All Chapters of 『RE:LAY ―幽霊となった伝説のモデルが妹をプロデュースする話―』: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話《誰も触っていない顔》 

午前十一時四十分。 都内・第三スタジオ。 大手ブランドの華やかな撮影現場から少し離れた、小さなスタジオだった。 白い壁。最低限の照明。スタッフの数も多くない。 今日は、小規模ブランドのルック撮影。 予算も大きくはない。 それでも現場には、撮影前特有の張りつめた空気があった。 自動ドアが開く。 与那嶺良太と歌原彩が入ってきた。 「本日はよろしくお願いします」 スタッフが頭を下げる。 彩も慌てて頭を下げた。 「よ、よろしくお願いします」 良太も続く。 「よろしくお願いします」 そのときだった。 メイク台の前にいた女性が、ふと顔を上げた。 黒髪のボブ。 化粧は薄い。 三十代前半。 服装も黒で統一され、必要以上の装飾はない。 相沢七瀬。 彼女は彩を見た。 そして、 手を止めた。 数秒。 彩には、それがもっと長く感じられた。 七瀬はゆっくり立ち上がる。 そのまま彩の前まで来た。 何も言わない。 ただ見る。 正面。 横顔。 首。 肩。 立ち方。 指先。 呼吸。 彩は少し居心地が悪くなり、視線を泳がせた。 「……あの」 返事はない。 七瀬はもう少し見る。 そして、ようやく小さく息を吐いた。 「……へえ」 近くにいたスタッフが苦笑した。 「相沢さん?」 七瀬は彩から目を離さない。 「誰も触ってない」 彩が首を傾げる。 「……え?」 七瀬は、もう一度言った。 「誰も触ってない顔」 その言葉に、 良太の横で黒いドレス姿のレイラがわずかに反応した。 《……七瀬》 良太が目だけを動かす。 《知り合い?》 《最終候補》 《何の?》 《昔、チームに入れるか迷った人》 良太が少し驚く。 《そんな人いたんだ》 《いたわ》 レイラは七瀬を見る。 《腕は本物》 少し間を置く。 《ただ、ちょっと厄介》 《それ褒めてる?》 《かなり》 その間にも、七瀬は彩を見続けていた。 「流行も入ってない」 一拍。 「売れる顔も入ってない」 さらに見る。 「レイラの妹も入ってない」 彩の表情が少し変わる。 七瀬は気にしない。 「珍しい」 彩は困ったように笑った。 「……褒められてます?」 七瀬は少し考える。 「ううん」 「え」 「診断」 良太が思わず口元
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第52話《服を見る目》

午後。 第三スタジオ。 小さなルック撮影の現場には、まだ本番前の静けさが残っていた。 メイクを終えた歌原彩が、鏡の前からゆっくり立ち上がる。 目元も、唇も、肌も、大きく変わったようには見えない。 何かを足された感じはほとんどない。 それでも、確かに整っていた。 顔が前へ出すぎていない。 けれど、ぼやけてもいない。 相沢七瀬は、まだ道具を片づけていなかった。 ブラシも、リップも、必要なものだけをすぐ手の届く場所へ残している。 服を着たあとで、また変えるかもしれない。 最初から顔だけを完成させるつもりがないのだと、その置き方だけで分かった。 少し離れた場所で、良太も鏡を見ていた。 何が良いメイクなのかは分からない。 けれど、一つだけは分かる。 相沢七瀬は、彩を別の誰かに変えようとしていない。 その隣には、誰にも見えない黒いドレス姿のレイラが立っていた。 レイラは七瀬ではなく、彩を見ている。 彩は衣装ラックの前へ移動していた。 生成りのワンピース。 深い紺のコート。 薄いグレーのシャツ。 すぐには触らない。 少し離れたところから見る。 襟。 袖。 裾。 布の落ち方。 七瀬が、その様子を見ながら口を開いた。 「……面白い子ですね」 良太が振り返る。 「彩がですか?」 「他に誰がいますか」 「ですよね」 七瀬は彩から目を離さない。 