All Chapters of 元カレの宿敵の腕で幸せになります!: Chapter 201 - Chapter 210

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第201話

むしろ、咲夜は千暁の服を借りていたため少しぶかぶかではあったが、見た目は瞳よりもまだましだった。千暁の言葉もあって、瞳の関心はもはや咲夜には向いていない。瞳はまだ酒の匂いが残る自分の服を少し嫌そうに見下ろし、立ち上がって部屋のドアを開けた。千暁の姿はすでになかった。床には二つの紙袋が置かれている。一つにはビジネススーツ。もう一つには、シャネル風デザインの黒いワンピースが入っていた。瞳はその黒いワンピースの袋を咲夜に差し出した。「うちの兄、やるね。この服、咲夜の好みにぴったりじゃん」言うまでもなく、ビジネススーツのほうは自分用だろう。これからまた会社に行って必死に働かなければならないと思うと、瞳は気が重くてたまらなかった。袋の中の服を見ながら、咲夜は本当は自分の分まで用意してもらう必要はなかったのにと思った。自宅は隣なのだから、歩いて数分もかからない。だが、せっかく用意してくれたものを断るのも、かえって大げさすぎる気がした。そう考え、咲夜は服を持って洗面所に向かった。着替えた後、脱いだパジャマをきれいに畳んで袋に入れる。家に持ち帰って洗濯し、後で千暁に返そう――そう考えていた。洗面所から出ると、瞳の姿は見当たらない。咲夜は袋を提げて階下に向かった。すると階段の踊り場から、ダイニングテーブルに座って朝食を催促している瞳の姿が目に入った。「お兄ちゃん、目玉焼きはしっかり火を通してね。半熟は食べないから。ありがと、お兄ちゃん、大好き、ちゅっ」遠慮の欠片もない甘えぶりだった。そして咲夜に気づくと、すぐに手を振る。「咲夜、早くおいで!お兄ちゃんが朝ごはん作ってくれたよ!」咲夜は瞳の隣に腰を下ろした。千暁は白いシャツにエプロン姿で、袖をまくり上げながらキッチンで忙しそうに動き回っていた。やがて出来上がったサンドイッチと豆乳を運び、咲夜の前に置く。「豆乳は無調整だ」咲夜は目を丸くした。「……ありがとう」「お兄ちゃん、私は?」瞳が不満そうに催促する。すると千暁は彼女の額を軽く叩いた。「ちゃんとある」そう言って、瞳の前にはサンドイッチとブラックコーヒーを置いた。千暁の朝食も咲夜と同じ内容だった。彼はそのまま咲夜の向かい側に腰を下ろし、口を開く。「車なら、それぞれの会社に回
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第202話

千暁はまず瞳を事務所まで送り届けた。その後、咲夜を花江グループに送る道中、二人の間には、妙なほど沈黙が流れていた。咲夜は両手を組み合わせながら座っていた。昨夜の出来事を経たせいで、こうして千暁と二人きりになると、どうしても気まずさを感じてしまうのだ。「俺のパジャマ、持って帰ったのか?」沈黙を破ったのは千暁だった。しかも、よりによって気まずい話題だ。咲夜は反射的に背筋を伸ばした。「う、うん。洗ってから返そうと思って」自分が着たものなのだから当然だ。だが、ふと疑問が浮かぶ。――彼はパジャマを探したのだろうか。でなければ、自分が持ち帰ったことを知っているはずがない。千暁はくすりと笑った。「そんな面倒なことしなくていい。うちで洗濯機に放り込めば済む話だし」咲夜は、自分が着たのだから自分で洗ったほうがいいと言いたかった。だが、その言葉はなぜか喉まで出かかって飲み込んでしまう。なんとなく、口にすると妙な感じがした。千暁がパジャマの話を持ち出したことで、咲夜も咳払いをひとつして口を開く。「大丈夫。そういうわけにはいかないし。それより、私の服は……?」「ああ、うちにある。昨夜まとめて洗ったからな。たぶんまだ乾いてない」千暁の笑みが少し深くなった。咲夜は思わず隣の男を見た。昨夜のうちに洗った?しかも彼の服と一緒に?「そ、そうなんだ……」咲夜はぎこちなく笑う。「じゃあ、また時間のある時に取りに行くね。その時にパジャマも返すから」「ああ」千暁は頷いた。そして、気まずそうに笑う咲夜を見ながら再び口を開く。「昨夜は何もなかったんだ。俺がシャワーから出た時には、もう君は寝ていた。ただ、布団を掛けようとしたら離してくれなくてな。だから、ああなっただけだ」千暁は低く笑った。「寝る時に何か抱いてないと落ち着かないタイプなんだな。なかなか個性的な癖だ」最初に「何もなかった」と聞いた瞬間、咲夜は心の底から安堵した。だが、その直後の言葉で再び顔が熱くなる。「ち、違うから!」慌てて否定する。「私、物を抱いて寝る習慣なんてないし」言葉の最後は、ほとんど聞き取れないほど小さくなった。病院でのこと。そして今朝のこと。それらを思い出した瞬間、自信がなくなる。どう考えても説得力がない。なにしろ、
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第203話

