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12.二回目の夜

Author: 中岡 始
last update publish date: 2026-03-03 15:08:27

シャワーの音が、狭い部屋の壁に柔らかく跳ね返っていた。浴室のドアの向こうで水が落ちる音が一定に続くと、それだけで宵だまりの氷の音とは別の膜ができる。一定の音は思考を薄める。薄まった思考の隙間から、今日の蛍光灯の白さが抜け落ちていく。抜け落ちたあとに残るのは、律の気配と、自分の身体が覚えてしまった熱だけだった。

史人はベッドの端に腰を下ろし、手のひらを見た。指先がまだ少し震えている。寒さではない。雨上がりの夜気の冷たさはもう部屋の中では薄く、代わりに室内の白い灯りが生活の輪郭を浮かび上がらせている。散らかったままの服、畳む元気のないタオル、洗い切れていないコップ。そんなものの中に、律がいるという事実が、今夜はもう否定できないほど重い。

重いのに、逃げたいという気持ちは消えていなかった。逃げたいのは仕事からだ。現実からだ。恋愛をする余裕がない自分からだ。けれど同時に、逃げ先に律がいることを、史人はもう認め始めてしまっている。その認め始めた部分が、胸の奥で熱を持って疼く。

浴室のドアが開いた。湿った空気と石鹸の匂いが廊下へ流れ、ひとり暮らしの乾

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  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   54.最後の八小節

    ボローニャの夜は、冬の終わりほど冷たくない。なのに律の胸の内側だけ、薄い氷が張っていた。回廊の影に沿って歩くと、石畳が靴底を通して固い音を返す。遠くの教会の鐘は、時間を告げるというより、街の呼吸の合図みたいに鳴った。下宿の階段を上がり、鍵を回して部屋に入る。古い建物特有の木と石の匂いが、まだ少し湿っている。机の上には、折り目のついた楽譜。八小節だけ、鉛筆の跡が濃くなっている場所がある。たった八小節。それが律の留学の終わりを決めるわけではないのに、喉が狭くなる。律は椅子に座り、楽譜を指で押さえた。紙のざらりとした感触が、意外に現実的だった。手のひらが汗ばむのを感じる。指先が冷える前兆は、汗と一緒にやってくる。いつもそうだと律は知っていた。知っているのに、知らないふりをしようとしてしまう癖が、まだ残っている。窓を少し開けると、外の空気が細く入ってきた。市場の果物の甘い匂いはもうない。代わりに、夜の冷えた石の匂いがする。律はその匂いに、息を合わせた。吐いて、吸う。胸ではなく、腹のあたりに重心を落とすように。「拍じゃない。息」師匠の声が、耳の奥で蘇る。日本語の単語だけが、妙に輪郭を持って残っている。律は自分が、音を出す前から息を止める癖を持っていることを、この街に来てから何度も突きつけられてきた。八小節を弾く。そう決めた課題なのに、律は鍵盤に触れないまま、楽譜を閉じた。今夜は弾かない。弾かないことが逃げではないと、ここまで来てようやく身体が理解し始めていた。寝る前に、シャワーを浴びる。石鹸の匂いが湿気を含んで肌にまとわりつく。鏡に映る顔は、数か月前よりも少しだけ柔らかい。目の奥の硬さが、薄くなっている。けれど、明日のことを考えると、舌が乾く。ベッドに横になっても、眠りはすぐには来なかった。律の脳は、勝手に明日のスタジオを再生し始める。木の匂い。古いピアノの黒の艶。窓から入る午前の光。師匠の目が、自分の指ではなく、肩の位置を見る感覚。師匠の名前はアルベルト・モレッティ。ボローニャの音楽院の近くで、半分伝説みたいに語られる老人だった。若い頃は、派手なコンクールの勝ち上がりではなく、ヨーロッパの主要ホールでシューベルトやベートーヴェ

