All Chapters of 元カレの宿敵の腕で幸せになります!: Chapter 211 - Chapter 220

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第211話

咲夜の心の内を見透かしたかのように、千暁は彼女を見つめながら言った。「もし本当にお礼がしたいなら、数日後にあるオークションに付き合ってくれないか。女性の同伴者が必要なんだ」ちょうどいい機会だ。咲夜を自分の人脈や交友関係の輪に自然に溶け込ませることもできる。もっとも、彼女が引き受けてくれるかどうかは分からない。そう言い終えると、千暁はわずかに緊張した面持ちで咲夜を見つめ、その返事を待った。だが咲夜は、最初から断るつもりなどなかった。「分かった。いいよ」その返事に、千暁はふっと笑みを浮かべた。「じゃあ当日は迎えに行くよ。会場はクルーズ船の上なんだ」咲夜は隣の千暁を見つめ、少しだけためらう。彼が言っているのは、まさか「月華オークション」のことではないだろうか。全国各地の著名人や財界人が集うことで知られる、有名なオークションだ。荻野家の背景を持つ千暁が招待されるのは不思議でも何でもない。だが、まさか自分まで同行させるつもりだったとは思わなかった。咲夜の驚いた視線に気づいた千暁は、軽く笑う。「そんなに緊張しなくていい。ただのオークションだよ」その言葉を聞いて、咲夜はかえって笑えなくなった。千暁にとっては「ただの」オークションなのだろう。だが、それは本来なら自分のような立場では足を踏み入れることすらできない世界だ。緊張しないなんて、無理な話だった。それでも、千暁が自分を連れて行こうとする以上、何か考えがあるのだろう。結局、咲夜はその厚意を断らなかった。……智之と詩乃が到着した頃には、咲夜は千暁の隣で二人を迎えていた。食事が始まると、千暁は単刀直入に切り出した。「詩乃、前に景浦市への事業展開を考えているって言ってたよね。ちょうど花江グループでファッションショーを企画していて、信頼できるデザインチームを探しているんだ」その言葉に、智之と詩乃は同時に千暁の隣に座る咲夜に視線を向けた。咲夜は思わず背筋を伸ばす。今の花江グループの状況を考えれば、相手にとって自分たちを選ばなければならない理由などない。咲夜が自ら売り込もうとしたその時だった。智之が笑顔で口を開く。「千暁の紹介なら、僕はもちろん問題ないよ。あとは詩乃がいいと言うなら、僕も賛成だ」智之は千暁との長年の付き合いを信頼していた。
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第212話

食事が終わる頃には、咲夜の胸の中は様々な思いでいっぱいになっていた。やはり気になっていたのは、なぜ千暁がここまで自分を助けてくれるのかということだった。詩乃は横目で咲夜を観察し、それから平然とした表情を崩さない千暁に視線を移す。その瞬間、すべてを察した。好きな人を自分のそばに引き留めるために、あれこれと心を砕くくせに――肝心の想いだけは、どうしても口にできない男もいる。そう思うと、詩乃は思わず口元を緩めた。すると隣の智之が身を寄せ、小声で尋ねてくる。「何を考えてるんだ?そんなに楽しそうに笑って」景浦市に来る前、智之は余計な一言で詩乃の機嫌を損ねてしまった。そのせいで彼女はずっと不機嫌なまま、まともに口もきいてくれなかった。当然、笑顔など見せてくれるはずもない。だからこそ、久しぶりに見たその笑みに、智之は好奇心を抑えられなかったのだ。詩乃はちらりと彼を見やる。「知りたいの?」智之は期待に満ちた目で彼女を見つめる。興味津々なのが丸分かりだった。その様子に、詩乃は鼻を鳴らす。「どうして私が教えなきゃいけないの?」言い終えると、そのまま視線を逸らした。相手にする気はない――そんな態度がありありと伝わってくる。再び冷たくあしらわれた智之は、心の中で深いため息をついた。そして千暁に視線を向け、軽く咳払いをする。「あとで一杯どうだ?」内心では後悔でいっぱいだった。詩乃がここまで機嫌を直してくれないと分かっていたら、あんな余計なことは言わなかったのに。千暁も二人の間の微妙な空気を察していたらしく、頷いた。「いいよ」そう答えた後、彼は咲夜の方に顔を向け、食後の予定について小声で説明する。咲夜は、本当なら千暁だけで智之たちに付き合えばいいと思った。だが今日、千暁には大きな助けを受けている。自分だけ断るのも気が引けた。少し考えた末、咲夜は頷いた。「うん、分かった」……食後も千暁と智之は仕事の話を続けていた。その間に咲夜は詩乃に声をかける。「この近くに時計塔があるんです。柳瀬さん、少し歩いてお腹ごなしをしませんか?」詩乃は特に異論もなく頷いた。「いいわ。それと、そんなに他人行儀じゃなくていいの。詩乃さんでも、詩乃でも好きに呼んで」「じゃあ、詩乃さん」咲夜が素直に呼
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第213話

