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寝室に鍵をかけた日から

寝室に鍵をかけた日から

By:  あすみCompleted
Language: Japanese
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Synopsis

スカッと

熱血

ひいき/自己中

女性の成長物語

因果応報

家族もの

子どもにちゃんとした家庭を残したくて、私・一ノ瀬紗弥(いちのせ さや)は殺気を畳み、三年間、みじめな専業主婦を演じてきた。 夫・一ノ瀬誠司(いちのせ せいじ)が家に帰らない夜が続き、不穏な噂がいくつ耳に入ってきても、私は耐え、信じることを選んだ。 ――あの日までは。 病気の娘・一ノ瀬美桜(いちのせ みお)を、誠司が白川瑠華(しらかわ るか)を庇うために突き飛ばした。その光景を、この目で見た瞬間。 恋に溺れていた私は死んだ。 目を覚ましたのは、名を聞くだけで裏の世界が震える――人間兵器と呼ばれていた存在だった。 離婚? ……冗談は、寝てから言え。 私は薄く笑い、後ろ手で寝室の鍵をかける。 「あなた、ちゃんと『話し合い』をしましょう」 その日から、誠司の悪夢が始まった。 顎を外され、脇腹の急所を叩かれ、関節技で完全に押さえ込まれても―― 病院では「異常なし」。通報すれば「夫婦喧嘩」「被害妄想」で片づけられる。 青あざだらけで膝をついた誠司は、泣き叫んだ。 「頼む……離婚してくれ……財産は、全部放棄する……!」 私は手の甲についたハンドクリームを塗りながら、淡々と言った。「……気分次第ね。今日のレッスンは、まだ終わってないわ」

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第1話
カチャリ。寝室の錠が弾ける音が、静まり返った夜気の中で、やけに澄んで響いた。一ノ瀬誠司(いちのせ せいじ)は鏡の前でネクタイを整えていたが、その音に気づくと、苛立ちを含んだ視線を鏡越しにこちらへ投げてきた。「何で鍵なんか掛けるんだ。急ぎの用がある、どけ」彼のスーツには、ついさっき泣きじゃくった拍子に、娘――一ノ瀬美桜(いちのせ みお)が擦りつけた鼻水が、まだ乾かずに残っている。三十九度の熱にうなされながら、「パパ、抱っこ」と縋った――その痕だ。それなのに彼は、白川瑠華(しらかわ るか)に会いに行く勝負服を皺にしたくないという理由で、朦朧とした美桜を乱暴に床へ突き倒した。額がローテーブルにぶつかり、赤く腫れ上がった。その瞬間、一ノ瀬紗弥(いちのせ さや)としての私は、確かに死んだ。残ったのは、かつて「修羅」と呼ばれた女だった。私は何も言わず、ただ腰に結んだエプロンをゆっくりと外す。畳み、皺を撫で、きっちりとナイトテーブルの上に置いた。まるで美術品に触れるかのように、指先の動きまで、異様なほどに優しかった。誠司は振り返り、眉間に深い溝を刻む。「紗弥、何の真似だ。美桜はもう病院に運ばれた。俺は仕事がある。いい加減にしろ」仕事?――瑠華のベッドの上で、仕事だと称して数十億規模の案件でも詰めに行くつもりだろう。私は一歩踏み出し、彼の前に回り込んで扉を塞いだ。誠司の堪忍袋が切れたのが、空気でわかった。彼は苛立ちを隠そうともせず、腕を振り上げ、私の頬を狙う。「どけ!調子に乗るな。子ども一人まともに見られねえくせに、大事なスーツを汚しやがって!」平手が風を裂き、一直線に迫ってくる。この一撃は、前にも受けた。「家庭のため」だとか、「我慢が大事」だとか。私は何度も飲み込み、やり過ごしてきた。でも、今日は違う。まぶたを持ち上げても、視界は静まり返ったままだ。感情は凪ぎ、ただ現実だけが輪郭を持って迫ってくる。掌が頬まで、あと五センチ。その刹那だった。左手が稲妻のように走り、誠司の手首の急所を正確に捉える。親指でツボを押さえ、流れのまま手首を下へと捻った。バキッ。骨がずれる、乾いた音。「ああ――!」悲鳴が喉を突き破る、その前に。私はついでに掴んだ彼のネクタイで、口を
