元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚 のすべてのチャプター: チャプター 221 - チャプター 230

456 チャプター

第221話

柚葉は凛を恨めしげに睨みつけ、爪が食い込むほど強く鞄の持ち手を握りしめた。会場にいる全員が各社のプレゼンに聞き入る中、柚葉だけは上の空。凛こそが、ずっと自分を避けていた谷口博士だということは、もう間違い無いだろう。今まで感じたことのない危機感が、巨大な波のように押し寄せてくる。これを智也が知ってしまえば、もう凛のことなど手放せなくなるのではないか?谷口家の人々が、凛の正体を知って、瞬時に態度を一変させたらどうしよう。今まで自分がついてしまった嘘を、午後の調印式ではどう取り繕えばいいのだ?柚葉は息をするのさえ苦しくなった。審査員の前で堂々とプレゼンする智也を見ても、一切心が躍らないし、祖父がホシゾラ・テクノロジーを称賛する声を聞くたび、冷や汗が出る。凛は自分と智也に復讐するつもりなのだろうか?柚葉は、平然とした様子の凛を見つめた。凛はペンを片手に、研究員と各社のプレゼンについて淡々と協議している。梓が意見を出した。「先輩、現段階ではホシゾラ・テクノロジーの製品の方が、私たちの理想に近いかと思います」「もう少し見てみよう」凛は視線を上げると、大会議室も5分間の休憩に入ったため、その場に向かって言った。「みんなも休憩して」すぐに席を立ち、外へ出ようとした柚葉だったが、入口にはボディガードが立っていた。「凛さん、どういうつもりなんですか?」柚葉は振り返り、水を飲んでいる凛を見つめる。だが、凛の方が怪訝な視線を柚葉に向けていた。「小林さん。松田さんから入札の規則を聞いていないの?休憩中も外出は厳禁。それに、外部との通信も駄目だからね」梓も追い打ちをかける。「もうとっくに資料も送っていますよ。もしかして、ちゃんと読んでいないんですか?」柚葉の顔が怒りで真っ赤になった。こんな厳しいルールを言われたのは、生まれて初めてだった。「凛さん、なぜ智也を騙していたんですか?」柚葉が凛に詰め寄った。凛は会議テーブルに少しもたれかかり、マグカップから立ち上る湯気を眺める。凛の声は淡々としていた。「私だけじゃなくて、プロジェクトに関わる全員が、機密保持契約を交わしているから、たとえ家族であっても何も言うことはできないの。佐野先生ですら、奥様には『忙しい』とだけ伝えて、プロジェクトのプの字すら言ってない
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第222話

この結婚は、凛にとって完全に消し去りたい黒歴史でしかない。「ちょっと待ってください」梓が不思議そうに言った。「先輩って、ホシゾラ・テクノロジーの谷口社長とも知り合いなんですか?」柚葉は驚いた様子。まさか、梓は知らなかったのか?その瞬間、柚葉は少し自信を取り戻す。少なくとも今は、他人の家庭を壊したなんて言われないはずだ。凛は梓の目を見て、優しく言った。「とりあえず今は座って。今はそんなタイミングじゃないから、また後で話すね」「わかりました」梓はおとなしく座ると、周りと何やら話を始めた。小さな声で話すのは、柚葉と智也の交流会のこと。それを聞いた人たちは、柚葉が英樹と結託して、ホシゾラ・テクノロジーから受注するのではないかと懸念し、眉を顰める。ホシゾラ・テクノロジーまで加わったら、柚葉がもっと幅を利かせるに違いない。それも、凛すら抑えるほどに……休憩時間が終わりかけていたが、柚葉はなおも凛を見つめていた。「よく考えて下さい。もし智也が負けてしまったら、あなたには何もメリットがないですよね?」「どこの会社になっても、私に損はない」そして、凛は言った。「だって、特許は私の手にあるから」それを聞いて、柚葉はますます腹を立てた。特許は知的財産だと彼女もわかっている。もし智也と凛が離婚するのであれば、権利を智也と半分に分けなければならない。しかし、そんなことを凛が受け入れるのか?もし自分なら、たとえ夫に不倫されても、そんなのは絶対に受け入れない。柚葉は、怒りで呼吸が荒くなった。凛が離婚に応じなければ、自分は智也と一生名前のない関係のままになってしまう。それに、不倫をしているのは智也の方だから、彼から離婚を切り出すこともできない。柚葉は完全に追い詰められていた。智也というおいしい物件を諦める気にはなれないが、かといって不倫関係のままというのも納得がいかない。それに、実家の両親に知られてしまえば、勘当されるに決まっている。「凛さん、あなたはとっくに私たちのこと知ってたのね?」柚葉の瞳は憎しみで溢れていた。しかし、凛は冷ややかに問い返す。「あなたたちのことって何?」柚葉は答えられなかった。「不倫」なんて言えるわけがない。入札のプレゼンは進んでいた。結局座るしかなかった柚葉は席につきながら、この厄介
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第223話

