All Chapters of 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚: Chapter 201 - Chapter 210

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第201話

運転手は凛の荷物をトランクに詰め、運転席に座って言った。「竹内社長、出発しますか?」表情ひとつ変えず、「出せ」と命じる海斗と、「少し待っていただけますか?」と、丁寧ながらも出発を拒否する凛。そんな二人の声が、同時に重なった。運転手は黙ったまま、バックミラー越しに竹内社長をうかがう。自分はどちらに従うべきか……社長にとって凛さんは特別だから、凛さんを無視すれば、後で社長に何を言われるか分からない。かといって社長の指示を無視すれば、それこそ怒りを買うだろう。どちらを選んでも怒られるなら、凛さんを優先して少しでも社長の機嫌を取るほうがましなのかもしれない。海斗が運転手に鋭い視線を投げつけた。「何してる?」運転手は再び凛を見た。凛は頭を下げて運転手に感謝を示しつつ、やはり海斗の説得を試みる。「竹内社長、私はこの家で4年暮らしました。社長には理解しにくいかもしれませんが、孤児だった私にとって、家というものは特別なんです。だから、最後は綺麗にして出ていきたくて」「孤児」という言葉に、海斗の瞳が一瞬揺れ、凍てついていた表情もわずかに和らいだ。「施設育ちの子どもは、自分の家というものへの憧れというのでしょうか……とても渇望しています。それに、たとえ短い期間で、つらい思い出が詰まった家でも、私にとってはこの体と心が安らげた場所でした。だから、掃除をしてからじゃないと、この家を離れたくないんです」凛の瞳は、湧水のようにどこまでも澄み切っていた。その澄んだ瞳に見入ってしまった海斗。だが、それでもまだ首を縦には振らずに、運転手に目配せをして、お前が掃除に行けと合図をする。運転手は車を降りた。そんな彼らに、凛が言った。「暗証番号知らないですよね?」運転手は困った顔で海斗を見つめ、心の中で呟く。社長、もう凛さんを掃除に行かせてあげてくださいよ!「凛さんは掃除をすることによって、過去を全て捨て去ることを望んでいるだけなんですよ」と、運転手は静かに海斗を諭した。凛も頷く。しばし黙っていた海斗だったが、ドアを開けると、そのまま車を降りた。車の外に立ち、凛を促す。「早くしろ」凛は少し驚いたが、すぐに車を降りて、もうすでに歩き出している海斗の後ろに慌ててついていった。その後、凛は納得がいくまでソファや玄関を拭
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第202話

運転手はすぐさま後ろを振り返り、ウェットティッシュを手渡した。海斗は無表情のままウェットティッシュを受け取ると、片手で凛の顎を強引に掴んで動きを封じ、激しく顔を拭い始める。海斗の力は強かったので、凛はその小さな顔をしかめ、逃れようと抵抗した。「動くな」海斗は視線で警告しながら、さらに強く拭いたので、凛の肌が真っ赤になっていく。海斗が言った。「これで分かっただろ?何でも自分でやろうとするな」海斗の手が離れた。顎には鈍い痛みがあったが、顔の方はまだましで、皮が剥けるまではいかなかったようだ。凛はじっと海斗を見つめた。しかし、海斗は何も言わない。そして数秒後、凛は視線を戻し、携帯を取り出す。【日和さん。これからは、こういう些細なことで竹内社長を呼び出さなくていいからね】海斗の表情は、今日会った瞬間からずっと険しいまま。その時の日和は忙しく、返信をする時間がなかった。掃除の疲れもあってか、凛は急な眠気に襲われ、目を閉じては、ハッとして目を開ける。それからも閉じては開くいうことを繰り返した。そのたびに、首が小さくかくかくと揺れる。そんな凛を見て、海斗は軽く握り拳にした左手を口元に当て、必死に笑いを押し殺した。そっと顔を横に向け、凛を見つめる。どうやら、完全に眠りについたようだ。海斗は運転手にそっと声をかける。「ゆっくり走ってくれ。あと、エアコンの温度も少し上げろ」運転手はアクセルを緩め、設定を28度に変えた。車が段差を越え、わずかに揺れた瞬間、海斗の鋭い眼光が運転手に向けられたが、運転手は見て見ぬふりをした。二人の視線は自然と熟睡している凛に注がれる。凛はぐっすりと眠っていた。相当疲れていたのだろう。しばらくすると、海斗は肩に重みを感じた。さらさらした髪が海斗の体にかかり、その毛先が手のひらに触れた。海斗の体がわずかにこわばる。こっそり横目で見ると、凛の顔は半分が髪に隠れていた。髪の間からのぞく鼻筋は高く、唇はほんのりと赤い。海斗は指先を動かし、手のひらにこぼれ落ちた彼女の髪をそっとなぞった。その瞬間、彼の瞳がふっと深みを増したのだった。車が南山ヒルズ9号棟の前で停まった。運転手は空気を読み、静かに車を降りると、そのまま足早に去っていった。車内には海斗と凛だ
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第203話

