完璧な義兄は不完全な愛に溺れる〜義弟の甘い蜜〜 のすべてのチャプター: チャプター 21 - チャプター 30

32 チャプター

第二十一話「半同棲生活の始まり」

 兄さんが使っていない部屋の扉を開けると、想像以上に綺麗に片付けられた空間が目に入った。 窓際には真新しいハンガーラックが置かれ、壁際には大きな姿見が立てかけられている。クローゼットの扉は開け放たれ、中には何も入っていない空っぽの棚が僕を待っているようだった。床には埃一つ落ちておらず、窓から差し込む夕日が部屋全体を優しく照らしている。「ここを、千景の衣装部屋にしようと思って」 背後から聞こえた兄さんの声に、僕は振り返った。腕を組んで立っている兄さんの表情は柔らかく、僕の反応を窺うように視線を向けてくる。「いつから……片付けてくれてたの?」「昨日の夜。千景が帰った後に」 兄さんは軽く答えたが、仕事で疲れているはずの身体で、夜遅くまでこの部屋を片付けてくれたのだと思うと胸が熱くなった。物置のように使われていた部屋だと聞いていたから、それなりの荷物があったはずなのに、今は何もない。「ありがとう、兄さん」 僕は小さく呟くと、玄関に置いてきた段ボール箱を取りに戻った。玲司のマンションから運び出してきた僕の私物が、全部で五箱ある。兄さんが車で迎えに来てくれて、一緒に荷物を運んでくれた。「重いから、無理しないで」「大丈夫。これくらい」 兄さんは軽々と段ボールを床に置くと、また玄関へと向かった。僕も慌てて後を追い、残りの荷物を二人で運び込む。五箱全てが部屋に並ぶと、兄さんは額の汗を拭って微笑んだ。「じゃあ、荷解きは千景に任せるよ。俺は夕飯の準備するから」「わかった。ありがとう、兄さん」 兄さんが部屋を出て行くと、僕は一箱目のガムテープを剥がしていく。「ちか」として使っているウィッグやメイク道具が詰め込まれていて、一つ一つ取り出しては棚に並べていった。 荷解きをしながら、僕はふとポケットの中に手を入れた。指先に触れる冷たい金属の感触に、胸がどきりと跳ねる。兄さんからもらった合鍵だった。「バイトの日だけじゃなくて、いつでも来ていいから」 兄さんがそう言って鍵を手渡してくれたとき、僕は嬉しくて言葉を失った。いつでも来ていい。いつでもここに帰ってきていい。 鍵を握りしめながら、僕は深呼吸をする。胸の奥が熱くなり、喉の奥が詰まったような感覚になる。六年間、ずっと憧れていた人の部屋に、自由に出入りできる。恋人として、この家で帰りを待っていいのだと思うと胸が
last update最終更新日 : 2026-02-18
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第二十二話「カミングアウト」

 夕食を食べ終わり、食器を片付けようとキッチンへと向かった。陶器の触れ合う音が静かに響き、水道から流れる水の音が耳に心地よかった。いつもと変わらない、穏やかな夜だった。 背後から、母の声が聞こえた。「千景は恋人いるの?」 手に持っていたお椀が、するりと指から滑り落ちた。 がちゃんという盛大な音が、静かだったキッチンに響き渡る。流しの中に落ちたお椀が転がり、幸いにも割れることはなかった。僕は呆然としたまま、流しの中で転がるお椀を見つめていた。「――え?」 声が震えていた。振り返ると、母がダイニングテーブルの椅子に座ったまま、こちらを見ていた。頬が仄かに赤く染まっており、視線が定まらないように宙を彷徨っている。僕の動揺に気づいたのか、母は申し訳なさそうに小さく肩をすくめた。「見るつもりはなかったのよ。でも見えちゃって……」 母の声は小さく、遠慮がちだった。僕は息を飲み、母の次の言葉を待った。心臓が激しく跳ね、喉が渇いていく。「千景の身体中に、キスマークがあるの」 血の気が引いた。 視界が一瞬だけ白く染まり、膝から力が抜けそうになる。流しの縁を掴み、身体を支えた。冷たい金属の感触が、熱を持った手のひらに沁みる。 いつ見られたのだろうか。 風呂上がりだろうか。着替えの時だろうか。あれだけ気をつけていたのに、隠しきれなかったようだ。「黙っていようと思っていたんだけど」 母が続けた。視線を合わせないまま、指先で卓上のコップをくるくると回している。緊張しているのが伝わってきて、僕の胸が痛んだ。「気になるじゃない? 最近、お泊まりも増えたし――」 母の言葉に、僕は唇を噛んだ。 確かに、最近は兄さんのマンションに泊まることが増えていた。バイトが遅くなったと嘘をつき、実家を出ていく。兄さんと過ごす時間が増えるたびに、嘘を重ねてきた。罪悪感が胸の奥に積み重なっていくのを感じながらも、兄さんといたくて、嘘をつき続けた。「千景、最近すごく綺麗になって……」 母が顔を上げた。優しい眼差しで僕を見つめている。責めるような色はなく、ただ心配そうな母の表情に、僕の胸が締めつけられた。「綺麗?」 思わず問い返してしまった。自分が綺麗になったという自覚はない。鏡を見ても、いつもと変わらない自分の顔が映るだけだった。「格好いい彼氏ができたのかなって」 母の
last update最終更新日 : 2026-02-18
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第二十三話「大切な人だから」

