All Chapters of 身代わり妻の海外逃亡〜遅すぎた夫の懺悔〜: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

地上係員は困惑した表情で湊を一瞥し、事務的な礼儀正しさで拒絶した。「恐れ入りますが、お客様の個人情報をお教えすることはできかねます」「俺の妻なんだ!」湊は充血した目で怒鳴り散らした。「いいから教えろ、話があるんだ!」「お客様、お急ぎでしたらご本人様に直接ご連絡をお取りください」「電源が切れてるんだよ!」「……左様でございますか。ですが、私どもでお力になれることはございません」行き交う人々で溢れ返るロビーの真ん中で、湊は生まれて初めて、巨大な喪失感と途方もない無力感に打ちのめされた。あてもなく広いフロアを何度も何度も彷徨い歩く。電光掲示板には、世界各地へと飛び立つフライト情報が無情に更新され続けていた。彼女がどこへ向かったのか、見当もつかない。どこから手をつければいいのかさえ、今の彼には分からなかった。結局、湊は独り、自宅へと車を走らせるしかなかった。小夜子のいない家は、まるで氷穴のように冷え切っていた。以前なら、どんなに帰りが遅くなっても、リビングには必ず彼女が灯した明かりが待っていた。だが今は、底冷えするような暗闇があるだけだ。スイッチを入れると、無機質な照明ががらんとした室内を白々と照らし出した。湊は酒棚へ歩み寄り、強い酒のボトルを掴むと、そのまま喉に流し込んだ。焼けるようなアルコールが食道を通り抜けるが、胸の奥で渦巻く空虚な恐怖までは消してくれない。ボトルの半分も空けた頃、湊はたまらず洗面所に駆け込み、胃の中のものをすべてぶちまけた。床に膝をつき、意識が遠のくほどの嘔吐を繰り返す。ようやく顔を上げると、鏡の中には無様に変わり果てた自分の姿があった。目は赤く血走り、顎には無精髭が伸び放題で、まるで追い詰められた野良犬だ。ふと視線を落とすと、薬指には薄っすらと指輪の跡が残っていた。彼はそれを剥ぎ取るように外そうとし、あるいは投げ捨てようとして、指に力を込める。だが、どうしても手放すことができなかった。湊は指輪を手のひらの中に強く、強く握りしめた。金属の感触が皮膚に食い込み、鋭い痛みが走った。その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。画面には「理央」の文字。通話ボタンを押すと、甘ったるい猫なで声が鼓膜を打つ。「湊さん、私一人で怖いの……今夜、来てくれない?」
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第12話

湊は立ち尽くしたまま、顔色を失っていく。そんな無様な湊の姿を見て、由貴は不意に哀れみのような感情を覚えた。「小夜子、発つ前に言っていたわ」彼女は声を落とした。静かだが、決定的な拒絶の響きを含んだ声で。「『もし湊が来たら伝えて』って。『心が死ぬというのは、こういうことなのね。私にはもう、あの人を憎む気力さえ残っていないわ』……そう言っていた」湊の全身が大きく揺らいだ。まるで体中の血液が凍りついたかのように、よろよろと後ずさり、背後の冷たいコンクリート壁に激突する。心が、死んだ。憎む気力さえ、残っていない。今の自分には、彼女に憎まれる資格さえ残されていないというのか。由貴は最後にもう一度だけ憐れむような視線を向け、そのまま背を向けて去っていった。湊は、両足の感覚がなくなるまでその場に立ち尽くしていた。痺れた足を引きずるようにして、ようやくの思いで車に戻る。帰る気にはなれなかった。あの空虚な邸宅には、もう怖くて戻れない。あてもなく街を流し、辿り着いたのは夜の静まり返った川沿いだった。車を停め、窓の外に広がる黒々とした水面を眺める。頭の中では、由貴の言葉が何度も、何度もリフレインしていた。「本当に愛しているから?それとも、いなくなって不便なだけじゃないの?」自分は小夜子を愛しているのだろうか。分からない。