All Chapters of 元カレの宿敵の腕で幸せになります!: Chapter 301 - Chapter 310

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第301話

咲夜が本当に荻野家に嫁げるかどうかは、まだ誰にも分からない。たとえ千暁が本当に咲夜と結ばれたとしても、荻野家の両親が認めるはずがない。晴南がこのしばらくの間だけでも辛抱し、自分の指示どおりに動いてさえいればよかったのだ。咲夜一人くらい、どうということはない。十人の咲夜を望んだところで、不可能な話ではなかった。今となっては咲夜どころか、父親の風一も、もはや晴南を見限っているかもしれない。英樹は頭が割れそうなほど苛立っていた。本来なら咲夜をつなぎ止めておきさえすれば済む話だった。せっかくの一手を、このどうしようもない息子がめちゃくちゃにしてしまったのだ。まったく、大したものだ。晴南はうつむいたまま、何も言わなかった。そんな息子を見た英樹は、情けなさと怒りを滲ませる。「最初から俺の言うことを聞いていれば、こっちだって手は打ってあった。多少強引な手を使ってでも、咲夜に君の子供を身ごもらせるつもりだったんだ。君が少しでもしっかりしていれば、こんなことにはならなかった!」これまで晴南と青音がしでかした数々の愚行だけでも、風一の不興を買うには十分だった。風一はすでに言い渡している。英樹は咲夜を故意に追い詰めてはならないこと。そして晴南は必ず咲夜の許しを得なければならないこと。このままだと、英樹父子に森崎家を任せることはできない、と。さらに風一は最後通牒まで突きつけた。晴南はおとなしく別の女性と結婚し、二度と咲夜につきまとうな。結婚して子供をもうけ、心を落ち着かせることができれば、森崎家はいずれ晴南に継がせても構わない、と。だが、今はどうだ。晴南は、英樹の口から「咲夜を妊娠させる」という言葉を聞いた途端、顔から血の気が引いた。表情は苦しげに歪み、その目には隠しきれない羞恥の色がよぎる。一方、英樹の言葉を聞き終えた静香は、目尻をぬぐうと、その場で声を上げて泣き崩れた。その泣き声に、英樹はますます苛立つ。「泣くな!泣いてばかりでどうする!何がそんなに悲しい!」怒鳴られた静香は、かえって泣き声を大きくしながら、「終わったわ……全部終わったのよ……」と繰り返すばかりだった。その様子に、英樹はさらに頭痛を覚える。「いったい何があったんだ?」静香の異様な泣き方を見ているうちに、英樹の胸には得体の知れ
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第302話

咲夜が千暁と夕食を取ろうとしていたとき、森崎家から一本の電話が入った。電話を切ると、彼女は千暁に向き直る。「ごめん。一緒に夕飯を食べられなくなっちゃった」「どうした?」千暁が尋ねる。「松下(まつした)執事から電話があったの。風一おじいさんが一本の電話を受けたあと、突然倒れてしまって、今は病院で救命処置を受けてるって。森崎英樹たちは誰も森崎家にいなくて、連絡できる相手が私しかいなかったみたい」詳しい事情については、松下執事も何も話していなかったため、咲夜にも分からない。本来なら、この件を咲夜に知らせる必要はなかった。だが、風一の携帯電話に登録されていた連絡先の中で、松下執事が見つけられたのは咲夜だけだったのだ。千暁は彼女を見つめた。「俺も一緒に行く」咲夜は断らなかった。二人が病院に駆けつけると、救急処置室の前には執事の松下哲也(まつした てつや)が一人でいた。咲夜の姿を見つけるなり、慌てて駆け寄ってくる。「花江様、本当に申し訳ありません。風一様が急に倒れられてしまって……英樹様たちとも連絡が取れず、花江様にお電話するしかありませんでした。お手数をおかけしてしまい、申し訳ございません」そう言い終えてから、ようやく咲夜の隣に立つ千暁に気づく。一瞬驚いたものの、それを表には出さず、丁寧に頭を下げた。「荻野様」千暁は軽く頷き、それを挨拶代わりとした。咲夜は哲也の話を聞き、救急処置室に目を向ける。「先生は何て?」「強い精神的ショックが原因で心筋梗塞を起こされたそうです。幸い搬送が早かったので、現在も懸命に処置が続けられています」哲也はありのままを答えた。それを聞いた咲夜は、静かに彼を安心させるように言う。「きっと大丈夫です。私も一緒に待ちますから」咲夜は森崎家のことを好いているわけではない。それでも、風一だけはずっと自分によくしてくれていた。だから事情を知った以上、見て見ぬふりをすることはできなかった。その言葉に、哲也はようやく少しだけ安堵した表情を浮かべた。待ち時間の途中、千暁は咲夜に一声かけると、その場をしばらく離れた。ほどなくして戻ってきた彼の手には、いくつものテイクアウト用の袋が提げられていた。病院に向かう途中、真澄にメッセージを送り、時雨庵の料理をテイクアウトして届けてもらって
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第303話