 仕事を終えてマンションに帰宅するなり、携帯が鳴った。画面には「父」の文字が表示されている。俺は鞄を床に置き、通話ボタンを押しす。「もしもし」『伊織! すぐに来てくれないか。ちょっと大変なことになってて、千景くんが大泣きして……キッチンで土下座して――どうしたらいいのか』 父の声は普段の落ち着いた口調とは違い、明らかに動揺していた。電話の向こうから、泣きながら「ごめんなさい」と繰り返す千景の声が聞こえてくる。か細く震えた声が、俺の胸を締め付けた。(キッチンで土下座って、何があったんだ?) 何があったのか分からないが、千景が泣いている。そう思っただけで、俺の心臓が音を立てて激しく鳴り出した。(何があったんだ?)「わかった。すぐに行く」 俺はスーツのまま、携帯と車のキーを掴んで玄関を飛び出した。エレベーターを待つ時間すら惜しく感じ、階段を駆け下りる。靴音が響き、息が上がる。地下の駐車場へ出ると、車に飛び乗ってエンジンをかけた。 実家の前に到着すると車を止める。エンジンを切り、車を降りた。 玄関のドアを開くと、脱いだ靴を並べることなくリビングへと駆け込んだ。「伊織くん?」 リビングに飛び込んできた俺に、お義母さんが驚いた声をあげた。 視線を彷徨わせて千景の姿を捉えると、床に座り込んで頭を下げていた。白いシャツの襟元から覗く首筋には、俺がつけたキスマークがくっきりと残っていた。「これは……どういう状況?」 俺の声に、千景の身体がびくりと跳ねた。「あのっ」 義母さんが説明しようと口を開きかけたとき、千景が大きな声を上げた。「ごめんなさい! 僕のせいだから……僕がいけないんです。全部、僕が……ごめんなさい。すみませんっ」 必死に、何度も謝罪の言葉を繰り返す千景を見つめる。(多分、そういうことなんだろうな) 千景が必死に謝っているのは、俺らのことが両親に知られたのだろう。俺も千景の隣に正座をすると、頭を下げた。「千景まで!」「千景くん?」 父と義母さんが驚きの声を上げる。隣で千景が顔を上げ、目を見開いて俺を見つめているのが分かった。「ちがっ……兄さんは……違う、から」 千景が少しだけ顔をあげると、俺の腕を掴んで首を横に振った。涙で頬は濡れ、目が真っ赤に腫れ上がっていた。「情報が断片的で、状況がうまく飲み込めてないけど。千景が
last update最終更新日 : 2026-02-19
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第二十四話「甘い日常と忍び寄る影」

