All Chapters of 『RE:LAY ―幽霊となった伝説のモデルが妹をプロデュースする話―』: Chapter 71 - Chapter 80

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第71話《王のためのチーム》

二か月。 およそ六十日。 長いようで、世界を目指す人間にとっては決して長くない。 けれど、その六十日でできることはある。 日本最大級のモデル事務所・HORIZONは、その時間と組織を、たった一人のモデルへ集中させることを決めていた。 * 午前九時二分。 HORIZON本社、大会議室。 正面の大型モニターには、一人の女性の写真が映し出されている。 御堂玲奈。 その下には、 RE:CODE MODE CONTEST 開催まで 残り60日 会議室に集まっているのは二十名を超えていた。 マネージャー。 広報。 分析担当。 スタイリスト。 ヘア担当。 メイク担当。 トレーナー。 コンディショニングを管理するスタッフ。 そのほかにも、ブランドとの調整や契約を担う人間がいる。 一つの大会のためとは思えない人数だった。 扉が開く。 入ってきたのは、玲奈を担当する第一マネージャー、久我沙織。 抱えていた資料をテーブルへ置く。 「御堂玲奈のスケジュール調整が完了しました」 大型モニターが切り替わった。 ドラマ。 CM。 イベント。 雑誌。 テレビ。 六月から八月にかけて入っていた大量の予定。 その横には、 【調整済】 【延期】 【代替対応】 という文字が並んでいる。 若手スタッフが思わず聞いた。 「……全部ですか?」 「全部です」 久我は淡々と答えた。 「今後二か月、玲奈にはRE:CODE MODEの準備を最優先してもらいます」 会議室が静かになる。 「すでに動いている契約については先方と調整済みです。代替可能な案件は、本人と先方の了承を取った上で他の所属者へ振り分けました」 モニターに所属モデルやタレントの名前が表示される。 いくつもの仕事が、 別の人間へ移されていた。 若手が小さく呟く。 「そこまで……」 久我が見る。 「そこまでやります」 声を張るわけでもない。 それでも、 迷いはなかった。 「負けるつもりはありませんから」 * 次に表示されたのは、過去のNORDI COLLECTIONの資料だった。 会場。 照明。 ランウェイの形状。 衣装。 演出。 過去の映像まで並んでいる。 分析担当が説明を始める。 「過去十年分を、改めて洗い直しました」
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第72話《まだ早い世界》

白いスタジオ。 その日の撮影は、小規模なブランドのルック撮影だった。 予算は大きくない。スタッフの人数も少ない。 それでも、撮る側も服を作った側も、自分たちの仕事を少しでも良い形で残そうとしている。その緊張感だけは、大きな現場と変わらなかった。 「はい、いいよ。次のカットいこう」 カメラマンの声に、歌原彩が立ち位置を外れる。 次の衣装へ移る前に裾の動きを確認していると、相沢七瀬が近づいてきた。 「前髪、ちょっと触るね」 「はい」 七瀬が数本だけ位置を直す。 今回、RE:CODE MODE CONTESTに向けて期間限定でUTAHARA MODEL OFFICEと契約した七瀬は、ヘアとメイクの両方を担当している。 少し離れた場所では、高梨奏が衣装の背中に入った皺を伸ばしていた。 奏はまだ桐島誠司のアシスタントで、この日はスタイリスト側のスタッフとして現場に入っている。 Atelier SAKUMAの展示会以来、彩と同じ現場になるのは初めてだった。 「彩ちゃん、ちょっとだけ腕上げてもらっていい?」 「こうですか?」 「うん。ありがとう」 布を整え、奏が一歩離れる。 「大丈夫。これで綺麗に落ちる」 七瀬も彩の顔を見る。 「顎、ほんの少し上」 彩が上げる。 「上げすぎ。戻して」 「……はい」 「目線は遠く。笑わなくていい」 「はい」 良太は少し離れたところから、その二人を見る。 「二人とも怖いな……」 七瀬が振り返った。 「仕事中です」 奏も真顔で続く。 「仕事です」 「はい……」 黒いドレス姿のレイラが、横で笑った。 《弱いわね、社長》 《二対一なんだよ》 最後のカットが終わる。 カメラマンの「OKです」という声で、張っていた空気が少しだけほどけた。 彩も肩の力を抜き、小さく息を吐く。 そのときだった。 スタジオの入口付近がざわついた。 「え……?」 「玲奈さん?」 「なんでここに……」 スタッフたちの視線が、一か所へ集まる。 黒いロングコート。 大きなサングラス。 それだけで、 そこにいる人間の意識が変わった。 御堂玲奈。 テレビをつければ見る。 駅の広告にもいる。 街頭ビジョンにも、雑誌にも、化粧品のポスターにもいる。 モデルだけではなく、広告や映像の世界まで含め
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第73話《帝王は、一人で立たない》

