『RE:LAY ―幽霊となった伝説のモデルが妹をプロデュースする話―』 のすべてのチャプター: チャプター 21 - チャプター 30

32 チャプター

第21話《同じ朝、違う景色》

冒頭ナレーション 世界が一人の名前を叫んでいる朝、 その名前の人間は、キッチンで卵を焼いていた。 1 歌原レイラのマンション・朝 高層マンションの朝。 大きな窓から入る光。 白いキッチン。 フライパンの上で、卵が焼ける音。 ジュッ、という音だけが静かな部屋に響く。 テレビでは朝のニュース。 「昨日、世界的デザイナー、アレッサンドロ・ノルディが来日し――」 「ノルディ・コレクション東京開催について――」 「開催の背景にはモデル・歌原レイラの存在が――」 テレビの中では、ランウェイを歩くレイラ。 会見で話すレイラ。 世界が彼女の名前を繰り返している。 その同じ部屋で、 エプロン姿のレイラが味噌汁の火を止める。 彩が寝室から出てくる。 少し寝ぐせのついた髪。 まだ眠そうな目。 彩 「……おはよう」 レイラ 「おはよう。顔洗ってきなさい。朝ごはんできてる」 テレビの中では「世界のレイラ」。 目の前にいるのは、味噌汁の味を確かめている姉。 彩は少し不思議そうに、その背中を見る。 テーブルに並ぶ朝食。 焼き魚 卵焼き 味噌汁 ごはん 小さなサラダ 彩 「……ねえ、お姉ちゃん」 レイラ 「なに?」 彩 「テレビの中のお姉ちゃんと、 ここにいるお姉ちゃん、同じ人に見えない」 レイラは少しだけ笑う。 レイラ 「同じ人よ。ちゃんと二人分食べるけど」 彩、少し笑う。 彩 「なんかね……変な感じ」 少し考えて、言う。 彩 「世界にいるお姉ちゃんと、 わたしの前にいるお姉ちゃんが、 同じ人だって、まだうまく分かんない」 レイラは少しだけ考えてから答える。 レイラ 「分からなくていいわよ」 彩 「え?」 レイラ 「あなたの前にいるのが、私。 テレビにいるのは、仕事してる私」 味噌汁をよそう。 レイラ 「あなたが知ってるほうが、本物よ」 彩は少し黙って、うなずく。 2 出発前 レイラは彩に弁当を渡す。 きれいに詰められた弁当箱。 レイラ 「今日は体育ある?」 彩 「うん」 レイラ 「じゃあ、ごはん多めに入れてある」
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第22話《手から手へ》

冒頭ナレーション 人は、誰かに何かを渡す。 言葉だったり、物だったり、 ときには、自分の人生そのものだったりする。 渡したものが、まっすぐ相手に届くとは限らない。 それは途中で、別の誰かの手に渡るからだ。 手から手へ渡っていくうちに、 それは最初とは違う形になってしまうことがある。 それでも人は、誰かに何かを渡す。 それが、相手に届くと信じているからだ。 1 歌原家・朝 静かな朝の玄関。 もう彩はいない家。 人の気配の少ない家。 玄関のドアが開き、父・和人が入ってくる。 スーツ姿。少し疲れた顔。 ネクタイをゆるめながら靴を脱ぎ、 靴を揃えようとして、ふと足元を見る。 靴箱の下に、小さなカードが落ちていた。 和人はしゃがんで拾い、表を見る。 「お姉ちゃんへ」 「……彩のか」 カードを開く。 中には、少し丁寧に書かれた文字。 お姉ちゃんへ 新しい生活、 お姉ちゃんのお仕事の負担にならないよう、 家事もできることはやります。 まだ全部はできないけど、 少しずつ覚えます。 これからよろしくお願いします。 彩 和人は、しばらくその文字を見ていた。 表情は変わらない。 やがてカードを閉じる。 「……真面目だな」 少しだけ面倒そうにため息をつく。 靴を履き、カードを靴箱の上に適当に置く。 「……届けたところで、会ってくれないだろ」 「……必要なら、また書くだろ」 そのまま家を出る。 ドアが閉まる。 玄関に、カードだけが残る。 2 同日・昼 歌原家 玄関のドアが開き、母・陽子が帰ってくる。 静かな家。 靴を脱ぎ、靴箱の上の封筒に気づく。 「お姉ちゃんへ」 陽子はそれを手に取り、開く。 カードを読む。 しばらく、その文字を見ている。 表情は読めない。 カードを閉じる。 少しだけ考える。 そして、小さく呟く。 「……警戒、解けそうね」 カードをバッグに入れる。 ファスナーを閉める音。 静かな部屋。 3 学校・昼休み 教室。 彩はバッグの中を探している。 ノート。 教科書。 筆箱。 何度も探す。 ない。 「……あれ」
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第23話《届く距離》