南山ヒルズ9号棟に駆けつけた策は、草が伸び放題の庭を抜け、そのまま大広間へと向かった。そこでは、海斗がソファに深く腰掛け、顎を上げていた。瞳は怪しく光り、鼻の穴には捏ねられた草が詰め込まれている。策はぎょっとした。こんな閻魔みたいなやつの鼻に、一体誰がこんなもの詰め込んだんだ?「竹内社長、どうしたんだよ?何かにぶつかったのか?」刃物のような海斗の目線が、策に向けられる。すぐに策は黙り込み、その鼻を見て驚いた。「誰がヨモギを?」竹内社長本人がやるわけがない。「策先生」少し慌てた様子の凛が、台所からお茶を持って現れた。状況を悟った策は笑って言う。「竹内社長の秘書は、応急処置もできるんだね」凛は静かに訂正した。「策先生、私はもう竹内社長の秘書じゃないんです」策は少し戸惑った。一体何があったんだ?しかし、余計なことを聞いて、海斗の怒りを買うのだけは避けたかったので、策は黙って処置を始めることにした。「よくヨモギが薬草だって知ってたね。昔の人は怪我をした時に、道端のヨモギを摘んで噛み砕いてから、傷に貼っていたんだよ」策は手袋をはめ、ピンセットで鼻に詰められたその緑色の塊を取り除く。すると、海斗が凛を見た。「君が昔、摘んで売っていたヨモギというのはこれのことか?」凛は驚いた。まさか、自分が前に言ったことを、覚えていてくれたなんて。凛は頷き、海斗の鼻先に視線をやった。血は止まっている。鼻の下の血も策が綺麗に拭き取った。しかし、シャツは汚れてしまっていたので、弁償が必要だろう。「社長、シャツのサイズは何ですか?」海斗も血に気づいた。予備ならいくらでも家にある。凛は海斗の身体を上から下まで、サイズを予想するように見つめた。身長189センチの男が着るワイシャツとなれば、普通のMやLではまず収まらない。既製品でもLLから3Lくらいだろう。「LL?」と凛は尋ねた。「3Lだ」と海斗。海斗の身長だとLLが標準だが、筋肉質な人だと3Lになる。まさか見くびられているのか?海斗の瞳がすっと暗くなった。しかし、凛はそんな闘争心には気づかず、頷くと、弁償用の3Lのシャツを注文することにした。策も手当が終わったようなので、凛は海斗にお茶を渡した。海斗はその湯呑みの中をちらりと覗く
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第204話