「あの子、まだ自分を見せようとしてない」 「それって……いいことなんですか?」 「モデルによります」 少し間を置く。 「あの子には、いい」 良太はもう一度、衣装ラックの前にいる彩を見る。 「そうですか」 「自分を見せたい子は、顔が先に出るんです」 七瀬は静かに続ける。 「顔が先に出る子は、服より自分を見せようとする」 「それは駄目なんですか?」 「駄目とは言ってません。そういうモデルが必要な仕事もあります」 七瀬は彩を見る。 「でも、あの子は違う」 一拍。 「服が来るのを待ってる」 良太が首を傾げた。 「服が……来る?」 「変な言い方ですけどね」 良太は少し考える。 彩はまだ服に触れていない。 それでも、何を着るかではなく、その服がどういうものなのかを先に見ているようには感じた。 「……なんとなく、分かる気がします」 七瀬が少しだけ
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第53話《正しすぎる手》

午後。 第三スタジオ。 生成りのワンピースを着た彩が、白い壁の前に立っている。 午後の柔らかな光。 まだ一枚も撮っていない。 それなのに、さっきまでとは少しだけ空気が違っていた。 良太はモニターの横で彩を見ていた。 しばらくして、小さく呟く。 「……やっぱり、よく分からないな」 七瀬が振り返った。 「何がですか」 「モデルって、指定された服を着る仕事なんですよね」 「まあ、大きく言えば」 良太は首を傾げる。 「顔が良くて、スタイルが良ければ、どんな服でもそれなりに成立するんじゃないんですか」 七瀬は、しばらく良太を見た。 「……あなた、事務所の社長ですよね」 「まだ二週間です」 「言い訳になってません」 「ですよね」 良太は苦笑した。 「なので、教えてください」 七瀬は少し考えたあと、彩が着ているワンピースを見る。 「服を買いに行って、マネキンでは絶対似合うと思ったのに、自分が着たら違ったことありません?」 「ああ……」 良太はすぐに頷いた。 「あります。格好いいと思って買ったのに、俺が着ると急に普通になるやつ」 「それです」 「それなんですか」 「逆もあるでしょう。ハンガーに掛かってると地味なのに、誰かが着たら急に良く見える服」 良太は少し考える。 「ありますね」 七瀬は頷いた。 「服って、置いてあるだけで完成するものばかりじゃないんです」 静かな声だった。 「身体が入って、姿勢が決まって、動いたときに初めて完成する服がある」 彩を見る。 「身体が変われば、同じ服でも見え方は変わる。歩き方が変われば、布の動きも変わる」 良太もモニターを見る。 生成りのワンピース。 さっき衣装ラックに掛かっていたときより、確かに印象が違う。 「だから、モデルは服を着るだけの仕事じゃありません」 七瀬が続ける。 「服を生かす仕事です」 少し間を置く。 「その服が一番きれいに見える場所を、自分の身体で探す仕事」 良太は、少しずつ理解し始める。 「……だから彩は、服を見るんですか」 七瀬の目が少し細くなる。 「そう」 「自分がどう見えるかより先に?」 「服がどう見えたいかを見てる」 七瀬は彩から目を離さない。 「それ、案外できる人少ないです」 良太も彩を見る。 自分を主役にしよう
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第54話《顔を守る手》

一着目の撮影が終わった。 予定より十五分ほど押している。 それでも、撮れた写真は明らかに良かった。 第三スタジオには、妙な空気が残っていた。 疲れ。 苛立ち。 納得。 そして、少しの期待。 その全部が混ざっている。 彩は控えスペースで水を飲んでいた。 そこへ良太が近づく。 「大丈夫?」 「はい」 彩は頷いたあと、少しだけ視線を落とした。 「でも、ちょっと緊張しました」 「相沢さん?」 彩は小さく頷く。 「ずっと見られてる感じがして」 良太は少し考える。 「嫌だった?」 「嫌ではないです」 一拍。 