世界には、一人で成功したと語られる人間がいる。 けれど、本当に一人だけで世界の頂点へ辿り着いた人間を、アレッサンドロ・ノルディは知らなかった。 才能だけでは、世界は動かない。 服だけでも。 モデルだけでも。 ショーだけでも。 何一つ完成しない。 だからこそ、ノルディは帝王と呼ばれるようになった。 すべてを一人でできたからではない。 自分にできないことを知り、それをできる人間へ任せることを覚えたからだった。 * 深夜。 イタリア・ミラノ。 NORDI本社の最上階にあるデザインルームには、まだ灯りが残っていた。 壁一面にデザイン画が貼られている。 窓の向こうには、夜のミラノ。 机に座っているのは、アレッサンドロ・ノルディだった。 その前には、RE:CODE MODE CONTESTの資料が広げられている。 御堂玲奈。 真壁ミラ。 歌原彩。 ほかにも、日本各地から選ばれたモデルの資料が並んでいた。 控えめなノックの音がする。 「どうぞ」 扉が開き、秘書が顔を出した。 「まだお帰りにならないのですか」 ノルディは資料から目を離さない。 「もう少しだけ」 秘書が苦笑する。 「皆、帰りましたよ。照明も、演出も、映像も。ヘアもメイクも。モデルたちも」 「そうか」 「あなたも休んでください」 ノルディがようやく顔を上げる。 少しだけ笑った。 「私が休めるのは、彼らがいるからだ」 秘書も笑う。 何度聞いても、 この人は同じことを言う。 * 秘書は窓際まで歩き、夜景を見た。 しばらくしてから、ふと聞く。 「昔から疑問だったんですが」 「何だい?」 「どうして、あなたの周りにはあれほど優秀な人たちが集まるんでしょう」 ノルディは少し考えた。 そして、 机の上にある資料から一枚の写真を取り上げる。 歌原レイラ。 「……私はね」 穏やかな声だった。 「できないことが多いんだ」 秘書が振り返る。 ノルディは指を折る。 「光のことは、照明の人間ほど分からない」 「人をどう歩かせるかは、演出家の方が上手い」 「髪はヘア担当の方が詳しい」 「肌はメイク担当の方がよく見える」 一拍。 「モデルの身体は、モデル本人の方が知っている」 「宣伝は広報の方が上手いし、数字は財務の方が強い」
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第74話《服を選ぶということ》