咲夜の言葉を聞き、千暁も特に異論はなかった。「場所はいつもの『時雨庵』だ。着いたら俺の名前を言えば、ウェイターが個室まで案内してくれる」咲夜はその言葉をしっかりと覚えた。やがて車は花江グループ本社ビルの前に停まる。咲夜は微笑みながら言った。「送ってくれてありがとう。帰りは気をつけてね。着いたらメッセージちょうだい」千暁は頷き、それを了承した。そして車を降りた咲夜の背中を見送った。咲夜はそのまま会社に向かって歩き出す。その時だった。「咲夜!」怒気をはらんだ声とともに、静香と青音が脇から飛び出してきた。母娘は朝早くからここで待ち構えていたのだ。咲夜が千暁の車から降りるのを見た瞬間、静香は堰を切ったように怒鳴り始めた。「やっぱりね!どうしてうちの息子と別れると言い張ったのかと思えば、荻野家のあの男とデキてたんじゃない!」静香は怒りで顔を真っ赤にしていた。「咲夜、あんたみたいな尻軽女がよくそんな真似できるわね!うちの息子に申し訳ないと思わないの!?さあ説明しなさい!いつから荻野家のあの男と関係を持ってたの!」わざと周囲に聞こえるような大声だった。通勤ラッシュの時間帯でもあり、その騒ぎに足を止める人が次々と現れる。誰もが面白そうに様子をうかがっていた。一方、立ち去ろうとしていた千暁も異変に気づいた。彼はすぐに車を降り、咲夜のいる方に向かった。静香の高圧的な態度を目にし、歩く速度をさらに速めた。咲夜は呆れ果てたように言った。「静香さん、言葉には気をつけてください」森崎家は一体いつになったら諦めるのだろう。その横で青音が冷笑する。「何よ、やましいことでもあるの?皆さん見てくださいよ。この女、自分はネットでデマを流して私の弟を陥れたくせに、裏では別の男とべったりなんです。さっきだって浮気相手の車から降りてきたところですよ!どうせ昨夜もその男の家に泊まってたんでしょ!清純ぶってるけど大したものよね。うちの弟を裏切って浮気してたんだから!」青音が煽れば煽るほど、静香の勢いも増していく。二人は口々に罵詈雑言を浴びせ続けた。咲夜の表情は一気に冷え切る。次の瞬間――パシンッ!鋭い音が響いた。咲夜の平手打ちが青音の頬を直撃したのだ。「いい加減にしなさい」咲夜は冷たい声で言
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第204話