千暁は咲夜が食べ終わるのを待ってから、自分もようやく数口だけ箸をつけた。食事を終えると、片づけまで一人で黙々と済ませ、咲夜には手伝わせようとしなかった。そんな二人のやり取りを見ていた哲也は、胸の内でそっとため息をつく。風一はずっと、咲夜を森崎家に迎え、孫嫁にしたいと願っていた。だが今となっては、その願いが叶うことはもう二度とないだろう。正直なところ、哲也も咲夜のことはとても気に入っていた。幼い頃から聞き分けがよく、何より、晴南を心から想ってくれていた。それなのに、晴南があまりにも不甲斐なかった。本当に、惜しいことをした。哲也は視線を逸らし、もう一度心の中で静かにため息をついた。咲夜はそのまま救急処置室の前で待ち続けた。やがて、救急処置室のランプが消える。医師が中から出てくると、咲夜は哲也の後に続き、彼の問いかけに耳を傾けた。「先生、風一様のご容体はいかがでしょうか」「何とか一命は取り留めました。ただ、今後は決して強い刺激を受けさせないでください。しばらくは静養が必要です」医師は風一の容体を説明し、あわせていくつかの注意事項を伝える。その後、入院手続きの案内をした。咲夜は哲也に声をかけた。「松下執事、手続きは私が行ってきます。風一おじいさんのそばにいてあげてください」そう言うと、千暁とともに会計窓口に向かった。歩きながら、千暁が軽く咳払いをして口を開く。「森崎英樹と森崎静香は隣の市の病院にいる。松下哲也が連絡できなかったわけじゃない。森崎英樹も、どうやら怒りで倒れたらしい」咲夜は思わず足を止めた。「えっ?あの人まで倒れたの?」どうやら、かなり大ごとになっているようだ。真っ先に頭に浮かんだのは晴南だった。「まさか……晴南が不治の病にでもなったとか?因果応報って、そんなに早く来るものなの?」もし本当にそうだとしたら、さすがに驚くしかない。とはいえ、あれだけ元気に飛び回っていた晴南を思い返すと、とても重い病を患っているようには見えない。そう考えた咲夜は、小さく首を振って、その突飛な想像を振り払った。それにしても、英樹と風一という親子二人がそろって倒れるほどだ。晴南はいったい何をしでかしたのだろう。千暁は笑いをこらえながら続けた。「不治の病よりもっと深刻だ。そうだな……因果
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第304話