夜。 与那嶺家の良太の部屋。 学生時代から使っている机の上には、RE:CODE MODE CONTESTの資料が広がっていた。 出場モデルは十六人。 御堂玲奈。 真壁ミラ。 名前を聞いたことのないモデルもいる。 けれど、経歴を調べれば誰も簡単な相手ではないことくらい、業界に疎い良太にも分かった。 「……強いな」 思わず声が漏れる。 隣では、黒いドレス姿のレイラが腕を組んでいた。 「当たり前でしょう。招待された十六事務所が、それぞれ一人だけ出してくるのよ」 「だよな」 良太は資料を閉じる。 相沢七瀬には、ヘアとメイクを任せることになった。 高梨奏も、まだ桐島のアシスタントという立場ではあるが、彩の服を見る目には明らかに興味を持っている。 少しずつ、人の輪郭は見えてきた。 「じゃあ次は?」 良太が聞く。 「何が必要なんだ?」 レイラは迷わなかった。 「服」 一拍。 「彩と一緒に、世界へ立つ服よ」 * 良太は候補として集めておいた資料を開いた。 最初に出てきたのは、 Iva Lucia。 三堂蓮が立ち上げたブランド。 彩がまだ今ほど知られていなかった頃、初めて服を「立たせた」場所でもある。 「まず思いつくのは蓮さんなんだけど」 良太は資料を見る。 「彩のことも知ってるし、話もしやすい。もう一度お願いできないかな」 レイラはすぐには答えなかった。 数枚のルックを見てから、 首を横に振る。 「悪くない」 「じゃあ」 「でも、今は違う」 良太が顔を上げる。 「違う?」 「Iva Luciaには、Iva Luciaの良さがある。でも今回、私が探してるものとは違う」 レイラは資料を閉じた。 「知ってる人だから。彩を大事にしてくれた人だから。そういう理由で選んじゃ駄目」 声は冷たくない。 むしろ、 蓮の服を評価しているからこその言葉だった。 「勝つために選ぶの」 良太は少し考え、頷いた。 「分かった」 次に出した資料は、 Atelier SAKUMA。 展示会の写真。 そして、 佐久間博之。 良太は少しだけ慎重になる。 「じゃあ、佐久間さんは?」 レイラは今度こそ黙った。 展示会。 誰も足を止めなかった小さなブース。 彩が一着のジャケットを着た。 奏が数本のピンを
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第75話《世界は、ランウェイの前に始まる》

午前中だけで、良太は三つのブランドを回った。 どれもレイラが名前を挙げたところだった。国内で派手に知られているわけではないが、服そのものは世界で評価されている。 最初のショールームで、担当者は良太の名刺を見てから顔を上げた。 「UTAHARA MODEL OFFICE……歌原レイラさんの?」 「はい。妹の彩が所属しています」 「そうでしたか」 反応は悪くなかった。 だから良太は、少しだけ期待した。 けれど担当者は、彩の資料を一通り確認したあと、静かに閉じた。 「申し訳ありません。今回は、ご期待に添えません」 「理由を伺ってもいいですか」 「社内事情です。それ以上は……」 深く頭を下げられた。 失礼な態度は一つもない。 それでも、結果は断りだった。 二社目も変わらなかった。 三社目では、彩のプロフィールを見た担当者が「才能は感じます」とまで言った。 その先は同じだった。 「ですが、今回は」 理由は誰も言わない。 それだけで十分だった。 * 夕方。 三社目を出た良太は、歩道橋の途中で足を止めた。 街には少しずつ明かりが灯り始めている。車の列が下を流れ、夕焼けはビルの間へ沈みかけていた。 良太は手すりに両手を置き、長く息を吐いた。 「全部、駄目だった」 隣を歩いていたレイラは、驚かなかった。 《やっぱりね》 良太が顔を向ける。 「知ってたの?」 《ええ。御堂玲奈が出るなら、当然》 あまりにも迷いのない返事だった。 良太は苦く笑う。 「正直、レイラの名前を出せば、一社くらいは話を聞いてくれると思ってた」 《逆よ》 レイラは首を横に振った。 《私の名前を知ってるから、余計に慎重になる》 「どういうこと?」 レイラはすぐには答えず、歩道橋の向こうへ目をやった。 《ブランドは会社よ。スポンサーも、広告代理店も》 風がドレスの裾を揺らす。 《夢だけじゃ動けない。失敗した時に説明できる相手を選ぶ》 良太は黙って聞いた。 《御堂玲奈も、真壁ミラも、もう名前そのものが信用になってる》 世界で戦えるモデル。 結果を残したチーム。 過去の仕事。 ブランドとの関係。 それらは全部、次の仕事を呼ぶ。 《玲奈に服を預けるなら、社内で説明しやすい。スポンサーも予算を出しやすい。広告代理店も企画を通しや
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第76話《世界基準》