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   53.普通の夜が痛い

    雨上がりの匂いは、街の隙間に残る。アスファルトの黒がいったん洗われて、そこに排気と土と遠い川の湿り気が混ざる。史人はその匂いを吸い込むたび、身体が仕事の癖から少しずつほどけているのを感じる。梅田の白いフロアの乾いた空気ではなく、夜の街が持つぬるさに、呼吸が合わせられるようになってきた。時計を見る回数が減った。終電を逆算して、足の指を内側でせかせか動かす癖も、薄れてきた。今夜は、行きたいときに行く。帰りたいときに帰る。それが当たり前のはずなのに、史人の中では長いこと当たり前ではなかった。だからその当たり前が、いちいち体のどこかを痛くする。引き戸に手をかけると、木の感触が温かい。乾いた手のひらに、わずかに水分が戻っている気がした。史人は戸を開ける。宵だまりの暖色が、湿った夜気を押し返してくる。出汁の匂いが鼻の奥をくすぐり、鉄板で何かが焼ける音がする。グラスの氷が鳴って、誰かの笑い声がすべっていく。膜だ。ここには、いつも膜がある。その膜が、今日はきちんと効いた。串田は顔を上げて、史人の目を見たわけではないのに、自然に水を出す。黙って、いつも通りの高さでグラスを置く。史人が座る場所も、ほとんど決まっている。自分で選んでいるのに、身体がそこに流れる。流れることが怖くないのが、少しだけ不思議だった。米谷が隣の席に肘をつき、史人の顔を覗き込む。「お、今日は早いやん」史人は笑ってしまった。笑うとき、胸の奥が詰まらない。詰まらずに笑えることが、嬉しい。嬉しいのに、同じ形で、痛い。「早いっていうか、終わっただけや」米谷が口の端を上げる。「日本語やな。終わっただけやって。終わったら帰れ」史人は肩をすくめて水を飲んだ。冷たい水が喉を通る。喉が通るたび、昔より喉の奥が広い気がする。息が通る道が、ちゃんとある。息が通る道があるだけで、人は少しまともになる。串田がだし巻きを置く。湯気がふわりと上がって、照明に溶ける。史人は箸を入れる。ほどける。箸先の抵抗が消える瞬間が心地いい。口に入れると、甘さと塩気がゆっくり広がって、最後に出汁が追いつく。舌が喜ぶ。身体が落ち着く。落ち着きがきちんと身体に届くのは、宵だまりが逃避で

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   52.初案件の夜

    史人の部屋の夜は、昼より静かで、静かだからこそ音が立つ。冷蔵庫の低い唸り、換気扇の小さな回転、窓の外を通る車のタイヤが濡れた路面を削る音。仕事を辞めたはずなのに、史人の身体はその音の隙間に、通知音の幻を挟み込もうとする。耳が勝手に構える。机の上にはノートパソコンが開き、画面には監視ツールのダッシュボードと、チャットのやり取りが並んでいる。客先常駐だった頃と似た景色だ。違うのは、背後に誰も立っていないことと、責任の矢印の向きが一本しかないことだった。自分に向く一本。逃げ道はない。でも、押し付けられることもない。初案件は藤堂が紹介してきた小規模な運用保守だった。小規模と言っても、見えない地雷が埋まっているのはいつも同じだ。人が足りなくて回し続けた現場ほど、暫定対応が暫定のまま積み重なっている。ログが保存されていない。監視の閾値が雑だ。手順書が更新されていない。誰かがいなくなって、誰も気づかないまま放置された穴が、夜に口を開ける。その口が開いたのは、二十三時を回った頃だった。スマホが震えた。通知音は控えめに設定している。それでも史人の身体は一瞬で固まった。会社用スマホを伏せていた頃の反射が抜けていない。心臓が一段速くなる。指先が冷える。史人は息を吐き、画面を見た。新しいチャットメッセージ。担当者の名前と、短い文章。「すみません、アラート出てます。画面が赤いです」史人は椅子に座り直し、背筋を伸ばした。慌てない。慌てないことが武器になる。慌てないことで、相手の呼吸が戻る。相手が呼吸を戻すと、自分も呼吸を戻せる。史人はチャットを打った。短く、順序をはっきりさせる。主語を曖昧にしない。今やること、あとでやることを切り分ける。「確認します。今は触らず待ってください。こちらでログ取ります」送信した瞬間、指先の冷たさが少しだけ引いた。打った言葉が、自分の足場になる。会社にいた頃は、打った言葉が自分の首を絞めた。約束にされ、責任にされ、逃げられない印にされた。今は違う。自分で線を引ける。線を引けるから、言葉が怖くないわけではない。怖いまま、使う。画面の監視グラフが、鋭く落ちている。CPUでもメモリでもない。レ