呆れていた策は、凛に笑みを向ける。「凛さん、俺も一緒に行って手伝いますよ」「助かります」策と凛が荷物を取りに行こうとすると、背後から地獄の閻魔王のような凍りつく声が飛んできた。「止まれ」二人は振り返る。少し怪訝そうな凛と、含み笑いを浮かべている策。「策、お前がいけ」海斗は、凛に座るよう目線を向けた。しかし、「自分で取りに行きますから」と、凛が言う。策は笑みを浮かべたまま。結局、折れた海斗はため息をつき、服を正して立ち上がると、苛立った様子で策に言い放った。「座ってろ!」「はいよ。あんたが俺を座らせたんだからな」そう言いながら策は満足げにソファに座り込み、二人が外へ出るのを見届けながら、ようやく温かいお茶にありつけたのだった。海斗がトランクを開けると、凛は中の袋を取ろうと身をかがめた。すぐ後ろに立つ海斗との距離は驚くほど近く、海斗の目には自分の腕の中に収まっているように見えた。海斗はごくりと唾を飲み込む。トランクのドアを持ち上げていた手を引き、腰を屈めて代わりに荷物を持とうとすると、指先が触れ合った。凛は反射的に指先を引き、そばにいた男を見上げた。そこには、少し強張った冷たい横顔がある。「俺が持とう」男は静かな声で言った。寝具の入った大きな袋を二つ持っていても、海斗から溢れる気品は全く消えない。その姿は、まるでレッドカーペットの上を歩いている映画の主役さながらだった。策が思わず舌打ちをする。生まれながらの御曹司であるあの男が、誰かの荷物持ちを買って出ることにもまったく抵抗がないなんて。大広間に戻ってきた。凛が海斗に手を伸ばす。「竹内社長、ありがとうございました。あとは自分で2階まで持って行きますから」一度凛を見つめ、それから先ほど触れ合った手元に視線を落としてから、海斗は荷物を離した。「竹内社長、策先生、ありがとうございました。私は荷物を片付けないといけないので、また時間のある時にでもご馳走いたしますね」このような社交辞令であれば、凛でも言える。海斗も凛に時間が必要だと悟り、策を連れて去っていった。運転席に強制的に座らされた策は尋ねた。「運転手は?」「家だ」そう答える海斗の視線は、9号棟に向けられたまま。その先には、まだ開けられている玄関から、二つの袋を抱える凛の小
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第205話

智也の携帯に、すぐメッセージが届いた。【何か用事?】【戻ってきたのに、どうしてまたすぐに行ってしまったんだ?】【来週の仕事が落ち着くまで帰ってこないのかと思ったから】凛は本当にそう思っていたし、忙しい智也がわざわざ帰ってきたことに、少し驚いてもいた。メッセージを読んだ智也は、自分の不在を責められているのだと感じた。慌てて返信をする。【わざと帰ってこなかったわけじゃないんだ。仕事があったんだよ。それに、仕事だって、俺たちの未来のためにしてるんだから】【知ってる】この一言にも、どこか恨みがましい響きを感じた智也の心に、自分の苦労が分かってもらえない苛立ちがこみ上げた。しかし、すぐにそれを必死で抑え込む。そして、智也は思いだした。凛が家に帰ってこないのは、杏に付き添っているからであり、自分こそが家庭を顧みずに、家を留守にしてばかりだったことを……そんな自分が、凛を責められるはずがない。智也は頭を振って苛立ちを払拭すると、メッセージを打ち込んだ。【来週でもう落ち着くから、もうお前を家で一人になんてさせないよ。それに、子どもを迎える準備もしなきゃいけないからな】子どもの話になった瞬間、智也の口元は自然と緩み、心の奥がむず痒くなる。シャワーを浴びながら、智也は思わず目を閉じた。脳裏に浮かび上がるのは凛の姿。次の瞬間、彼は顎を上げて息を吐く。あっけなく果ててしまった。手に残る痕跡を見つめ、智也はしばらくシャワーに打たれていた。凛を思い浮かべただけで、こんなにも簡単に理性を失ってしまうとは……「凛さんのこと、何とも思わないのか?」正人が言ったあの言葉。降り注ぐシャワーを背中に受けながら、智也は壁に手をついて自分自身に問いかける。自分は、凛に気持ちが動いたことがあったか?本当に、何とも思っていないのか?胸元に手をやり、複雑な表情を浮かべる智也。シャワーを浴び終え、洗面所で歯ブラシを取ろうとしたとき、空のコップに貼られた付箋が目に飛び込んできた。【新しい歯ブラシと歯磨き粉は鏡の裏の棚】棚を開けると、新品の歯ブラシと歯磨き粉があった。そしてその隣には、二つの指輪。智也は、それが自分と凛の結婚指輪だとすぐに分かった。帰国した柚葉を空港へ迎えに行く際、自分は指輪を外して寝室のサイドテーブル
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第206話