 目が覚めると、隣で兄さんが眠っていた。穏やかな寝顔が朝日に照らされ、黒に近いダークブラウンの髪が額にかかっている。規則正しい呼吸音が聞こえ、胸が上下する様子が毛布越しに伝わってくる。兄さんの温もりに包まれながら、幸せな気持ちで眠りについた記憶が蘇ってくる。 両親に公認してもらえてから、堂々と兄さんのマンションに泊まれるようになった。 兄さんの顔をじっと見つめる。整った顔立ちが寝ているときは柔らかく見え、こんなふうに無防備な表情を見られるのは、僕だけなのだと思うと胸が高揚感に包まれる。 兄さんの瞼がゆっくりと開いた。鋼色の瞳が僕を捉え、僅かに目を細める。寝起きの声は低く掠れていて、耳に心地よく響いてくる。「おはよう」「おはよう、兄さん」 囁くように返すと、兄さんが僕の額にキスを落とした。柔らかく、温かい感触が額に残り、顔が熱くなる。兄さんの大きな手が僕の頭を撫で、髪をくしゃくしゃにした。「今日も大学か?」「うん。午後から講義があって、夜はバイト」「忙しいな」 兄さんが起き上がり、ベッドから降りる。筋肉質な背中が朝日に照らされ、引き締まった腰のラインが見える。Tシャツを着ている兄さんも格好いいが、上半身が裸の兄さんはさらに魅力的だった。見惚れている僕に気づいたのか、兄さんが振り返って微笑んだ。「朝飯、作るから待ってて」「僕も手伝う」「いいよ。ゆっくりしてて」 兄さんがそう言って寝室を出ていく。僕もベッドから降り、兄さんから借りたTシャツとスウェットのパンツ姿でリビングへと向かった。キッチンからは包丁で野菜を切る音が聞こえ、フライパンを火にかける音が響いている。 ダイニングテーブルに座り、兄さんの後ろ姿を眺める。手際よく卵を割り、フライパンに落としていく。油が跳ねる音と共に、目玉焼きの香ばしい匂いが漂ってきた。トーストを焼く匂いも混じり合い、朝の幸せな空気が部屋を満たしていく。 しばらくして、兄さんが二人分の朝食をテーブルに運んできた。目玉焼きとベーコン、サラダ、トースト。シンプルだが、丁寧に作られた料理が皿に並んでいる。コーヒーの香りが鼻をつき、湯気が立ち上っていた。「いただきます」 二人で手を合わせ、食事を始める。目玉焼きをナイフで切ると、黄身がとろりと流れ出した。トーストに絡めて口に運ぶと、バターの風味と卵の濃厚な味が広がって
last update最終更新日 : 2026-02-19
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第二十五話「勘付かれた秘密」

 午後の日差しが窓から差し込み、デスクを照らしていた。パソコンの画面に目を向けながら、資料を確認していると足音が近づいてくる。顔を上げると、白石さんが俺のデスクの前に立っていた。黒髪のロングヘアが揺れ、知的な印象を与えるメガネの奥から鋭い視線が注がれている。「部長、相談があるんです」 低い声で囁かれ、俺は眉を寄せた。「仕事の相談なら、直属の上司にして」 きっぱりと断ると、白石さんの表情が僅かに歪んだ。スカートのポケットからスマホを出すと、俺に画面を見せてきた。「部長に関わる相談ごとなので」 そこに映っていたのは、千景と俺だった。 黒いワンピースを着た千景が、俺とキスをしていた。唇が重なり、俺の手が千景の腰を抱いている。親密な関係が一目で分かる写真だった。「これについてなのですが」「なら、勤務時間外で対応しよう」「すぐにご対応お願いします」 白石さんがスッと目を細めると、俺は真っ直ぐに見つめてきた。「――わかった」 俺は立ち上がり、小会議室へと向かった。白石さんが後ろからついてくる。足音が廊下に響き、会議室のドアを開けて中に入る。白石さんも入ってきて、カチャリという音が静かな部屋に響き、二人きりの空間が生まれる。「白石さん、鍵は閉めなくていい。開けてもらえるかな?」 俺が振り返ってそう告げると、白石さんが「見られて困るのは伊織なのに」と独り言を吐き捨てながら鍵を開けた。 会議室の長テーブルを挟んで、向かい合って座ると白石さんがスマホの画面を見せてくる。「この前、伊織と一緒に入った店のちかさんですよね? 綺麗な人ですよねえ、男ですけど」 白石さんの声が低く響いた。「男ですけど」という部分が、やけに強調してきて嫌味っぽく聞えた。 白石さんが再びスマホの画面を操作して、千景と俺の写真を何枚も見せてくる。「白石さん、それを見せて何がしたいんだろう?」 俺は冷静に問いかけた。感情を抑え、淡々と言葉を紡ぐ。白石さんの唇が歪み、何かを堪えるように震えている。「不思議だったの」 白石さんが口を開いた。言葉がゆっくりと紡がれ、抑えた感情が滲み出てくる。「私と別れたときの伊織、ひどく落ち込んでいたのに。すぐに立ち直ってたから」 白石さんの声に、僅かな苛立ちが混じっていた。(別れて三日後に、千景とそういう関係になったから) 今までの交
last update最終更新日 : 2026-02-21
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第二十六話「不穏分子の排除」