ただ、この一ヶ月の自分は、まるで魂を抜き取られた抜け殻のようだった。食事をしようとすれば、彼女が趣向を凝らして作ってくれた朝食を思い出し、眠りにつこうとすれば、腕の中に潜り込んできた彼女の体温を思い出す。深夜まで仕事に没頭していれば、彼女がそっと差し出してくれた一杯のホットミルクが恋しくなった。家の至る所に、彼女の面影が染み付いている。キッチンには、スープを煮込もうとして火傷をした跡が残り、書斎の本棚には、彼女が忍ばせておいた胃薬と手書きのメモが今も置かれている。リビングのソファには、彼女が愛用していたブランケットが置かれたままで、そこからは今も、彼女の微かな残り香が漂ってくる。以前は、彼女を煩わしいと思っていた。まとわりついてくる、自分を持っていない女だと見下していた。だが、彼女がいなくなった今、家も、そして自分の心も、がらんどうになってしまったことにようやく気づいたのだ。湊は
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第13話

日記は、そこでしばらく途切れていた。次に記された日付は、あの日――流産した日だった。乱れた筆跡、ところどころが涙の跡で滲み、判読できない箇所もある。【あの子がいなくなった。彼は言った。私が理央さんを突き飛ばしたりしなければ、私を閉じ込めたりはしなかったのに、と。理央さんは血が止まりにくい持病があるから、あの転倒は致命傷になりかねなかったんだ、と。彼は言った。埋め合わせはする、と】【湊。私の愛も、私の命も、あなたにとっては一文の価値もないのね】そのページの最後、紙を突き破らんばかりの筆圧で、絶望に震える文字が綴られていた。【もう、これ以上は、耐えられそうにない】日記はそこで唐突に終わりを告げていた。あとに続くのは、どこまでも続く真っ白な空白だけだった。湊は最後の一ページをめくった。すると、中から一枚の皺くちゃになった紙が滑り落ちた。拾い上げ、震える指で広げる。それは、エコー写真だった。日付はあの日――彼女が子供を失った日だ。中央には小さな、頼りなげな影が写っている。下部には、妊娠約十二週との診断結果が記されていた。裏面には乾いた涙の痕と、今にも消え入りそうな小さな文字が並んでいた。最後の力を振り絞って書いたかのような、弱々しい筆跡。【赤ちゃん、ごめんね。ママ、あなたを守ってあげられなかった。それから、ごめんなさい。あなたのパパが、あなたを望んでいない世界に連れてこようとして】その一行を凝視したまま、湊は目を見開き、呼吸を忘れた。目に見えない巨大な手に心臓を鷲掴みにされ、力任せに捻り上げられたような衝撃。あまりの激痛に、彼は胃を押さえて深く折れ曲がった。それは、単なる罪悪感ではなかった。あまりにも遅すぎた、身を裂くような、狂おしいほどの愛おしさ。――そして、取り返しのつかないことをしたという激しい後悔だった。視界が暗転し、耳の奥で激しい耳鳴りが止まらない。不意に、あの日の光景が蘇る。病院のベッドに横たわる小夜子の顔は、紙のように白く、その瞳には何の光も宿っていなかった。「俺が悪かった。退院したら、また子供を作ろう」傲慢にもそう口にした自分に、彼女は虚ろな声で返した。「……湊。命の償いができるものが、この世にあるとでも思っているの?」あの時の言葉の意味が、今、ようやく理
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第14話