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第2話
翌朝。誠司は転げるようにして家を飛び出した。靴も履かず、正気を失ったような様子で警察署へ駆け込み、当直の警察官を見つけるなり、その腕にすがりついた。「助けてください……!昨夜、妻に……殺されかけたんです……!」声は震え、言葉は途切れ途切れだった。「暴力を……ひどい暴力を受けました……!」三十分後。警察官は、検視の医師を伴って我が家を訪れた。誠司は警察官の背後に身を隠すように立ち、指先を震わせながら私を指した。「この女です……!昨夜、一晩中……俺を……!」叫びはもはや言葉になっていなかった。私はアイボリー色の部屋着にエプロンを結び、切りたてのフルーツを盛った皿を手にしていた。来訪者の姿を認めた瞬間、思わず息を呑む。目の縁が、ぱっと熱くなる。「警察の方、どうなさったんですか?」困惑を滲ませた声で、そう問いかける。「うちの夫が……ひどく取り乱しているようで。何かあったんでしょうか……」皿を置き、どうしていいかわからない様子で手を拭う。夫の理不尽さに怯える、か弱い新妻。その顔を、私は自然に作っていた。「ご主人は、あなたから重大な暴行を受けたと訴えています」応対していた警察官の口調も、慎重だった。誠司の錯乱ぶりは激しいが、目の前の私はとても加害者には見えなかった。「見ればわかる!今すぐ身体を確認してくれ!」誠司は自らシャツを乱暴に引きはがし、ズボンの裾まで捲り上げた。「ほら……ここも、ここも……!骨が……内臓が……!」検視医師が一歩前に出る。無言で手袋をはめ、淡々と身体を確かめ始めた。一分。五分。十分。時間が過ぎるにつれ、医師の眉間の皺だけが深くなる。誠司の身体には、目立った痕はどこにもなかった。骨折はおろか、打撲痕ひとつ見当たらない。昨夜、打撲用の薬を塗っておいたせいで、むしろ血色がいいほどだった。「……そんなはずがない!」誠司は、傷ひとつない自分の身体を見下ろし、頭をかきむしりながら崩れ落ちた。「本当に痛かったんだ……!骨の奥まで突き刺さるみたいな……!普通の殴り方じゃない……あいつは、急所を……!」必死に言葉を重ねる。警察官の目つきが、はっきりと変わった。誠司を見る視線に、同情と困惑、そしてわずかな警戒が混じる。「一ノ瀬
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第3話
誠司は結局、逃げた。家には戻れず、行き場を失った末、出張だと嘘をついて会社に身を潜めた。一ノ瀬グループ本社、最上階の社長室。誠司は金に糸目をつけず、日当百万円でボディガードを四人雇った。全員、表の世界から姿を消した格闘家だった。二メートル近い体躯に、無駄のない筋肉が詰まっている。四人の巨体に囲まれ、誠司はようやく、かすかに息を整えた。椅子にふんぞり返り、腕の中には瑠華。手には赤ワイン。「あのイカれた女……ほとぼりが冷めたら、必ず殺してやる!」歯ぎしりしながら吐き捨て、遠慮もなく瑠華の身体に手を這わせた。瑠華は甘えた声で、ぶどうを口元へ運ぶ。「誠司さん、あの人……もう女として終わってません?いっそ、人に頼んで――」言い切る前に。社長室の重厚な木の扉が、静かに押し開けられた。ピンクの保温ジャーを提げ、シンプルなスポーツウェアに、高いポニーテールのまま。私は、そのまま中へ入っていく。「あなた、残業だって聞いたから。スープを持ってきたの」誠司の手が震え、赤ワインが瑠華の服にぶちまけられた。