All Chapters of 終わらない夜の果てに: Chapter 1 - Chapter 10

22 Chapters

第1話

酒井瞳(さかい ひとみ)は、業界では有名な小悪魔だった。彼女の少し上がった赤い唇に、その色っぽい目元はいつも男を誘っているようだった。三浦英樹(みうら ひでき)は、とある財閥の最も優秀な跡取り。誰もが憧れる高嶺の花であり、禁欲的で知られていた。そんな正反対の二人が、誰にも知られず情を交わしている。深夜のマイバッハの後部座席で体を重ね、チャリティーパーティーの化粧室で激しく求め合う。そして、プライベートワイナリーの大きな窓の前では、英樹に強く腰を引き寄せられ、キスを交わしていたのだった。今回も情事が終わったあと、バスルームからシャワーの音を聞きながら、瞳はベッドにもたれかかり、父の酒井翔平(さかい しょうへい)に電話をかけた。「盛沢市のあの死にかけの御曹司のところへ嫁いであげてもいいわ。でも、条件が一つあるの……」すると電話の向こうから、翔平の隠しきれない喜びの声が聞こえてきた。「言ってみなさい!嫁いでくれるなら、どんな条件だって呑むぞ!」「詳しいことは、家に帰ってから話す」そう言って彼女の声は優しいのに、瞳の奥は凍えるように冷たかった。そして瞳は電話を切り、服を着ようと体を起こした。その時、ふと、英樹がそばに置いたノートパソコンが目に入った。ラインの画面はついたままだ。一番上には「百合」という名前の相手からの新着メッセージが表示されているのだ。【英樹さん、雷が鳴ってるの、こわいよぉ……】それを見て瞳の指先が、ぴくりと震えた。すると突然バスルームのドアが開き、英樹が出てきた。まだ濡れたままの鎖骨を、水滴が伝い落ちていき、シャツのボタンを二つほど無造作に開けたその禁欲的な姿に、どこかアンニュイな色気が混じっていた。「会社で用事ができたから、もう行く」英樹は上着を手に取った。その声は、いつも通り温度感がないものだった。それを聞いて瞳は、赤い唇の端を上げて笑った。「会社に用事って?それとも、あなたの『初恋の人』にでも会いに行くのかしら?」だが、英樹は聞き取れなかったのか、「何だって?」と聞き返した。「なんでもないわ」瞳は素足でベッドから降りると、柔らかいカーペットの上に立った。すると英樹は少し沈んだ目線で、彼女の腫れあがった瞳と唇を親指でなぞった。「いい子にしてろ。面倒は起こすな」ドアが閉まった瞬間、瞳
Read more

第2話

まさか、海外でずっと「療養」していた凪の娘が、英樹の初恋の人だったなんて、瞳は夢にも思わなかったから。これは神様の悪戯なのか。そう思っていると、百合がこちらへ歩いてきて、甘い笑顔を見せた。「瞳さん、すみません。お騒がせしちゃって……」だが、百合が言い終わる前に、瞳はドアをぴしゃりと閉めた。すると、ドアの外から翔平の怒鳴り声が聞こえた。「瞳!お前はなんて行儀が悪いんだ!百合がお前の部屋を気に入ったんだ、だからお前は彼女に譲れ!今日からあそこは百合の部屋だ!」瞳は鼻で笑うと、すぐにクローゼットを開けて荷物をまとめ始めたが、ドアの向こうから、会話が断片的に聞こえてくるのだった――「酒井おじさん、瞳さん、怒っているんですか?」百合の声は、とろけるように甘かった。「あいつのことは放っておけ。小さい頃から甘やかされて育ったからな」「でも……」「心配するな。あいつはもうすぐ盛沢市に嫁に行く。そしたらこの家は、百合とあなたのお母さんのものだ」それを聞いて、瞳の手がぴたりと止まり、そして、さらに冷たい笑みを深くした。それから、彼女は手際よく月末の盛沢市行きの飛行機のチケットを予約し、荷造りを続けた。そして、30分後、スーツケースを引いて部屋を出た。リビングでは翔平と凪、そして百合がソファに座ってテレビを見ていて、テーブルには果物やお菓子が並んでいて、まるで本当に一家団欒した和気あいあいとした雰囲気だった。そんな中、瞳は彼らに目もくれず、玄関へ向かった。「待て!」翔平が鋭く叫んだ。「また何かを騒ぎ立てるつもりなのか?約束を忘れたわけじゃないだろうな!」「安心して、約束は守るわ」瞳は振り返りもせずに言った。「ただ、この2週間、こんな胸糞悪い場所にいたくないだけ」そして、瞳はそのまま街で一番高級なホテルに向かい、プレジデンシャルスイートを取った。それからの数日間、狂ったように買い物を始めた。最高級のウェディングドレスに、オークションで出品されたアンティークジュエリー、彼女は惜しげもなく大金を使ってこれでもかと買いあさった。たとえ取引のような結婚だとしても、盛大に嫁いでみせるとこころに決めたのだ。バッグの中でスマホが震え続けていたが、瞳は最後のダイヤモンドのネックレスを買い終えるまで取り出さなかった。38
Read more

