以前、詩織がこれを持って「聞いてほしい」と懇願してきたことがあった気がする。だが当時の彼は、彼女が気を引くためにわがままを言っているのだと思い込み、聞こうともしなかった。今、こうして彼女が残したテープを前にして、賢人は無性にそれを聞かなければならないという衝動に駆られた。テープをセットし、再生ボタンを押す。ザラついたノイズのあと。物語を語り始めた男の声を聞き、彼の心臓は激しく震えた。その清らかで落ち着いた声の主は、他の誰でもない――彼自身だったからだ!これは、賢人が失明していた頃、唯一の慰めとして彼女に語って聞かせた物語だ。なぜ、詩織がこれを持っている?まさか、あの時彼に寄り添っていたのは茉優ではな
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第14話

賢人は冷ややかな視線を向けたまま、一言も発しなかった。今の発言がまずかったと気づいた茉優は、慌てて言い訳をした。「わざと忘れたわけじゃないの。結婚式の準備で忙しくて、頭が回らなくて……ねえ賢人、怒らないで、結婚してから、ゆっくりお話ししましょう?」彼女は賢人の袖を掴み、甘えるように揺らした。だが賢人は、目の前の女に対し、吐き気を催すほどの嫌悪感しか抱かなかった。「茉優!お前、まだ俺を騙し続けるつもりか?ずっと俺のそばにいたのは、お前じゃないだろう!」彼は猛然と彼女を突き飛ばした。不意を突かれた茉優は、無防備なまま階段から転げ落ち、そのままステージの前まで転がっていった。ビリッ!ウェディングドレスが裂け、体中を床に打ち付けた。その瞬間、無数のフラッシュが彼女に浴びせられた。茉優は全身の痛みを気にする余裕もなく、恐怖に顔を歪めながら必死に顔を隠した。うかつに動くこともできない。彼女は追いかけて賢人に弁解しようとしたが、賢人の方が早かった。彼は大股でステージに上がると、マイクを奪い取った。「皆様、本日の結婚式はこれにて中止とさせていただきます。茉優は、私が探していた花嫁ではありません!」そう宣言すると、彼はそのまま宴会場を飛び出した。……賢人が会場を出たところで、ちょうど隆史と涼子に出くわした。「どうしたんだ?賢人くん、どこへ行くんだね?もうすぐ乾杯の時間だろう?」状況を飲み込めていない二人を見て、賢人は手に持っていた箱を彼らの足元に投げつけた。茉優と一緒に自分を騙していたこの両親を思うと、怒りが腹の底から湧き上がってきた。「この結婚はなしだ。理由は自分たちの胸に聞いてみろ。水瀬家のしたこと、一生許さないからな」賢人の言葉に、隆史と涼子は凍りついた。顔を見合わせた二人は、慌てて地面の箱を拾い上げ、宴会場へと走った。……会場に残された招待客たちは、目の前の事態に騒然となっていた。「どういうことだ?さっき式を挙げたばかりじゃないか。中止って、西園寺社長は結婚をやめるつもりか?」「知らないのか?西園寺社長は以前、目の病気で別宅に隔離されていた時期があったんだ。その時、ある女性と知り合って、ずっと探していたらしい。今日の様子だと、どうやら花嫁がその女性に
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第15話

