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終わらない夜の果てに
終わらない夜の果てに
作者: 夢子

第1話

作者: 夢子
酒井瞳(さかい ひとみ)は、業界では有名な小悪魔だった。彼女の少し上がった赤い唇に、その色っぽい目元はいつも男を誘っているようだった。

三浦英樹(みうら ひでき)は、とある財閥の最も優秀な跡取り。誰もが憧れる高嶺の花であり、禁欲的で知られていた。

そんな正反対の二人が、誰にも知られず情を交わしている。深夜のマイバッハの後部座席で体を重ね、チャリティーパーティーの化粧室で激しく求め合う。そして、プライベートワイナリーの大きな窓の前では、英樹に強く腰を引き寄せられ、キスを交わしていたのだった。

今回も情事が終わったあと、バスルームからシャワーの音を聞きながら、瞳はベッドにもたれかかり、父の酒井翔平(さかい しょうへい)に電話をかけた。

「盛沢市のあの死にかけの御曹司のところへ嫁いであげてもいいわ。でも、条件が一つあるの……」

すると電話の向こうから、翔平の隠しきれない喜びの声が聞こえてきた。「言ってみなさい!嫁いでくれるなら、どんな条件だって呑むぞ!」

「詳しいことは、家に帰ってから話す」そう言って彼女の声は優しいのに、瞳の奥は凍えるように冷たかった。

そして瞳は電話を切り、服を着ようと体を起こした。その時、ふと、英樹がそばに置いたノートパソコンが目に入った。

ラインの画面はついたままだ。一番上には「百合」という名前の相手からの新着メッセージが表示されているのだ。

【英樹さん、雷が鳴ってるの、こわいよぉ……】

それを見て瞳の指先が、ぴくりと震えた。

すると突然バスルームのドアが開き、英樹が出てきた。

まだ濡れたままの鎖骨を、水滴が伝い落ちていき、シャツのボタンを二つほど無造作に開けたその禁欲的な姿に、どこかアンニュイな色気が混じっていた。

「会社で用事ができたから、もう行く」英樹は上着を手に取った。その声は、いつも通り温度感がないものだった。

それを聞いて瞳は、赤い唇の端を上げて笑った。「会社に用事って?それとも、あなたの『初恋の人』にでも会いに行くのかしら?」

だが、英樹は聞き取れなかったのか、「何だって?」と聞き返した。

「なんでもないわ」瞳は素足でベッドから降りると、柔らかいカーペットの上に立った。

すると英樹は少し沈んだ目線で、彼女の腫れあがった瞳と唇を親指でなぞった。「いい子にしてろ。面倒は起こすな」

ドアが閉まった瞬間、瞳の顔から笑みがすっと消えた。

彼女はタクシーを呼び、英樹の後を追った。

30分後、タクシーがホテルの前に停まった。瞳は雨の向こうに、白いワンピースを着た酒井百合(さかい ゆり)がホテルの入り口から走り出てくるのを見た。

英樹は駆け寄ると、自分のスーツの上着を脱いで百合の肩にかけ、そしてひょいと彼女を抱き上げた。

「外は寒いぞ。どうして上着も着ないで出てきたんだ?」

その手つきはあまりにも慣れていて、まるで何百回も繰り返してきたかのようだった。

それを見た瞳は車のドアノブを強く握りしめた。爪が手のひらに食い込むほどに。

そして、英樹が百合を大切そうに抱えてホテルに入っていく後ろ姿を見ながら、瞳はなぜか、英樹と初めて会った時のことを思い出していた。

あの頃、瞳は翔平とひどく対立していた。また翔平の頭に物を投げて怪我をさせた後、翔平は彼女を親友の息子の元へ預けた。それでわがままな性格を叩き直してやる、と言って。

初めて会った時、英樹は三浦グループの最上階の社長室に座っていた。金縁の眼鏡の奥に潜む目は、氷のように冷たかった。

瞳はもちろん、ここに居たいわけではなかった。

だから、あの手この手で、英樹の邪魔をしていたのだった。

出社初日、瞳は英樹の2000万円はするオーダーメイドのスーツにわざとコーヒーをこぼした。英樹は瞳をちらりと見ただけで、こう言った。「海外で手作りされたスーツだ。賠償金は酒井家に請求しておく」