展示会から数日後。 Atelier SAKUMAの朝は、いつもより騒がしかった。 人の声ではない。 パソコンの画面に並んでいるのは、商談の相談、発注の問い合わせ、サンプルの貸し出し依頼。 佐久間博之は最後のメールへ返信し、送信ボタンを押した。 「……終わった」 椅子の背にもたれ、大きく息を吐く。 独立して十一年。 こんな朝は初めてだった。 少し前まで、この工房にあるのは鳴らない電話と、返事の来ないメールばかりだった。 服を作っても、見てもらえない。 展示会へ出しても、足を止めてもらえない。 それでも作るしかなかった。 けれど、あの日。 一人の少女が自分の服を着た。 人が止まった。 少女だけではない。 服を見た。 名刺を置き、仕事の話をして帰っていった。 佐久間は机の端に置かれた写真を見る。 黒でも白でもない、曖昧な色のジャケット。 その中に、歌原彩が立っている。 ハンガーに掛かっていた時には静かすぎた服が、彩の肩へ乗ると印象を変えた。 歩けば裾が遅れてついてくる。 止まれば、布だけが一瞬あとから静かになる。 自分が作った服なのに。 知らない服を見ているようだった。 写真の隣には、何枚ものデザイン画が重なっている。 肩。 首元。 袖。 裾。 どれも少しずつ違う。 それでも、考えている相手は一人だった。 歌原彩。 展示会の夜から描いている。 依頼されたわけではない。 売れる保証もない。 もう一度、自分の服を着せてみたい。 それだけだった。 佐久間は一枚を持ち上げる。 「……違うな」 戻して、別の紙を見る。 これも違う。 彩というモデルを、まだ掴めていなかった。 細い肩。 長い手足。 年齢相応の幼さ。 静かに立っているのに、服を着た瞬間だけ周囲の視線を変える。 服が彩を変えるのではない。 彩が入ることで、服の意味まで変わる。 だから描いても、答えにならない。 スマートフォンが鳴った。 画面には、与那嶺良太の名前。 佐久間は少しだけ姿勢を正した。 「はい」 『UTAHARA MODEL OFFICEの与那嶺です』 「はい」 『今日、少しお時間いただけませんか』 佐久間の視線が、机の上に置かれた記事へ移る。 《RE:CODE MODE CONTEST》 十
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第77話《彩の服》

Atelier SAKUMAの工房には、夜になっても明かりが残っていた。 佐久間博之の机には、何十枚ものデザイン画が広がっている。 その横には一台のタブレット。 画面に映っているのは、歌原彩だった。 正面。 横。 後ろ姿。 立っているところ。 歩いているところ。 振り向く瞬間。 何もしていない時の顔。 服を作るために必要ならと、良太たちが用意してくれた写真だった。 彩自身も協力している。 「こんなのでいいですか?」 そう言いながら、少し困ったような顔で何枚も撮らせてくれた。 佐久間は一枚ずつ確認する。 歩いている彩の写真で指を止めた。 肩の位置を見る。 首から胸元へ落ちる線を見る。 それから紙へ目を移し、鉛筆を走らせた。 襟。 肩。 袖。 腰。 歩いた時に遅れて動く裾。 しばらく描いて。 止まる。 「……違う」 紙を横へ置いた。 次の一枚。 また描く。 数十分後。 「これも違う」 机の上には、そんな紙ばかりが増えていた。 どれも悪いとは思わない。 むしろ、服としての完成度には自信があった。 二十年、服を作ってきた。 独立して十一年。 売れなくても、評価されなくても、服だけはやめなかった。 だからこそ分かる。 今描いているものは、決して低い水準ではない。 それでも。 何かが違う。 佐久間は鉛筆を置いた。 「……何なんだろうな」 答えを求めるようにタブレットを見る。 そこには、ちゃんと彩がいる。 見ている。 そのはずだった。 ふと、隣のパソコンへ目が移った。 RE:CODE MODE CONTEST。 出場モデル、十六名。 御堂玲奈。 真壁ミラ。 歌原彩。 さらに、それぞれを支えるチームの情報も公開され始めている。 スタイリスト。 ヘア。 メイク。 デザイナー。 知っている名前がいくつもあった。 海外コレクション経験者。 高級ブランドを手掛けるデザイナー。 世界で評価されているチーム。 その先には。 NORDI COLLECTION。 アレッサンドロ・ノルディ。 佐久間は再びタブレットを見る。 彩。 次にパソコン。 世界。 また紙へ戻る。 描く。 御堂玲奈に負けないために。 真壁ミラのチームへ見劣りしないために。 世界で通
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第78話《声が重なる》