しかし、契約締結の場に立ち会うのと、当事者として署名するのとでは、まったく話が違う。「このプロジェクトの責任者は谷口だから、署名を彼女がするのはもちろんだ。それに、指導役のお前だって、壇上には必ず上がって欲しい。でもな、克哉。わしはお前に柚葉の面倒を見て欲しいって思ってるんだ。お前だって、柚葉の成長を見てきただろう?それに、あいつには顔を売るための機会が必要なんだよ」英樹が克哉をじっと見つめる。笑顔を崩さない克哉だったが、内心では英樹がこんなにもはっきり要求を伝えてきたことに驚いていた。さて、どうしたものか。国家プロジェクトにおける調印式は規定が厳しく、調印に参加できるのは5名までと決まっている。署名者、監督責任者、そして関係部署のトップという組み合わせだ。署名者は凛、監督責任者は克哉自身、そして関係部署からは研究所のもう一人の管理職。それに、英樹は、このプロジェクトを統括する最高責任者ではなかった。実際、柚葉をプロジェクトチームに加えたことを除けば、それ以外の運営にはほとんど口を出していない。とはいえ、英樹はこの案件に並々ならぬ関心を寄せていた。もう一人の責任者も、上には英樹という格上の幹部が控えていることもあり、あえて前に出ようとはしなかった。さらに凛が十分に仕事をこなしていたため、その責任者が表立って姿を見せる機会もほとんどないのだ。だが、入札や調印式となれば話は別で、参加しなければ規則に反してしまう。だから、すでにこの三人は決定していた。残りは梓。凛の秘書として、凛のそばでペンや書類を渡す役割だ。そして、あと一人加えることはできるが、いてもいなくてもいい。署名者以外はあくまで随行メンバーという扱いで、役職順に並ぶ。だから、たとえ柚葉が並ぶにせよ、最後尾であることに変わりはない。しかし、英樹が言っているのは、柚葉を一番後ろに立たせたくないということだった。だが、柚葉が梓の役を受け入れるか?特任研究員がわざわざ秘書役になるなんて、プライドの高い柚葉が受け入れるはずがない。結局のところ、英樹は克哉の座を柚葉に譲れと言っているのだ。何が面倒を見るだって?どう聞いても、座を明け渡せという無茶な要求じゃないか。もちろん、克哉が納得できるはずもなかった。苦渋の決断を迫られていたその時、ドア
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第207話

英樹からの要求をすぐには受けなかった克哉だったが、その日の夜寝る前に承諾の連絡が英樹のもとに届いた。このことを話してから、半日経っての返事だったため、英樹はかなり信憑性が高いと思った。携帯をしまった英樹は、使用人に尋ねる。「ここ数日、柚葉の様子はどうだ?」「食事の時間以外は部屋か書斎に篭りっきりですよ」「庭にも出ていないのか?」英樹はわずかに眉をひそめた。使用人が静かに頷く。英樹は書斎と2階にある柚葉の部屋の方を見上げ、使用人に聞いた。「今はどこにいる?」「自室にいらっしゃいます」「そうか」英樹は自ら柚葉の部屋の前へ向かい、ドアをノックする。電話中だった柚葉は、音が聞こえるとすぐに振り返った。「誰?」実のところ、誰が来たのかは大体察しがついていた。「わしだ」英樹の力強い声が響く。柚葉はすぐにはドアを開けず、電話の相手である智也に向かって声をかけた。「お爺様が来たから、またあとで連絡するね。智也、大好きだよ。またね」電話を切ると、柚葉はわざと不機嫌そうな顔をしてドアを開けた。英樹が柚葉をじっと見つめる。「まだ怒っているのか?」「お爺様になんて怒れるわけがないでしょ?」その言葉には、愛情を一身に受けて育った者らしい甘えがにじんでいた。しかし英樹は気分を害するどころか、むしろ当然のように受け止めていた。何しろ、幼い頃から自らの手で育ててきた孫だったからだ。柚葉は少し体をずらし、英樹を中へ入れる。「こんなに汚いなんて、これでも女の部屋なのか?」柚葉はすぐに駆け寄って椅子にあった服を抱えると、使用人に手渡した。使用人は急いで部屋を片付け始める。すると、英樹が使用人に言った。「なんで普段から柚葉の部屋の掃除に来ないんだ?」使用人は顔を強張らせた。口ではお嬢様の部屋が汚いと言っている旦那様だが、そこにお嬢様を責める意味は欠片もない。なのに、自分がお嬢様の部屋を片づけに来なかったことに対しては、完全に叱責の意味が込められているようだ。英樹から寵愛される柚葉に、細心の注意を払わねばならないことは、松田家の誰もが知っている。それに、彼女たちが掃除に来なかったのではない。柚葉がドアを開けないことには、片付けようがなかったのだ。「お爺様、私が掃除しなくていいって言っただけだから」と柚葉が言う
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第208話