小夜子は顔を上げ、彼の姿を認めた瞬間、表情から一切の温度を消し去った。そこに残されたのは、氷のような無関心と、隠しようのない不快感だけだった。「……桐生さん?」彼女は口を開いた。波ひとつ立たない、静かな声だ。「何かご用ですか?」「桐生さん」という他人行儀な響きが、無数の針となって湊の心臓を深く突き刺した。「君を探しに来たんだ……お願いだ、一緒に帰ろう。もう一度、話をさせてくれ」湊は乾ききった喉で、必死に言葉を絞り出した。「私たちに、話すことなんてあるかしら」小夜子は、まるで道端の石ころでも見るかのような冷徹な視線を彼に向けた。「離婚届が受理されたあの日、すべては終わったはずよ。桐生さん、そこをどいて。急いでいるの」彼女は冷たく言い放つと、湊の脇をすり抜けようとした。湊は反射的に、彼女の手首を掴んでいた。肌から伝わる体温は、記憶にある通り柔らかで温かい。だが、それが今の湊にはたまらなく恐ろしかった。「ごめん、小夜子……」掠れた声は、もはや哀願に近かった。「俺が間違っていたんだ。取り返しのつかないことをしたと、ようやく分かった……見てくれ、指輪も持ってきた。もう一度、やり直してくれないか。頼む」彼はポケットからあの結婚指輪を取り出すと、手のひらに載せて彼女の前に差し出した。かつての傲慢な面影など微塵もない。その姿は、泥にまみれて許しを乞う罪人のようだった。小夜子は視線を落とし、夕闇の中で冷たく光るプラチナの輪をじっと見つめた。そして、ふっと笑った。それは、あからさまな嘲笑だった。「桐生さん」彼女は顔を上げ、ナイフのように鋭い眼差しで彼を射抜いた。「あなたが振り向きさえすれば、謝りさえすれば、この指輪一つで私がいつまでもあなたを待ち続けているとでも思っていたの?私が、一生あなたに執着し続けるとでも?」湊の顔から血の気が引いた。彼女の手首を掴む指先が、小刻みに震えている。「違う、そんなつもりじゃ……」「遅すぎるのよ」小夜子は彼の言葉を遮り、まるで汚いものに触れたかのように、力任せにその手を振り払った。「あなたの謝罪も、その指輪も、あなたという存在そのものも」彼女は一言一言、突き放すように、明瞭に言い放った。「今の私には、何ひとつ必要ないわ。二度
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第15話

言い終えると、彼女は迷いなく立ち上がった。二度と彼を振り返ることはなく、通りの脇でタクシーを拾うと、夜の街へと消えていった。氷のようなアスファルトに横たわったまま、湊は彼女が去った方向をただ見つめていた。胸の奥を素手で引き裂かれたような、全身が痙攣するほどの痛みが襲う。だが、肉体の損傷など、彼女が放った言葉の鋭さに比べれば万分の一の苦痛でしかなかった。初めて彼女のために命を懸けた。突き飛ばした瞬間、自分の体がどうなるかなんて微塵も考えなかった。ただ、彼女に傷ついてほしくなかった。それだけだったのだ。なのに、彼女は一瞥もくれなかった。自分の流す血を「吐き気がする」と言い放った。死んでも許さないと、死を前にしてもなお拒絶した。湊は重い瞼を閉じた。目尻から、血の混じった涙がこめかみへと伝い落ちていく。湊の左腕は複雑骨折を負い、ギプスで固められた。右脚も激しく打ちつけ、杖なしでは歩けない状態だった。医師は入院しての経過観察を強く勧めたが、彼はそれを頑なに拒絶した。退院の手続きを無理やり済ませると、湊は杖を突き、引きずるような足取りで独り、ホテルの部屋へと戻った。翌日、湊は再び小夜子のオフィスビルの前に姿を現した。腕を吊り、足を引きずり、顔色は死人のように青白い。それでも彼は頑ななまでにその場を動かず、ビルの出口を凝視し続けていた。退勤する小夜子が姿を見せたが、彼女の歩みに迷いは微塵もなかった。湊を視界に入れても、道端に転がる石ころでも見るかのように冷淡な一瞥をくれただけで、無表情にその脇を通り過ぎていく。湊は唇を震わせ、彼女の名を呼ぼうとしたが、喉が引き攣って声にならない。彼はただ杖を突き、不自由な足取りで、彼女の後を遠くから追いかけた。その姿は、まるで誰にも望まれない滑稽な影のようだった。三日目、彼は燃えるような深紅のバラの花束を抱えて待っていた。ビルから出てきた小夜子は、視線すら合わせずに横を通り過ぎる。湊は花束を抱えたまま、必死に彼女を追い、その手に押し付けようとした。「小夜子、これ……君が一番好きだった……」「湊、言葉が通じないの?」小夜子が足を止め、振り返った。その瞳は芯まで凍てついている。「二度と現れないでと言ったはずよ」彼女は突き出された花束をひったくるように受