「何してるんだろう?」と梓が興味津々で首をかしげた。「竹内グループ、抜かりないね」凛の瞳が微かに揺れる。彼女にはそれが何なのかおおよその察しがついていた。大会議室にいた誰もが、もう一度席に座り直した。大企業の各代表もまた、海斗が一体何を仕込んだのかと固唾を飲んで見守る。智也はわずかに眉をひそめた。なんだか嫌な予感がする。海斗は昔から一筋縄ではいかない男だから、また何か企んでいるに違いない。おそらくは、競合側の提案を見越した対抗策か何かだろう。智也もその資料を見たかった。しかし、資料は智也まで到達する前に無くなってしまったのだ。何食わぬ顔でその中身に目を通していた周囲の面々の顔色が、次第に曇っていく。そして皆、示し合わせたように英樹の方を見た。英樹はまだ、資料を開けていない。周囲の視線を浴びながら資料を開いた瞬間、英樹は大きく目を見開いた。ページをめくるごとに怒りがこみ上げ、資料を投げ捨てる。「竹内社長!これはどういうことだ!」突如として響いた英樹の怒声に、柚葉と智也は呆気に取られた。しかし、凛は確信していた。おそらくあの資料は、海斗がかつて自分に退職祝いとしてくれたあの記録だ。凛は柚葉に視線を向ける。依然として怪訝そうな柚葉が、呟いた。「一体、何が起きたの?」海斗は困惑する人々に向けて、答えを与える。「ホシゾラ・テクノロジーの谷口社長と、このプロジェクトの特任研究員である小林柚葉さんは、4年前から極めて親密な関係にあります。また、谷口社長は過去3年以上にわたり、毎月6000万円もの研究費を小林さんに送金し続けていました。小林さんの帰国時点で、その累計額は数十億単位になっています」会場が騒然となった。智也と柚葉は同時に立ち上がり、信じられないという目で海斗を睨みつけた。だが、海斗は淡々と続ける。「単なる学術的支援ならば、彼女が帰国後から暮らし始めた高級マンションや宝飾品について説明がつきますか?審査員の方々、谷口社長と小林さんの間に存在する金銭的、人的な関係について、厳格な調査を求めます」全てを悟った智也は怒りに震え、目を剥いた。「竹内!こんなのは卑怯だぞ!」まさかこんな汚いやり方で自分を蹴落とすとは!それでも、海斗は少しも動じず、その端正な顔立ちに浮かぶ表情は終始
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第224話

