All Chapters of 追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません: Chapter 191 - Chapter 200

206 Chapters

第191話 冷たい声と、閉じた扉④

 昨日、書斎のドアの向こうで、自分を信用できないと震えていた。私の命をこれ以上削りたくないから、自分の肺が腐り落ちてもお前がいいと、そう言って泣きそうな声を上げていた。 私をこのペントハウスから、有栖川の呪いから遠ざけて、安全な場所へ逃がすために、わざとこんな酷い言葉を選んでいるのだ。 頭の片隅では、その不器用すぎる「保護」の意図がわかっていた。 でも。 わかっていても、その黄金色の瞳に宿る、一切の光を遮断した冷徹な視線が。自分を「足手まといのガラクタ」として切り捨てる言葉の響きが。 私の胸の最も深い場所を、ズタズタに引き裂いていく事実を止めることはできなかった。 私の力が中途半端だから。私が一人で有栖川の過去を終わらせるほどの強さを持っていなかったから、この人は、こんな方法でしか私を守れないのだ。 自分の無力さが、どうしようもなく悔しくて、情けなくて、目頭が熱くなる。「……話は、それだけだ」 黎はそれ以上、こちらの顔を見ることもせず、大股で書斎の方へと歩き出した。 長い脚がカーペットを踏みしめる音が、やけに重く響く。「待ってください、黎様! 私は、ここに――」 背中を追いかけようと、素足で床を蹴る。 しかし、黎が書斎の室内へと滑り込む方が、一瞬早かった。 バタンッ!!! 重厚な木製のドアが、目の前で一切の容赦なく閉ざされた。 激しい衝撃音がリビングに反響し、壁に掛けられたモダンアートの額縁が、カタカタと微かに揺れる。 カチャリ。 直後、内側から冷たい金属部品が噛み合う、確実な施錠の音が響いた。 閉ざされた、焦げ茶色の扉。 その前に辿り着き、伸ばした両手を、冷たい木の表面へと押し当てる。「黎様! 開けてください! 黎様……っ!」 ドアノブを掴み、何度も前後にガタガタと揺らす。 けれど、昨夜のように、鍵が回される気配は二度となかった。ドアの向こうからは、ヒュゥゥ……という、あの痛ましい擦れるような呼吸音すら聞
last updateLast Updated : 2026-06-13
Read more

第192話 冷たい声と、閉じた扉⑤

 私は、ここにいてはいけない。 私がここにいれば、あの人は私のために、一生その肺を焦がしながら、私に触れる恐怖と戦い続けなければならない。私の存在そのものが、黎を縛り付ける最大の「呪い」になってしまう。 ゆっくりとドアから手を離し、自分の右手首を、左手でぎゅっと握りしめる。 指先には、昨日黎が舐め取ってくれたあの熱い感触が、まだ微かに残っているような気がした。(……自分で、終わらせなきゃ) 有栖川の呪いも。理恩の歪んだ執着も。 この指先に繋がったままの、目に見えない不快な管も。 誰かに守ってもらうのではなく、私が、私自身の力で完全に断ち切らなければ、私は二度と、あの人の隣で笑うことなんてできない。 涙をウールの袖口で手乱暴に拭い、寝室へと引き返す。 クローゼットを開け、最初にここへ来た時に着ていた、あの有栖川の古ぼけたグレーのウールコートを引き出した。黎が買い与えてくれた山積みのドレスや宝石には、一切手を触れない。 それは、便利な道具としての鎖ではなく、信頼の証として、いつか自分の足でこの部屋に帰ってきた時に、もう一度身に纏うためのものだから。 ポケットの奥に、あの地下牢で手に入れたお祖母様の銀色のロケットが入っているのを確認する。 金属の冷たさが、指先に確かな覚悟を教えてくれた。 パジャマから、動きやすいシンプルなブラウスとスカートに着替え、コートを羽織る。 手首のボタンを留める指先は、もう震えていなかった。 リビングを通り抜け、玄関の重厚な大理石の土間に降り立つ。 振り返ると、薄暗い部屋の真ん中で、グランドピアノが静かに佇んでいた。昨日、黎が叩き閉めた蓋は、やはり閉ざされたままだ。 もう一度だけ、書斎の閉じた扉へと視線を向ける。「……行ってきます、黎様」 小さく、けれど芯のある声で呟いた。 返事はない。 玄関のドアノブを握り、ゆっくりと手前に引く。 カチャリ、という電子錠の解除音とともにドアが開き、外の廊下の、冷たく乾いた冬の空気が一気に流れ
last updateLast Updated : 2026-06-13
Read more