詩織は窓を勢いよく開け放った。外は素晴らしい天気だ。彼女の心も、空と同じように晴れやかに澄み渡った。まだ面接の時間まで余裕がある。彼女は少し外を散歩しようと階下へ降りた。マンションの下の植え込みを歩いていると、突然、微かな猫の鳴き声が耳に届いた。振り返って探してみたが、猫の姿はどこにもない。空耳だったのかと思い、立ち去ろうとしたその時、再び鳴き声が聞こえた。彼女はしゃがみ込み、茂みの中を注意深く観察した。すると、草むらの最奥にある古びた配管の中に、一匹の茶トラの子猫がいた。ひどく痩せ細り、体中が傷だらけだ。詩織が近づいても怖がる様子はなく、むしろ手足を懸命に動かして、彼女の方へ這い出そうとしていた。その姿に、詩織の胸が締め付けられた。この子を助けなきゃ。だが、配管の入り口はいくつかのコンクリートブロックで塞がれており、詩織が何度力を込めても動かすことができなかった。誰かに助けを求めたいが、ここには知り合いなど一人もいない。……いや、一人だけ、あの食事代を払ってくれた男性がいる。迷った末、詩織はダメ元で彼の部屋のドアを叩いた。ドアが開くと、彼は明らかに寝起きといった様子で現れた。詩織だと気づくと、彼は慌てて衣服を整えた。「何かありましたか?」詩織は急いで、下で傷ついた子猫を見つけたことを説明した。「分かりました、少し待っていてください」彼はそう言うと、すぐに部屋に戻って着替え、二人で急いで下へ降りた。子猫の位置を確認すると、彼は慎重にブロックをどかし、手を伸ばして優しく子猫を配管から助け出した。子猫は何かに感応したのか、ずっと鳴き続けてはいたが、暴れることはなく、大人しく彼の腕の中に収まっていた。「後ろ足をやられているみたいですね。病院へ連れて行きましょう」「はい、近くの動物病院を知っています」数分ほど歩いて病院に到着すると、看護師がやってきて状況を聞き、まずは検査が必要だと言った。彼が診察台に子猫を乗せると、二人は診察室の外へ出た。しばらくして、看護師が子猫を抱いて戻ってきた。足の骨に異常はなく、ただの擦り傷と栄養失調だという。数日間の入院で様子を見ることになった。詩織は包帯を巻かれた子猫を見て、張り詰めていた心がようやく解けた。「今日は本当にあり
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第16話

それから数日間、詩織と晴斗は頻繁に動物病院へ通った。看護師の献身的なケアのおかげで、子猫の状態はずいぶん良くなった。詩織は自分で引き取って育てたいと思ったが、大家から「ペット飼育は禁止」ときつく言われていたことを思い出した。これは、入居の際に遵守しなければならない条件の一つだった。「よかったら、僕の部屋で預かりましょうか?部屋は広いですし、国にいた頃も猫を飼っていた経験がありますから」晴斗はそう言いながら、スマホのアルバムを開いて見せてくれた。そこには、愛らしいキジトラ猫の写真が写っていた。目がくりくりとしていて、とても可愛い。「……ありがとうございます。でも、キャットフードや用品は私が買います。診察代は出していただきましたから、今回は私に払わせてください」詩織は腕の中の子猫を見つめながら言った。「分かりました」「ただ、一人では持ちきれないでしょうから、僕も付き合いますよ」晴斗の申し出に、詩織はその細やかな気遣いを感じ、素直に甘えることにした。二人はペットショップへ行き、猫用品やおもちゃを買い込んだ。詩織には少し優柔不断なところがあり、どれにするか迷ってしまうことがあった。しかし晴斗は少しもイライラする様子を見せず、根気強くアドバイスをしてくれた。詩織の心に、温かいものが広がった。誰かにこれほど忍耐強く接してもらったのは、初めてかもしれない。ふと、以前の賢人もそうだったことを思い出した。けれど、その後の彼は、カセットテープを聞くわずかな時間さえ、彼女には与えてくれなかった。「どうしました?」彼女の表情が曇ったのに気づき、晴斗がすぐに尋ねた。「いえ、なんでもありません。ただ、まだこの子に名前をつけていないなと思って」「それなら、詩織さんがつけてあげたらどうです?あなたが見つけた子なんですから」詩織は少し考えた。「『ナツ』はどうでしょうか。ちょうど夏に拾った子ですし……変ですか?」詩織は期待を込めた眼差しで晴斗を見た。「とても可愛いと思いますよ。じゃあ、今日からこの子はナツですね」……病院からの帰りが遅くなったため、晴斗がタクシーを呼んでくれた。彼は配車待ちの間にドライバーへ電話し、猫を乗せてもいいか確認をとる周到さを見せた。ドライバーは快諾してくれた。
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第17話

