カチャリ。寝室の錠が弾ける音が、静まり返った夜気の中で、やけに澄んで響いた。一ノ瀬誠司(いちのせ せいじ)は鏡の前でネクタイを整えていたが、その音に気づくと、苛立ちを含んだ視線を鏡越しにこちらへ投げてきた。「何で鍵なんか掛けるんだ。急ぎの用がある、どけ」彼のスーツには、ついさっき泣きじゃくった拍子に、娘――一ノ瀬美桜(いちのせ みお)が擦りつけた鼻水が、まだ乾かずに残っている。三十九度の熱にうなされながら、「パパ、抱っこ」と縋った――その痕だ。それなのに彼は、白川瑠華(しらかわ るか)に会いに行く勝負服を皺にしたくないという理由で、朦朧とした美桜を乱暴に床へ突き倒した。額がローテーブルにぶつかり、赤く腫れ上がった。その瞬間、一ノ瀬紗弥(いちのせ さや)としての私は、確かに死んだ。残ったのは、かつて「修羅」と呼ばれた女だった。私は何も言わず、ただ腰に結んだエプロンをゆっくりと外す。畳み、皺を撫で、きっちりとナイトテーブルの上に置いた。まるで美術品に触れるかのように、指先の動きまで、異様なほどに優しかった。誠司は振り返り、眉間に深い溝を刻む。「紗弥、何の真似だ。美桜はもう病院に運ばれた。俺は仕事がある。いい加減にしろ」仕事?――瑠華のベッドの上で、仕事だと称して数十億規模の案件でも詰めに行くつもりだろう。私は一歩踏み出し、彼の前に回り込んで扉を塞いだ。誠司の堪忍袋が切れたのが、空気でわかった。彼は苛立ちを隠そうともせず、腕を振り上げ、私の頬を狙う。「どけ!調子に乗るな。子ども一人まともに見られねえくせに、大事なスーツを汚しやがって!」平手が風を裂き、一直線に迫ってくる。この一撃は、前にも受けた。「家庭のため」だとか、「我慢が大事」だとか。私は何度も飲み込み、やり過ごしてきた。でも、今日は違う。まぶたを持ち上げても、視界は静まり返ったままだ。感情は凪ぎ、ただ現実だけが輪郭を持って迫ってくる。掌が頬まで、あと五センチ。その刹那だった。左手が稲妻のように走り、誠司の手首の急所を正確に捉える。親指でツボを押さえ、流れのまま手首を下へと捻った。バキッ。骨がずれる、乾いた音。「ああ――!」悲鳴が喉を突き破る、その前に。私はついでに掴んだ彼のネクタイで、口を
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