「だったら、機嫌を直してくれるかい?」「だから、怒ってなんかないってば」柚葉は英樹の腕にしがみついて揺らした。幼い頃と変わらないその甘えっぷりに、英樹もつられて笑った。「さっきは智也とかいう男と電話をしていたのか?」「うん」柚葉がうなずく。智也の名前が出た瞬間、柚葉は少し恥ずかしそうなそぶりを見せる。英樹は、孫娘をここまで夢中にさせているその若い男に、強い関心を抱いた。「海外に4年もいたお前を、本当に待ってくれていたのか?」「そうだよ。お爺様に内緒にしていただけで、毎年欠かさず誕生日には飛んできてくれてたんだから」柚葉はそのまま続ける。「別に、お爺様に内緒にしていたわけじゃなくて……男にうつつを抜かして、研究してないって思われるんじゃないかって少し怖かったの。それに、智也だって私の研究を邪魔しないようにって、そんなに頻繁には会いにこなかったし、それでも、何でも困ったときはいつも助けてくれたんだよ」英樹は深くうなずき、満足そうに目尻を下げた。「それじゃあこの4年間、そいつはずっと独り身だったってわけか?」柚葉は言葉に詰まった。しかし、すぐにこう答える。「そうよ、智也が女なんて作るわけないでしょ?それに智也は、私との子供しかいらないって言ってたんだから」英樹が柚葉をにらみつけた。「結婚どころか、まだ挨拶すら済ませていないっていうのに、何が子供だ」年寄りは皆、考えが古いんだから。一方、海外暮らしの長かった柚葉は開放的で、そんなことなど気にせず、子どもさえできれば智也と結婚できる、と思っていた。智也という男は責任感が強い。彼が今も凛と離婚せずにいるのも、結婚したことへの責任を放棄しきれないという生真面目さからなのだ。これを逆に利用すれば、子どもという武器が最強の切り札になる。この前の酒の力を借りた時……避妊道具は使っていない。もう少しで、あれから1ヶ月になる。次の生理が遅れたら、すぐ病院へ行こう。「柚葉、どうしたんだ?」考え込んでいた柚葉に、英樹が声をかけた。はっと我に返った柚葉は、そのまま言った。「智也のことを考えてたの。お爺様、智也を助けてくれるって約束したでしょ?彼は本当に仕事熱心だし、このプロジェクトだってすごく重要視してるんだから」「ああ、分かってるよ」そして、英樹はため息
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第209話