法的効力を持つその書類を見て、三人は呆気にとられた。茉優は鼻で笑い、蔑むように言った。「詩織のやつ、また何をトチ狂ってるの?式に呼ばなかったくらいで、わざわざこんな物を賢人に送りつけるなんて。私たちがあいつを冷遇してるって賢人に告げ口したかったんでしょう。わざとらしい!今ごろ結婚式が中止になったって知ったら、どんなにいい気味だって笑ってるに違いないわ!」その言葉に、隆史と涼子も「なるほど」と納得した。詩織に対する不満が、一気に膨れ上がる。隆史はすぐさま電話をかけ、この親不孝な娘を説教しようとした。だが、受話器から聞こえてくるのは無機質な電子音(アナウンス)だけで、繋がる気配はなかった。隆史は腹を立てた。「私の電話に出ないとは、いい度胸だ!」涼子も信じられないといった様子で自分の携帯からかけたが、やはり繋がらなかった。「どうやら本気で縁を切るつもりね。お父さん、お母さん、あの子は私をこんな目に合わせたんだから、いっそ水瀬家から追い出しちゃいましょうよ!」茉優がここぞとばかりに提案した。隆史と涼子もそれに同意し、すぐに弁護士を探してこの書類を公正証書にし、手続きを進めることに決めた。それでようやく、茉優の気が少し晴れたようだった。……三人が家に帰ると、玄関に貼られた祝いの飾りを目にした瞬間、茉優の怒りが再燃した。彼女は発狂したように飾りを引き剥がし、夕食も食べずに部屋に鍵をかけて閉じこもってしまった。隆史と涼子は気が気でなく、交代でドアの外から声をかけた。「茉優、一日中大変だったんだから、食事を抜いちゃだめだ」「そうよ、何があってもご飯だけは食べてちょうだい」しばらくして、部屋の中から茉優の叫び声が聞こえた。「嫌よ!私は絶対に賢人と結婚するんだから!式まで挙げたのに、このままじゃ私、ただの笑い者よ!何か方法があるって言ったじゃない!今すぐ何とかしてよ!」隆史と涼子は仕方なく車を出し、西園寺家の別荘へと急いだ。……車が完全に止まる前に、黒いスーツを着た数人のボディガードが立ちはだかった。「誰だ?ここは西園寺邸だぞ。勝手に入るな!」リーダー格の男がスタンガンを手に持ち、車の窓をコンコンと叩いた。隆史は硬い表情で車を降りた。「私たちは不審者ではない。
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第18話

賢人は床から天井まである大きな窓の前に立ち、火をつけたばかりのタバコを手に持っていた。詩織こそが自分の探し求めていた人だと気づいてすぐ、彼は部下を使って街中を捜索させた。だが、未だに何の手がかりもない。彼女の連絡先はすべて解約されており、痕跡は完全に消えていた。彼の心は、悔恨と焦燥に引き裂かれそうだった。これほど長い間、彼女だと気づいてやれなかったことへの悔恨。そして、あれほど酷い仕打ちをしておきながら、弁解の機会さえ持てないことへの焦燥。今、彼の頭にあるのはただ一つ、一刻も早く詩織を見つけ出すことだけだ。ノックの音が聞こえ、彼は吸ってもいないタバコをもみ消した。「西園寺家にこの件を告げると言っているそうだな。俺への脅迫のつもりか?」賢人の声は極寒のように冷たかった。部屋に入ってきたばかりの隆史は身震いし、室温が数度下がったような錯覚に陥った。「いえいえ、滅相もない。脅迫などとんでもない。私はただ、せっかくの良縁が壊れてしまうのが忍びないだけで……」賢人を前にして、隆史の勢いは完全に消え失せていた。その口調には、媚びへつらう響きさえ混じっている。「良縁だと?水瀬家は、この西園寺賢人を何だと思っている?本当に俺が間抜けだとでも?」賢人は冷ややかに鼻で笑った。その眼光の圧力に、隆史は顔を上げることもできない。だが、家で絶食している娘のことを思い出し、意を決して口を開いた。「私と茉優の母さんは、君のことを大変気に入っているんだ。君を馬鹿にするなどあり得ない。それに、君と茉優はあんなに仲良くやっていたじゃないか。誰が看病したかなんて、些細なことだろう?私が思うに、いっそこのまま……」隆史のあまりに恥知らずな言い草に、賢人は一瞬言葉を失った。「……つまり、俺を看病したのは茉優ではなく、詩織だったと認めるんだな?これ以上嘘をつくなら、今すぐここから突き落としてやる!」賢人は隆史の胸ぐらを掴み上げ、窓際へと引きずった。もともと臆病な隆史は、窓の外の景色を見て腰を抜かし、その場にへたり込んだ。「そ、そうだ!詩織だ!茉優ではない!最初は私たちも知らなかったんだ。茉優が言うには、君が人を探していて、その特徴が詩織によく似ていると……だから茉優に詩織のふりをさせたんだ。あの
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第19話