2日目には、会議の資料をわざとシュレッダーにかけた。それでも英樹は顔色一つ変えず、その場で内容を全て暗唱し、会議室にいた役員たちを驚かせた。

3日目には、英樹のコーヒーに薬を入れ、カメラを仕掛けて彼の無様な姿を撮影し、脅してやろうと考えた。

結果、瞳自身がその盛った薬の責任を取らされることになってしまった。

そして翌朝、全身の痛みで目が覚めた瞳は怒りで気が狂いそうだったが、英樹に窓際に押さえつけられた。

あの時英樹はかすれた声で瞳の耳たぶを甘噛みしながら「瞳」と囁き、「いい子にしてろ」と言ったのだった。

その一言の「瞳」という呼び方だけで、瞳はなすすべもなく英樹の言いなりになってしまった。

母が亡くなってから、そんな風に呼んでくれる人はいなかったから。

それ以来、二人の関係はすっかり変わってしまった。

瞳が問題を起こすたびに、英樹は彼女を社長室に担ぎ込んだ。周りは英樹が瞳を叱っていると思っていたが、実際にはデスクの上である種の「お仕置き」をされていたのだ。

そしていつしか、瞳もそれを快感だと感じるようになっていた。

英樹のテクニックがすごかったから?それとも、ただ自分が孤独だったから?

瞳には分からなかった。

ただ一つ分かっていたのは、自分が英樹に本気で惚れてしまったということだけ。

だから、英樹の誕生日には、丸1日かけて家を飾り付けた。

バラ、キャンドル、音楽。そして、エンゲージリングまで用意した。

しかし、瞳は一晩中待ち続け、キャンドルの火が消え、バラがしおれても、英樹は現れなかった。

さらに追い打ちをかけるかのように、深夜3時、スマホにニュース速報が飛び込んできた。

【速報!財閥のトップが深夜に空港で初恋の人をお出迎え】

写真には、白いワンピースの女性を甲斐甲斐しく守りながら車に乗せる英樹が写っていた。その眼差しは、胸が痛くなるほど優しかった。

コメント欄は炎上していた。

【きゃー!大物と純粋な美少女の組み合わせ、最高すぎる!】

【マジか!これ、三浦社長とミスキャンパスの百合さんじゃん?昔、うちの高校で一番お似合いのカップルって言われてたんだよ!】

【同じ高校だったから本当だって!三浦社長って誰にでも冷たいのに、百合さんにだけは笑いかけてたんだ!百合さんが体の療養で海外に行ってなければ、とっくに結婚してたはずだよ】

それを見て、持っていたスマホが、ぱたりと床に落ちた。

瞳は思わず自分の目を疑うほどだった。

もし英樹の心に決まった人がいたのなら、自分は何?ただの、都合のいいセフレ?

あの時、瞳は震える手で英樹に電話をかけた。彼の答えが聞きたかった。しかし、電話は一向につながらなかった。

最後の着信が切れた後、瞳はスマホを置き、英樹が「絶対に入るな」と言っていた書斎へと向かった。

そして、ドアを開けた瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた。

中には、百合の写真が所狭しと飾られていたのだ。

卒業写真、旅行先での写真。それに、百合の寝顔をこっそり撮った写真まであった。

いつもは冷静沈着な英樹が、こんなことをするなんて。

それらを目の当たりにして、瞳はもう、彼の答えなんてどうでもいいような気がした。

そして彼女は突然、空しい笑い声を上げた。その声は、がらんとした部屋に不気味に響き渡った。

だが、笑っているうちに、熱い涙が堰を切ったように溢れ出し、綺麗な顎のラインを伝って床に落ちた。

それから、瞳は泣きはらした目で、家の中の物を手当たり次第に壊した。

翌日、帰ってきた英樹は、めちゃくちゃになった部屋を見ても、ただ静かに人を呼んで片付けさせただけだった。

その間、英樹は瞳を一瞥もしなかった。まるで、彼女がこんなことをするのは当たり前だと言わんばかりに。

一方、瞳は自分が心を込めて用意したエンゲージリングが、使用人によってゴミとして捨てられるのをただ見ていることしかできなかった。

英樹は、その箱に何が入っていたのか知らなかった。

もちろん彼女が、彼と一生を共にしたいと願っていたことも、そして、指輪がゴミ箱に捨てられたあの瞬間に、瞳がもう英樹を愛するのをやめようと決心したことも、彼は知らずにいたのだった。