英樹が風一の病院に駆けつけてきたのは、翌朝になってからだった。咲夜と千暁は哲也とともに、一晩中病室で付き添っていた。無精ひげを生やし、髪も乱れた英樹の姿を見て、咲夜は思わず隣の千暁に視線を向ける。英樹がここまで身なりを構わない姿になるのは、咲夜もほとんど見たことがなかった。もっとも、それはもう自分には関係のないことだ。咲夜は哲也に小声で言った。「松下執事、それじゃあ私たちは先に失礼します。風一おじいさんが目を覚まされたら、お手数ですがお電話をいただけますか」哲也は何度も頷いた。「もちろんです。本当にありがとうございました。花江様も荻野様も、お二人には感謝してもしきれません」昨夜、二人が残って付き添ってくれなければ、自分一人では到底どうしていいか分からなかっただろう。咲夜は「お気になさらないでください」とだけ答えた。そして、英樹が横目で見送る中、千暁とともに病院を後にした。病室を出ると、咲夜は隣を歩く千暁に声をかける。「お腹空いてる?朝ご飯、ごちそうするね」千暁は笑って頷いた。二人はそのまま病院近くの朝食店に入った。食事をしながら、千暁が口を開く。「明日の午後、ご両親を連れて時雨庵に来てほしい。祖父と祖母が土屋先生と約束を取り付けてくれた。カルテには目を通してもらっていて、大きな問題はなさそうだと言っていたけど、対面で診察したいそうだ」最終的な判断は、土屋先生本人が診察してからでなければ分からない。咲夜は、こんなにも早く話が進むとは思っていなかった。あと数日はかかるものだと考えていたのだ。だが、千暁がすべて手配してくれた以上、自分はそれに従えばいい。彼女は静かに頷いた。「うん、分かった」千暁は安心させるように微笑む。「心配しなくていい。土屋先生の腕を信じよう」咲夜も小さく頷いた。ふと何かを思い出したように、彼女は話題を変える。「そういえば、この前療養所で千尋くんに会ったの。千尋くんのお母さんもあそこに入っていたけど、どうして黒澤家はあの療養所に入所させているの?」黒澤家について、咲夜はあまり詳しく知らなかった。千暁は少し考えてから話し始める。「千尋の父親は画家なんだ。あちこち旅をして回る放浪癖のある人で、女性関係も派手だった。千尋の母親は、その数多くの恋人の一人にすぎなかっ
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第305話

千尋は早産だったこともあり、生まれつき体が弱く、幼い頃から病気がちだった。一方の裕美は心に深いわだかまりを抱えたままで、とても子どもをきちんと育てられるような精神状態ではなかった。それを見かねた和夫が、千尋を自分のもとに引き取り、育てることになった。その後、和夫が病で亡くなると、千尋は明覚寺に預けられ、そこで成長した。咲夜はその話を聞きながら、複雑な思いに包まれていた。裕美は、稔が放蕩者だと分かっていながら、それでも彼に人生を懸けた。何を求めていたのかは、本人にしか分からない。だが、千尋の幼少期がこれほどまでに暗く孤独なものだったとは、想像もしていなかった。正直、胸が締めつけられる思いだった。千暁が彼女に尋ねる。「やっぱり、『千野千鶴』は彼だと思うか?」咲夜は頷いた。「たぶんね。あの日あなたに見せたマスコットとまったく同じウサギのぬいぐるみが、千尋くんのお母さんの病室のベッドに置いてあったの。最初は『千野千鶴』本人が好きなんだと思ってた。でも、お母さんのベッドであのぬいぐるみを見たときに分かったの。好きだったのは、お母さんのほうだったんだって」とはいえ、千尋本人が自分の正体を認めようとしない以上、咲夜から何かを言うことはできなかった。以前の自分なら、何としてでも「千野千鶴」を自分の会社に迎えたいと思っていただろう。だが、その人物が黒澤家の千尋である可能性が高いと知った今は――少し考えた末に、その思いを手放した。無理に進めても仕方のないことだからだ。咲夜には分かっていた。千尋は、自分が「千野千鶴」であることを積極的に明かしたいとは思っていない。だからこそ、その意思を尊重したかった。千暁は咲夜を見つめる。「本当に彼を会社に誘いたいなら、俺から話してみようか?」彼自身も、咲夜がずっと探していた人物が千尋だったとは思ってもみなかった。しかし咲夜は首を横に振った。「本人が認めたくないなら、それにはきっと理由があるんだよ。私がそこをいつまでも追究するわけにはいかないし、そんなにプレッシャーをかけるのも違うと思う。本人が違うって言うなら、それでいいよ」この件に関しては、咲夜は千尋の意思を尊重するつもりだった。千暁も彼女の考えを理解している。「分かった。君の言うとおりにする」彼女
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第306話