第3話

この言葉に、瞳は鼻の奥がツンとなった。そういえば、昔も翔平と喧嘩して家を飛び出すと、英樹が車で街じゅうを探し回って、おぶって家に連れて帰ってくれたっけ。「また、すねてるのか?」あの時も、英樹は決まってこう言ったものだ。英樹の背中におぶさりながら、爽やかなシダーウッドの香りに包まれていると、彼も少しは自分のことが好きなのかもしれない、なんて無邪気に信じていた。今思えば――英樹以上のクズ男なんていない。自分のことなんて好きでもないのに、体だけ欲しがるなんて。しかも事が終わった後には、書斎で百合の写真にうっとりと見惚れるなんて。自分が百合のどこに劣るというのか、さっぱり分からない。自分は家柄も、ルックスも、スタイルも、百合に負けているところなんて一つもないはずなのに。他の誰かを好きになるならまだしも、でも、なんでよりによって百合なの。どうして百合じゃなきゃダメなの。「離して!」瞳は目を赤く腫らし、英樹の手に思いっきり噛みついた。英樹は眉をひそめたものの、何も言わずに車のエンジンをかけた。そして、車を停めると、瞳のスーツケースを持ってさっさと家に入ってしまった。「前と同じだ」英樹はカフスを外しながら、有無を言わせぬ口調で言った。「帰りたくなるまで、ここにいればいい」瞳は玄関に立ったまま、爪が食い込むほど拳を握りしめた。「泊まるのは2週間だけ。そしたら出ていくから。家賃もちゃんと払うし、もうあなたの邪魔はしない」「邪魔はしない、か」英樹はゆっくりと顔を上げ、金縁メガネの奥から底知れない視線で瞳を見た。「本当にできるのか?」その言葉はナイフのように、瞳の胸に突き刺さり、心臓がぎゅっと締め付けられるように痛んだ。やっぱり、英樹はとっくに気づいていたんだ。最初はあんなに反発していた自分が、いつの間にか彼なしではいられなくなってしまったことを。どうしようもないくらい、英樹を愛してしまったことを。じゃあ、英樹は?心には初恋の人がいるくせに、こっちが溺れていくのをただ冷ややかに見ていたっていうの?「百合さんは……」瞳は不意に切り出した。「私の継母の娘だって、知ってた?」そう聞かれ、英樹はネクタイを緩める手を一瞬止め、「今日、知った」と答えた。しばらく黙っていたが、瞳は堪えきれずに尋ねた。「百合
Read more