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第16話

湊の脳内で、何かが音を立てて弾け飛んだ。助燃剤。理央の部屋。あの夜、理央が「一人だと怖い」と泣きつき、泊まらせてほしいと言い出した時のことが蘇る。小夜子は、ただ淡々とこう言った。「ゲストルームなら一階の突き当たりにあるわ。シーツも枕カバーも清潔なものに替えてあるから泊まりたければ、好きにすればいいじゃない」あの時の彼女はあまりに穏やかで、何もかもを悟ったようだった。湊はそれを「わがままを言わなくなった、聞き分けの良い妻」だと思い込んでいた。だが、それは従順などではなかった。絶望の果てに、心が死んでいただけだったのだ。「それから……」秘書の声は、さらに沈痛な響きを帯びていた。「あのバルコニーの件ですが……当日現場にいたスタッフ数名に改めて聞き取りを行いました。彼らの証言によれば、先に小夜子様へ歩み寄り、言葉をかけたのは理央様の方だったそうです。そして、理央様が突然、小夜子様を突き飛ばした、と」「小夜子様は落下する間際、理央様の腕を掴みましたが……すぐに自ら手を離されたそうです。理央様はその後、無理心中を迫られたと主張されていましたが、現場にいた複数の証言とは……食い違いがあります」秘書がその後何を語ったのか、湊の耳にはもう届かなかった。彼はスマートフォンを握りしめたまま、異国の街角で立ち尽くした。耳の奥では激しい不協和音が鳴り響き、視界が急速に色を失っていく。残酷な真実が、鋭利な刃となって彼の全身を刻んでいた。これまで自分が必死に守り続けてきた、純粋で無邪気だと思い込んでいた理央こそが、狡猾な毒蛇だったのだ。そして、自分が疎み、無視し、傷つけ、地獄へと突き落とした小夜子こそが、何よりも大切に慈しむべき宝物だった。自分はただ、目が眩んでいたのではない。愚かで、滑稽で、あまりにも残酷だったのだ。すべてが白日の下に晒された今、湊はようやく正気に返った。けれど、もう遅すぎた。何もかもが、取り返しのつかないところまで壊れてしまった。一心に自分を愛し続けてくれた、あの小夜子を――自分は、永遠に失ってしまったのだ。湊は通話を終えると、魂を抜かれた彫像のようにその場に立ち尽くした。吹き抜ける夜風が、薄いコートを激しく打ち鳴らす。だが、寒さは感じなかった。ただ、胸に開いた穴がどこ
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第17話

湊がその場に跪き続けて、どれほどの時間が経っただろうか。両足の感覚はとうに失せ、凍てつく夜風が体の熱を奪い去っていた。ようやく、彼は地面を支えに立ち上がろうと力を込めた。だが、不自由な足に加え、長時間跪いていた衝撃で、何度試みても無様に崩れ落ちてしまう。最後には這いつくばるようにして傍らの杖を掴み、全身の力を振り絞って、どうにかその身を支え立たせた。杖を突き、足を引きずりながら、彼はゆっくりとその場を去る。その背中はひどく丸まり、まるで老いさらばえた老人のようだった。深い夜の闇が、彼の姿を音もなく飲み込んでいった。湊は自国へと帰国した。かつての荒れ果てた姿はどこにもない。隙のない三つ揃いのスーツを身にまとい、冷徹な桐生グループ代表としての顔を取り戻していた。だが、その瞳の奥底には、すべてをなぎ倒さんとする氷のように冷酷な殺意が揺らめいている。帰国して真っ先に着手したのは、理央に関するすべての証拠――防犯カメラの記録、火災現場の残留物鑑定書、そして目撃者の証言――をまとめ上げ、理央の父である深町拓也(ふかまち たくや)のもとへ送りつけることだった。添えられた言葉は、たった一行。【これまでの付き合いに免じて、二つの道を用意した。一、直ちに彼女を閉鎖病棟へ入れ、療養させること。二、俺が警察へ通報する。これらの証拠があれば、最低でも十年の実刑は免れないだろう。どちらか選べ】メールを送信したその日の午後、拓也から何度も着信が入った。湊は一度も出なかった。