午後の1207号室。 良太がノートパソコンでRE:CODE MODE CONTESTの資料を確認していると、隣にいたレイラが突然言った。 《良太》 「何?」 《スタジオと、家庭教師。手配して》 良太の指が止まる。 「……何で同時に必要なんだ?」 《彩を歩かせるから》 「ウォーキング?」 《次はそれ》 良太は画面の日程を見る。 大会まで、もう余裕はない。 ウォーキング練習が必要なのは分かる。 「スタジオはいいとして、家庭教師は?」 レイラは当然のように答えた。 《練習すれば、その分だけ時間を使う。でも彩の勉強を削るわけにはいかない》 学校。 仕事。 大会へ向けた練習。 全部をやらせるつもりらしい。 「それ、無茶じゃないか?」 《だから時間の使い方を変えるの》 移動を減らす。 勉強は集中できる環境を作る。 練習する日は練習に使い、休ませる日は休ませる。 大会があるからといって、彩の生活そのものを大会へ差し出すつもりはない。 その線だけは、レイラの中ではっきりしていた。 「分かった。家庭教師も探してみる」 《あと、スタジオは鏡があるところ》 「まだあるのか」 《できれば壁一面。端から端まで、ちゃんと歩ける距離も欲しい》 「注文多いな」 《当たり前でしょ》 良太は苦笑しながら検索画面を開いた。 「で、先生は?」 レイラが少しだけ笑う。 《私》 良太が顔を上げた。 「……どうやって?」 レイラは良太を見る。 《あなたがいるでしょ》 「俺?」 《私が見る。私が教える》 一拍。 《私の言葉を、あなたが彩へ届けて》 その時の良太は。 それがどこまで文字通りの意味になるのか、まだ知らなかった。 * 数日後。 借りたスタジオは、壁一面が鏡になっていた。 白い床の端から端まで、十分な距離がある。 良太は室内を見回す。 「これでいい?」 レイラもゆっくり確認した。 《悪くない》 「探すの大変だったんだからな」 《ありがとう》 「素直だな」 《文句言ってほしい?》 「結構です」 更衣室の扉が開いた。 彩が出てくる。 黒のシンプルなトップスに細身のパンツ。髪は後ろでまとめ、足元も動きやすいものにしている。 「良太さん、これでいいですか?」 良太はレイラを見る。 レイ
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第79話《もし、私が消えたら》