第4話

パーティー会場は、グラスが触れ合う音や、楽しげな話し声で満ち溢れていた。だが、瞳は会場の隅に座り、輪の中心にいる英樹を見つめていた。彼はみんなに囲まれていながらも、その視線はずっと百合のささいな仕草を追っていた。百合が飲み物を取ろうと手を伸ばせば、その前にキャップを開けてあげる。百合のスカートの裾が少し濡れれば、すぐにハンカチを差し出す。百合が小さく咳払いをしただけで、誰にも気づかれずにエアコンの温度を上げるのだ。そんな細やかな優しさを、瞳は英樹から受けたことが一度もなかった。そんな光景を目にしながら、瞳は感覚を麻痺させるように酒をあおった。だが、胸の内はまるで鈍いナイフでじわじわと切りつけられるみたいに痛んだ。この1年、英樹との関係は、男女の営みだけのものだった。どんなに甘い時間を過ごしても、英樹が我を忘れたような顔を見せることは一度もなかった。そう思っていると、「ルーレットが三浦社長に当たったぞ!」誰かがはやし立てた。「罰ゲームの時間だ!」みんなが笑いながらタブレットを差し出した。「三浦社長は業界一淡泊だって有名だから、困らせるようなことはしないよ。二択クイズだ。いちばんときめく人を、パッと答えるだけでいいんだ」最初の写真は、人気女優と百合だった。英樹はちらりと目をやり、ためらうことなく言った。「百合だ」すると、個室内は一気に歓声に包まれた。百合は顔を赤らめてうつむいたが、その口元に浮かぶ笑みを隠しきれずにいた。そんな光景に瞳は、爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。次々と写真が表示されるが、英樹はいつも迷わず百合を選んだ。瞳はもう聞いていられなくなり、席を立ってトイレに向かった。だが、数歩歩くと、後ろからさらに大きな歓声が上がった。振り返ると、タブレットと同期で表示されたモニターにはっきりと、自分と百合の写真が映し出されていた。「うおー!」みんなが興奮した。「これは面白くなってきたぞ。瞳さんと言えば業界一の美人で、そこらの女優なんて足元にも及ばない!それでも三浦社長が百合さんを選んだら、これはもう紛れもなく本命だってことだな……」そして、その場にいた全員の視線が、英樹に注がれた。しかし英樹は、珍しく黙り込んでしまった。瞳はその場で固まり、心臓が胸から飛び出しそうになるほどだった。3秒後、
Read more

第5話

瞳は血まみれで倒れ、視界がだんだんぼやけていく。英樹が百合を大事そうに腕に抱く姿を見ながら、これまでの記憶が次々と蘇ってきた。初めて会った時、英樹の金縁メガネの奥の目は、氷のように冷たかった。英樹に歯向かおうとした時、コーヒーに塩を入れたけど、彼は平然とそれを飲み干した。初めてデスクに押し倒された時、痛くて英樹の肩に噛みついてしまった。そして、自分がどんどん英樹を好きになっていった。英樹の誕生日には、邸宅中を飾り付けて待っていた。でも、そこで知ったのは、彼と百合のスキャンダルだった……それから、あの日。自分は泣きながら、5キロも歩いて母のお墓まで行った。ハイヒールで歩いたせいで、かかとは血まみれのマメだらけになっていた。そんな自分を見つけてくれたのが、英樹だった。彼は何も言わず、自分の足からハイヒールを脱がせると、靴を片手に持って、おぶって家に連れて帰ってくれた。あの時、瞳は英樹の首筋を伝う涙を流しながら思ったんだ。このまま、一生こうして歩いていけたら、それも悪くないなって。母が亡くなってから、やっと家に連れて帰ってくれる人が現れたんだ。でも最後に、全ての思い出の画面は、英樹が百合を腕に抱く、あの光景に塗り替えられてしまった。……ピッ、ピッ、ピッ……医療機器の電子音が、瞳を現実に引き戻した。ゆっくりと目を開けると、隣から百合の泣きじゃくる声が聞こえてきた。「私のせいだわ。道端で瞳さんと口論なんてしなければ……私はただ、瞳さんを車で送りたかっただけなのに……英樹さん、どうして私を先に助けたの?瞳さんが知ったら、きっと怒ってしまうわ……」英樹は百合の涙を指で拭った。「君のせいじゃない」その声はとても優しくて、瞳が一度も聞いたことのないような声色だった。「たとえやり直せるとしても、俺は君を先に助けると思う」英樹はそっと言った。「君は体が弱いんだ。これ以上、怪我はさせられないから」そして、少し間を置いて付け加えた。「それに、瞳が怒る理由もない」そこまで聞いて瞳の胸が急に締め付けられた。それはまるで見えない手に心臓をわしづかみにされ、ねじ上げられるような感覚だった。そうよ、自分は英樹にとってそれほど重要な存在でもないわけだから、怒る資格なんてあるわけないのだ。英樹が誰を助けようと、彼の勝手じゃ
Read more