風一は病院のベッドに横たわり、顔色は青白かった。傍らでは哲也が、必死に風一をなだめている。咲夜と千暁が病室に入ってくると、風一の表情はようやく少し和らいだ。「咲夜ちゃん、来てくれたか」風一は咲夜に向かって手を招く。そして千暁にも目を向けた。「荻野家の坊やも来たんだな」「風一おじい様」千暁は軽くうなずき、礼儀正しく風一に挨拶した。風一は哲也から聞いていた。昨夜は千暁が咲夜とともに病院で一晩付き添い、自分の看病をしてくれていたのだ。風一は千暁をじっと見つめる。だが一目見ただけで、この若者の視線が終始咲夜を追っていることに気づいた。その瞬間、老人はすべてを察した。咲夜はベッドのそばまで歩み寄り、気遣わしげに尋ねる。「風一おじいさん、お加減はいかがですか?ほかにおつらいところはありませんか?」「大丈夫だ。そう簡単には腹が立って死んだりはせんよ」風一は静かにため息をついた。このところ森崎家で起きた出来事を思い返し、深く息を吸い込む。――まったく、因果なことだ。咲夜はベッド脇の椅子に腰を下ろしたが、何を口にすればいいのか分からなかった。森崎家の問題に、自分が口を挟む資格はないのだから。風一は何度も咲夜の顔を見つめ、何か言いたげな様子を見せたものの、結局その言葉を飲み込んだ。その視線は時折、千暁のほうにも向けられた。千暁ももちろん、その意味に気づいていた。老人は咲夜と二人だけで話したいのだろう。しかし、自分がいる手前、それを言い出せずにいる。しかし、千暁はあえて気づかないふりをし、そのまま椅子を引いて咲夜の隣に腰を下ろした。老人が何を話そうと、それは老人の自由だ。だが、自分に席を外せと言うのなら、それは話が別だった。そんな都合のいいこと、誰が応じるものか。咲夜は隣に座った千暁をちらりと見て、小さく微笑んだ。二人を見つめた風一は、やがて咲夜に向かって口を開く。「この前、お前に話した株式の件なんだが……」やはり、咲夜にその株式を受け取ってほしいという思いは変わらなかった。だが咲夜の答えも変わらない。「風一おじいさん、私の考えは以前と同じです。森崎家の株を受け取る資格は私にはありません。その株は、やはり森崎家の人にお渡しください。私が持てば、余計な揉め事を招くだけです。私
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第307話

どう考えても、その条件はすべて咲夜に有利なものだった。咲夜の権益を最大限に守るための内容ばかりだったのである。風一は身内である森崎家の人間ではなく、むしろあらゆる面で咲夜の利益を守ろうとしていた。洸は咲夜に、「どうしてそこまでしてくれるのか、自分でよく考えてみて」と告げた。その瞬間、咲夜はすべてを悟った。澄江という名前を耳にした途端、風一の表情がわずかに変わる。驚きを隠せない様子だった。――なぜ、この子が水野澄江という女性を知っているんだ?その反応だけで、咲夜は自分の求めていた答えを得た。彼女は静かに続ける。「水野澄江は、当時、私の両親にあのプロジェクトへの入札を強く勧めた中心人物です。そして、つい最近になって、水野澄江が静香さんと接触していたことも知りました。風一おじいさんはずっと前からご存じだったんですよね。花江グループが倒産寸前まで追い込まれたのは、ご子息の英樹さんが仕組んだ罠だったということを」咲夜は、当時の真相を真正面から突きつけた。澄江という一本の糸が浮かび上がった以上、たとえ決定的な証拠がなくても、そこからそう推測するのはごく自然なことだった。まして今の風一の表情の変化が、その推測をさらに確信へと変えていた。「ずっと分からなかったんです。どうして風一おじいさんは、ここまで私によくしてくださるのか」当時の自分には、本当に理解できなかった。しかし、すべての出来事を一本の線につながった今なら分かる。感情を押し殺しながら、咲夜は続けた。「どうしても森崎グループの株を私に渡そうとしたことも、晴南に私との結婚を望んだことも、先々を見越してあれほど手厚い保障を用意してくださったことも……それは、英樹さんが信義を裏切ったと知っていたから。だから、償おうとなさったんですよね。風一おじいさんは、そうしておけば、すべてが明るみに出る頃には森崎家と花江家はすでに一家になっていて、もう過去のことを蒸し返す必要はないと考えていた。それに、おじいさんが私に与えようとしたものは、当時花江グループが被った損失をはるかに上回るものだった……そういうことですよね」そう考えたくはなかった。それでも、事実はそう語っていた。風一が自分を大切に思ってくれていたことは本当だ。それは咲夜自身が誰よりも感
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第308話