詩乃は柳瀬家に生まれた。生まれつき重い先天性心疾患を患っており、幼い頃から柳瀬家の人々に大切に守られながら育てられてきた。そのため、学ぶものも自然と穏やかなものばかりで、危険を伴うスポーツやアクティビティとは無縁の人生だった。若林家と柳瀬家は代々親交のある家柄だ。智之は物心ついた頃から、ずっと詩乃のそばにいた。周囲の誰もが、いつか二人は結婚するのだと思っていた。詩乃自身も、そう信じていた。だが、人生は思い通りにはいかない。ある日、智之の隣に別の女性が現れた。それ以来、詩乃は少しずつ彼との距離を置くようになった。自分の体の状態を誰よりも理解していたからこそ、智之への想いもずっと胸の奥に押し込めていた。彼に好きな人ができたのなら、それを尊重し、心から祝福しよう――そう決めていた。すべてが変わったのは、詩乃が心臓発作を起こしたあの日だった。智之は当時の恋人を連れて柳瀬家に見舞いに訪れた。だがその女性は、詩乃の許可も得ないまま詩乃の日記を読んでしまう。それがきっかけで二人は激しく口論になった。詩乃が怒りを爆発させる中、智之はその女性を連れて帰っていった。二人が去った後、詩乃は発作を起こし、緊急搬送される。病院で懸命な救命処置が行われた。その知らせを受けた智之も、すぐに車で病院に向かった。しかし、その途中で事故に遭う。聞くところによれば、恋人の女性が彼を病院に行かせまいとして取り乱し、運転中のハンドルを掴んでしまったのだという。智之はその場で意識を失った。そして女性は即死した。彼女は生前、臓器提供の意思表示をしていた。柳瀬家は遺族の同意を得たうえで、その心臓の提供を受ける決断を下した。智之が目を覚ました時には、詩乃の心臓移植手術も終盤を迎えていた。……詩乃は終始穏やかな口調で、自分と智之の過去を語った。だが、その話を聞く咲夜の胸には何とも言えない切なさが広がっていく。咲夜は一歩近づき、そっと詩乃を抱きしめた。「もし、その関係が詩乃さんを苦しめているなら、思い切って手放してもいいと思うよ。依存を断ち切る時は、きっと苦しい。でも、人は痛みを乗り越えて生まれ変われるもの。誰かがいないと生きていけないなんてことはない。だから何よりも、自分自身を大切にして
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第214話