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   51.開業届の朝

    史人は目を覚ます前に、手が先に動いていた。枕元に置いたスマホへ、指先が条件反射みたいに伸びる。画面が暗いままの黒を映し、そこに自分の輪郭だけがぼんやり浮いた。会社用スマホではない。私用だ。そう気づいてから、史人はようやく息を吐いた。部屋の窓は薄いカーテン越しに朝の光を通している。白い光は優しいはずなのに、史人の身体はまだ蛍光灯の白を思い出して身構える。肩が上がり、喉の奥が乾く。自分が息を止めているのが分かる。止めていることに気づくまでが、以前より少しだけ早い。それだけが、独立の初日らしい変化だった。机の上には、昨夜から開いたままのノートパソコンと、紙が二枚。プリンタのインクが薄く匂い、紙の白がやけに目につく。紙に縛られてきた人生だった。仕様書、議事録、障害報告、謝罪文。紙と画面の間で呼吸を削られてきた。なのに、今日の紙は違う。史人の名前が、史人の意思で書かれる。台所側に置いたケトルが、少し遅れて沸騰を始めた。シュウ…という音に、史人の神経がぴくりと反応する。蒸気の音が、どこかのサーバルームの冷却音を連れてくる。脳が勝手に結びつける。今は違う。今は自分の部屋だ。史人は自分に言い聞かせるみたいに、マグカップを取り出した。陶器の冷たさが指先に染みて、現実の温度を取り戻させる。朝食は食べられない日が多かった。食べる余裕がないというより、胃が働かない。働かない胃のまま出社して、働くのは仕事だけで、身体は置き去りになる。今日は出社がない。出社がないのに、胃はまだ働かない。史人はインスタントのコーヒーを溶かし、口に含んだ。苦味が舌に広がる。苦いのに、少しだけ落ち着く。苦味が現実を戻す。机の横に、封筒が用意されている。開業届の控えを入れるための封筒。史人は昨日、税務署の場所を地図で確認し、必要書類を印刷し、ペンを揃えた。そういう細部の準備は得意だった。仕事でもそうだった。穴を埋める。抜けを見つける。誰かの作った雑な前提の中で、落ちるところを先に塞ぐ。史人の身体は、その作業だけは軽く動く。なのに、自分の将来のことになると、手が重い。ペンを握るだけで、指先が冷たくなる。将来は仕様書に書けない。設計書に落とせない。見積もれない。見積もれないものを扱うのが、史人はずっと怖かっ

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   50.辞表は紙より軽い、体は重い

    朝の梅田は、夜の残骸を薄い光で誤魔化していた。ガラス張りのビルの縁に、昨夜の雨の水滴がまだ残っている。史人はその反射を見ているだけで、胃の奥がきゅっと縮むのを感じた。辞める。そう決めたはずの言葉が、舌の上に乗るたびに冷たくなる。声にすれば現実になる。その現実が、今までの生活を全部塗り替える。改札の電子音が、昨日の深夜のファミレスの白い照明と一緒に脳裏に浮かんだ。藤堂の声。「お前、いけるから」あの言葉は救いのはずなのに、同時に崖の縁に立たされたような怖さを持っていた。選べるのなら、今の地獄に留まるのも自分の選択になる。史人はそこから目を逸らしてきた。逸らしてきたぶん、真正面から受け止めるのが怖い。常駐先の入館ゲートが、いつも通りの音で史人を迎えた。ピッ。あの短い音は、許可と監視を同時に含んでいる。フロアに入ると、乾いた空調の匂いが鼻に刺さる。紙とインクと、誰かの制汗剤と、コーヒーの酸味。人間の匂いが薄い。人間が仕事の機能に変換された場所の匂いだった。デスクに座ると、モニターの白が目に突き刺さる。監視グラフが更新される。チャットが流れる。打鍵音が波のように続いて、止まると逆に怖い。音があるうちは、誰かが働いている。音が止まると、誰かが倒れている気がする。そんな錯覚の中で、史人は自分の会社用スマホを鞄から出し、机の端に置いた。伏せない。伏せたくなる衝動を、わざと裏返す。逃げじゃない。そう言い聞かせるために。昼前、会議室に呼ばれた。ガラス張りの部屋の中は、外から丸見えで、逃げ場がない。客先PMの榊が、資料を見ながら淡々と言う。「来月の体制、今のままで行ける想定ですか」その声は、質問の形をしているだけで、答えを許さない種類の圧があった。現場リーダーの大西が、いつものように史人に視線を寄せる。「史人くんが一番分かってるよね。ここ、抜けられると困るんだよね」困る。困ると言われると、史人は今まで反射で頷いてきた。頷けば、その場の空気が少しだけ滑らかになる。滑らかになる代わりに、自分が削れる。削れても、空気が守られるならそれでいいと、ずっと思ってきた。今日は違う。史人の喉が一瞬ひっかかった。息が浅くなる。