 バイトを終えて店の外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。スマホを取り出すと、メッセージを確認する。兄さんの迎えが来るまで、もう少し時間がかかりそうだ。 仕事を終えてから、いつも迎えに来てくれる兄さんには申し訳なく感じる。兄さんだって疲れているのに、笑顔で迎えに来てくれて感謝しかない。(玲司も、兄さんも……僕に甘すぎる) 嬉しいけど、無理していないか心配になってしまう。「ちかちゃん?」 声をかけられて顔を上げると、馴染みの客が笑顔で立っていた。いつも優しく接してくれる紳士的な男性で、週に一回ペースで訪れてくれる。「彼氏のお迎え?」「まあ……はい」 僕は曖昧な笑みを浮かべて頷いた。 店ではすっかり、独占欲の強い彼氏がいると広まっている。首筋や鎖骨に残るキスマークを隠せなかったのがきっかけで、逆に客のウケに繋がった。環さんが「ちかちゃんの彼氏はね」と嬉しそうに話すから、お客さまたちも環さんの話術に流されて洗脳されたのではないかと思っている。 そのおかげかわからないが、黒瀬さんの来店回数がかなり減ったように感じていた。以前は週に何度も来ていたのに、最近は姿を見ない。 綾さんもなぜか来店頻度も激減している。兄さんが何か言ったのだろうか。綾さんとの件については、疑われているかもしれないと兄さんに話したきりだ。「今夜は寒いから、これを飲みながら待っているといいよ」 客がコンビニの袋からホットのココアを取り出し、僕に差し出してきた。「ありがとうございます」 受け取ると、客は笑顔で手を振って立ち去った。僕は暖かいペットボトルを両手で抱えながら持ち、キャップを開けて一口飲む。甘くて温かい液体が喉を通り、身体の中に染み渡っていく。冷えた身体が少しずつ温まっていく。 何口か飲んだところまでは覚えている。甘いココアの味が口の中に広がり、心地よい温かさが胸に広がっていく。壁に寄りかかり、兄さんを待ちながらココアを飲んでいた。 急に強い眠気が襲ってきて瞼が重くなった。(眠い――) 最近、レポート課題が多くて寝不足だったからだろうか。強い眠気に抗えず、僕は店の壁に寄りかかりながら瞼を閉じた。 次に気がついたとき、見覚えのある天井が視界に映った。白い天井に、シンプルな照明が取り付けられている。意識が朦朧とする中で、遠くから男女の声が聞こえてきた。何を話してい
last update最終更新日 : 2026-02-21
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第二十七話「人事部からの呼び出し」

 俺は出勤すると自分のデスクへと向かい、鞄を置いて椅子に座った。 パソコンを起動させようとしたとき、内線電話が鳴った。受話器を取り、耳に当てる。「営業部、松井田です」『人事部の田中です。松井田部長、すぐに人事部まで来ていただけますか』 低く、事務的な声が響いた。嫌な予感が胸の奥に広がっていく。「分かりました。すぐに伺います」 電話を切ると、俺は深く息を吐いた。人事部からの突然の呼び出しと聞いて、なんだか気が滅入る。人事部と聞くだけで、緊張感が増すはなんでだろうか。 デスクの抽斗を開け、奥に仕舞っていた茶封筒を手に取ると、お守り代わりにスーツの胸ポケットにしまった。 営業部を出ると廊下を歩く。足音が響き、窓の外には青い空が広がっている。エレベーターに乗り込むと、ボタンを押した。上昇していく感覚が身体に伝わり、階数表示が変わっていく。人事部のある階で止まると扉が開いた。(空気からして重い) どんより暗い雰囲気みを感じるのは、錯覚なのかもしれないが――。営業部の階と違って、重苦しい空気が漂っている。 廊下を突き進み、人事部長の部屋の前に立つと、扉を三回ほどノックした。「どうぞ」という声が聞いてから、俺はドアを押し開ける。「失礼します。松井田です」 人事部長はすでに応接用のテーブルに座っていて、俺を見ると椅子を指差した。表情は硬く、眉間に皺が寄っている。(ああ、この表情はいいことではないな)「座ってください」 俺は促されるまま椅子に座った。人事部長が手元にあった封筒から何枚かの写真を取り出し、テーブルに並べ始める。一枚、また一枚と増えていく写真を目にして、俺の手が僅かに震えた。 全て俺と千景が写っている写真だった。 バイトの迎えに行ったときの写真。手を繋いでいる写真。キスをしている写真。親密な関係が一目で分かる構図ばかりだった。この写真には見覚えがある。つい先日、白石さんが俺に見せてきたのと同じものだ。「松井田部長、行きつけのバーの男性キャストと不適切な関係にあるという報告を受けましたが」 人事部長が一度言葉を区切ると、厳しい顔つきでこちらを見てきた。鋭い視線が俺を捉え、答えを待っている。 白石さんの密告だと分かった。俺と一対一で上手くいかなかったから、黒瀬を利用した。それも上手くいかなかったから、今度は上司を利用したのだろう。
last update最終更新日 : 2026-02-21
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第二十八話「写真の人」