反対するものなど、誰一人としていなかった。完全に選考対象から外れたホシゾラ・テクノロジー。警察はすぐに到着し、智也と柚葉をそのまま警察署へと連行していった。英樹も例外ではなく、調査に協力するために連行された。残された者も動揺を隠せない。竹内グループの海斗は冷酷な手段で、最大のライバルであったホシゾラ・テクノロジーを完膚なきまでに追い詰めた。悠真も状況が飲み込めず茫然としていた。勝てると思っていたはずが、なぜこうもあっさりと海斗に潰されたのだ?しかも徹底的に。智也だけでなく、ホシゾラ・テクノロジーまでもが道連れだ。プロジェクトチームの人間と裏で繋がること自体は珍しくない。社会にいれば多少の腹黒いやり方は必要だし、竹内グループも真っ白な会社とは言えないが、弱みを握られたらそれは智也の落ち度だ。しかも、智也はプロジェクト側の人間と繋がるだけでなく、不貞行為も疑われている。その上、今また警察に連行されたのだ。今日はメディアまで来ているというのに。悠真は状況が理解できず、浩に聞いた。「どうするの?」父に智也から学べと言われていたのに、何も教わる前に会社は存亡の危機だ。「広報部と法務部に対応の指示を出します」智也の側近として長く働いてきた浩は、急な事態にも冷静だった。プロジェクトの受注が無理なのは確実な今、まずは会社と、智也が受けるであろう批判をどう処理するかが重要になる。悠真は頷き、慌ただしく会社へ戻りながら父へ電話をかけようとした。しかし、浩に制止される。「悠真様、まだ会長にまで伝える必要はございません」「智也さんを守りたいのはわかるけど、こんな事態を隠し通せるわけがないでしょ?それに、俺が言わなくたって、すぐに知られちゃうと思うよ」そう言って、悠真は迷わず電話を繋いだ。……智也、柚葉、英樹は別々の部屋で尋問を受けていた。柚葉が真っ先に聞かれた質問はこうだ。「谷口智也との関係は?」柚葉は唇を噛みながら答えた。「友人です」「高級車や住宅を贈ってくれる友達ねぇ。正直に話せ、実際にはどういう関係なんだ?」「友人だって言ってるじゃないですか!それに、機密漏洩なんてしていません。重要なデータだって見せてもらえてないんです。それでも信じないっていうなら、凛さんに聞いてください。あの人
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第225話

おかしな質問だ。凛は凛に決まっているだろう。智也は訝しげな視線を警察官に送る。そんな智也を見て警察官も状況を察したのか、それ以上聞くことはなかった。智也は問い返す。「今の質問はどういう意味なんですか?」「谷口社長、こっちが質問してるんだ。小林柚葉との関係について、全て話してもらおう」「柚葉が情報を漏らしたことなど一度もありません」智也はこの点だけは何も心配していなかった。過去に柚葉が何度も機密データを見せようとしたが、彼はそれを拒絶し続けていたのだ。それは柚葉が取り調べられることを防ぐと同時に、自分自身の身を守るためでもあった。今は何がなんでも自分自身だけは守らなければならない。しかし、まさか海斗にこれほどまでにやられるとは、思ってもみなかった。海斗は自分と柚葉の関係を嗅ぎつけただけではなく、決定的な証拠まで掴んでいた。このことを海斗は凛に伝えるつもりだろうか?数億の研究費は投資だと言い訳できる。だが、車に家、そして宝飾品まで……これらをどうやって凛に説明しよう?それに警察に連行されたことがメディアに報じられたら?もし大きくニュースになってしまったらどうする?それでも浩は優秀だから、きっとなんとかもみ消してくれるはずだ。だが、今日あの場には悠真もいた。悠真がホシゾラ・テクノロジーの実権を握るために、ここぞとばかりに自分を蹴落とす可能性だって十分にある。それに、景山グループの面子にも関わるし、ホシゾラ・テクノロジーの未来を考えれば、景山会長だって黙ってはいない。しかし、今回は自分のせいで受注を逃したのは事実なのだ。景山会長は自分を許さないだろう。智也は落ち着かなかった。胸の内に焦りが募るたび、無意識に左手の薬指に手を伸ばす。智也には、不安になると指輪を触る癖があった。指輪に触れると、不思議と少しだけ心が落ち着くのだ。いつも家に帰れば、凛がキッチンに立ち、温かい食事が運ばれてくる……それはとても智也の心を温めてくれた。だが、いま触れた場所には何もなかった。昨夜、父に言われて指輪を外したのだ。智也は自分の薬指を見つめ、何度も眉間にしわを寄せた。同じく柚葉も不安を感じていて、度重なる尋問に、とうとう苛立ちを隠せなくなった。「そんな目で見ないでください!私は愛人じゃないから!むしろ
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第226話