第6話

次に目を覚ましたときは、看護師に起こされた。「誰もついてなかったのですか?点滴が逆流してるじゃないですか!もう少しで大変なことになるところだったのですよ!」看護師は慌てて言った。瞳がそっと手をあげると、手の甲がパンパンに腫れあがっていた。スマホを手に取って、もう7時間も経っていることに気づいた。英樹はずっと戻ってこなかった。「あのイケメンの彼氏さんはどうしたのですか?」看護師は薬を替えながら尋ねた。「点滴中は誰かが見てないとダメですよ。さっきは本当に危なかったんですから」それを聞いて、瞳は唇を歪めて言った。「あの人は、彼氏じゃないです」瞳は一人で壁に手をつきながら病室に向かった。しかし、廊下から聞こえてくる噂話が、針のように耳に突き刺さった。「あの百合さんって、すごく幸せそうよね。義理のお父さんにもあんなに優しくしてもらって、それに、すっごくイケメンな彼氏さんまでいるんだから!」「聞いた話だと、彼氏さんがVIPフロアを丸ごと貸し切って、海外から専門の先生まで呼んだらしいわよ。丸一日、そばを片時も離れなかったんだって。酒井社長にも彼氏さんにも、お姫様みたいに扱われてて……百合さんって、本当に運命を味方にしているのね……」そんなヒソヒソ話を聞きながら、瞳は、無意識にその病室の前に立っていた。半開きになったドアの隙間から、英樹が見えた。彼は腰をかがめて、百合の点滴の速度を調節していた。その長い指が、ゆっくりとチューブのつまみを回しているのだった。一方、翔平はベッドのそばに座って、百合のためにりんごを剥いていた。皮は途切れることなく長く剥かれていき、果肉を一口サイズに切って百合の口へ運んであげていた。それを目にして、瞳は急に息が苦しくなった。そして、わけもなく涙がこぼれ落ちてきて、熱い滴が頬を伝った。瞳は慌ててそれを手で拭った。「瞳」瞳は誰もいない廊下に向かって、そっと呟いた。「誰のために泣いてるの?誰も心配なんかしてくれないんだから、泣いちゃだめ!」そして、彼女は踵を返すと、背筋をまっすぐに伸ばし、しっかりとした足取りで足早に歩き去った。ただ、固く握りしめられた手のひらからは、血が滲んでいた。それから数日間、英樹は一度も姿を見せなかった。退院の日になって、瞳は病院の玄関で、見慣れた黒いマイバッハが
Read more

第7話

それから瞳は無表情で席に着くと、背筋をぴんと伸ばし、まっすぐに前方のステージを見つめた。オークションは中盤に差し掛かったが、彼女はずっと退屈そうにしていた。そして、いよいよオークショニアがビロードのトレイにかかった赤い布をめくると、スポットライトの下で真珠のネックレスがしっとりとした輝きを放った――その瞬間、瞳は目を見開き瞳孔がぐっと収縮した。幼い頃、母がパーティーでいつもこのネックレスをつけていたのを思い出した。真珠が母の細い首筋に沿って、優雅な歩みに合わせてそっと揺れる様子は、まるで柔らかな月光のようだった。「そんなに気に入ったのか?」英樹の低い声が、耳元で聞こえた。瞳は答えず、すぐに札を上げた。「10億」「12億」すると、横から甘い声が聞こえた。目を向けると百合が瞳に微笑みかけているのだった。「瞳さん、私もこのネックレス、すごく好きなんです。高い値段をつけた方が勝ち、文句はないですよね?」それを聞いて瞳は、爪が食い込むほど拳を握りしめた。「16億」「20億」「40億」「60億」……価格は、あっという間に200億まで跳ね上がった。資産を売って作ったお金は、もう底をついていた。しかし、百合はまだ余裕の表情で札を上げており、その顔には勝利を確信した笑みが浮かんでいた。「200億円、他にございませんか?」オークショニアが瞳を見る。「こちらの方、いかがされますか?」そう聞かれ瞳の喉が、きゅっと締め付けられた。たかがネックレス一本のために、誰かに頭を下げなければならない日が来るなんて、今まで考えたこともなかったから。「上げます」瞳は苦しげにその一言を絞り出すと、英樹の袖をつかんだ。「英樹、お金を貸して……」声は震えていた。「これは母の形見なの。絶対に手に入れなきゃいけないの」一方、英樹は明らかに固まっていた。いつも気高く華やかだった瞳が、こんなにも弱々しく誰かに頼る姿を、一度も見たことがなかったから。「お願い」瞳は目を赤くし、か細い声でつぶやいた。英樹の手がスーツの内ポケットに伸び、ブラックカードを取り出そうとした――その時だった。「英樹さん」百合が突然、英樹の腕をつかんだ。その目は潤んでいた。「私も、このネックレスが本当に欲しいの……」百合は唇を噛みしめる。「私、何か
Read more