 金曜日のQueen's Nightは、週で最も客入りの多い夜だった。カウンターの向こう側で玲司がシェイカーを振る音と、フロアに流れる低いジャズの旋律が混じり合い、店内には華やかで親密な空気が漂っている。 ドアの向こう側が、にわかに騒がしくなる。 環さんが小首を傾げて入り口へ視線を向けているのが目に入り、僕もつられるように顔をあげると、ドアを押し開けて入ってきたスーツ姿の男性が、兄さんだとわかった。ダークネイビーのスーツに身を包んだ長身の体躯が、店のネオンに照らされて輪郭を際立たせている。仕事帰りなのだろう、ネクタイは少し緩められていて、普段の隙のない佇まいよりも幾分砕けた雰囲気をまとっていた。 兄さんの半歩後ろに、見覚えのない男性が一人、物珍しそうにきょろきょろと店内を見回しながら立っていた。兄さんより少し背が低く、がっしりとした肩幅にスポーツ刈りの髪型で、顔立ちは人懐っこい犬のような愛嬌があった。「ちかちゃんの彼氏さんと――部下の人かしら?」 環さんが、赤い唇に指を添えて呟くのが聞こえてくる。僕は入り口へと足を向けた。ヒールが床を叩く規則正しい音が、自分の鼓動と重なっていく。(兄さんが僕のバイトの日に店に来るのは珍しい)「ばったりそこで会ったので」 兄さんが環さんに向けて、いかにも困りましたという表情を浮かべながら説明していた。眉間に僅かな皺を寄せて、片手で後頭部を掻いている姿は珍しい。「部下の一ツ橋でっ……あっ!」 僕が近づいた瞬間、兄さんの隣に立っていた男性が大きく目を見開いて声をあげた。丸い瞳が僕の顔を捉えると、まるで有名人に遭遇した少年のようにぱあっと表情が輝いていく。「写真の人」 一ツ橋と名乗った男性が、弾んだ声で続けた。「部長の待ち受けの――めっちゃ美人な彼女……さん? 彼氏さん? どっちだ?」 正解がわからないらしく、首を右へ左へと傾けながら僕と兄さんの顔を交互に見比べている。「恋人でいい。ってか、声が大きすぎる。ボリュームをさげて」 兄さんが眉を顰めて低い声で窘めると、一ツ橋さんは「あ、はい!」と威勢よく返事をしてから、「すんません」と軽く頭をさげた。声を落としたつもりなのだろうが、あまり変わってない。「ちかです」 僕が微笑みながら名乗ると、一ツ橋さんはキラキラと光を湛えた目のまま僕の両手を掴んで、まじまじと
last update最終更新日 : 2026-02-21
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第二十九話「久しぶりの甘い時間」