「やめろ! 外へ放り出せ!早く!」私を指さして金切り声を上げ、声が裏返る。四人は顔を見合わせ、獰猛な笑みを浮かべて詰め寄ってきた。――あいつらの目には、私は指先で始末できる存在にしか映っていない。「奥さま。どうぞ。こちらも、手荒な真似はしたくありません」先頭の男が、私の肩を掴もうと手を伸ばす。私は、保温ジャーを床に置いた。首を軽く回す。コキッ、と乾いた音。視線が一気に冷え、殺気が弾ける。その大きな手が、私に触れる寸前。身をかわし、手首を取る。勢いを借り、回り込み、そのまま――背負い投げ。流れるような動きで、残像しか残らない。ドン!百キロ級の大男が、抵抗もできないままローテーブルへ叩きつけられた。テーブルは無残に砕け、破片が床に飛び散る。残りの三人が、凍りついた。反応する暇もない。私は、もう踏み込んでいた。横蹴り。二人目の喉を、正確に捉えた。至近距離。力は一点にだけ通す。男は喉を押さえ、声も出せないまま真っ直ぐ崩れ落ちた。空気を吸えず、数秒でもがいて、そのまま意識を失う。三人目が拳を振り抜いてくる。私は身を低くしてかわし、そのまま相手の足
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第4話
誠司は肝を潰したくせに、引き下がらなかった。腕力で無理なら、今度は世間体で縛りにかかる。日曜日。玄関の扉が叩きつけられ、家が揺れるほどの音を立てた。性悪な義母――一ノ瀬智子(いちのせ ともこ)が、親戚をぞろぞろ引き連れて、十人以上で押し入ってきた。誠司は集団のいちばん後ろに隠れ、味方が増えた分だけ背筋を少し伸ばした。「紗弥!この性悪女!出てきなさい!」智子は玄関に入るなり、私の鼻先を指差して怒鳴りつけた。興奮のあまり、唾まで飛んでくる。「ほんっと、ついてないね!なんでこんなのを嫁に取ったんだか!息子に手を上げるなんて……!頭おかしいんじゃないの!?」親戚たちも、それに便乗する。「そうよ、誠司があんなに怯えきって。こんな生活、もう続けられるわけないでしょう。離婚よ、離婚!叩き出して、身一つで出ていかせなさい!」私はソファに腰を下ろしたまま、育児書を開き、まぶたすら持ち上げなかった。「……言いたいことは、それだけ?」その態度が、完全に火に油だった。智子は顔を真っ赤にして詰め寄り、ローテーブルをひっくり返そうとした。「まだそんな口を利くのかい!今日はね、出ていくまで帰らせないよ!この家は、うちの息子のものだ!孫の親権だって、渡すわけないだろ!」――孫。その一言で、ページをめくる指が止まった。私はゆっくりと本を閉じ、立ち上がる。部屋の空気が、ずしりと沈む。誠司が異変を察し、思わず一歩身を引いた。「母さん……もうやめろ……」もう遅い。私はローテーブルの上に置かれていた。厚底のグラスを手に取った。皆の目の前で。指を握り込む。バキッ。特注の強化グラスが、私の掌の中で細かく砕けていく。ガラス片と白い粉塵が、さらさらと床に落ちた。掌には傷ひとつない。部屋の空気が、一瞬で凍りつく。さっきまで喚いていた親戚たちは、口を開けたまま言葉を失った。――どれほどの握力だ。そんな思考が、ありありと顔に浮かんでいる。私は智子に向かって、一歩ずつ距離を詰めた。智子は足から力が抜け、その場に尻もちをつく。「な……何をする気……人殺し……」私は腰を落とし、肩口の痺れやすい筋を、指先で軽く押した。「ひゃあっ!」悲鳴と同時に、智子の身体が半身だけ崩れる
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第5話