1 UTAHARA OFFICE・会議室会議室。長机の上には資料が幾重にも並び、スタッフたちが慌ただしく動いている。壁の大型モニターには表示されている。「NORDI COLLECTION TOKYO」出演モデル調整資料机の上には、歌原レイラのフィッティング予定、取材申請一覧、移動導線表、食事管理表、ボディチェック記録。それは一人の人間の予定表というより、ひとつの巨大な舞台装置の設計図のようだった。柳田が資料をめくる。柳田「本番まで三か月。来月の一次フィッティング日程、確定しました。 衣装合わせが二日間。歩きの確認がその翌週です」スタッフが別の資料を差し出す。スタッフ「取材申請、かなり来てます。海外媒体も増えてます」レイラ「単独インタビューは絞って。 ショーに関係ある媒体だけでいい」スタッフ「分かりました」柳田、次の資料へ。柳田「食事管理、今日からさらに調整します。 塩分、糖質、水分量、全部再設定です。 本番一か月前から外食は禁止にします」レイラ「うん」柳田「塩で浮腫む身体は、歩きで崩れます。 睡眠が乱れた日は、一本が持ちません」レイラ「だから切る」柳田「はい」柳田「睡眠時間も固定します。夜の会食、不要な挨拶回り、全部切ります」レイラ「切っていいよ。今は会うより、立てる身体を残したい」少し間。別のスタッフが口を開く。スタッフ「スポンサー筋から追加打診が三件来ています。東京開催に合わせて露出を増やしたいと」レイラ「断って。 今の契約だけでいい」スタッフ「承知しました」周囲には高揚感がある。世界中が注目する舞台。東京開催。その中心に、歌原レイラが立つ。だが、レイラだけは淡々としている。柳田がレイラを見る。柳田「……世界中が東京を見ています」レイラ「そうだね」柳田「怖くないんですか」少し間。レイラ「怖いよ」柳田「……意外です」レイラ「だから準備するんだよ。 怖くない人は、準備しないから」会議室が静まる。レイラ「本番で何が起きるかは分からない。 でも、崩れない身体は作れる」柳田「崩れない身体、ですか」レイラ「浮腫まない管理。乱れない生活。疲れを残さない移動。 衣装に身体を合わせる準備。歩く一本に集中できる状態。 そういうのは
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第24話《同じ味》

1. 歌原家・キッチン(夜)流し台。ミキサーの音。低く、均一な回転音が、夜のキッチンを満たしている。陽子が野菜を切っている。にんじん。りんご。ほうれん草。包丁のリズムは正確だ。速すぎず、遅すぎず。無駄がない。慣れている手つき。誰かのために、当たり前に食事を作っていた頃の動き。切り終えた材料を、ミキサーに入れる。水を入れる。スイッチを押す。回転音が少しだけ強くなる。その横のテーブル。小さな封筒。少しだけ角が折れている。陽子、その封筒を開ける。中のカードを取り出す。少しだけ見る。──彩の字。「お姉ちゃんへ」その文字を見た瞬間、ほんのわずかに、陽子の手が止まる。音だけが続く。ミキサーの回転音。一定のリズム。逃げ場のない、単調な音。陽子の視線が、カードの上で止まる。そのまま、動かない。――ふと。別の光景が差し込む。小さな手。まだ指が短い。スプーンを握るのも覚束ない。テーブルの上。こぼれたスープ。困った顔で、それでも笑おうとする幼いレイラ。「お母さん、これ、あってる?」その声。まだ、世界を疑っていない声。陽子の手が、無意識に空をなぞる。そこにあったはずの、小さな頭を撫でる動き。だが、何もない。キッチン。夜。ミキサーの音。現実が戻る。陽子の指先が、わずかに震える。カードの端を、少し強く握る。封筒に戻そうとして――止まる。視線が落ちる。自分の手。包丁を握っていた手。洗濯をしていた手。子どもの髪を結っていた手。その手が、今、何をしようとしているのか。理解している。理解してしまっている。陽子(心の奥)
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第25話《世界が知る日》