咲夜の一撃は見事に青音の鼻を直撃し、そのまま鼻血まで出させてしまった。それでも咲夜はまだ気が済まない。さらに前に出ようとしたが、千暁にしっかりと抱き留められていた。青音が鼻を押さえながら悲鳴を上げているのを見ても、咲夜は自分が悪いとはまったく思わなかった。殴るべき相手を殴っただけだ。そもそも、青音のような猫かぶりの女は前から一度痛い目に遭わせてやりたかった。そして青音の鼻筋が不自然に曲がっているのを見た瞬間、怒りに燃えていたはずの咲夜は、思わず吹き出してしまった。千暁に抱き留められたまま顔を上げ、彼に向かって言う。「あき、見て見て。鼻のプロテーゼがずれちゃってるよ。整形にはリスクがつきもの。ケンカする時は要注意だね」千暁も彼女の視線を追って青音を見る。次の瞬間、彼も思わず笑ってしまった。咲夜の言葉を聞いた青音は慌てて鼻を押さえた。つい最近入れたばかりのプロテーゼだった。まだ完全に回復していない状態で、咲夜のハイヒールによって見事に台無しにされてしまったのだ。青音は憎悪に満ちた目で咲夜を睨みつける。一方、静香は慌てて娘のそばにしゃがみ込み、鼻の状態を確認しながら悲鳴を上げていた。「大丈夫!?痛いでしょう!?」咲夜はそんな様子を横目で見ながら、千暁の腰に回された手を軽く叩いた。彼が腕を緩めると、咲夜は乱れた服を整える。すると静香が顔を上げ、怒りに満ちた声で叫んだ。「咲夜!あんた何様のつもり!?人を殴るなんて!」それに対し、咲夜は冷たく言い返す。「娘さんは口の利き方がなってなかったからですよ。それが何ですか?静香さんが年寄りだから手加減してるだけ。あとで言いがかりをつけられても面倒ですしね。じゃなかったら、もっと痛い目を見せてましたよ」さっき静香も一緒になって、自分を中傷していたことを咲夜は忘れていない。静香は目の前に並ぶ二人を見て、鼻で笑った。「私、何か間違ったこと言った?昨夜、千暁と一緒にいたんじゃないの?違うって言える?何もなかったって誓える?晴南と付き合ってる間から、あなたは千暁と怪しい関係だったんでしょ。このふしだらな女が!うちの息子を浮気男呼ばわりして、自分は被害者ぶってるなんて笑わせるわ!」もはや後先など考えていなかった。千暁まで巻き込んで罵り続ける。
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第205話

千暁は静香を冷ややかに一瞥した。「もう一度でも咲夜を侮辱する言葉を聞かせてみろ。その時は容赦しない。鼻が曲がる程度で済むと思うな」彼は誰の目にも分かるほど露骨に咲夜を庇っていた。そして、その一言によって静香と青音は完全に呆然とする。もともと二人の目的は、咲夜に泥を塗ることだった。彼女たちから見れば、咲夜ごときが千暁のような男に好かれるはずがない。最初からそう決めつけていた。静香も青音も、ずっと咲夜を見下していたのだ。だが今、千暁は自ら咲夜を口説いていると公言した。しかもここまであからさまに庇っている。その意味が分からないほど二人も鈍くはない。――千暁は本当に咲夜を口説いているのだ。その事実に気づいた瞬間、青音の嫉妬と憎悪はさらに膨れ上がった。晴南と別れたあと、咲夜はもっと優れた男を手に入れようとしている。そんなこと、絶対に認められない。一方の静香は衝撃のあまり言葉を失っていた。その時、青音が突然声を荒げる。「咲夜、千暁とそういう関係になったくせに、どうして森崎家の株を受け取ろうとしてるの!?」その言葉を聞き、咲夜はようやく二人が今日ここに来た本当の理由を理解した。どうやら昨夜、風一が自分を食事に誘い、株式を譲ろうとしている話が森崎家に伝わったらしい。静香と青音はその話を聞いて慌てふためき、真っ先に自分に難癖をつけに来たのだ。咲夜は冷静に反論する。「私は一度だって森崎家の株が欲しいなんて言ってない。状況も確認せずに人の前で騒ぎ立てるの、本当にやめてくれる?森崎家の人たちって、見境なく吠え散らかす野良犬みたいね。無関係な人まで巻き込んで」咲夜にとって、森崎家の人間でまともなのは風一だけだった。それ以外は、ほとんど狂犬と変わらない。少しでも風向きが変われば、自分の前に飛び出してきて吠え続ける。愚かなのか、救いようのない馬鹿なのか、そのどちらかだ。青音の表情がさらに険しくなる。「あなたに受け取る資格なんてあるわけないでしょ!おじいちゃんに取り入って機嫌を取ったからって、自分のものじゃないものを狙っていいと思わないで!本当に株を欲しがってないならいいけど、分不相応なことを考えるんじゃないわよ!」青音には理解できなかった。咲夜が一体どんな手を使って風一の心を掴んだのか
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第206話