スカイヒルズ。ここは誠司が瑠華のために用意した巣だ。現金一括で購入し、名義まですべて瑠華に移してある。私は玄関先に立ち、ためらいなく呼び鈴を押した。扉が開く。瑠華は、誠司が買い与えた真新しいシルクの寝間着をまとっていた。胸元はわざと深くはだけられ、白い首筋には重なるように残されたキスマークが、これ見よがしに晒されている。手には赤ワイン。向けられた視線には、隠しもしない侮蔑が宿っていた。「あら、来たの?おばさん。怖くて来られないかと思ってたけど?」彼女は身体をずらし、勝ち誇ったような表情で中へ招き入れた。リビングではアロマキャンドルが揺らめき、空気だけが不自然なほど甘ったるい。だが私は、玄関の花瓶の中、テレビの機器の上――あちこちに潜む、かすかな赤い点滅を見逃さなかった。小型カメラ。私を挑発し、手を出させ、その瞬間を押さえて刑務所送りにするつもりなのだろう。考えてはいる。――けれど、浅い。「紗弥、誠司はとっくにあなたに飽きてるわよ。ベッドの上じゃ、ただのマグロだって言ってた。見てるだけで萎えるって」瑠華はワイングラスを揺らしながら、じりじりと距離を詰める。言葉を刃に変え、私を切り裂こうとする。「ねえ、あなた。私に勝てるところ、どこにあるの?さっさと離婚届にサインして、無様にしがみつくのはやめなさいよ」私はリビングの中央に立ったまま、表情ひとつ変えなかった。「言い終わった?」一瞬、瑠華が言葉を失う。私が動じないことが、よほど想定外だったのだろう。次の瞬間、歯を食いしばり、衝動的にワインをぶちまけてきた。「消えろ!」私はわずかに首を傾ける。赤い飛沫は虚しく空を切った。――その刹那。私の指先から弾き出されたのは、一枚の硬貨。パシン!部屋の隅に設置されたブレーカー箱を撃ち抜いた。火花が散り、ジジッ、と焦げるような音が走る。次の瞬間、アパート全体が闇に沈んだ。「あっ……なに!?停電!?」瑠華の声が上ずる。指先すら見えない闇が、本能的な恐怖を呼び起こす。私はポケットから暗視ゴーグルを取り出し、装着した。世界が濃い緑に染まり、物の輪郭が鮮明に浮かび上がる。――狩りの時間だ。靴を脱ぎ、裸足でカーペットの上を滑るように進む。足音は、ない。瑠華は手探りで手探
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第6話
誠司は、とうとう独りになった。家には戻れず、瑠華の周辺も大炎上だ。金持ちのボンボン三人は、自分たちが同時に騙されていたと知り、瑠華を探し回っては落とし前を迫っている。誠司が身を寄せられる場所は、会社しかない。そこが――彼に残された、最後の砦だった。月曜の朝。一ノ瀬グループ本社ロビー。私は端正なスーツに身を包み、八センチのヒールで堂々と足を踏み入れた。受付が制止にかかる。私は一枚の書類を突き出す。「社長の妻が視察に来ただけ。何か問題でも?」騒ぎを聞きつけ、誠司が警備員を連れて駆けつける。「紗弥!ここは会社だ!勝手な真似をする場所じゃない!」私が薄く笑うと、背後からスーツ姿の年配者が数人、静かに前へ出た。――同社の大株主たちだ。「社長。紗弥さんは、私どもから譲渡した15%の株式を保有しています。ご夫婦の共有財産分を含めれば、個人としては最大の株主です。帳簿を確認する権利があります」それは、この三年間、私がへそくりを積み上げ、裏で買い集めてきたものだった。誠司の顔色が、一気に失せる。殴られたように、その場で固まった。私は迷いなく経理部へ向かう。「これより帳簿を洗う。隠蔽があれば――そのまま刑務所行き」経理部は、たちまち蜂の巣をつついたような騒ぎになった。そこへ、頭に包帯を巻いた瑠華が駆け込んできて、誠司に縋りつく。「誠司さん!助けてください! あの男たち、私を殺す気なんです!」私は帳簿から顔を上げ、部屋の隅に置かれた清掃用具を指した。「うちは、無駄飯を食う人間は要らない。秘書なら――来たついでに、トイレを掃除して」「紗弥、ふざけるな!」誠司は反射的に、瑠華をかばおうと前へ出た。私は、分厚い領収書の束をその顔面に叩きつける。「この二千万円の飲食代、どこで使ったの?瑠華のベッド?それとも下着屋?」フロアに、どっと笑いが広がった。誠司の顔が、みるみる赤黒く変わっていく。――昼休み。誠司には重要なオンライン会議が控えていた。業界の大物たちを前に、プレゼンを行う予定だ。私は親切そうな顔で、誠司にコーヒーを淹れてやった。ほんの少し、仕込んでおいた。特注の強力な下剤。効き目は早く、容赦もない。会議が半ばに差しかかったころ。誠司は熱のこもった声で