第193話 空っぽの鳥籠①

 エレベーターの冷たい金属ボタンに、微かに震える指先を押し当てた。 下向きの矢印が点灯し、無機質なモーター音とともにステンレスの扉が左右に開く。 誰もいない箱の中へ足を踏み入れた。ガラス張りの壁面からは、冬の澄み切った朝の光に照らされた六本木の街並みが、精巧なミニチュア模型みたいに広がって見えた。 扉が閉まり、ふわりと胃が持ち上がるような下降の感覚が襲う。 階数表示のデジタル数字が、チカチカと赤い光を点滅させながら減っていく。 その光を見つめながら、グレーのウールコートのポケットの中で両手をぎゅっと握りしめた。右手の指先には、まだ微かに、昨夜押し当てられたあの熱い唇の感触がこびりついているような気がする。(……黎様) 突き放すような、氷のように冷たい声。 閉ざされた重厚な木製ドアの、バタンという鋭い衝撃音。 思い出すだけで、胸の奥が雑巾をきつく絞り上げられたように痛んだ。 私が傍にいれば、あの人は自分の肺を瘴気で焦がしながら、私を傷つけないようにと本能を抑え込み続けなければならない。「足手まといのガラクタ」だと言われたのはひどく悲しかったけれど、それが不器用すぎる嘘だということはわかっていた。 だからこそ、これ以上、あのペントハウスに留まるわけにはいかなかった。私がいること自体が、あの人を一番苦しめる呪いになってしまうから。 チン、と軽い電子音が鳴り、一階のエントランスに到着した。 扉が開き、艶やかに磨かれた大理石の床を踏みしめる。 広大なエントランスホールには、誰の姿もなかった。 モニター越しに気味の悪い笑みを浮かべていた理恩も、凄まじい足音を立てて追いかけていったはずの銀髪の姿もない。 ただ、自動ドアの外へ続くロータリーのアスファルトに、車のタイヤが乱暴に擦れたような黒い跡と、微かに鼻を突く焦げたゴムの匂いが残っているだけだった。 すでに、理恩は追い払われたのだろう。 自動ドアが開き、身を切るような冬の冷たい風が頬を打ち据えた。 コートの襟を立て、ロータリーの脇の歩道へと足を踏み出す。 目的地
last updateLast Updated : 2026-06-14
Read more

第194話 空っぽの鳥籠②

 白亜だ。 冬の空よりも淡い、アイスブルーの瞳がこちらを見下ろしている。その小さな両手には、たっぷりのホイップクリームと真っ赤なイチゴが詰め込まれたクレープが握られていた。 トンッ、と音を立てずに、白亜が枝からアスファルトへと飛び降りる。「ノワールの気配が急に殺気立って、ものすごい勢いでどこかへ飛んでいったから、何事かと思って見に来たんだけど」 白亜はクレープの端をサクリと齧りながら、小首を傾げた。「お姉さん、ノワールの匂いがすっごく薄いね。……もしかして、追い出されちゃったの?」 その無邪気で残酷な指摘が、みぞおちにグサリと突き刺さる。「……追い出されたんじゃありません。私が、足手まといにならないように出てきたんです」 強がって言い返すが、声の端が情けなく震えてしまった。「へえ」 白亜は口の端に白いクリームをつけたまま、淡い瞳を細めた。「あの、息も絶え絶えの過保護な黒竜が、唯一の酸素を手放すなんてね。よっぽど余裕がないんだ。自分の本能でお姉さんを壊しちゃう前に、遠ざけたってところかな」 人間社会のスイーツを咀嚼しながら、その観察眼はどこまでも的確だった。竜の視点から見れば、人間の感情の揺れ動きなど、手に取るようにわかるのだろう。「でも、このままじゃ有栖川の連中に見つかるよ。お姉さんのその指先、まだ嫌な匂いが繋がってるし」 白亜の視線が、コートのポケットに突っ込んだ右手に向けられる。 ビクンと身を強張らせると、白亜はクレープの最後の一口を飲み込み、ポンと手を叩いた。「そうだ。私のところに来る? ちょうど今から、滞在してるホテルのラウンジで、ケーキバイキングの全種類制覇に挑む予定だったんだよね。一人だと食べ切れるか不安だったから、お姉さん、手伝ってよ」「えっ……ケーキ、ですか?」「そう。新作のピスタチオタルトがどうしても食べたくて」 白亜はあっけらかんと言い放ち、有無を言わさずにこちらの腕をぐいと引っ張った。その細い腕からは想像もつかないほどの強い力が働き
last updateLast Updated : 2026-06-14
Read more