午後一時十二分。その速報は、一本のニュースとして流れた。だがそれは、ただの芸能ニュースではなかった。『速報です。世界的モデル・歌原レイラさん(28)が本日、搬送先の病院で死亡が確認されました――』その瞬間。都内の大型ビジョン。駅構内のニュースモニター。カフェのテレビ。編集部のタブレット。事務所の端末。世界中のスマートフォン。あらゆる画面が、同じ文字を映した。『歌原レイラ、死去』最初に止まったのは、日本のモデル業界だった。撮影現場。ブランド会議。編集部。スタジオ。ランウェイリハーサル。誰もが、その五文字を理解できずにいた。「……は?」「いや待って……」「誤報……だろ……?」一人の死として、あまりにも現実味がなかった。なぜなら彼女は――“死から最も遠い場所にいる人間”だったからだ。誰より身体を管理し、誰より己を律し、誰より完璧に生きた人間。そんな人間が、突然死ぬなど。誰も想像していなかった。五分後。海外メディアが速報を転載。“LEGENDARY JAPANESE MODEL REIRA UTAHARA PASSES AWAY”“ICON OF ASIAN FASHION DEAD AT 28”“NORDI COLLECTION TOKYO IN SHOCK”世界がざわめき始める。SNSトレンド一位。#歌原レイラ死去二位。#信じられない三位。#レイラさん四位。#誤報であってくれ数十万件の投稿。誰もが同じ言葉を打っていた。嘘でしょまだ若いのに朝まで元気だったのに信じたくないノルディどうなる日本の誇りだったのにだが。最も重かったのは、そのニュースに対す
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第26話《手から手へ、死は届く》

歌原レイラ(28)──その死は、前日から始まっていた。 歌原彩(15・高校一年生)──春。 1.裏通り/深夜 (雨上がりの路地。 濡れたアスファルトが街灯を鈍く反射している。) (赤西が立っている。 顔色は悪い。 手には、空になった封筒。) (目の前には、雑居ビルの裏口。 さっきまでいた、あの部屋。) (扉が開く。) (闇売人が出てくる。 煙草を咥えたまま。) 闇売人 「まだ何かあるのか」 赤西 「……もう一つ、頼みたい」 (闇売人、目だけを向ける。) 闇売人 「何だ」 赤西 「運び屋を用意してほしい」 (沈黙。) 闇売人 「……追加料金だ」 赤西 「払う」 闇売人 「いつだ」 赤西 「明日」 闇売人 「急だな」 赤西 「条件がある」 闇売人 「言え」 (赤西、スマホを取り出す。) (画面には彩の写真。 制服姿。 笑っている、何も知らない顔。) (闇売人、画面を見る。) 闇売人 「……学生か」 赤西 「これに似せろ」 (闇売人、無言。) 赤西 「十五歳くらいに見える女。 百六十八前後。 細身。 髪型、髪色、近いのを」 (闇売人、煙を吐く。) 闇売人 「そこまで具体的に言われて、 明日までに瓜二つは無理だ」 (赤西、息を呑む。) (闇売人、写真を拡大する。) 闇売人 「だが―― 背格好近いのにウィッグ被せて、 フードとマスクで輪郭潰せば“それっぽく”はなる」 赤西 「……それでいい」 闇売人 「近くで顔見られる前提なら断る。 一瞬だけだぞ」 赤西 「構わない」 (闇売人、ポケットから小さなメモ帳を取り出す。) (無言で何かを書き込む。) (紙を破る。) (赤西へ差し出す。) (そこには簡単な地図と時間。) 《8:15 ○○公園裏 電柱脇》 闇売人 「ここに置け」 (赤西、受け取る。) 闇売人 「時間厳守だ」 闇売人 「置いたら去れ」 闇売人 「後はもう、お前の知らない仕事だ」 (赤西、紙を見る。) 赤西 「……分かった」 (闇売人、一歩近づく。) 闇売人 「これで終わりだ」 闇売人 「次に俺を探したら殺す」 赤西 「……分かった」 (闇売人、背を向けて去る。) (赤
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第27話《まだ、そこにいるはずだった》 