「怖いです」 「怖い?」 彩はメイクスペースにいる七瀬を見る。 七瀬は次の衣装に合わせて、リップとパウダーを選び直していた。 「変な見方をされてる感じじゃなくて」 彩は言葉を探す。 「ちゃんと見られてる感じです」 良太は黙った。 ちゃんと見られる。 それは、嬉しいことでもある。 けれど、見逃してもらえないということでもある。 「無理だと思ったら言って」 彩が良太を見る。 「はい」 「俺はまだ、この現場の何が正しいのか全部は分からないけど」 少し間を置く。 「彩が嫌だと思ったら、そこで止めるから」 彩は少し驚いたような顔をした。 それから、静かに頷く。 「ありがとうございます」 「うん」 良太の横で、黒いドレス姿のレイラが小さく言った。 《いいわ》 《何が?》 《止める基準を、現場の空気じゃなく彩に置いた》 良太は少しだけ眉を動かす。 《それでいいのか?》 《今はね》 レイラは彩を見る。 《彩の事務所なんだから》 良太は何も返さず、小さく頷いた。 そのとき。 少し離れた衣装ラックの前で、七瀬の声がした。 「次、紺のコートですよね」 スタイリストが頷く。 「はい。中は白シャツで」 七瀬が白シャツを見る。 数秒。 「……変えた方がいいです」 スタイリストの手が止まった。 「え?」 「その白だと、顔が浮きます」 「でも、ブランド指定なんです」 七瀬はすぐ横のラックから、薄いグレーのシャツを取った。 「こっちの方がいい」 空気が少し止まる。 良太の背筋が自然に伸びた。 《また始まった》 レイラが即答する。 《まだ序の口よ》 スタイリストは困っ
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第55話《保留という答え》

午後。 第三スタジオ。 撮影は予定より三十分ほど押していた。 それでも最後のカットに入る頃には、誰も「早く終わらせたい」とは思っていなかった。 最後は、薄いグレーのシャツ一枚。 当初は白い壁の前で撮る予定だったが、木の床に座る構図へ変わっている。 これも七瀬の提案だった。 ディレクターは最初、難色を示した。 けれど、ここまで撮れた写真を見たあとでは、簡単には退けられなかった。 彩が床に座る。 膝を立てすぎない。 背中も丸めすぎない。 薄いシャツが身体から離れすぎないよう、呼吸だけを残す。 カメラマンがファインダーを覗いた。 「少しだけ横」 「はい」 彩が身体を動かす。 七瀬がすぐに声を出した。 「肩、落としすぎないで」 カメラマンが一度顔を上げる。 「それ、俺も思った」 七瀬は何も返さない。 カメラマンも、そのままファインダーへ戻った。 二人の間には、撮影開始時とは違う空気があった。 仲良くなったわけではない。 七瀬が扱いやすくなったわけでもない。 ただ、 同じ写真を見るようになっていた。 「歌原さん、そのまま」 シャッターが切られる。 カシャ。 カシャ。 彩は笑わない。 無理に表情も作らない。 けれど、空っぽではなかった。 薄いグレーのシャツの中に、きちんと呼吸がある。 誰かに似せようとしていない。 レイラにも似せていない。 歌原彩として、 そこにいる。 カメラマンがわずかに位置を変えた。 「もう一枚」 彩は動かない。 ほんの少しだけ視線を落とす。 カシャ。 モニターに写真が出た。 スタジオが静かになる。 まだ新人だ。 完成されたモデルではない。 それでも、 ただの新人とも違った。 服を消さない。 自分も消えない。 その間に、少しだけ余白がある。 服が入れる余白。 見る側が想像できる余白。 これから何かになっていくための余白。 ディレクターが先に口を開いた。 「……これ、ラストで」 カメラマンも頷く。 「はい」 スタイリストがモニターを見る。 「いいですね」 少し離れたところで、スタッフの一人が呟いた。 「思ったより、全然……」 そこで止まった。 続きを言えば失礼になると思ったのかもしれない。 けれど、意味は伝わった。 期待してい