 玄関のドアを閉めた途端、千景の唇が重なってきた。 靴を脱ぐ間もなく、薄暗い玄関先で互いの体温を求め合うように抱き寄せると、千景の腕が首に絡みついてくる。ウィッグの黒髪が肩口に流れ落ち、微かに残る店の香りと千景自身の匂いが鼻腔をくすぐった。 唇を離しては重ね、離してはまた吸い上げる口づけを何度も繰り返すうちに、呼吸が荒くなり、互いの吐息だけが狭い空間に響いていく。 舌先が千景の上唇をなぞると、小さく身体を震わせて口を開いてくれた。差し込んだ舌が千景の舌と絡み合い、唾液が溢れて口の端から零れそうになる。飲み込む音が静かな玄関に響いて、千景の耳が薄く赤く染まっていくのが、廊下から漏れる常夜灯の灯りで見て取れた。 キスをしたまま、手のひらをワンピースの裾から滑り込ませると、太腿の柔らかな肌に触れた。指先を内側へと這わせながら上へ辿っていくと、スカートの布地を押し上げるように硬くなった千景の熱が手のひらに当たる。薄い布越しに包み込むように触れた瞬間、千景の喉からくぐもった甘い声が漏れて、膝ががくりと揺れた。「あっ……んっ、あ」「玄関だから、静かにね」 耳元で囁くと、千景が潤んだ瞳で睨むように見上げてきた。「兄さんが触るから……」 責めるような口調なのに、腰は俺の手に擦り寄せるように動いている。頬が紅潮し、長い睫毛の下で瞳が蕩けかけていた。唇が微かに震えて、次の言葉を待っているのがわかった。「兄さんじゃなくて、そろそろ俺のこと『伊織』って呼んでほしいな」 千景の顎に指を添えて顔を上げさせると、大きな瞳がさらに見開かれた。常夜灯の淡い光を受けて、アーモンド型の瞳が濡れたように輝いている。「いっ……いおり」 小さく、掠れた声だった。名前を口にしただけで千景の耳まで真っ赤に染まっていくのが愛おしくて、頬を両手で包み込むと額に唇を落とした。「うん。これからは、ずっとそう呼んで」 柔らかく唇を重ねると、千景の力が抜けたように身体が預けられてくる。甘く、蕩けるような口づけだった。舌を絡ませるのではなく、唇だけで触れ合う優しいキスに、胸の奥がじんわりと熱くなる。「伊織、久しぶりに……したい」 唇が離れた隙間から、千景の切ない声が零れた。「もちろん。俺も我慢できない」 千景の腰を引き寄せて深いキスをすると、玄関で靴を脱ぐ音がばたばたと重なった。互いの唇
last update最終更新日 : 2026-02-22
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第三十話「卒業祝いとプロポーズ」

 窓の向こうに広がる夜景が、宝石を散りばめたように瞬いていた。 高層階のレストランは、フロア全体が落ち着いた間接照明に包まれていて、テーブルの上に灯された蝋燭の炎がゆらゆらと揺れるたびに、千景の横顔に柔らかな陰影を作り出している。純白のテーブルクロスの上には、フレンチのコース料理が一皿ずつ運ばれてきて、銀のカトラリーが静かに触れ合う音と、グラスを傾ける微かな水音だけが、二人の間に漂っていた。「今日は特別な日だから」 向かい合って座る千景にそう告げると、千景が少しだけ恥ずかしそうに目を伏せて、口元を綻ばせた。卒業証書を受け取った瞬間の誇らしげな横顔を思い出して、俺の胸にも温かいものが込み上げてくる。「卒業おめでとう」 グラスを掲げると、千景も赤ワインの入ったグラスを持ち上げて、澄んだ音を立てて合わせてくれた。蝋燭の光がワインの深紅を透かして、千景の白い指を赤く染めている。「ありがとう、伊織」 名前を呼ぶ声が柔らかく響いて、胸の奥がじんわりと熱くなった。呼び方が「兄さん」から「伊織」に変わってから、名前を口にされるたびに鼓動が跳ねる感覚は、何度経験しても慣れることがなかった。「あの日、バーで出会ってから……いろいろあったな」 ワインを一口含むと、芳醇な香りが喉を滑り落ちていく。あの夜、カウンターの隣に座った「ちか」の姿が脳裏をよぎった。長い黒髪、洗練されたワンピース、低くてハスキーな声。酔いに任せて弱みを曝け出した夜から、想像もしなかった場所まで二人で歩いてきたのだと思うと、感慨深い。「うん。伊織と付き合えて、僕はすごく幸せだよ」 千景がナプキンの端を指先で弄びながら、照れくさそうに微笑んだ。蝋燭の炎を映した瞳が潤んでいて、薄い唇が僅かに震えている。言葉にするのが気恥ずかしいのだろう、視線をワインのグラスに落としながらも、頬は仄かに紅潮していた。「俺も」 短く答えて微笑むと、千景がようやく顔を上げて目を合わせてくれた。視線が交わった瞬間に、千景の瞳に宿る光がふわりと柔らかくなって、レストランの喧騒が遠のいていくような錯覚に陥る。 デザートのクレームブリュレを食べ終えて、エスプレッソを飲みながら千景の話に耳を傾けていた。卒業式での友人との別れ、ゼミの教授からかけられた言葉、卒業論文を提出したときの達成感。一つ一つを嬉しそうに語る千景の表情を眺
last update最終更新日 : 2026-02-22
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