入札の前日、智也は万全の状態で臨めるよう、早めに帰宅して体を休めることにした。家に着くとドアが少し開いていて、中からは料理の良い匂いが漂ってきている。「凛?帰ってきたのか?」智也がドアを開けると、リビングのソファには両親と胡桃が座っていた。呆気に取られた智也は、キッチンへ視線を走らせる。そこには、慣れない手つきで慌ただしく立ち回る人影があった。使用人だ。凛ではない。智也の目に微かな失望がよぎったのを梨花は見逃さなかった。少し腹は立ったが、明日は息子にとって大事な日だから、やはり息子の機嫌を取ることが最優先だ。「智也、お帰り。夕飯はあと少しでできるから、フルーツでも食べて待ってて」「ただいま」智也は短く声をかけ、コートを脱いだ。「先に着替えてくるよ」「ええ、分かったわ」健吾は、智也が部屋に入ったのを確認すると、すぐに胡桃へと釘を刺す。「いいか、今日は絶対に智也を怒らせるようなことはするなよ。余計な口を利くのも禁止だ」胡桃が口を尖らせる。「凛さんのことであれこれ言うなってことでしょ?私だって別に何も言わないから。それに、凛さんは何もかも綺麗に整えて、まるでもう帰ってこないみたいじゃん」「名前すら出すな」「分かってるってば。私だって、出すつもりもないし、あの人を思い出すだけで反吐が出るんだから」智也が部屋着に着替えて戻ってきたので、梨花はすぐに胡桃の肘を小突いて黙らせた。胡桃も即座に黙り込み、何事もなかったかのように黙々とフルーツを食べ始める。智也はソファーに座ると、凛に電話をかけようと携帯を取り出した。家族が皆揃っているのだから、凛を呼ばないわけにはいかないだろう。それに、今までは重要な仕事の前日には必ず凛が美味しい食事を用意し、仕事の成功を応援してくれていたのだから。なのに今日は、何の反応もない。健吾は、智也が凛へ連絡しようとしているのを見ると、すぐに制止した。「もう凛には連絡を入れてある。でも、今日は外せない用があるらしく、来られないそうだ」智也は微かに眉をひそめる。「父さんたちが、凛に連絡したのか?」「ああ、母さんや胡桃じゃなくて、俺が連絡しておいた」智也のことだ、自分たちが凛に対して何か嫌味でも言ったのではないかと疑っているのだろう。父が直接凛に連絡したと知り、智也は少し胸を
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第210話

父の言うことにも一理あると思った智也は渋々指輪を外し、財布に入れた。中には既に一つの指輪がある。二つが重なり合った今、まるで自分と凛が寄り添っているように思えた。智也の口元がわずかに緩み、その目もどこか優しげな色を帯びる。健吾は、財布のポケットの中にある二つの指輪を見て尋ねた。「どうして凛の指輪までお前が持っているんだ?」本当は智也に言いたかった。凛が指輪を外した今、お前が指輪をつける意味があるのか、と。「凛はいつも指輪を大切にしてくれていたから、家事をする時に外すんだよ。今回もきっと付け忘れただけだろうし、無くすのは心配だからここに入れておこうと思ってさ」智也はそう説明し、財布を元に戻す。一家は食事の席についた。智也は料理の写真を一枚撮り、凛に送る。【父さんが、お前は今日急用で帰ってこないって言ってたけど、何かあったのか?】凛は返信をしなかった。時を同じくして、凛は南山ヒルズ9号棟で、杏、仁、克哉と克哉の妻である佐野雅美(さの まさみ)、それに梓と一緒に夕食を食べていた。とても和やかな食卓だった。杏が何度も目を潤ませる。「ついにこの日が来たんだね。天国の史哉もきっと喜んでるよ」雅美も杏にティッシュを手渡し、しみじみと語った。「うちの主人もこれでようやくひと息つけて、私と娘と過ごす時間も増えるはずね。でも、休みだってそんなに長くないんでしょう?」「ああ、特許の売却ではなく共同研究になるから、後もいろいろとあるんだよ」克哉は笑い、雅美の手を軽く握った。「苦労かけてごめんな」「いいのよ。私と娘はあなたのことをとても誇らしく思っているんだから」そう言って、雅美は彼の皿に料理をよそう。梓が明るく言った。「私も明日が終わったら、両親に全部正直に話そうと思います。ここ数年、変な仕事をしているんじゃないかってずっと心配されていましたから。もし、警察の方がわざわざ家に行って『これ以上は聞かないように』って諭してくれていなかったら、きっと毎日問いただされていたはずです」その場が笑いに包まれた。そして、一同の視線が凛に集まる。皆、凛が今、何を考えているのか知りたかったのだ。だから、凛は言った。「今夜のうちに、サインを少し練習しておこうと思います」皆は一瞬呆気に取られたが、やがてまたその場が笑いに包まれる
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