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第56話《未来で決める》

夕方。 撮影を終えた彩と良太は、第三スタジオを出た。 住宅街の細い道には、昼の熱が少しだけ残っている。遠くで犬が吠え、電線の向こうには薄い夕焼けが広がっていた。 背後でスタジオの扉が閉まる。 大きな仕事ではない。 有名ブランドの広告でもなければ、業界中が注目する現場でもない。 それでも、今日ここで撮れた写真と、そこで交わした言葉は、彩にとって確かな一歩だった。 彩は肩に掛けたバッグを直し、小さく息を吐く。 良太が隣から聞いた。 「疲れた?」 彩は少し笑った。 「はい。でも、楽しかったです」 「楽しかった?」 良太は少し意外そうに見る。 彩は歩きながら考えた。 「最初は怖かったです。相沢さんにも、カメラにも、ずっと見られてる感じがして」 「うん」 「でも、途中から服のことだけ考えられました」 良太が彩を見る。 「何をしたら可愛く見えるかとか、どうしたら上手に見えるかじゃなくて」 彩は今日着た服を思い出すように続ける。 「この服はどう落ちるんだろうとか、どこに身体を置いたら邪魔しないんだろうって考えてたら、途中から怖くなくなりました」 良太は静かに頷いた。 その横を歩く黒いドレス姿のレイラが、少しだけ笑う。 《そう》 届かない声だった。 《それでいいのよ》 彩は夕焼けを見上げる。 「また撮りたいって言ってもらえました」 「うん」 「嬉しかったです」 その言葉には無理がなかった。 姉の妹だから呼ばれたのかもしれない。 名前を見て期待されたのかもしれない。 それでも最後に、「また撮りたい」と言われたのは、今日ここに立った自分だった。 良太も笑う。 「良かったな」 「はい」 彩は頷いたあと、少しだけ表情を引き締めた。 「でも、もっと上手になりたいです」 良太はすぐに「頑張れ」とは言わなかった。 横でレイラが彩を見る。 《焦らなくていい》 ほんの少し誇らしそうな顔だった。 《今日の彩は、ちゃんと前に進んだわ》 三人は、そのまま夕暮れの住宅街を歩いていった。 * 少し風が吹いた。 彩のシャツの裾が揺れる。 朝と同じ服。 同じ靴。 同じ鞄。 それなのに、良太には彩が少しだけ違って見えた。 モデルとして急に成長したのかは分からない。 ただ、撮影へ入る前よりも、自分の身体と服の間
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第57話《彩が彩でいるために》

放課後。 歌原彩はマンションのエレベーターを降り、十二階の廊下を一二〇七号室へ向かった。 玄関まであと少しというところで、足が止まる。 扉の向こうから、いい匂いがしていた。 醤油と出汁。 少し甘い、煮物の匂い。 学校帰りの空腹を思い出した途端、彩の表情が少しだけ緩んだ。 鍵を開ける。 「ただいま」 すぐにキッチンから声が返ってきた。 「おかえりなさい」 エプロン姿の女性が、冷蔵庫の中を整理している。 三浦和代。 五十代前半。栄養士の資格を持つ家事支援スタッフで、平日の決まった時間に一二〇七号室を訪れ、掃除や洗濯、作り置きの食事などを担当していた。 コンロの火はすでに消えている。 夕食の準備も終わったらしく、キッチンにはまだ温かい料理の匂いが残っていた。 「今日は早かったですね」 「部活がなかったので」 「それはよかったです」 和代は冷蔵庫を閉める。 「夕食は一番上に入れてあります」 彩が中を覗く。 保存容器には、小さな付箋が貼られていた。 『鶏肉と野菜の煮物』 その下に、 『今日は体育があったので少し多めです』 さらに隣には、 『良太さんの分もあります』 彩が思わず笑う。 「ありがとうございます」 「最近、あの人ちゃんとお昼を食べてるか怪しいでしょう」 和代も笑った。 「だから少し多めにしておきました」 「たぶん喜びます」 「ならよかったです」 和代はエプロンを外し、鞄を持った。 