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第7話
誠司の面目は完全に潰れ、株価まで下落に転じた。追い打ちをかけるように、私は誠司が公金を横領し――瑠華という底なし沼を埋め続けていた証拠を掴んだ。穴を塞ぐため、誠司は危ない橋を渡る決断をする。目をつけたのは、ハイリスクな海外投資案件。――それは、私が仕掛けた罠だった。競合会社の社長に根回しし、酒席で「うっかり」この濡れ手に粟の話を漏らさせる。誠司は、溺れる者が藁にすがるように食いついた。資金を突っ込み、損失を取り戻そうと焦る。だが、会社の口座はすでに空っぽだった。身の程も知らない瑠華が、取り分欲しさに誠司を闇金へと焚きつける。「一ノ瀬さん、この資金を入れれば来月には倍です!そのときには、穴なんて全部埋まります!」誠司は信じた。闇金の契約書にサインし、会社に残っていた運転資金まで担保に差し出した。――一週間後。案件はあっけなく崩壊。資金繰りは完全に断たれた。誠司は一瞬で十億円の巨額債務を背負う。闇金は法律など気にしない。刺青だらけの男たちが会社になだれ込み、ペンキをぶちまけ、横断幕を掲げ、拡声器で返済を迫った。誠司は机の下に潜り込み、恐怖のあまり失禁した。――最近は、しょっちゅうだ。そのとき。私が姿を現した。清楚な白いワンピース姿で、剣呑な男たちの前に立つ。「みなさん、借りたものを返すのは当然です。でも、夫に手は出さないでください。三日ください。私が何とかします」実のところ、彼らは私が金で雇った役者だ。――借金だけは、本物だけれど。誠司は私を見るなり、感極まって泣き崩れた。「紗弥……やっぱりお前だけだ……俺、今まで最低だった……」私はそっと彼を起こし、頬についたペンキを拭ってやる。「誠司。私たちは家族よ。命さえあれば、お金はまた稼げる。でも、また来られたら困るわ。あなた名義の家と車、いったん私に移して。抵当に入れて、返済に回すから」誠司は迷わずうなずいた。それどころか、私の手際に感心している様子だった。「わかった。今すぐ移すから」それが命綱になると、誠司は本気で信じていた。資産譲渡の書類を受け取った、その瞬間。私は、笑った。くるりと背を向け、闇金の生々しい借用書を百部コピーする。誠司の損得勘定だけで動く両親と、親戚知
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第8話
追い詰められた人間は、何だってする。誠司は、私を道連れにする気になった。私の隙を突き、ガソリンのポリタンクを買い、ベッドの下に隠していたのだ。深夜。月のない、風の荒い夜。誠司は獰猛な笑みを浮かべ、寝室じゅうに液体を撒いた。手にはライター。目は、正気を失っている。「紗弥!一緒に死ぬぞ!全員、道連れだ!お前もだ!あのクソガキも!」誠司は、美桜が隣の部屋で眠っていると思い込んでいた。だが、美桜はとっくに私が安全な場所へ移してある。パチッ。ライターが弾かれ、火が跳ねる。誠司は高笑いし、そのまま床の液体へ投げつけた。――だが、炎は上がらない。聞こえたのは、シッ、という乾いた音だけ。ライターは床に落ち、すぐに消えた。誠司は固まった。床に這いつくばり、液体に鼻を近づける。