病院を出る頃には、咲夜の気持ちもだいぶ落ち着いていた。千暁は何も言わず、ただ静かに彼女の後ろを歩いている。今回のことは、咲夜にとって本当につらい出来事だった。いつも優しく穏やかだった風一が、真実を知りながら、それでも「かわいいから」という理由で晴南と彼女を結婚させようとしていた。償いだったのかもしれない。けれど咲夜にとっては、真相を知りながら黙っていたことに変わりはない。風一が本当に自分を大切に思ってくれていたことは疑っていない。だからこそ、なおさら胸が苦しかった。どうしても、何事もなかったようには受け止められない。気持ちはまだ重く沈んでいた。そんなときだった。千暁はそっと咲夜の手首をつかむと、彼女が驚いている間に、そのまま近くのスイーツショップに連れて行った。彼はチョコレートサンデーを一つ注文する。「気分が落ち込んでるなら、甘いものでも食べたら少しは楽になるかな」そう言って、サンデーを咲夜に差し出した。咲夜は彼の言葉を聞くと、スプーンで一口すくって口に運ぶ。甘い。そして、その甘さと一緒に、沈んでいた気持ちも少しずつ軽くなっていく気がした。ほどなくしてサンデーを食べ終えた咲夜は、ようやく笑顔を浮かべる。「もう大丈夫。帰ろう」二人とも昨日から同じ服のままだった。咲夜は家に帰って着替えるつもりだった。帰宅すると、咲夜は土屋洋平(つちや ようへい)のことを雅紀と真奈美に話した。雅紀は快く、一度会ってみようと承諾する。一方で真奈美は、少し心配そうな顔で咲夜を見つめ、小声で尋ねた。「荻野家のおじい様とおばあ様もいらっしゃるの?」荻野家の老夫婦は第一線を退いてからというもの、若い世代のことにはほとんど口を出さなくなったと聞いている。それなのに、どうして急に……真奈美の不安を察した咲夜は、安心させるように微笑んだ。「土屋先生とは昔から親しいみたい。ただ一緒に食事をしながら、お父さんのことを診てもらうだけだから。そんなに心配しなくて大丈夫よ」とはいえ、緊張しないと言えば嘘になる。真奈美は再び尋ねた。「それなら、お二人に何か手土産を持って行ったほうがいいかしら?」初対面なのはもちろん、今回洋平を紹介してもらえたのも、荻野家の老夫婦のおかげなのだ。真奈美も知っている。
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第309話