一行はその後、「Fittro」へと場所を移した。馴染みの個室に足を踏み入れた瞬間、咲夜の脳裏には、あの夜の出来事がよみがえる。――瞳がイケメンたちを呼んできて大騒ぎしていたあの日だ。思い出した途端、表情が少しぎこちなくなった。詩乃は最初こそ智之の隣に座っていたものの、しばらくすると席を立ち、咲夜の隣に移ってくる。男二人の酒席に付き合う気はないらしい。その頃、咲夜はスマートフォンを片手に千雪とメッセージをやり取りしていた。森崎家は今、まさに大混乱の真っ只中だった。静香は調査を受け、青音の問題も次々と表面化している。その影響で森崎グループの株価にも悪影響が出始めていた。英樹と晴南は、その後始末に追われている。もっとも、そんな状況でも英樹には咲夜に嫌がらせをする余裕があるらしい。森崎家が慌ただしく立ち回る様子を見ていると、咲夜の気分も少し晴れてくる。そんな咲夜の様子に気づいた詩乃が微笑んだ。「機嫌が良さそうね」「まあ、それなりに」咲夜も笑みを返す。そして詩乃の手元のワイングラスに目を留めた。「お酒はほどほどにしてね。ジュースでも頼みましょうか?」心臓のことを思い出し、つい気になってしまう。だが詩乃は気にした様子もなく、ワインをひと口だけ口に含んだ。「大丈夫よ。飲みすぎなければ問題ないわ」そう言われてしまうと、咲夜もそれ以上は何も言えなかった。ただ、詩乃の表情がどこか沈んでいるのが気になった。道中の智之の様子を思い返す。あれほど献身的に世話を焼いておきながら、そこに恋愛感情がないと言われても信じ難い。詩乃はそんな咲夜の複雑そうな顔を見て、小さく笑った。「人ってね、見たままが真実とは限らないの。男なんて、愛していなくても心から愛しているように振る舞えるものよ。演技をするだけなら、別に何も失うものはないでしょう?」その言葉には妙な説得力があった。咲夜の脳裏には自然と晴南の顔が浮かぶ。確かに、あの男も完璧に演じていた。咲夜は頷いた。「それは確かにそうね」詩乃はくすりと笑う。「その顔、元カレのこと思い出したでしょう?咲夜さんたちのことは少し聞いてるわ。あんな男、さっさと捨てて正解よ。損切りは早い方がいいもの。咲夜さんにはもっといい人がいるわ」詩乃は、咲夜がまだ失恋を引きず
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第215話

千暁に対する評価は、詩乃もかなり高かった。何かを思い出したように、彼女は続ける。「そういえば前に智之がちらっと言ってたの。千暁には好きな人がいるらしいって。でも今まで彼の周りに女性の姿なんて全然なかったから、本当にそんな相手がいるのかなって半信半疑だったのよ。でも今となっては……」詩乃はそれ以上言葉を続けず、意味ありげな視線を咲夜に向けた。咲夜が「千暁には好きな人がいる」と聞いたのは、これで二度目だった。彼女は詩乃の視線には気づかず、代わりに千暁のほうに目を向ける。――千暁が想いを寄せる相手って、どんな人なんだろう。そんなことを、思わず考えてしまった。咲夜の視線を追うように千暁を見た詩乃は、さらに言った。「咲夜さんって、千暁が自ら智之に紹介した相手でしょう?もしかして、千暁の好きな人って咲夜さんなんじゃない?」そう言って、詩乃はいたずらっぽくウインクする。「えっ!?」咲夜は目を丸くし、慌てて両手を振った。「ち、違うよ!絶対に私じゃないって。詩乃さんの勘違いだよ」これまで自分と千暁に特別な接点なんてほとんどなかった。どう考えても、自分がその相手だとは思えない。詩乃は咲夜を上から下まで眺めながら言う。「どうしてそんなふうに言い切れるの?正直、私は二人ともすごくお似合いだと思うわ。それにね、私が彼と知り合ってから今まで、彼のそばに女性がいたことなんて一度もないの。咲夜さんが初めてよ」少なくとも詩乃から見れば、咲夜は千暁にとって間違いなく特別な存在だった。自ら縁をつなぎ、食事の席でも無意識のうちに咲夜を気遣っている。それどころか、こうして同じ空間にいる今でさえ、千暁の視線は時折咲夜のほうに向いていた。もしこれで何の感情もないというのなら、詩乃には彼がそんなことをする理由が思いつかなかった。咲夜は詩乃の分析を聞きながら、そっと遠くの千暁に視線を向ける。するとちょうどその時、千暁もこちらを見た。二人の視線が、不意にぶつかった。咲夜は少し慌てたような表情を浮かべたが、千暁は驚くほど落ち着いていた。詩乃の言葉が心に残っていたせいだろうか。咲夜には、先ほど自分を見つめた千暁の眼差しが、どこか優しく見えた。脳裏には、このところ千暁と過ごした日々の光景が次々と浮かんでくる。そのせいで、彼女の心
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第216話