ガソリンの匂いがしない。あるのは、かすかな水道水の匂いだけ。「どうして……俺は確かに……」パチッ。寝室の灯りが、ぱっと点いた。私はドア口に立っていた。部屋着はもう脱いである。黒の作業服が、身体の線をはっきりと浮かび上がらせる。足元はブーツ。太腿の外側には短剣。指先で弄んでいるのは、ライターだった。小さな火が、私の指の間で踊る。「それ、探してた?」誠司は床にへたり込み、殺気そのものの私を見上げて、完全に絶望した。「……最初から、知ってたのか……」私は一歩ずつ距離を詰める。空気が重くなり、誠司の呼吸が詰まる。「誠司。自殺すら、まともにできないのね」目の前まで行き、見下ろす。「火遊びがしたいなら――望みどおりにしてあげる」私は火を消し、ブーツで誠司の手を踏み抜いた。「ああ――!」「これは、美桜の分」ゴキッ。もう片方。「これは私の分」ゴキッ。左脚。「これは――あなたのせいで倒れた、両親の分」ゴキッ。右脚。四肢は、すべて折れた。誠司は、手足を奪われた芋虫のように床でのたうち、やがて、悲鳴すら途切れた。私はスマホを取り出し、長いあいだ封印していた番号へ発信した。「コードネーム『修羅』、任務完了。対象を確保しろ」次の瞬間、サイレンが夜を切り裂いた。来たのは交番の巡査ではない。捜査二課と、特殊部隊だった。私は、誠司の
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第9話
法廷が開かれた。厳かな法徽の下、誠司はうなだれて立っていた。証拠は揃い、もはや弁解の余地はない。「被告人・一ノ瀬誠司。業務上横領罪、背任罪、傷害罪。以上を併合罪として、無期懲役に処する。また、刑の執行が終わるまで公民権を停止する。被告人・白川瑠華。詐欺罪および殺人罪の教唆。以上を併合罪として、懲役十五年に処する」木槌の音が、法廷の静寂を断ち切った。その瞬間、誠司ははっと顔を上げ、傍聴席を見渡した。私は最前列に座り、すっかり元気を取り戻した美桜を抱いている。美桜は、原形もとどめないほどやつれた男に怯え、私の胸に小さく身を寄せた。「ママ、あの人、だれ?」私は美桜の頭を撫で、穏やかに答える。「悪いことをした人よ。もう、おまわりさんに捕まってる」誠司の目に浮かんだのは、後悔と、絶望と、底知れぬ恐怖だった。唇が動く。私の名を、美桜の名を呼ぼうとしたのだろう。――けれど、私はその機会を与えなかった。表情を消したまま立ち上がり、美桜を抱いたまま、静かに背を向ける。振り返らない。未練は、もうどこにもない。裁判所の外へ出る。陽射しは強く、空気は驚くほど澄んでいた。大きく息を吸い込み、胸の奥がようやく軽くなる。三年間、心にのしかかっていた重石が、音もなく砕け散った。「ママ、どこ行くの?」「遊園地よ。約束したでしょ」背後では、護送車が誠司を乗せ、刑務所へ向かっていった。――中では、妙に手厚い扱いを受けているらしい。かつて踏みにじられた社員や、騙された取引先たちは、それぞれの伝手を使い、中の人間に「よろしく頼む」と話を通したという。彼が中で、穏やかに過ごせる理由は、もうどこにもなかった。私は誠司名義の資産をすべて処分した。そして、DV被害者支援の基金を立ち上げ、結婚という檻の中で苦しむ女たちの、逃げ道を作った。誠司の両親は、その事実を受け止めきれず、二人そろって倒れ、いちばん質素な介護施設で余生を送ることになった。すべてが、ようやく終わった。悪は、巡り巡って報いを受ける。――三年後。私は、自分で立ち上げた警備会社のビル最上階に立ち、ガラス越しに街を見下ろしていた。三年という時間で、この会社は業界でも指折りの存在になった。富裕層向けの高度な警護。そし
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