夜九時。 与那嶺家の玄関が開いた。 「ただいま」 この時間に良太が家へ帰ってくるのは、久しぶりだった。 少し前までなら、毎日のようにいた家だ。 五年間。 ほとんど、ここから出なかった。 それが今では。 帰ってくる方が珍しくなっている。 「おう」 リビングから父・与那嶺和男の声がした。 良太が顔を出す。 「まだ起きてたのか」 「まだ九時だ」 「そうか」 「お前が帰ってこないから、時間の感覚がおかしくなってんじゃないか」 良太は少し笑った。 「かもな」 テレビがついている。 ちょうど番組が終わったところで、画面の隅に《RE:CODE MODE CONTEST》の文字が残っていた。 良太の足が止まる。 「見てたの?」 「特番やってた」 「へえ」 「へえ、じゃない」 良太が冷蔵庫から水を取り出す。 和男は、その背中を見た。 「お前、本当に社長なんだな」 良太の手が止まる。 「今さら?」 「今さらだ」 和男はテレビを見る。 「出てたぞ。UTAHARA MODEL OFFICE、代表・与那嶺良太」 良太は水を一口飲んだ。 「俺だな」 「お前以外に誰がいる」 「だよな」 二人とも少し笑った。 けれど和男の表情は、すぐに戻った。 「良太」 「何?」 「大丈夫なのか」 良太は父を見る。 「何が?」 「全部だ」 和男はソファの背から身体を起こした。 「つい最近まで無職だったんだぞ、お前」 良太は何も言わない。 事実だった。 「金もなかった。会社経営の経験もない。芸能界も知らない。ファッションなんて、もっと知らなかっただろ」 「うん」 「それが急に会社作って、モデル事務所の社長だ」 和男の眉間にしわが寄る。 「よくそれでやってるな」 良太は少し考えた。 「俺もそう思う」 「笑い事じゃない」 怒っているわけではない。 責めてもいない。 ただ、心配している。 二十八年間。 息子を見てきた父親として。 和男は少し言いづらそうに続けた。 「なあ、お前」 「うん」 「騙されてないか?」 良太が止まった。 「……誰に?」 「知らん」 「知らんのかよ」 「だから心配してるんだ。金持ってる奴とか、芸能界の偉い奴とか、悪い事務所とか……モデルとか」 良太は思わず笑っ
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第80話《最初の仮縫い》

午後のAtelier SAKUMAには、ミシンの音だけが一定の間隔で響いていた。 机の上には、糸、針、型紙、裁断された布。 その中央に、白い服が置かれている。 本番で使う生地ではない。 色もない。 装飾もない。 形だけを確かめるための、最初の仮縫いだった。 佐久間博之は服を持ち上げ、正面から見る。 肩の位置。 袖の付け根。 腰から裾へ落ちる線。 背中へ回した布の量。 何度確認しても、大きな破綻はない。 「……悪くない」 思っていた以上だった。 展示会の夜。 歌原彩だけを思い浮かべて描いた、最初のデザイン。 あの紙の上にしかなかった線が、ようやく人の身体へ着せられる形になった。 けれど佐久間は、すぐに首を横へ振る。 「まだだ」 まだ彩が着ていない。 トルソーで成立している服と、人の身体で成立する服は違う。 まして。 これは歌原彩から作ろうと決めた服だった。 本人が入るまで、何も決まっていない。 その時、インターホンが鳴った。 佐久間は仮縫いをトルソーへ戻し、一度だけ大きく息を吐いてから扉へ向かった。 * やって来たのは、良太と彩。 その後ろに相沢七瀬と高梨奏。 そして良太にだけ見えているレイラも、当然のように工房へ入ってくる。 「今日はお願いします」 良太が頭を下げる。 「こちらこそ」 彩も続いた。 「お願いします」 七瀬は工房へ入るなり、作業机、照明、鏡、トルソーを順に見た。 奏はほとんど迷わず、中央の白い仮縫いへ視線を止めた。 佐久間は二人の反応に気づく。 「まだ本番用じゃありません。形を見るためのものです」 「分かってます」 七瀬が答える。 奏も小さく頷いた。 良太は白い服を見る。 専門的な良し悪しは分からない。 だから隣へ視線だけを送った。 《どう?》 レイラはしばらく答えなかった。 服の正面から背中までを見ている。 《着てから》 《え?》 《服は、着る前に決めない》 良太は黙って頷いた。 佐久間も同じように彩を見る。 「試着してもらっていいですか」 「はい」 佐久間は仮縫いをトルソーから外し、彩へ渡した。 「こちらで」 試着室の扉が閉まる。 途端に、佐久間が机の上を整え始めた。 すでに揃っている型紙を重ね直し、ペンの向きを直す。 良太はそ
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