千暁は花江グループを出ると、すぐに真澄に電話をかけた。電話がつながった瞬間、彼は淡々と告げる。「森崎青音の会社の件だ。その会社が抱えている不祥事、全部流せ」「……今ですか?」真澄は思わず声を上げた。以前は咲夜の動きを待つと言っていたはずだ。実際、咲夜が青音を調べていることを千暁は知っていた。青音に関する数々の不祥事の情報も、水面下では千暁が咲夜に流していたのだ。ただ、最近の咲夜はファッションショーの準備やデザイナー探し、さらには会社の立て直しに追われており、その件まで手が回っていなかった。だが、今朝の騒動は別だ。静香と青音が咲夜のもとに押しかけ、好き放題に罵った。あの言葉の数々は、完全に千暁の逆鱗に触れていた。咲夜に時間がないのなら、代わりに自分が片づければいい。千暁は冷ややかに言う。「今すぐだ。森崎青音がそんなに暇を持て余して他人にちょっかいを出しているなら、あの会社を存続させておく必要もない」その一言で十分だった。千暁が本気で青音にとどめを刺すつもりなのだと分かる。電話越しですら、真澄は千暁の不機嫌さを感じ取った。――いったい青音は、また何をやらかして自分の上司の逆鱗に触れたのだろう……そう思ったところで、真澄はすぐに考え直した。いや、違う。正確には、未来の社長夫人を怒らせたのだ。今回の一件を見れば、千暁が咲夜のために本気で動こうとしているのは明らかだった。「分かりました」真澄はそう答えると、電話を切った。千暁はハンドルを指先で軽く叩く。その瞳は深く、冷たい光を宿していた。少し考えた後、友人たちにも連絡を入れる。今朝の騒動に関するニュースやネット記事が出た場合は、咲夜や自分に関する話題を真っ先に抑えるよう手配したのだ。誰かがあの騒ぎを利用して再び咲夜を傷つけることのないように、あらゆる火種を事前に摘み取ろうとしていた。……一方その頃、咲夜は会社に戻り、席に着いて間もなく一本の電話を受けた。相手は風一だった。どうやら静香と青音が朝から咲夜に絡んだ件が、どこからか風一の耳にも入ったらしい。彼は咲夜が嫌な思いをしたのではないかと心配していた。その話を聞きながら、咲夜は優しく答える。「大丈夫ですよ。ちゃんと自分で解決しましたから」その言葉に、風
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第207話

惜しいことに、ああいう良い子はたいてい他所の家の子で、自分にはうらやむことしかできない。まったく、ため息が出る。咲夜はもともと、風一が何か聞きたいことでもあるのだろうと思っていた。ところが話しているうちに、どうにも話題の方向がおかしくなってきた。その口ぶりを聞く限り、まるで自分と千暁をくっつけようとしているように思えた。そう考えた咲夜は、軽く咳払いをした。「風一おじいさん」すると風一は電話の向こうで豪快に笑った。「はいはい、もうからかうのはやめておこう。咲夜は咲夜で忙しいだろうしな。森崎家のほうからは、もう誰も咲夜に迷惑をかけたりはしない。安心して自分のやるべきことに集中しなさい。わしのことは気にしなくていい」今日こうして電話をかけてきたのも、結局のところは咲夜の様子が気になっていたからだった。たとえ電話越しでも、咲夜がまったく影響を受けていないことは伝わってくる。それが何よりも嬉しかった。風一との通話を終えると、咲夜は千雪を連れてコミックイベント会場へ向かった。会場は景浦市から少し離れており、車で一時間半ほどかかる距離だった。車が走り出して間もなく、助手席に座っていた千雪が突然声を上げた。「花江さん、森崎青音の会社が炎上してます!」内容を目にした瞬間、千雪は驚きを隠せなかった。盗作疑惑だけではない。青音は自分名義のデザインスタジオを運営しており、大勢のゴーストデザイナーを抱えていたことまで暴露されたのだ。しかも、格安でデザイン画を描かせながら、完成した作品にはすべて青音自身の名前を載せていた。その中にはコンテストで受賞した作品も少なくなかった。さらに、ゴーストデザイナーたちと交わしていた契約書まで流出した。内容はどれも一方的な不平等契約ばかりで、最低限の報酬で彼らを搾取していたことが明らかになった。騒動は今も急速に拡大している。千雪の話を聞きながら、咲夜もスマートフォンを取り出した。そこに並んでいた青音の会社に関する数々の告発を見て、咲夜も千雪に負けないほど驚いた。千雪は一通り記事を読み終えると、振り返って咲夜の表情を窺った。「花江さん、この機会に私たちも追い打ちをかけますか?」彼女たちの手元にも、青音のスキャンダルはいくつも握られている。今こそ絶好のタイミングだと思え
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第208話