「満たしていることには変わりないだろう?」英樹は静かに言った。「柚葉が機密を漏らしたという確かな証拠がないのなら、わしらを解放してくれるか?この任意の取り調べへの協力だってもう十分だよな?」「松田さんはもう結構ですが、二人にはまだ残ってもらいますので」部下に英樹を連れていくように合図をする。そもそも英樹は取り調べへの協力が目的で来ていただけで、柚葉と智也の間の事情については詳しく知らなかった。それに柚葉をプロジェクトに押し込んだという点に関しては、警察の管轄ではない。処罰すべき事案であれば、研究所の判断になるだろう。しかし……「松田さん。今しがた報告があったのですが、小林柚葉の参加はプロジェクト終盤であり、目立った功績がないうえに機密漏洩の疑いも持たれているため、研究所の幹部陣で協議した結果、彼女をこのプロジェクトから除名することが決まったそうですよ」これは、切り捨てられたということだ。英樹は全身を震わせ、呆然と立ち尽くした。4年間準備し、ようやく孫娘をマイクロチップ開発プロジェクトへ入れこんだというのに、あと一歩というところで、すべてが消えたのか?長年かけて進めてきた計画が、一瞬にして崩れ去った。英樹はそのまま倒れ込んでしまった。救急車が慌ただしく到着し、彼を搬送していく。……入札会場。昼休憩中、克哉は凛を探し出した。その手には、海斗が印刷した資料が握られていて、しわくちゃになっているのは、激しい怒りで何度も克哉に握り潰されたからだった。「こ、これ……見てみる?」克哉は慎重に話を切り出す。隣にいた梓は状況が飲み込めなかったが、凛の同意を得たので、興味津々で資料を手に取った。目を通すや否や、驚きに目を見開く。梓はため息混じりに言った。「道理で小林さんは毎日違うブランドバッグや服、靴だったわけですね。谷口社長というスポンサーがいたから……え、でも、谷口社長は4年前に結婚して……って、先輩も結婚したのは4年前でしたよね?」「うん」凛は頷いた。「元旦那が、その谷口社長」ボトッ。梓の手から資料が滑り落ちた。呆気にとられた後、続いて慌て出す。「先輩、ごめんなさい!わ、わざとじゃなくて……」「いいのよ、もう元旦那だから」「でも、離婚したのはつい最近じゃ……」「そうね、離婚した
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第227話

警察が帰っていった。凛は克哉たちとランチへ向かった。同じフロアには他社の関係者も集まっている。午後2時からの結果発表のため、誰もがその時を待っていたのだ。ただ、結果以上に人々の関心を集めていたのは、智也と柚葉の一件だった。機密漏洩に加え、智也の不倫というスキャンダルはあまりにも影響が大きかった。ホシゾラ・テクノロジーが受ける打撃は言うまでもなく、さらには景山グループも少なからず影響を受けることだろう。後は景山グループがどう出るか。さらにこの騒動で、周囲は海斗という男の恐ろしさを再認識していた。一度狙いを定めたら、相手が立ち直れないところまで追い詰めるその容赦のなさ。人々が海斗に向ける眼差しは、尊敬と恐怖が入り混じっていた。海斗が通るたびに、周囲から「竹内社長」と声がかかる。海斗は表情ひとつ変えず歩き続けたが、会場の端に座る凛の姿を見つけると、ふと足を止めた。拓海もまた、その視線の先を追った。凛がここにいるだけでも意外だったのに、周りには同行者までいて、そのうちの一人には拓海も見覚えがある。以前、科学フォーラムの交流会で見かけた人物だ。そうなると、彼女の素性が並大抵ではないことは明らかだった。それに、おそらく海斗もずっと前から何か感づいていたのだろう。でなければ、今朝ロビーで凛に会った時、あれほど平然としていられるはずがない。いつもの彼なら、自分と同じエレベーターに乗せようと強引に誘っていたはずなのだから。「社長、昼食会場はもうすぐですよ」拓海はそれ以上視線をやらないよう、海斗に促した。彼にまで、先ほどの二の舞いになってほしくない。拓海の意図を察した海斗は視線を戻し、再び歩き始めた。その瞬間、凛もふと顔を上げ、去っていく海斗の横顔を見た。だがすぐに、視線を戻す。すると、日和からメッセージが届いた。【凛さん、今何してるんですか?今日のニュース見ました?お兄ちゃん、史哉先生が始めたマイクロチップ開発プロジェクトの入札に行ったんです。家族みんなで見守ってるんですけど、すごく緊張してます。お兄ちゃんが勝てるかどうかはわからないけど、午後のニュースになればわかるはずなんです。多分各社が報道するはずですから。史哉先生のあとを誰が引き継ぐのかすごく興味あるんです。だって、史哉先生の後を引き継ぐなんて
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第228話