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   49.藤堂の依頼

    終電の一本手前を逃したあとの梅田は、昼の顔よりずっと正直だった。華やかな看板はまだ光っているのに、人の歩幅が揃わない。酔いの重さ、疲れの重さ、帰る場所がある者とない者の差が、足音の乱れとして路面に残っていた。史人は常駐先のビルを出たあとも、肩から抜けない緊張を引きずったまま、地下街の出口を探していた。頭の中ではまだ監視画面が点滅している。赤いアラート、更新される時刻、会議室の淡々とした声。息を吸っても、肺の上の方で止まってしまう。会社用スマホは、鞄の底に押し込んである。触れないでいれば鳴らない気がする。鳴ったら終わる気がする。どちらにしても、もう終わっているのに、身体だけが納得していない。歩きながら、太腿のあたりが震えた気がして、反射でポケットを探ってしまう。もちろん空だ。自分が自分に嘘の振動を送っている。情けなさが喉の奥をこすり、唾が苦い。スマホの私用のほうが震えたのは、その直後だった。通知の短い振動が掌に伝わり、史人の心拍が一段跳ねた。会社用じゃないと分かっていても、身体が同じ動きをする。画面を覗くと、見慣れた名前が出ていた。藤堂。同期より少し上で、史人がこの業界に入った頃から、やたらと現場の匂いに敏感な男だった。先に辞めて、今はフリーになっている。辞めると言い出したとき、皆は笑ったり心配したりしたが、藤堂はどちらでもなく、淡々と「そっちのほうが合う」と言った。合うかどうかは、史人にはまだ分からない。分かりたくない、が近い。メッセージは短かった。「今から空いてる?」その短文の軽さが、逆に嫌な予感を連れてくる。藤堂は、無駄な前置きをしない。楽しい用事ならもっと雑に誘う。深夜に、こういう聞き方をするのは、だいたい火の匂いがする。史人は立ち止まって、梅田の風の通り道に身体を置いた。湿った夜気が頬に触れる。返信をする指が少し迷う。断る理由はいくつもある。眠い。疲れた。家に帰りたい。宵だまりに寄りたい。どれも本当だ。でも、その本当は、全部逃げの色をしている。史人は打った。「今、梅田。終わった」送信した瞬間、後悔が来る。自分で面倒を増やした、という感覚。だが、その後悔はすぐ次の通知に押し流された

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   48.終電の外側、通知音の残響

    梅田のビルは、夜になるほど白さを増す。昼間の蛍光灯はまだ人の往来を前提にした明るさをしているのに、終電が近づく頃の白は、誰かを帰さないための照明みたいに冷たい。史人はその白の下で、モニターの赤いアラートと、更新される監視グラフの波形に目を焼かれながら、今日も席を立てずにいた。会議室のガラス越しに、清掃員の影が横切る。床にワックスを引く音が、乾いた摩擦として耳に残る。空調はいつも同じ温度のはずなのに、深夜に近いほど冷えた気がした。体が冷えるのではなく、神経が乾いていく。舌の奥が渇き、唇の端が割れそうになる。喉を潤したくて水を飲んでも、内部で蒸発してしまうみたいだった。

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   47.戻ってくる呼吸

    夜は、ボローニャの回廊を少しだけ甘くする。石は昼の乾きを忘れたみたいに湿り、街灯の光が表面に薄く滲んで、歩く靴音まで丸くなる。律はその丸さに救われるようになっていた。東京の夜は、いつも角が立っていた。角は人の喉に引っかかり、息を切らせる。ここでは、息が途中で折れにくい。下宿の窓を少し開けると、遠くで鐘が鳴った。きっぱりした音なのに、柔らかい。音が胸に当たっても刺さらないという感覚に、律はまだ慣れきれず、時々驚く。驚いて、それから安心する。テーブルの上には、折りたたみの譜面台と、書き込みだらけのスコアと、マグカップと、スマホが置かれている。スマホは、以前のよ

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   46.断る勇気

    昼の光は、ボローニャの回廊を思ったより白く照らす。石の肌が乾いている日は、音の輪郭まで硬くなる気がして、律は無意識に肩をすくめた。湿った夜の方が楽だと気づいてから、昼の乾きは少しだけ苦手になっていた。息が喉の奥で引っかかる感じがするからだ。アカデミアの外れにある小さなレッスン室は、ジョヴァンニのスタジオと違って、余計なものがほとんどなかった。壁の色も机も椅子も、すべてが実務的で、落ち着くというより緊張を強いる。窓は高い位置にあって、外の喧騒が届かない。代わりに、沈黙がこちらへ迫ってくる。ドアノブに手をかけた瞬間、律は自分の指先が少し冷えていることに気づいた

  • 依存の代償は、恋だった~抱かれて呼吸を取り戻す社畜と、音を失った天才   45.条件を出す練習

    アカデミアの廊下は、いつも少し冷えている。石造りの建物の内側に残った湿り気が、夕方になると床から上がってきて、靴底を通して足首まで触れてくる。練習室から漏れる音が、壁の曲がり角で薄く反響し、遠くの鐘の残り香みたいに混ざる。誰かがスケールを弾き、誰かが同じ箇所を何度も繰り返し、誰かがため息をつく。その全部が、律の神経を刺さない程度に、日常としてそこにあった。以前なら、それだけで胸の奥がざわついた。音があるというだけで、評価がついてくる気がした。誰かの耳が自分を切り分け、並べ、順位をつける。空気の中にある見えない秤が、息を浅くする。けれど今は、ざわつきが来る前に、律は自分で手

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