その夜、咲夜は心が落ち着かないまま過ごした。一方で、千暁と智之は完全に酔いつぶれていた。静かに座ったまま大人しくしている二人を見て、咲夜は詩乃に言う。「先にホテルまで送るね」咲夜はバーのスタッフを呼び、千暁と智之を車まで運ぶのを手伝ってもらった。千暁は助手席で目を閉じており、後部座席には智之と詩乃が並んで座る。幸い、ホテルはバーからそれほど遠くなかった。後部座席では、智之が車に乗ってからずっと子犬のように詩乃に抱きついていた。首を傾け、顔を彼女の首筋に埋めている。詩乃は冷たい顔で、しがみついて離れない男を押しのけようとした。「智之、酒臭いんだけど。離れて。近寄らないで」すると智之は不満そうに唸った。「臭くない……」そう言いながら、ますます強く詩乃を抱き締める。絶対に離さないと言わんばかりだった。その姿は、まるで捨てられそうになっている子犬のようで、無性に健気で可哀想に見える。詩乃は露骨に嫌そうな顔をしていたが、それ以上押し返そうとはしなかった。ただ智之に抱きつかれるまま、顔を背けて窓の外を眺めている。咲夜はバックミラー越しに二人のやり取りを見つめ、やがて静かに視線を戻した。そして何気なく助手席の千暁を見やる。ハンドルを握る手に、わずかに力がこもった。だが、その視線もほんの一瞬で引っ込める。やがて車はホテルの正面に到着した。咲夜は車を降り、詩乃と一緒に智之を支える。全身を詩乃にもたれかけさせている智之を見て、手伝って部屋まで送ろうとしたが、詩乃に止められた。詩乃は助手席に目を向けると、咲夜に言う。「大丈夫、私一人で何とかなるわ。それより千暁を一人で置いておいていいの?あんな顔なんだから、誰かに攫われたらどうするのよ」咲夜は思わず吹き出した。この様子では、千暁はもう完全に寝ているだろう。それに、自分も上まで行ったとしてもすぐ戻れる。だが詩乃は頑として譲らない。結局咲夜はホテルのスタッフを呼び、詩乃と一緒に智之を部屋まで送ってもらうことにした。詩乃が智之を支えながらエレベーターに乗り込むのを見届けてから、咲夜は再び車に戻る。千暁は道中ずっと静かなままだった。家に着いても、目を覚ます気配はない。咲夜は車のドアを開け、身をかがめてシートベルトを外そうとし
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第217話

酒は多少回っていたものの、千暁は立てなくなるほど酔っていたわけではない。ただ、咲夜と少しでも多く触れ合う口実が欲しかっただけだ。咲夜は千暁を支えながら玄関の前までやって来た。目の前の電子ロックを見て、まずは彼の手を指紋認証部分に押し当てる。「指紋が登録されていません。暗証番号を入力してください」機械音声が流れた瞬間、咲夜は目を見開いた。――嘘でしょ?こんな立派な指紋認証付きの電子ロックなのに、指紋を登録してないなんて。それなら一体何のために付けたのよ。信じられなかった咲夜は諦めきれず、もう一度千暁の指を認証部分に押し当てる。だが結果は同じだった。「指紋が登録されていません。暗証番号を入力してください」咲夜は肩を落とし、軽く彼の頬を叩く。「ねえ、起きて。寝ないで。暗証番号は?」今度彼がしっかり目を覚ましたら、絶対に聞いてやろうと思った。指紋認証付きなのに指紋を登録していないなんて、まさか飾りのつもりなのだろうか。だが今はそんなことより、家に入る方法を確認するのが先だった。しかし咲夜が何度呼びかけても、千暁は固く目を閉じたまま。目を覚ます気配はまったくない。やがて咲夜は諦めた。――私も馬鹿ね。酔っ払いを起こそうだなんて。彼女は目の前の男を見つめ、鍵になりそうな物がないか探すことにした。普通なら、鍵くらい持ち歩いているはずだ。上着のポケット、ない。内ポケット、これもない。咲夜は千暁のスラックスに視線を落とし、小さく息を呑む。覚悟を決めて左のポケットに手を入れるが、やはり何もない。今度は反対側。細い腕を彼の腰の後ろに回し、右ポケットを探る。肩にもたれかかる千暁の体重のせいで、その体勢は思った以上に大変だった。ようやくポケットに手を入れ、中を探ってみる。出てきたのはスマートフォンだけ。他には何もない。一連の作業だけで、咲夜はすっかり汗だくになっていた。肌に触れないよう細心の注意を払っていたものの、ポケットの位置が脚にぴったり沿っているせいで、掌が何度か太腿に触れてしまう。咲夜の顔はみるみる赤くなった。それでも念のため全てのポケットをもう一度確認する。だが結果は同じ、何も見つからなかった。咲夜は深いため息をつく。指紋認証も駄目。
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第218話