穏やかで、高貴な佇まい。海斗は視界の隅で凛の席を確認すると、ゆっくりと視線を上げた。ちょうど顔を上げた凛と目が合い、大勢の中で二人の視線がふと絡み合った。凛は口元を小さくほころばせる。おめでとうございます。海斗は軽く眉を上げた。そっちこそ。午後3時からは、この場で契約調印式が執り行われる。研究所は各社の代表者たちにも、ぜひそのまま列席してほしいと案内をしていた。海斗は拓海を見やり、服装の乱れやペンの準備を再度確認するよう命じた。契約に不手際が起きれば命取りだ。ほんの些細な油断も許されない。克哉たちも忙しなく書類を確かめ、凛と手順を確認し合っている。「調印式のあとは表彰式もあって、そこでは研究成果に対しての表彰と報奨金が授与される。報道陣も残るから、良い機会だろう」克哉は凛をまっすぐ見た。「調印式では質問もあまりないだろうが、その後の表彰会ではプライベートな内容にも踏み込んでくるかもしれない。心の準備はしておいた方がいいけど、無理に答える必要はないからね。今の君は我が国になくてはならない存在なんだから、報道陣もそこまでのことはしてこないと思うけど」凛は頷き、唇を噛んで小さく聞いた。「水はどこですか?」克哉はふっと笑った。「緊張しているのか?」緊張していないはずがない。凛は黙って頷く。それを見て梓も笑いながら席を立った。「今、取ってきますね」凛は水を手にして、何度もカップを空にした。おかげで何回もトイレへ通う羽目になった。その様子を見ていた海斗。「社長、もう一度確認しておきましょうか?」「ちょっと手洗いに行ってくる」海斗は席を立ち、トイレの方へと向かった。トイレから出た凛は、手洗い場にいた海斗と鉢合わせる。手洗い場で手を洗いながら、海斗は鏡越しに凛を見つめた。鏡の中で、二人の視線が重なる。「竹内社長」凛は彼の隣に立ち、蛇口に手を伸ばすと、手を洗い始めた。海斗は手を拭くと身を起こし、何をするでもなく彼女を眺めながら、ポケットからミントの飴を取り出した。凛も無言でそれを見つめる。海斗が話しかけた。「毒じゃない。目が覚める」毒だなんて思っていないが、なぜ彼がいきなりこれを自分に差し出すのか理由が分からなかった。凛が迷っていると、海斗はもどかしげに自分でも
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第229話