そう想いに耽っていると、「瞳様、どちらへ向かいますか?」運転手の声で、瞳は現実に引き戻された。

「家に帰るわ」瞳は目を開けた。その声は凍えるほど冷たかった。「酒井家に」

そして、酒井家の屋敷に戻ると、父の翔平がすぐに出迎えてきた。「瞳、盛沢市に嫁ぐ決心をしてくれたのは本当か?」

彼がそう言っていると、階段の上に立つ義理の母である酒井凪(さかい なぎ)も期待に満ちた顔で瞳を見ていた。

「本当よ」瞳の目線は冷ややかだった。「でも、条件があるって言ったはずだけど?」

「条件だと?早く言え!」

「お父さんとは……」瞳は一語一句、区切るように言った。「親子関係を断ちたいの」

その言葉と共に、空気が、一瞬で凍りついた。

翔平の顔色が変わった。「生意気なことを言うな!自分が何を言っているのか分かっているのか?」

「そんなのとっくに分かり切っているよ」瞳の声は冷たかった。「お父さんは不倫して、その女を家に引き入れるために、私のお母さんを自殺に追い込んだ。あの日から、お父さんのことなんて父親だと思ったことはないわ」

そう言って、瞳は青ざめた翔平の顔を見据えた。「今、盛沢市のあの死にかけの御曹司の家が、嫁を探すのにいい条件を提示してきたから3ヶ月も私を説得し続けたんでしょ。もし私が断ったら、力ずくで私を嫁がせるつもりだったんじゃない?

どうせそうなら、いっそのこと親子関係も絶ってしまっても同じことでしょ?」瞳は皮肉っぽく口角を上げた。「ちょうどいいじゃない。これで愛人の娘を酒井家のお嬢様として呼び戻せるんだから」

そう言われ、翔平は怒りで体を震わせた。「いいだろう!縁を切ってやる!だが、あの御曹司は今月いっぱいもたないらしい。月末までには必ず嫁いで行けよな!」

それから彼は冷たく笑った。「凪の娘なら、2、3日前にはもう海外から帰ってきて、ずっとホテル暮らしをしているんだ。お前がもうこの家から出て行くつもりなら、明日にでも彼女にここへ引っ越しをさせよう!」

それを聞いて、瞳は思わず笑ってしまった。そして胸もうずくほど痛んだ。「自分の実の娘を愛さないで、他人の子を進んで養おうとするなんて。こんな人、他では見当たらないんじゃない」

そう言って、瞳が背を向けて去ろうとすると、義理の母の凪が彼女を白々しく引き留めた。「瞳、お父さんに対してそんな口の利き方はないんじゃないの」

瞳は、ぴたりと足を止めた。

彼女がゆっくりと振り返ると、その瞳には、長年抑えつけてきた憎しみが渦巻いていた。「何?私が嫁いでこの家を出ていけば、あなたもようやく本物の奥様気取りができるとでも思った?」

そう言いながら、瞳は一歩ずつ凪に詰め寄った。「よく聞きなさい。お母さんが死んだからって、あなたが後ろ指を指されるような愛人だった事実は変わらないのよ!あなたの大事な娘が酒井家のお嬢様になったとしても、その母親が愛人だったっていう汚名は消えないんだから!」

それを聞いて、凪の顔は瞬時に真っ青になり、よろめきながら数歩後ずさった。

だが、瞳は彼女に構わず、背を向けて歩き出した。その踏み出す一歩また一歩、すべてが苦しみを噛み締めているかのようだった。

そして、自分の部屋に戻ってドアを閉めた途端、瞳は全ての力が抜けたようにその場に崩れ落ち、膝に顔を深くうずめた。

翌朝早く、階下から騒がしい物音と笑い声が聞こえてきた。

「何なの?」瞳は勢いよくドアを開けた。「人が寝てるのに、うるさいわね!」

執事が口ごもりながら答えた。「瞳様……その、百合様がお引越しに……」

その言葉が終わらないうちに、見覚えのある姿が階段のところに現れ、白いワンピースを着た百合が、か弱そうにそこに立っていたのだ。

その瞬間、瞳の全身の血が、一瞬で凍りついた。
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