痺れを切らした拓也は桐生グループの本社へ乗り込んできたが、エントランスの警備員に阻まれ、足止めを食らう。結局、湊の秘書が冷淡な面持ちで現れ、伝言を告げた。「湊様は、お会いするつもりはないとのことです。お引き取りの上、理央様の躾を正されては、と。さもなければ、相応の報いを受けることになります」拓也はロビーで二時間も立ち尽くしていたが、最後には力なく背を丸めて去っていった。翌日、湊は深町家に対する全面的な経済制裁を開始した。わずか一週間のうちに深町家の基幹事業は次々と頓挫し、資金繰りは完全にショート。倒産はもはや時間の問題となった。万策尽きた拓也は、なりふり構わず桐生本社の前で跪き、湊に慈悲を請うた。ようやく、湊が姿を現す。階段の上に立
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第18話

湊は足元を見下ろした。かつては自分が慈しみ、守らなければならないと信じ込んでいた幼馴染の姿が、今はただひたすらに見知らぬ怪物のように思え、吐き気を催すほどに忌まわしかった。彼は足を動かし、縋り付くその手を無慈悲に振り払った。「今日を限りにお前との縁を切る」湊は背を向け、二度と彼女を見ようとはしなかった。「連れて行け。予定通り病院へ叩き込め。……もし、また俺や小夜子の前に姿を現してみろ」一呼吸置き、氷のような声が響く。「その時は、死ぬより辛い後悔を味合わせてやる」床に頽れた理央は、その決絶な背中を見つめながら、突如として甲高い声を上げて笑い出した。その笑い声は、耳を裂くほどに鋭く、凄惨だった。「小夜子さんはもう行っちゃったわ!あなたなんて捨てられたのよ!目を覚ましなさいよ、湊さん!彼女があなたを許すはずなんてない!あなたがこんなことをしたって、彼女は知りもしないし、知ったところでどうでもいいのよ!彼女はあなたを憎んでる!一生、絶対に許してくれないわ!」湊の足が、止まった。背中が、一瞬だけ硬直する。『一生、絶対に許してくれない』その言葉は、毒を塗った刃となって、彼の心の一番柔らかく、今も血を流し続けている場所を正確に突き刺した。彼はよろめき、近くの壁に手をついてどうにか立ち続けた。振り返ることはなかった。何も言い返すこともなかった。ただ、痛みに耐えるように背筋を伸ばし、一歩、また一歩と、その場を離れていった。その凛とした後ろ姿には、言いようのない孤独と荒涼とした空虚さが漂っていた。理央と深町家を葬り去った後、湊の体は限界を迎えた。激しい胃出血を起こし、秘書によって半ば強制的に病院へ担ぎ込まれた。診断を下した医師の表情は険しい。「長期にわたる過度な精神的ストレス、そして極度の不摂生。胃粘膜がひどい状態です。即座に入院し、安静に治療に専念してください」病室のベッドに横たわった湊は、真っ白な天井を虚ろな目で見つめていた。彼は本格的な治療を拒み、最低限の薬と栄養剤の点滴だけで命を繋ぐことしか許さなかった。見かねた秘書が何度も説得を試みたが、彼は目を閉じたまま、一言も発しようとしない。ついに秘書は、湊の自宅から一台の古いスマートフォンを持ってきて、彼に差し出した。「湊様……これ
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第19話

秘書は受話器を握りしめたまま、病室に目を向けた。思い出と点滴だけで命を繋ぎ、痩せこけ、虚ろな眼差しで横たわる男。その姿に、喉が詰まって言葉も出なかった。一年が過ぎた。小夜子は目覚ましい活躍が認められ、本社の命を受けて自国へ戻ることになった。大規模な国際会議における、重要な同時通訳チームの一員として白羽の矢が立ったのだ。会場は、都心でも指折りの格式を誇るコンベンションセンターだった。その知らせが届いた時、湊は役員会議の真っ最中だった。秘書が耳元で数言囁くと、万年筆を握る湊の手が止まり、書類の上に無残な一本の線を引いた。彼は長い沈黙の後、小さく手を振って会議を続行させた。だが、それ以降の議論は全く頭に入っていなかった。