翌朝、千暁が目を覚ますと、そこは見慣れない部屋だった。昨夜の出来事が自然と脳裏によみがえる。確かに酒はかなり飲んだ。だが、意識を失うほど酔っていたわけではない。ただ酔ったふりをして、咲夜と少しでも距離を縮めたかっただけだ。酔った勢いを装って「好きだ」と口にした時のことを思い出す。咲夜は表面上こそ平静を装っていたが、部屋を出る時には右手と右足を同時に出してしまい、危うくつまずきそうになっていた。その様子を思い出し、千暁の口元がわずかに緩む。彼は起き上がると洗面所に向かい、顔を洗った。洗面台には未開封の歯ブラシやアメニティがきちんと用意されている。身支度を済ませて部屋を出ると、ちょうど階段を下りてきた咲夜と鉢合わせになった。彼女の目の下にはうっすらと隈ができていて、大きな欠伸をしていた。どう見ても寝不足だった。咲夜は眠そうに目を細めながら声をかける。「おはよう。起きたんだね。頭、大丈夫?」昨夜、彼女はほとんど眠れなかった。ベッドに入っても何度も寝返りを打ち、なかなか寝つけない。目を閉じるたびに、酔った千暁の声が耳元によみがえる。――好きだ。その言葉が、一晩中頭の中で反響し続けていた。結局いつ眠ったのかも覚えていない。気づけば外は明るくなっていた。「少し痛いな」千暁は眉を寄せ、こめかみを揉みながら答える。それを見た咲夜は言った。「蜂蜜レモン作るね」すると千暁は彼女の後ろについていきながら尋ねる。「冷蔵庫に何かある?朝飯作るよ」咲夜は冷蔵庫を開けた。そして中身を見て言葉に詰まった。ほぼ空だった。もともと自分には朝食を食べる習慣がない。生活リズムも乱れきっていて、夜中の四時や五時まで起きていることも珍しくない。そのまま昼過ぎまで寝てしまうこともしばしばだった。千暁も冷蔵庫の中を見てしまった。彼は咲夜を見つめ、眉をひそめる。「生活リズムが乱れてるだけでも問題なのに、食事まで不規則なのか?胃炎持ちなのに、胃に優しいものをちゃんと食べようとしないし。若いから大丈夫だと思ってるのかもしれないけど、年を取ってから後悔しても遅いぞ」叱るような口調だったが、その奥にあるのは紛れもない心配だった。咲夜は目を瞬かせる。――彼はどうして私が胃炎持ちだって
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第219話

