LOGIN子どもにちゃんとした家庭を残したくて、私・一ノ瀬紗弥(いちのせ さや)は殺気を畳み、三年間、みじめな専業主婦を演じてきた。 夫・一ノ瀬誠司(いちのせ せいじ)が家に帰らない夜が続き、不穏な噂がいくつ耳に入ってきても、私は耐え、信じることを選んだ。 ――あの日までは。 病気の娘・一ノ瀬美桜(いちのせ みお)を、誠司が白川瑠華(しらかわ るか)を庇うために突き飛ばした。その光景を、この目で見た瞬間。 恋に溺れていた私は死んだ。 目を覚ましたのは、名を聞くだけで裏の世界が震える――人間兵器と呼ばれていた存在だった。 離婚? ……冗談は、寝てから言え。 私は薄く笑い、後ろ手で寝室の鍵をかける。 「あなた、ちゃんと『話し合い』をしましょう」 その日から、誠司の悪夢が始まった。 顎を外され、脇腹の急所を叩かれ、関節技で完全に押さえ込まれても―― 病院では「異常なし」。通報すれば「夫婦喧嘩」「被害妄想」で片づけられる。 青あざだらけで膝をついた誠司は、泣き叫んだ。 「頼む……離婚してくれ……財産は、全部放棄する……!」 私は手の甲についたハンドクリームを塗りながら、淡々と言った。「……気分次第ね。今日のレッスンは、まだ終わってないわ」
View More法廷が開かれた。厳かな法徽の下、誠司はうなだれて立っていた。証拠は揃い、もはや弁解の余地はない。「被告人・一ノ瀬誠司。業務上横領罪、背任罪、傷害罪。以上を併合罪として、無期懲役に処する。また、刑の執行が終わるまで公民権を停止する。被告人・白川瑠華。詐欺罪および殺人罪の教唆。以上を併合罪として、懲役十五年に処する」木槌の音が、法廷の静寂を断ち切った。その瞬間、誠司ははっと顔を上げ、傍聴席を見渡した。私は最前列に座り、すっかり元気を取り戻した美桜を抱いている。美桜は、原形もとどめないほどやつれた男に怯え、私の胸に小さく身を寄せた。「ママ、あの人、だれ?」私は美桜の頭を撫で、穏やかに答える。「悪いことをした人よ。もう、おまわりさんに捕まってる」誠司の目に浮かんだのは、後悔と、絶望と、底知れぬ恐怖だった。唇が動く。私の名を、美桜の名を呼ぼうとしたのだろう。――けれど、私はその機会を与えなかった。表情を消したまま立ち上がり、美桜を抱いたまま、静かに背を向ける。振り返らない。未練は、もうどこにもない。裁判所の外へ出る。陽射しは強く、空気は驚くほど澄んでいた。大きく息を吸い込み、胸の奥がようやく軽くなる。三年間、心にのしかかっていた重石が、音もなく砕け散った。「ママ、どこ行くの?」「遊園地よ。約束したでしょ」背後では、護送車が誠司を乗せ、刑務所へ向かっていった。――中では、妙に手厚い扱いを受けているらしい。かつて踏みにじられた社員や、騙された取引先たちは、それぞれの伝手を使い、中の人間に「よろしく頼む」と話を通したという。彼が中で、穏やかに過ごせる理由は、もうどこにもなかった。私は誠司名義の資産をすべて処分した。そして、DV被害者支援の基金を立ち上げ、結婚という檻の中で苦しむ女たちの、逃げ道を作った。誠司の両親は、その事実を受け止めきれず、二人そろって倒れ、いちばん質素な介護施設で余生を送ることになった。すべてが、ようやく終わった。悪は、巡り巡って報いを受ける。――三年後。私は、自分で立ち上げた警備会社のビル最上階に立ち、ガラス越しに街を見下ろしていた。三年という時間で、この会社は業界でも指折りの存在になった。富裕層向けの高度な警護。そし
追い詰められた人間は、何だってする。誠司は、私を道連れにする気になった。私の隙を突き、ガソリンのポリタンクを買い、ベッドの下に隠していたのだ。深夜。月のない、風の荒い夜。誠司は獰猛な笑みを浮かべ、寝室じゅうに液体を撒いた。手にはライター。目は、正気を失っている。「紗弥!一緒に死ぬぞ!全員、道連れだ!お前もだ!あのクソガキも!」誠司は、美桜が隣の部屋で眠っていると思い込んでいた。だが、美桜はとっくに私が安全な場所へ移してある。パチッ。ライターが弾かれ、火が跳ねる。誠司は高笑いし、そのまま床の液体へ投げつけた。――だが、炎は上がらない。聞こえたのは、シッ、という乾いた音だけ。ライターは床に落ち、すぐに消えた。誠司は固まった。床に這いつくばり、液体に鼻を近づける。ガソリンの匂いがしない。あるのは、かすかな水道水の匂いだけ。「どうして……俺は確かに……」パチッ。寝室の灯りが、ぱっと点いた。私はドア口に立っていた。部屋着はもう脱いである。黒の作業服が、身体の線をはっきりと浮かび上がらせる。足元はブーツ。太腿の外側には短剣。指先で弄んでいるのは、ライターだった。小さな火が、私の指の間で踊る。「それ、探してた?」誠司は床にへたり込み、殺気そのものの私を見上げて、完全に絶望した。「……最初から、知ってたのか……」私は一歩ずつ距離を詰める。空気が重くなり、誠司の呼吸が詰まる。「誠司。自殺すら、まともにできないのね」目の前まで行き、見下ろす。「火遊びがしたいなら――望みどおりにしてあげる」私は火を消し、ブーツで誠司の手を踏み抜いた。「ああ――!」「これは、美桜の分」ゴキッ。もう片方。「これは私の分」ゴキッ。左脚。「これは――あなたのせいで倒れた、両親の分」ゴキッ。右脚。四肢は、すべて折れた。誠司は、手足を奪われた芋虫のように床でのたうち、やがて、悲鳴すら途切れた。私はスマホを取り出し、長いあいだ封印していた番号へ発信した。「コードネーム『修羅』、任務完了。対象を確保しろ」次の瞬間、サイレンが夜を切り裂いた。来たのは交番の巡査ではない。捜査二課と、特殊部隊だった。私は、誠司の