コミックイベント会場に到着すると、咲夜は真っ先にサイン会エリアに向かった。現在大ヒット連載中の漫画があり、その制作に「千野千鶴」が関わっているという噂だった。賑わう会場を見渡しながら、千雪は不思議そうに咲夜を見た。「でも、昨日の夜に主催者側が発表してましたよね?『千野千鶴』先生は今回のイベントには参加しないって。払い戻し窓口の案内まで出ていましたし」確かに主催者は昨夜、その旨の告知を出していた。その時、千雪はすぐに咲夜にメッセージを送ったが、返事はなかった。今朝出社してからも、この件について話している。だが咲夜は、せっかく予定を組んだのだから、コミックイベントを見て回るのも悪くないと考えていた。気分転換にもなる。それに、思わぬところで優秀なイラストレーターを発掘できるかもしれない。実は咲夜には、もう一つ考えていることがあった。音声制作スタジオを立ち上げたいのだ。今日のイベントには人気声優も数多く参加すると聞いている。人材探しをしながら、市場調査もできれば一石二鳥だった。最近はオーディオブックやボイスドラマの需要も伸びている。そうした分野への参入も十分検討する価値がある。事業は多角化してこそ成長する。その考えに間違いはない。咲夜は微笑みながら言った。「とりあえず見て回りましょう」二人は漫画エリアを歩きながら、「千野千鶴」に関する情報を集め始めた。しかし、その人物はあまりにも謎に包まれていた。得られる情報は驚くほど少ない。結局、咲夜は主催者側に直接話を聞くことにした。責任者は咲夜を見るなり笑顔を浮かべる。「花江様ですね。初めまして。実はお越しになる前に、荻野様からお話を伺っております。知りたいことがあれば何でもお聞きください。私の知る範囲でしたら、すべてお答えします」その言葉を聞いた瞬間、咲夜の脳裏に浮かんだのは千暁だった。彼女は半信半疑で尋ねる。「荻野千暁……ですか?」「はい、その荻野様です。以前、弊社が荻野グループとある案件でやり取りしておりましてね。荻野グループの社長補佐の方から、ぜひ協力してほしいとお電話をいただいたんです」責任者はそう説明しながら、さらに笑みを深めた。咲夜は軽く頷いた。「お聞きしたいのは一つだけです。出版社のほうで、『千野千鶴』先生の連絡先を
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第209話