歌原レイラ(28)──死亡確認済。 歌原彩(15・高校一年生)──春。 1.私立聖蘭学園・一年A組/午後 (教室は静まり返っていた。) (誰も動かない。 誰も声を出せない。 女子生徒の手の中で、スマートフォンの画面だけが白く光っている。) 『歌原レイラ 死去』 (その文字だけが、教室から現実感を奪っていた。) 彩 「……え?」 (小さな声だった。 意味を理解していない声だった。) 女子生徒 「ご、ごめん……私……」 教師 「神崎、スマホをしまいなさい!」 (だが教師自身の声も揺れている。) 教師 「……歌原。保健室へ――」 彩 「……違う」 (全員が止まる。) 彩 「それ、違うと思います」 (即答だった。 迷いのない否定だった。) 彩 「たぶん、同姓同名です」 (教室が凍る。) 彩 「お姉ちゃん、今日も朝……」 (言葉が止まる。) (朝の光景が、何の前触れもなく脳裏によみがえる。) レイラの声 『行ってらっしゃい』 『今日もちゃんと食べなさい』 『帰ったら話あるから』 (全部、数時間前のことだ。) 彩 「……朝、普通だったので」 (誰も何も言えない。) (その「普通」が、今は一番残酷だった。) 2.廊下/直後 (彩が教室を出る。 教師が呼び止める声も聞こえない。 廊下の窓から、春の光が差し込んでいる。) (彩はスマートフォンを取り出す。) 通知 99+ 柳田 南条 事務所 知らない番号 ニュースアプリ 着信履歴 LINE (全部、赤い。) (指が震える。) (彩はレイラに電話をかける。) コール音。 一回。 二回。 三回。 (出ない。) 彩 「……ほら」 (誰に言うでもなく。) 彩 「撮影中だ」 (もう一度かける。) (出ない。) (もう一度。) (出ない。) (その不自然さが、少しずつ現実の輪郭を持ち始める。) 3.校門前/午後 (黒塗りの車が止まる。) (柳田真悠が降りてくる。) (早足でもない。 慌ててもいない。 だがその顔に、もう答えが出ていた。
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第28話《棚から落ちた、神の札》

1.中華料理店/昼 場末の中華料理店。 昼営業のピークを過ぎ、客はまばらだった。 油の匂いが壁や床に染みつき、換気扇が低く唸っている。 壁掛けテレビでは、昼のワイドショーが何事もない顔で流れていた。 窓際の席。 和人が一人、赤ら顔で酒を飲んでいる。 テーブルには空いた瓶。 料理はほとんど手つかず。 スマホ画面には証券アプリが開かれたままになっていた。 赤字。 評価損。 マイナスの数字が、容赦なく並んでいる。 投資に溺れた男は、資産を失うたびに「次で取り返せる」と言った。 そして気づけば、取り返すための金すら、ほとんど残っていなかった。 「……クソが」 和人はグラスを煽った。 何がAI銘柄だ。 何が次世代市場だ。 何が“今入れば勝てる”だ。 「……クソ市場が」 その時だった。 テレビの音量が、スタジオのざわめきごとわずかに上がる。 『速報です。世界的モデルとして活躍していた歌原レイラさん(28)が本日午後――』 和人の手が止まった。 『都内病院にて死亡が確認されました――』 沈黙。 和人はゆっくりと顔を上げた。 「……は?」 テレビに映るレイラの写真。 整いすぎたその顔が、無機質な速報テロップの隣に固定されている。 「……なに?」 立ち上がる。 「おい……嘘だろ……」 スマホを掴み、発信した。 2.電話/同時刻 コール音。 「出ろ……出ろ……!」 数秒のあと、通話が繋がる。 「……何」 陽子の声は小さかった。 「おい!! 何してんだ早く出ろクソが!!」 「今、外。用はあるの?」 「レイラのこと知らねぇのか!?」 沈黙。 「テレビ見ろ!! レイラが――」 そこで喉が詰まる。 「……死んだってよ」 数秒、沈黙が続いた。 「……おい?」 「お前、大丈夫か?」 「聞こえてんのか?」 「……ええ」 静かすぎる声だった。 「私も……今知ったところよ」 「病院で落ち合うぞ」 「……分かった」 通話が切れる。 その声が静かだった理由を、この男はまだ知らない。 3.法律事務所・応接室/翌日 重厚な木目のテーブル。 壁一面の本棚。 窓の外は曇天だった。 和人と陽子が並び、向かいには代
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第29話《花に埋もれた、世界の中心で》