調印式が終わっても、拓海はまだ現実を受け入れられていなかった。凛がマイクロチップ開発プロジェクトの一員だとは思っていたが、まさか総責任者だとは……調べてみても、彼女については一切情報が出てこなかった。それもそのはず、後ろには国がいたのだ。拓海は、凛がいずれ竹内グループの社長夫人になるものだと思っていた。それがまさか、先に竹内グループの取引先のトップになったのだ。それも、一筋縄ではいかない相手として。拓海は何度か瞬きをし、はっと我に返った。隣にいる海斗は、至って冷静な顔をしている。さすがは我が社長といったところか。実のところ、海斗自身も「マイクロチップ開発プロジェクト総責任者谷口凛さん、壇上へお願いします」とアナウンスされた瞬間、心臓が跳ね上がるほど驚いたのだった。凛の素性について、おおよそは察しがついていた。いくら調べても辿り着けない経歴。史哉の愛弟子。秘書の時、この入札に関わるのを頑なに拒んでいたこと。一流学術雑誌に名を連ねる同姓同名の著者。とりわけ昨夜のことを思えばなおさらだ。杏や克哉も同席していたし、克哉に連れられて翼の前で挨拶までしていた梓が、凛のことを「先輩」と呼んでいたのだから。史哉の愛弟子どころか、ただの研究員ではないことはその時確信した。凛はこのプロジェクトにおいて、相当な重責を担っているのだと。それでも、史哉の後を継ぐ総責任者であることは想定外だった。彼女は28歳と、チームの中でもひときわ若い。今、彼の前に立つ凛は、彼が思っていたような儚く美しいだけの女性ではなかった。自らの力で道を切り開き、多くの人を導く存在。その姿は、以前よりもずっと魅力的に映った。二人はそっと握っていた手を離す。再びメディアのカメラに向き直り、両陣営の同席者たちとともに、一枚の集合写真を撮影した。二人が契約書に署名し握手を交わす写真が、瞬く間にA市中に広がり、それから国中を駆け巡った。竹内家。日和と瑶子はソファでフルーツを食べながら、ニュースを見ていた。隣に立つ隆も、少し緊張した面持ちで見守っている。テレビに海斗の姿が映ると、隆は安堵の息を漏らし、顔を綻ばせた。瑶子も穏やかに笑って、声をかける。「海斗も立派になったね」隆はそっと瑶子の肩に手を置いた。瑶子も手を伸ばし
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第230話

日和は、瑶子の言葉に頷いた。「お兄ちゃんみたいに無口なくせに、喋れば皮肉ばかりの人だと、確かに厳しいもんね」瑶子も続ける。「海斗の先行きが心配になってきたわ」「大丈夫だよ」隆は言った。「愛は人を変える。寡黙な人間に語る理由を与え、いつも尖っていた人間から、その鋭さを少しずつ奪っていくんだ」日和は驚いて隆を見た。「お父さん、意外とロマンチックなんだね」「お前にはまだ分からんさ」隆は日和を睨みつける。若き自分はこうして瑶子を射止めたのだ。……谷口家。健吾は朝からテレビの前から動こうとしなかった。それに比べて、梨花と胡桃の二人には余裕があって、朝から念入りにパックをして、昼食後も、午後からどんなメイクでどの服を着ようか、とうきうきしていた。智也がホシゾラ・テクノロジーで入札を勝ち取れば、景山グループ主催の祝賀パーティーがあるはずだ。セレブが集まる華やかな席に向けて、今のうちに準備をしなければならない。時間が刻々と迫る。健吾は梨花と胡桃に視線を送った。「もういい加減にしろ。そろそろ時間だ」「はいはい」梨花がソファに腰を下ろした。胡桃もすぐ隣に駆け寄り、母の肩に頭を乗せ、待ちきれない様子で尋ねた。「どうどう?柚葉さんも付いてるんだし、お兄ちゃんの成功は間違いないよね?」梨花は笑って答えた。「柚葉ちゃんだけじゃないわ。彼女のお爺様は研究所の重鎮だし、お兄ちゃんのために手を回してくれているはず。それに、お兄ちゃんは優秀なんだから、勝利を確信して、祝賀パーティーの準備をしよう」「最高!」胡桃は前回行った交流会のことを思い出した。その時は、気の利かない理系の男や年配の者ばかりで、金持ちの御曹司や令嬢とはロクに知り合えなかった。涼太という人と連絡先は交換したが、なぜかあれから一度も連絡がない。こちらから送っても、返事がくるのはずっと後だったり既読無視だったりする。追いかけるのも疲れたし、自分が安っぽく見えるからともう諦めていたのだ。涼太なんて所詮、実家が名門というだけにすぎない。正直なところ、胡桃には国家の先端技術に関心もなければ、翼や英樹といった人物の肩書きにもピンとこなかったのだ。しかし!景山グループが開催するパーティーとなれば話が別だ。景山家の令嬢や御曹司もくるはず。御曹司は自分と1歳
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