「それじゃあ、今日はこれで失礼します」 「ありがとうございました」 彩は玄関まで見送る。 ドアが閉まると、部屋は急に静かになった。 リビングでは、良太がノートパソコンを開いている。 その近くでは、黒いドレス姿のレイラがソファの背もたれに腰掛けていた。 もちろん、彩には見えない。 彩は制服のままキッチンへ戻り、もう一度冷蔵庫の中を見る。 整然と並ぶ保存容器。 切ってある野菜。 下ごしらえされた食材。 付箋。 少し考えてから、良太へ声をかけた。 「良太さん」 「ん?」 「三浦さんって、本当に必要ですか?」 良太がパソコンから顔を上げる。 「どうして?」 「私、掃除も洗濯もできます」 彩は冷蔵庫を閉めた。 「料理も、覚えればできると思います。それに、お金もかかりますし」 良太は数秒黙
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第58話《お父さんの服》

翌朝。 佐久間家には、昨日と変わらない朝が来ていた。 「行ってきます」 「行ってらっしゃい」 小学四年生の佐久間結衣はランドセルを背負い、玄関を出た。 家のすぐ隣には、古い倉庫を改装した小さな建物がある。 Atelier SAKUMA。 父、佐久間博之の仕事場だった。 まだ朝だというのに、窓にはもう灯りがついている。 結衣は足を止め、少しだけアトリエを見た。 「……お父さん」 今日も服を作っている。 それが、結衣には少し誇らしかった。 背筋を伸ばし、学校へ向かう。 * その日の学校。 授業の中で、家族の仕事について話す時間があった。 先生に指名された子どもたちが、順番に立ち上がる。 「うちのお父さんは会社員です」 「消防士です」 「お母さんは看護師です」 やがて、結衣の番が来た。 結衣は席を立った。 少しだけ胸を張る。 「うちのお父さんは、デザイナーです」 教室の視線が集まった。 「服を作る仕事をしています」 それだけ言って、結衣は満足そうに席へ戻ろうとした。 父親は、ずっとデザイナーだった。 結衣にとっては、それで十分だった。 けれど、後ろの席から男子の声がした。 「知ってる」 結衣が振り返る。 「ネットで見たことある」 男子は悪意があるというより、知っていることを口にしただけの顔をしていた。 「でも、全然売れてないんだろ?」 教室が静かになった。 「うちの母ちゃんが言ってた。売れない服作ってる人だって」 誰も笑わなかった。 だから余計に、結衣には痛かった。 違う。 お父さんの服はすごい。 そう言いたかった。 けれど、言葉が出なかった。 父の服がたくさん売れているわけではないことは、結衣も知っている。 家に余裕がないことも。 母が働いていることも。 両親が、ときどきお金のことで話していることも。 小学四年生なりに、全部ではなくても分かっていた。 結衣は何も言わず、席へ戻った。 さっきまで少しだけ誇らしかった「デザイナー」という言葉が、胸の中で急に重くなった。 * 放課後。 結衣はランドセルを背負い、いつもの道を歩いて帰った。 春の風が吹いている。 距離は昨日と同じなのに、今日は家までが少し遠く感じた。 玄関を開ける。 「ただいま」 返事はなかった。
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第59話《見えている人》

展示会会場。 開場前日。 巨大なホールの中では、各ブランドが翌日の準備を進めていた。 照明が組まれ、ラックが運ばれ、スタッフが行き交う。 有名ブランドのブースには、すでにスポンサーやバイヤー、スタイリスト、メディア関係者が集まり始めている。 その一方。 会場の隅にある小さなブースでは、佐久間博之が一人で作業をしていた。 Atelier SAKUMA。 段ボールを運ぶ。 ハンガーラックを組み立てる。 服を並べる。 値札を確認する。 手伝う人はいない。 人を雇う余裕もない。 けれど、こういう準備には慣れていた。 十一年。 何度も一人でやってきた。 