1.都内大規模斎場/午前都内有数の大規模斎場。朝から降っていた雨は上がっていたが、 空はまだ薄く鈍く、光だけが曖昧に広がっていた。黒塗りの車が絶えず出入りしている。喪服の群れ。 長い列。供花の香り。 線香の煙。そして――規模に見合わないほど整然と配置された、メディアエリア。斎場の外には、報道カメラが並んでいた。一定の線より先へは入らない。だが、そのレンズは絶えず祭壇の方向を狙っている。まるで、それが当然の景色であるかのように。彩は、その異様さを、まだうまく理解できずにいた。黒い喪服に包まれた自分の手を見る。指先が少しだけ冷えている。隣には柳田。少し後ろに、南条、井原、加納、黒瀬。UTAHARA OFFICE―― レイラの事務所を支えてきた面々が、今日は誰一人として仕事の顔をしていなかった。「……大丈夫?」小さく声をかけたのは柳田だった。彩はすぐには答えられなかった。大丈夫かと聞かれても、 何をもって大丈夫というのか、もう分からなかったからだ。「……はい」やっとそれだけを返す。自分の声が、自分の声じゃないみたいだった。祭壇の中央には、歌原レイラの遺影。大輪の白い花に囲まれて、姉は笑っていた。いつものように綺麗で、 隙がなくて、それなのに―― そこにいるのは写真だけだった。まだ、理解が追いつかない。病院で白い布の下にいた人と、 いま花の中心で微笑んでいる人と、 毎朝当たり前みたいに「起きなさい」と言っていた姉とが、どうしても一つに結びつかない。死んだ、という言葉だけが先にあって、 姉がいないという現実は、まだどこか遠かった。2.チームレイラ「少し座って」井原が椅子を引く。彩は頷き、腰を下ろす。南条が水を差し出した。「無理して立たなくていいから」「うん……」キャップを開ける手が、わずかに震えた。黒瀬は壁際で腕を組み、黙っている。加納は何度も口を開きかけては閉じた。誰も、正しい言葉を持っていなかった。「レイラさん、こういうの嫌いそうっすよね」南条が吐き捨てるように言う。「……何が?」「メディア席ですよ」彩は視線を動かす。確かに、一般参列の導線から外れた場所に、報道用の区画があった。カメラが静かに方向を合わせている。「こんなの、おかしいでしょ」小さな声が返る。「……場所
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第30話《空いた椅子に、欲が座る》

1.葬儀場の外/夕刻 (葬儀は終わった。 会葬者は引き、車列もまばらになっている。) (濡れた石畳。 薄い夕暮れ。 供花を運び出すスタッフの姿。 片付けの気配だけが、静かに残っている。) (斎場の外気は少し冷えている。 花と線香の匂いだけが、まだ薄く漂っていた。) (和人は喪服のまま、斎場の外でスマホを取り出す。) 和人 「……もしもし」 (歩きながら。) 和人 「さっきの投資会社の名刺、あっただろ。 あれに連絡入れろ」 (すぐ横で、代理人が足を止める。) 代理人 「お待ちください」 和人 「何だよ」 代理人 「今売れば、大損です」 (和人、露骨に顔をしかめる。) 和人 「は?」 和人 「高値で買うって向こうから来たんだぞ?」 代理人 「それでも、です」 (代理人、視線をまっすぐ返す。) 代理人 「今日来た投資家は、価値が見えているから来たんです」 和人 「……だから売るんだろうが」 代理人 「逆です」 (一拍。) 代理人 「価値が見えているからこそ、 “安く買えるうちに押さえたい”んです」 (和人、黙る。) 代理人 「《UTAHARA OFFICE》は上場企業ではありません。 市場で株価がついている会社でもない」 代理人 「ですが、だからこそ―― 今この瞬間の空気で雑に手放していい資産でもない」 (和人、眉を寄せる。) 和人 「……分かるように言え」 代理人 「レイラさん個人の死で価値が終わる会社なら、 彼らは来ません」 代理人 「来たということは、 “死後も金を生む構造が残っている”と見ているからです」 (和人の目がわずかに動く。) 代理人 「ブランド。 過去アーカイブ。 肖像管理。 スポンサーとの残存契約。 関連権利。 育成中の案件。 事務所名そのものの信用」 代理人 「それらを整理し、 経営人材を置き、 適切に握れば――」 (一拍。) 代理人 「これは一度きりの売却益より、 ずっと大きい金を生む可能性があります」 (沈黙。) (遠くで、台車が石を擦る音。 供花がひとつ、またひとつと運び出されていく。) 和人(心の声) レイラの名前。 事務所。 ブランド。 金の流れ。 全部まとめて、まだ生きてる。
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