誠司の面目は完全に潰れ、株価まで下落に転じた。追い打ちをかけるように、私は誠司が公金を横領し――瑠華という底なし沼を埋め続けていた証拠を掴んだ。穴を塞ぐため、誠司は危ない橋を渡る決断をする。目をつけたのは、ハイリスクな海外投資案件。――それは、私が仕掛けた罠だった。競合会社の社長に根回しし、酒席で「うっかり」この濡れ手に粟の話を漏らさせる。誠司は、溺れる者が藁にすがるように食いついた。資金を突っ込み、損失を取り戻そうと焦る。だが、会社の口座はすでに空っぽだった。身の程も知らない瑠華が、取り分欲しさに誠司を闇金へと焚きつける。「一ノ瀬さん、この資金を入れれば来月には倍です!そのときには、穴なんて全部埋まります!」誠司は信じた。闇金の契約書にサインし、会社に残っていた運転資金まで担保に差し出した。――一週間後。案件はあっけなく崩壊。資金繰りは完全に断たれた。誠司は一瞬で十億円の巨額債務を背負う。闇金は法律など気にしない。刺青だらけの男たちが会社になだれ込み、ペンキをぶちまけ、横断幕を掲げ、拡声器で返済を迫った。誠司は机の下に潜り込み、恐怖のあまり失禁した。――最近は、しょっちゅうだ。そのとき。私が姿を現した。清楚な白いワンピース姿で、剣呑な男たちの前に立つ。「みなさん、借りたものを返すのは当然です。でも、夫に手は出さないでください。三日ください。私が何とかします」実のところ、彼らは私が金で雇った役者だ。――借金だけは、本物だけれど。誠司は私を見るなり、感極まって泣き崩れた。「紗弥……やっぱりお前だけだ……俺、今まで最低だった……」私はそっと彼を起こし、頬についたペンキを拭ってやる。「誠司。私たちは家族よ。命さえあれば、お金はまた稼げる。でも、また来られたら困るわ。あなた名義の家と車、いったん私に移して。抵当に入れて、返済に回すから」誠司は迷わずうなずいた。それどころか、私の手際に感心している様子だった。「わかった。今すぐ移すから」それが命綱になると、誠司は本気で信じていた。資産譲渡の書類を受け取った、その瞬間。私は、笑った。くるりと背を向け、闇金の生々しい借用書を百部コピーする。誠司の損得勘定だけで動く両親と、親戚知
誠司は、とうとう独りになった。家には戻れず、瑠華の周辺も大炎上だ。金持ちのボンボン三人は、自分たちが同時に騙されていたと知り、瑠華を探し回っては落とし前を迫っている。誠司が身を寄せられる場所は、会社しかない。そこが――彼に残された、最後の砦だった。月曜の朝。一ノ瀬グループ本社ロビー。私は端正なスーツに身を包み、八センチのヒールで堂々と足を踏み入れた。受付が制止にかかる。私は一枚の書類を突き出す。「社長の妻が視察に来ただけ。何か問題でも?」騒ぎを聞きつけ、誠司が警備員を連れて駆けつける。「紗弥!ここは会社だ!勝手な真似をする場所じゃない!」私が薄く笑うと、背後からスーツ姿の年配者が数人、静かに前へ出た。――同社の大株主たちだ。「社長。紗弥さんは、私どもから譲渡した15%の株式を保有しています。ご夫婦の共有財産分を含めれば、個人としては最大の株主です。帳簿を確認する権利があります」それは、この三年間、私がへそくりを積み上げ、裏で買い集めてきたものだった。誠司の顔色が、一気に失せる。殴られたように、その場で固まった。私は迷いなく経理部へ向かう。「これより帳簿を洗う。隠蔽があれば――そのまま刑務所行き」経理部は、たちまち蜂の巣をつついたような騒ぎになった。そこへ、頭に包帯を巻いた瑠華が駆け込んできて、誠司に縋りつく。「誠司さん!助けてください! あの男たち、私を殺す気なんです!」私は帳簿から顔を上げ、部屋の隅に置かれた清掃用具を指した。「うちは、無駄飯を食う人間は要らない。秘書なら――来たついでに、トイレを掃除して」「紗弥、ふざけるな!」誠司は反射的に、瑠華をかばおうと前へ出た。私は、分厚い領収書の束をその顔面に叩きつける。「この二千万円の飲食代、どこで使ったの?瑠華のベッド?それとも下着屋?」フロアに、どっと笑いが広がった。誠司の顔が、みるみる赤黒く変わっていく。――昼休み。誠司には重要なオンライン会議が控えていた。業界の大物たちを前に、プレゼンを行う予定だ。私は親切そうな顔で、誠司にコーヒーを淹れてやった。ほんの少し、仕込んでおいた。特注の強力な下剤。効き目は早く、容赦もない。会議が半ばに差しかかったころ。誠司は熱のこもった声で