第8話

すると凄まじい悲鳴がホールに響き渡った。噴き出した真っ赤な血が、瞳の真っ白なドレスの裾に飛び散り、まるで咲き乱れる彼岸花のようだった。すぐに周りは一瞬にしてパニックになり、あちこちで悲鳴が上がった。しかし、瞳は驚くほど落ち着いていた。彼女は冷ややかに周りを見渡し、赤い唇をわずかに開いて言った。「お見苦しいところをお見せしました。私は母を早くに亡くして、しつけられていないもので。ですから、やられたら――」瞳はそう言いながらナイフを引き抜くと、返り血が顔に飛び散った。「その場でやり返す主義なんです」すると、百合の苦しそうな泣き声がオークション会場に響き渡った。しかし瞳は、ナイフを投げ捨てると、そのまま背を向けて歩き出した。出口まで来たとき、突然、何者かに手首を強く掴まれた。英樹は、知らせを聞いて慌てて駆けつけたようだった。その手には毛布やカイロ、生理痛用の痛み止めの薬が握られていた。それを見て、瞳の胸に、ちくりと痛みが走った。これは、百合のために買いに行っていたものだろう。「気でも狂ったのか!」英樹の顔は恐ろしいほど冷たい。「たかがネックレス一本のために、人を傷つけるとは。もし百合がこれ以上君の気に障ることをしたら、今度は殺すつもりか?」彼の力は強く、まるで彼女の手首を今にも握り潰してしまいそうだったが、瞳は痛みに耐えながら、目を赤くして言った。「どうして相手が何をしたのか聞かないの?彼女は、私の母のネックレスを……」「たとえ百合がネックレスを捨てようとどうしようと、君が人を傷つけていい理由にはならない!」英樹は厳しい声でさえぎった。その言葉は、再びナイフのように瞳の心を突き刺した。彼女は、ふと笑った。それは涙がこぼれるほどの、悲しい笑みだった。「もうやっちゃったものは仕方ないわ。それで、私をどう『おしおき』するつもり?」「もう俺の手には負えん」英樹は冷たく言い放つ。「誰か。警察に突き出せ。傷害罪で告訴し、3日間、留置場に入れておけ」瞳ははっと顔を上げた。自分の耳を疑った。百合のために、自分を留置場に入れるっていうの?瞳は血の味がするまで唇を強く噛みしめた。でも、一言も発さず、警察に連行されるがまま連れて行かれた。そして、立ち去り間際に見た光景は、英樹が百合を横に抱き上げて、「泣かないで、俺がいるか
Read more