当然、指紋を全部削除した以上、鍵を持ち歩いているはずがない。もちろん咲夜はそんなことなど知る由もなく、千暁の言葉を少しも疑わなかった。昨夜の状況では、彼を自宅に連れて帰る以外に選択肢はなかったのだ。考え込んでいる咲夜を見ながら、千暁は何気ない口調で尋ねる。「そういえば俺、昨夜は変なこと言ってなかったか?」その視線は真っ直ぐ咲夜に向けられていた。その言葉を聞いた瞬間、咲夜の脳裏には昨夜の出来事がよみがえる。自分を一晩中眠れなくさせた、あの言葉。正直なところ、少し気になっていた。千暁のような男性が想いを寄せる相手とは、一体どんな女性なのだろう。「どうした?」千暁は視線を逸らさない。「まさか本当に、誰にも言えないようなことを口走ってたとか?」咲夜は我に返った。そして少し複雑そうな表情で彼を見る。やがて口元を緩めた。「それはないけど……ただ、『好きだ』ってずっと言ってたよ。千暁は誰のことが好きなの?」気づけば、昨夜からずっと胸の中にあった疑問をそのまま口にしていた。言った瞬間、咲夜は後悔する。――私、何を聞いてるの?こんなこと、本来なら踏み込んではいけない話だ。自分たちの関係は、まだそこまで親しいわけではないはずなのに。咲夜の質問に千暁は答えなかった。ただ黙って彼女を見つめていた。その視線に居心地の悪さを覚え、咲夜は思わず目を逸らした。「その……別に詮索したいわけじゃないの。言いづらいなら無理に答えなくてもいいよ。ただ、もし好きな人がいるなら、私たちの結婚も――」彼女は正直な気持ちを口にする。「終わらせたくなった時は、前もって言ってね。私もちゃんと協力するから」だが咲夜は気づかない。自分が「結婚を終わらせる」と口にした瞬間、千暁の瞳が冷たく沈み、纏う空気もわずかに鋭さを帯びていたことに。彼は静かにグラスを置く。そして一歩ずつ咲夜に近づいた。咲夜が気づいた時には、目の前に高い影が立っていた。二人の距離はほとんどなかった。彼女は思わず息を呑む。千暁が放つ圧倒的な存在感に、体が強張った。目の前の男を見つめながら、彼女の表情にはわずかに戸惑いが浮かんだ。どう反応していいか分からない。気のせいかもしれない。だが、千暁の視線には不機嫌さだけではなく、自分に
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第220話

咲夜は、千暁からの突然の告白に完全に不意を突かれていた。先ほどまで、あの深い口づけで顔を赤くしていたというのに、告白まで重なったことで、完全にパニックになってしまった。気づけば目の前の千暁を思い切り押しのけていた。しかもここが自分の家だということさえ忘れ、そのまま逃げるように家を飛び出してしまう。会社に着いてからも、咲夜は一日中落ち着かなかった。頭の中では千暁の告白の言葉と、あの強引な口づけが何度も何度も繰り返される。まるで蔦が絡みつくように心を縛り、仕事にも集中できない。その状態は、詩乃が会社を訪れるまで続いていた。社内をひと通り見て回った詩乃は言う。「小林さん、契約書の準備をお願いできる?私のチームが今日の午後には景浦市に到着するの。明日はこちらに来て、ファッションショーの詳細について打ち合わせをする予定よ」そう言うと、詩乃は笑顔で咲夜を見た。「咲夜さん、午後は少し付き合ってくれる?私もこっちに拠点を作るつもりだから、住む場所を探したいの」チームメンバー用の住居も手配する必要がある。景浦市に詳しい咲夜に同行してもらうのが一番だった。すると咲夜は答える。「社員寮ならもう準備してあるよ。会社の近くに花江グループ所有のマンションがあって、そこを使えるの。もちろん、外で部屋を借りたい人には住宅手当も出すよ」実は出社した時点で、すでに千雪に指示を出していた。寮の清掃や受け入れ準備はすべて完了している。あとは詩乃のチームが到着するのを待つだけだった。そして詩乃自身の住居については――咲夜が尋ねる。「私名義の物件も何軒かあるんだけど、見てみる?今は空き家だし。マンションと一戸建て、どっちが好み?」詩乃は少し考えてから答えた。「本格的にこっちで活動するなら、どのみち家は買うつもりなのよね。何かおすすめがあるなら教えてほしいな。静かな環境が好きだから、騒がしくない場所がいいわ。マンションでも一戸建てでも構わない」詩乃はもともと静かな環境を好む。プライバシーが確保されていて落ち着ける場所なら特にこだわりはなかった。咲夜は少し考える。「私の物件はどれも環境は悪くないよ。一度見に行ってみる?もし気に入った場所があったら、その近くに売り物件がないか探してみよう」「それ、いいわね」詩乃は快く承諾した。
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