グループチャットの最新のやり取りは、ほんの数分前のものだった。【おばあちゃん】【咲夜ちゃんには、手土産なんていらないって伝えてちょうだい。本人が来てくれるだけで十分だから。それとね、私わざわざ調べてみたのよ。咲夜ちゃん、ますますきれいになってるじゃない。千暁、見る目はあるわね。で、いつになったら口説き落とせるの?】【おばあちゃん】【あなた、どうも典型的な不器用な男なんじゃない?女の子の口説き方なんて全然分かってないでしょう。今度は思い切ってキスしなさい。とことんキスするのよ。あの子の足がふらつくくらいキスして、『付き合う』って言わせちゃいなさい。ぐずぐずしていたら、私はいつになったら孫嫁の顔を見られるのかしら】【おばあちゃん】【もう、この子ったら。本当に大丈夫なの?おばあちゃんは気が気じゃないわよ】咲夜が視線を落とした、その瞬間。また秀子から新しいメッセージが届いた。最後の一文を読んだ途端、咲夜は思わず吹き出してしまった。千暁は慌ててスマートフォンを取り返し、わざとらしく咳払いをする。「本人が来てくれればいいってさ。だから何も用意しなくて大丈夫」そこまで言われると、咲夜も少し考えてからうなずいた。「分かった」千暁は雅紀と真奈美に向き直る。「雅紀さん、真奈美さん。午後はこちらから車を手配して、お二人を時雨庵までお迎えに上がります。それでよろしいでしょうか?」昨日、咲夜は今日詩乃と一緒にショー用サンプルの進捗を確認しに行く予定だと話していた。その帰りに咲夜が迎えに来るとなると、何度も往復することになって大変だと思ったのだ。雅紀はうなずいた。「それで問題ない」すべての段取りを決めると、咲夜と千暁は一緒に家を出た。まず咲夜は千暁を会社まで送り届け、その後、自分の会社に向かった。千雪とその日のスケジュールを確認したあと、咲夜はデザイン部に詩乃を迎えに行く。普段なら誰よりも早く出社している詩乃が、その日はオフィスにいなかった。周囲に尋ねてみると、今日はまだ出勤の打刻もしていないという。咲夜は眉をひそめ、スマートフォンを取り出して詩乃に電話をかけた。長いコールの末、ようやく電話がつながる。「……もしもし」電話の向こうから聞こえてきたのは、ひどくかすれた詩乃の声だった。「風邪でもひいたの?声がすごく
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第310話

詩乃の話を聞きながら、咲夜は心の中で思わず感心してしまった。――なるほど、これは智之の仕業なんだ。そう思いながら、咲夜はそれ以上詮索するのをやめて言った。「それなら、サンプルチェックは明日にする?」何より詩乃の体調が心配だった。詩乃は疲れすぎてはいけない。そのことは咲夜もよく分かっている。「大丈夫」詩乃は咲夜の気遣いをやんわりと断った。「今日の仕事を早く終わらせて、帰ってあの狂犬を追い出さなきゃいけないから」智之は今もなお、自分の家に居座って帰ろうとしない。そのことを思い出すだけで、詩乃は苛立ちが込み上げてきた。今はあの理屈の通じない男と顔を合わせる気にもなれない。それなのに智之は自分を放っておかず、わざと目の前をうろついてくる。考えれば考えるほど、苛立ちは募る一方だった。今の二人の関係を考えるだけで、頭を抱えたくなる。そんな詩乃の様子を見て、咲夜は穏やかに声をかけた。「落ち着いて。きっと何とかなるから」詩乃はぎこちない笑みを浮かべる。心の中では、智之というどうしようもない男を散々罵っていた。それでも咲夜になだめられ、どうにか感情を胸の奥に押し込めた。その日、咲夜と詩乃は一日中、花江グループ傘下の工場で過ごした。大量のサンプルを一つひとつ確認していったものの、詩乃はどれにも満足できない。この分野に関して、彼女の基準はとても厳しかった。咲夜と二人で細かな仕様を一つずつ詰め直し、ようやく納得のいくところまで仕上げてから工場を後にした。会社に戻ると、詩乃はノートを手に、そのまま自分のオフィスに向かう。工場に入ったときから、彼女は今日見つけた問題点をすべてノートに書き留めていた。修正が必要な箇所は、漏れなく記録されている。咲夜が自分のオフィスに入ると、ちょうど千暁からメッセージが届いた。【運転手がもうご両親を迎えに向かったよ。君は時間になったらそのまま時雨庵に来ればいい】時間を確認した咲夜は、思わず目を見開く。約束の時間が迫っていた。ここから向かえば、渋滞してもちょうどいい頃合いに着くはずだ。咲夜は急いで身支度を整え、車を走らせて時雨庵に向かった。……咲夜が個室に着くと、中はすでに賑やかな雰囲気に包まれていた。啓介と秀子が並んで座り、その隣には千暁。
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