博之は最後のジャケットをラックへ掛け、少し離れて全体を見る。 悪くない。 そう思う。 いつもと同じように。 * その頃。 一二〇七号室。 良太はノートパソコンを操作し、最後に送信ボタンを押した。 「来場申請、終わった」 彩が顔を上げる。 「ありがとうございます」 画面には申請完了の表示。 翌日の展示会来場者一覧へ、 歌原彩 その名前が静かに追加された。 「こういう大きい展示会、初めて?」 「はい」 彩は少しだけ緊張した顔をする。 良太はパソコンを閉じた。 「まあ、今回は見学だし」 立ち上がる。 「仕事じゃないから、気楽に行こう」 彩も小さく笑った。 「はい」 二人とも知らない。 昨日、一度だけ案件一覧で見送り、 そのまま忘れた名前が、 明日もう一度、目の前に現れることを。 * 翌日。 展示会初日。 巨大なホールには、開場と同時に人が流れ込んだ。 ブランド。 バイヤー。 雑誌編集者。 スタイリスト。 インフルエンサー。 業界関係者が絶えず行き交う。 その人波の中を、一団が歩いていた。 「先生、次どこ行きます?」 若いスタッフが声をかける。 桐島誠司は手元の資料を閉じた。 四十八歳。 業界でも名前の知られたスタイリストだった。 「全部見る」 「全部ですか」 「来た意味なくなるだろ」 後ろを歩く若手たちは慌ててメモを確認する。 その最後尾に、高梨奏がいた。 二十二歳。 スタイリストアシスタント。 黒を基調とした服装に、控えめなフリルとレース。 仕事中でも好みは隠さない。 ただし、 好き嫌いを仕
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第60話《起きてるよな》

展示会会場。 昼休みに入ると、午前中の喧騒が少しだけ遠のいた。 昼食へ出る人。休憩所へ向かう人。電話をしながら歩く人。 人の数は減ったが、巨大なホールが完全に静かになることはない。 会場の隅。 Atelier SAKUMA。 佐久間博之は、一人でブースに立っていた。 ラックには、ジャケット、コート、シャツが並んでいる。 午前中、何人がこの前を通ったのか。 何人が服を見たのか。 もう分からない。 ただ一つ分かるのは、 立ち止まった人間が、ほとんどいなかったことだった。 博之は、ラックの中央にあるジャケットを見る。 午前中、一人だけ長く見ていた若い女性がいた。 名前も知らない。 黒を基調に、フリルやレースの入った少し変わった服装。 ほとんどの人間が数秒で通り過ぎる中、その女性だけは何度も服を見た。 布を持ち上げ、 肩を見て、 落ち方を確かめた。 そして、 妙なことを言った。 ――この服、今、寝てます。 博之はジャケットを見つめた。 「……寝てる」 小さく呟く。 今も意味はよく分からない。 服は完成している。 縫製にも手を抜いていない。 生地だって、予算の中で妥協しなかった。 肩線。 重心。 前身頃。 何度も直した。 それでも彼女は、 寝ていると言った。 もう一つ。 ――着た時に変わる服です。 博之は腕時計を見る。 十二時四十八分。 もうすぐモデルが来る。 今回の展示会のために募集したモデルだった。 写真を確認し、面談もした。 採寸。 仮縫い。 肩幅。 腕。 胸。 腰。 最後の一着は、その身体に合わせて調整している。 できることはやった。 少なくとも、 博之はそのつもりだった。 今回の展示会が大きく外れれば、今までと同じ形で続けるのは難しい。 材料費。 アトリエの維持費。 展示会費。 次の服を作るための金。 どれも余裕はない。 誰かに辞めろと言われたわけではない。 ただ、 このままでは金が続かせてくれない。 だから今回は、モデルまで用意した。 人が入れば服は変わる。 あの女性も、そう言った。 なら、 モデルが着れば変わる。 博之は、そう思おうとした。 * 午後一時。 「お疲れさまです」 声がして、博之が顔を上げた。 二十代前半の
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