いきなり連絡先を聞き出したら、相手に悪い印象を与えてしまうかもしれない。そんな咲夜の考えを聞くと、責任者はすぐに言った。「それでしたら担当編集をこちらに呼びます。直接お話しされたほうが早いでしょう」そう言うと、その場で担当編集に電話をかけた。三十分後、出版社の担当編集が会場に駆けつけてきた。事情を聞くなり、彼女はあっさりと連絡先を咲夜に渡した。「教えても大丈夫だと思います。どうせ千野先生は、私のメッセージを見ても返信しませんから」そう言って苦笑する。普段から連絡を取るのは、ほぼ自分から一方的に送るばかりだ。相手の仕事のスタイルに慣れていなければ、とっくに心が折れていただろう。そこまで言われてしまっては、咲夜も遠慮を続けるわけにはいかなかった。連絡先を受け取ると、すぐに友だち追加を送る。しかし結果は、編集の予想どおりだった。承認されない。編集は慣れた様子で肩をすくめた。「大丈夫ですよ。先生は生活リズムがかなり特殊ですから。もしかしたら深夜になってから承認されるかもしれません」実際、彼女もこれまで何度も朝の四時や五時に返信を受け取ったことがあった。咲夜は感謝の気持ちを込めて頭を下げる。「ありがとうございます。お手数をおかけしました」編集はもう自分の役目は終わったと判断すると、責任者に一声かけて出版社に戻っていった。責任者は咲夜の礼に笑いながら手を振る。「お気になさらないでください。荻野様から頼まれたことですから、できる限り協力するのは当然ですよ」咲夜は微かに微笑んだ。その後、主催者側がサイン会の対応に戻ると、咲夜は千雪とともに再び会場内を見て回ることにした。そんな中、千雪はずっと咲夜をちらちらと見ている。その視線には、露骨なまでの好奇心が宿っていた。正直なところ、千雪は以前から気になっていたのだ。咲夜と千暁は、本当に世間で言われているほど仲が悪いのだろうかと。その視線に気づいた咲夜が、呆れたように笑う。「何か聞きたいことでもあるの?」千雪はにやりと笑った。「荻野さんって花江さんのこと好きなんじゃないですか?」咲夜が花江グループを引き継ぐと決めてからというもの、千暁は何かと力を貸してくれている。千雪も当然、そのことは知っていた。以前の千暁のコメントもそうだ。あの
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第210話

コミックイベントを一通り見て回った後、咲夜は時間を確認し、千雪を連れて帰路についた。帰りの車中で、彼女は自ら千暁に連絡を入れた。コミックイベントから戻るところだと伝える。メッセージを送った直後、すぐに千暁から電話がかかってきた。咲夜は通話ボタンを押す。「もう帰るのか?」開口一番、千暁がそう尋ねた。「少し早めに戻って準備しようと思って。それより、若林さんと柳瀬さんって何か好きなものとかある?今夜の食事は私がご馳走したいんだけど」すると電話の向こうで、千暁がくすりと笑った。「俺たちの間柄で、まだそこまできっちり区別する必要があるのか?」からかうような口調だった。言われてみれば、その通りかもしれない。咲夜もつられて笑う。「そう言われると、確かにそこまで分けて考える必要はないかもね」彼女が冗談に付き合ってくれたことが嬉しかったのか、千暁の声はさらに柔らかくなった。「詩乃なら、普段は心理学関係の本ばかり読んでるな。智之は、詩乃が喜ぶことなら何でも嬉しい男だ」業界では有名な話だった。智之は、とにかく詩乃を最優先にする男なのだ。その答えを聞きながら、咲夜は思わず黙り込んだ。そんな彼女の沈黙を察したのか、千暁が続けた。「何か特別に準備しようなんて考えなくていい。今日はただ俺と一緒に友人に会うだけだ。気楽に構えてろ。そんなにプレッシャーを感じる必要はない」そう言われても、咲夜にとっては大切な顔合わせだった。だからこそ、どうしても気になってしまう。すると千暁は静かな声で言った。「俺がいるから、大丈夫だ」たったそれだけの言葉だった。それなのに不思議なことに、咲夜の胸の中にあった落ち着かない気持ちが、すっと和らいでいく。千暁はそれ以上あれこれ言わず、「帰るまで少し寝てろ」と優しく促した。通話が終わった後も、咲夜の唇には笑みが残ったままだった。助手席の千雪は、電話が始まった瞬間からその様子を見ていた。咲夜はずっと上機嫌で、口元の笑みが抑えきれていない。今にも耳元まで吊り上がりそうなほどだった。おそらく本人は気づいていない。だが最近の咲夜は、千暁から電話が来るたびに自然と笑顔になっている。どう見ても、ただの友人同士には見えなかった。もっとも千雪にできるのは、心の中でこっそり二人の
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