第9話

瞳は黙って天井を見つめて、一言も発さなかった。すると、英樹の胸に、理由もなく怒りの炎がこみ上げてきた。何か言おうとしたその時、看護師が慌てて入ってきた。「三浦さん、百合さんがまた痛いと……」「少しは反省しろ」英樹はそう言い残して、背を向けた。「もう騒ぎを起こすな」それからの日々、瞳は不気味なほど静かだった。百合が毎日、英樹に世話をされている写真を送ってきても、瞳は全く動じなかった。そして退院の日、百合が自ら病室にやってきた。「瞳さん、たった3日間で退院だなんて」百合は包帯の巻かれた右手をひらひらさせた。「この傷のせいで、私がどれだけ入院しなきゃいけないか分かりますか?もし英樹さんが大金を使って海外から専門家を呼ばなかったら、この手はもう使い物にならなかったのですよ」「自業自得でしょ」瞳は冷たく言い放った。百合は、ふふっと笑った。「瞳さん、一体何を偉そうにしてるんですか。あんなに英樹さんのことが好きだったのに、その彼に留置場へ送られた気分はどうです?死ぬほど辛かったでしょう?」瞳はようやく百合に視線を向けた。「一体、何が言いたいの?」「別に、ただちょっとした昔話をしたくなっただけです」百合はベッドのそばに腰掛けた。「知らないでしょう。私と英樹さん、高校の同級生でした。あの頃、学校中の女子が彼を追いかけてたけど、彼は誰にも見向きもしなかったんです」百合は包帯を撫でながら、勝ち誇ったように目を輝かせた。「私以外は、ですね。英樹さんは私がコーヒーに砂糖を入れないのを覚えてくれてて、雨の日はいつも私のために傘を一本多く持ってきてくれました。生徒会の活動では私が渡す水しか飲まなかったし、全校集会のスピーチでは私がいる方だけを見てました。学校中の女子が嫉妬で狂いそうになってたけど、英樹さんは私にだけ笑いかけてくれたのですよ。あと一歩で私たちが付き合うって時に、英樹さんを庇って交通事故に遭ってしまって、海外で療養することになりました。でも、この何年間も、ずっと連絡は取り合ってましたよ」それを聞いて、瞳は、爪が食い込むほど強く手のひらを握りしめた。「その後、英樹さんに話したんです。母が資産家の男性と再婚したんですけど、その家の娘にいじめられてるって。そうしたら英樹さんはすぐに、あなたのお父さんに電話をかけたのですよ。
Read more

第10話

瞳は、震える手で翔平に電話をかけた。「もう連絡しないんじゃなかったのか?」翔平の声は冷たかった。「勘当の書類はもう送ったはずだ。もう月末になる。今日明日中には盛沢市へ行け!」「ひとつだけ、聞きたいことがあるの」瞳の声はかすれていた。「私を英樹のもとへ行かせたのは、お父さんの考え?それとも、英樹が私を望んだの?」「そんなことを聞いてどうする?」「教えて!」翔平は少し黙ってから、答えた。「彼の方だ。南区のプロジェクトと引き換えにな。どっちみち、お前の顔を見るのも鬱陶しかったしな。一石二鳥だ」スマホが床に落ち、画面がバキッと音を立てて割れた。瞳は、突然笑い出した。がらんとした邸宅に、その笑い声が響き渡り、そして張り裂けそうなほどの笑いと共に彼女の涙がとめどなくあふれてきた。「英樹……よくやってくれたわね」しばらくして、瞳はようやく涙を拭った。そして部屋に行くと、荷造りを終えていたスーツケースを引きずり出し、一歩、また一歩と玄関へ向かった。その足取りは、屈辱を踏みしめているかのようだったが、不思議なほど迷いがなかった。そして玄関で、彼女は立ち止まった。無意識に、ポケットの中のライターを指でなぞっていた。それは英樹からの誕生日プレゼントだった。そこには、彼の手でこう刻まれていた。【瞳へ】瞳はふと笑った。次の瞬間、彼女はためらうことなくライターの火をつけ、カーテンに向かって投げつけた。火は瞬く間に燃え広がり、リビングを真っ赤に染め上げた。瞳は家の外に立ち尽くし、炎がすべてを飲み込んでいく様子を静かに見つめていた。二人が愛し合ったソファも、キスを交わしたダイニングテーブルも、そして、あの……英樹もほんの一瞬、自分に心惹かれてくれたのかもしれないと、愚かにも信頼を寄せようという思いが詰まったあのベッドまでもが、炎に包まれていくのだった。英樹が駆けつけたのは、1時間後のことだった。甲高いブレーキ音を響かせ、一台の黒い車が邸宅の前に乗り付けた。車のドアを開けると、目に飛び込んできたのは突き抜けるほどの炎と、スーツケースの上に座っている瞳の姿だった。瞳は、ただ静かに燃え盛る邸宅を見つめていた。炎の赤い光がその青白い顔を照らし、まつげには、まだ乾ききらない涙の跡がきらめいていた。英樹は、思わず息
Read more
PREV
123
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status