「西園寺社長、調査をご依頼されていた件です」アシスタントはそう言って、手にした書類袋をデスクの上に置いた。賢人が中身を取り出すと、それは当時の病院の請求書やカルテのコピーだった。そこには、茉優が三歳の時に難病を患い、救命のために緊急で「臍帯血」を必要としていたことが記録されていた。つまり、詩織の出生は、茉優を救うためのドナーとして計画されたものだったのだ。賢人は書類を握りしめる手に力を込めた。隆史と涼子の偏愛ぶりにはずっと疑問を抱いていたが、まさか根本にこれほど残酷な理由があったとは。袋の中には、画面の端がひび割れた一台のスマホも入っていた。賢人はそれに見覚えがあった。かつて詩織が使っていたものだ。アシスタントは彼女の通話記録からSIMカードの最終位置情報を割り出し、回収した端末のデータを復旧させていたのだ。賢人はロック画面の四桁のパスコード入力欄を見て、一瞬ためらったあと、「0616」と入力した。カチッという音と共に、ロックが解除された。賢人の目頭が、瞬時に熱くなった。6月16日は、賢人の誕生日だったからだ。アプリの多くはログアウトされていたが、消し忘れた写真や数件のメッセージが残っていた。アルバムを一枚ずつめくっていく。道端に咲く花や、様々な形の雲。だが、それ以上に多かったのは、賢人の写真だった。学生時代の隠し撮りから、事故で失明していた頃の姿まで。詩織は一枚一枚、すべての写真を大切に保存していた。学生時代のクラスの集合写真でさえ、彼女にとっては宝物だったようだ。賢人の胸に、苦い感情がこみ上げてきた。彼女は誰にも知られない場所で、ずっと彼を想っていたのだ。西園寺家の厄介者として捨て駒にされていた時でさえ、彼女だけはそばにいてくれた。二人が寄り添って過ごした日々。詩織が捧げてくれた真心。彼女の愛は、いつも静かで控えめだった。まるで波のない湖のように、決して主張することはないが、底まで透き通るほど清らかだった。メッセージアプリを開くと、意外なことに、詩織への送信履歴が最も多い相手は茉優だった。茉優は自分のウェディングドレス姿や、賢人との親密な日常写真を、執拗に詩織へ送りつけていた。賢人はその履歴を遡り、顔をしかめた。写真の下には、悪意に満ちたメ
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第20話

西園寺家の別荘に車が到着しても、茉優はまだ事態を飲み込めていなかった。今日は誰もドアを開けてくれないのかと、不満げに眉を寄せる。仕方なく、バッグを持ったまま自分でドアを押して降りようとした。その瞬間、強い力で外へ引きずり出された。間髪入れずに、分厚い黒い布で目隠しをされる。恐怖が全身を駆け巡った。茉優は反射的に叫んだ。「誰よ!放して!私は賢人の妻よ、誰に向かって手を出してるの!」その声は金切り声のように鋭かった。彼女を拘束していた男が、苛立ったように茉優のすねを蹴り飛ばし、吐き捨てた。「黙れ。命が惜しければ大人しくしろ!」その言葉を聞いて、茉優はようやく悲鳴を飲み込んだ。それ以上、音を立てる勇気はなかった。……どれくらい時間が経っただろうか。茉優は、どこか密閉された場所に連れてこられた気配を感じた。空気も薄く、息苦しい。不意に、目隠しが乱暴に剥ぎ取られた。目の前にいたのは、賢人だった。茉優は反射的に身を引いた。「どうした?何を怯えている?何かやましいことでもあるのか?」賢人は茉優の顎を強く掴み上げ、冷たい目で見下ろした。茉優の心に後ろめたさが広がった。「賢人、どうしてあなたが?なんでこんな真似を?」「なぜこんなことをされるか、心当たりがないとは言わせないぞ」そう言いながら、賢人は指に力を込めた。顎の骨が軋むほどの痛みに、茉優は言葉を発することもできず、ただ苦痛に満ちたうめき声を漏らした。賢人はそこでようやく、ゆっくりと手を離した。「茉優、まだ芝居を続ける気か?自分のしたことを忘れたわけじゃないだろう。詩織はどこだ?本当に知らないのか?」詩織の名が出ると、茉優は言葉を濁し、咳き込みながら視線を泳がせた。「詩織の予定はお父さんたちが決めたのよ、私が知るわけないじゃない!」賢人の瞳は、不気味なほど静まり返っていた。「知らない、か。いいだろう。ならこれに見覚えはあるか?」賢人は茉優の体にスマホを投げつけた。彼女は慌ててそれを拾い上げ、画面を確認した。そこには、自分が詩織に送りつけた数々の悪意あるメッセージが表示されていた。茉優は血の気が引くのを感じた。彼女はとっさに弁解した。「あの子があなたに変な気を起こさないように送っ
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