彼の視線は、幾度となく窓の外の虚空へと彷徨った。会議が終わると、彼はオフィスに引きこもり、一箱分の煙草をひたすら灰に変えた。それから、密かに会場のスタッフを抱き込み、ある手配をさせた。当日。湊は会場の最後列、そのさらに一番隅の席に座っていた。深く被った帽子とマスクで顔を隠し、自らを闇に溶け込ませる。近づく勇気も、声をかける資格もない。ただこうして、盗むように遠くから、彼女の姿を一目見ることしか許されなかった。会議が始まると、同時通訳者の一人として、ガラス張りの通訳ブースの中に小夜子の姿が現れた。洗練されたダークブルーのスーツに身を包み、髪を凛と結い上げた彼女は、ヘッドセットを装着して壇上の発言に神経を研ぎ澄ませている。キーボードを叩く指先、流暢かつ正確な訳文を紡ぎ出す唇。彼女の声はスピーカーを通じて、会場の隅々にまで響き渡った。自信に満ち、たおやかで、眩いばかりの光を放っている。湊は瞬きも忘れ、貪るようにその姿を見つめ続けた。彼女の姿を魂に刻みつけようとするかのように。胸の奥が、鋭いナイフで抉られるように疼く。身を切られるような痛み。だがそれは、自虐的なまでの充足感を伴っていた。俺の小夜子は、こんなにも輝ける人だったのだ。俺がいなくても、彼女はこれほどまでに素晴らしい人生を歩めるのだ。その残酷なまでの現実を、湊はただ噛みしめていた。会議は丸一日続いた。終わる頃には、街の至るところに明かりが灯り始めていた。小夜子は同僚と談笑しながら会場を後にし、入り口で別
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第20話

救急車の中では、隊員たちが慌ただしく傷口の処置を施し、バイタルサインを計測していた。傍らに座る小夜子の手やコートは、湊の血で赤く染まっている。ねっとりと温かく、重苦しい鉄の匂いが鼻をついた。担架の上で蒼白になり、目を閉じている男を、彼女は無表情に見つめていた。ただ、固く結ばれた唇の端だけが、微かな緊張を物語っている。昏睡状態の中、湊はうわ言を繰り返していた。「小夜子……すまない……あの子も……ごめん……行かないでくれ……俺を置いていかないで……」それは、死の淵にある者の絶望が滲む、掠れた断片だった。小夜子は視線を逸らし、窓の外を飛ぶように過ぎ去る夜景を見つめた。流れる街灯の光に照らされた彼女の横顔は、石のように冷たく、硬かった。病院に到着すると、湊はそのまま手術室へと運び込まれた。頭上で「手術中」のランプが点灯する。廊下の長椅子に座る小夜子の手やコートでは、すでに血が乾き始め、どす黒い染みへと変わっていた。彼女はそれを拭おうともせず、ただ静かに、固く閉ざされた手術室の扉を見つめ続けていた。一分一秒が、重苦しく過ぎていく。どれほどの時間が経っただろうか。ようやく扉が開き、医師が険しい表情で姿を現した。「非常に危険な状態です。一突きは脾臓に達し、もう一突きは腸を貫通していました。出血量も多く、楽観視はできません」医師は言葉を切ると、小夜子の目を真っ直ぐに見つめた。「それに……患者本人の生きようとする意志が、極めて希薄です。このままだと、持ちこたえられないかもしれません」小夜子は視線を上げ、医師を見つめ返した。「ご家族の方はいらっしゃいませんか? あなたは……」医師が探るように尋ねる。「元妻です」小夜子は淡々と答えた。医師は一瞬言葉を失ったが、すぐに続けた。「今の関係がどうあれ、もし可能なら、彼を励ましてあげてください。生きる意欲を引き出すんです。今の彼にとって、それが生還できるかどうかの最大の鍵になります」長い沈黙が流れた。医師が、拒絶されるのではないかと思い始めたその時。小夜子はゆっくりと立ち上がり、一言だけ告げた。「分かりました」医師、そして急行してきた湊の主治医の勧めもあり、小夜子は無菌服に身を包んで集中治療室へと足を踏み入れた。ベッドに横たわる湊の体に
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