第195話 空っぽの鳥籠③

「はい、これお姉さんの分ね」 向かいの席に座った白亜が、テーブルの上に大きな平皿をドンと置いた。 そこには、色とりどりのケーキが五つ、隙間なく並べられている。白亜の目の前には、さらにその倍の量のケーキが山積みになっていた。「こんなに……食べられませんよ」「一口ずつでもいいから食べてみて。人間社会の糖分は、本当に素晴らしい発明だと思うんだよね」 白亜は目を輝かせながら、小さなフォークでチョコレートケーキを切り分け、幸せそうに頬張っている。 ティーカップの取っ手に指をかけ、温かい紅茶を一口飲んだ。 じんわりと胃が温まる。 ここは、綺麗で、安全で、甘い匂いに満ちている。 なのに、胸の奥に空いたぽっかりとした穴を塞いでくれるものは、ここには何一つなかった。 あのペントハウス。 最初は、逃げ出せない「空っぽの鳥籠」だと思っていた。広すぎるリビングに、高価な家具が並んでいるだけの、温度のない空間。 でも、いつの間にか。 家電に負けて不機嫌になる銀髪の男がいて、一緒に深夜のコンビニで買ったアイスクリームの味がして、不器用に髪を梳いてくれる大きな掌の熱があって。 私のために届いた、あの黒いグランドピアノが置いてある。 私にとって、あそこは「帰る場所」になっていたのだ。 微かな焦げたスパイスの匂いがない空間が、こんなにも寒々しく、息苦しいものだったなんて。「……ノワールは、馬鹿だね」 二つ目のタルトを平らげた白亜が、ポツリとこぼした。「お姉さんを遠ざければ、自分が我慢すれば済むと思ってる。自分が肺を焼かれて死ぬ分には、お姉さんを傷つけないからいいやって、そういう自己満足」 淡いアイスブルーの瞳が、真っ直ぐにこちらを見据える。「でも、息ができないのはお互い様じゃない? お姉さんだって、今、すっごく息苦しそうな顔してるよ」 言葉に、ハッと息を呑む。 持っていたティーカップがカチャリと揺れ、ソーサーに微かな音を立てて置かれた。 息ができない。
last updateLast Updated : 2026-06-14
Read more

第196話 空っぽの鳥籠④

 一人残されたテーブル。 クラシックのピアノの旋律が、静かに耳を打つ。 ペントハウスの鳥籠を抜け出したのに、私の中身は、有栖川の屋敷にいた頃よりもずっと、空っぽになってしまったようだった。 ◇ 同時刻。 六本木のペントハウス。 重厚な木製ドアの電子錠がカチャリと解除され、勢いよく内側へと開け放たれた。 大理石の土間を踏みしめ、巨大な影がリビングへと滑り込む。 黎だった。 漆黒のウールコートの裾を翻し、肩で大きく息をしている。その拳の関節には、微かに赤黒い染みが付着し、鉄錆のような血の匂いがコートに染み付いていた。 有栖川邸の重厚な門扉を素手で粉砕し、残っていた『奈落』の呪具の破片ごと、地下室を丸ごと物理的に圧壊させてきた帰りだった。理恩の顔面にどのような恐怖を刻み込んできたかは、その冷え切った黄金色の瞳が物語っている。「……戻ったぞ」 低い声が、広いリビングに落ちる。 しかし、返事はなかった。 足を踏み入れた瞬間に、黎の全身の筋肉が硬直した。 空気が、違う。 いつもなら、この部屋のどこかにいるだけで感じられる、微かなミントの香りと、肺の奥をふわりと撫でるような清浄な気配。 それが、数時間前よりも明らかに薄れ、霧散しつつあった。 黎は長い脚でカーペットを蹴るようにして、リビングの奥へ進む。 ブラインドが下りたままの薄暗い空間。 昨日叩き閉めたままの、巨大な黒いグランドピアノ。 ダイニングテーブルには、昨夜彼女が淹れてくれたティーカップが、冷え切ったまま放置されている。「瀬理亜……?」 声の端が、微かに震えていた。 大股で寝室へと向かい、ドアを乱暴に開け放つ。 静まり返った室内。ベッドのシーツは綺麗に整えられており、誰もいない。 黎の視線が、開け放たれたままの巨大なウォークインクローゼットへと向けられた。 ハンガーに掛けられたままの、見渡す限りの高級なドレス。引き出しに並べられた宝石
last updateLast Updated : 2026-06-15
Read more

第197話 空っぽの鳥籠⑤

 膝の力が抜け、ベッドの端にドサリと崩れ落ちる。 大きな両手が、綺麗に整えられたシーツを乱暴に掴み、顔を深く押し当てた。 シーツの繊維の奥に、まだほんの僅かに残っている彼女の匂い。日向のような、柔らかい匂い。 それを逃すまいと、黎は大きく息を吸い込む。 ヒュゥゥゥ……ッ。 気管が狭窄し、肺の奥を鋭い針で無数に刺されるような激痛が走る。 彼女の浄化の力が消え失せた空気を吸い込んだことで、現代の瘴気が一気に内臓を焼き始めたのだ。「がっ、は……こほっ、げほぉっ!」 シーツに顔を埋めたまま、黎は激しく咳き込んだ。 胸ぐらを右手で強く掴み、シャツの生地を引きちぎらんばかりに握りしめる。 痛い。息ができない。 しかし、その物理的な肺の痛みよりも何万倍も、シーツから彼女の匂いが消えていく事実の方が、黎の胸の奥を無残に抉り取っていた。「……俺が、出ていけと、言ったんだろうが」 ひび割れた声が、誰もいない寝室に溶ける。 彼女の命を削らないために。足手まといだと突き放し、冷たい言葉のナイフで何度も切り刻んだのは、他でもない自分自身だ。 あの時、彼女は泣きそうな顔をして、必死に袖口を掴んできた。 それを振り払った時の、手のひらに残る微かな抵抗感。 黎はシーツを掴んだまま、ギリギリと歯を食いしばった。 守るためだった。彼女をこれ以上、自分の都合で消費しないための、唯一の選択のはずだった。 なのに、この空っぽになった鳥籠の中で、残された匂いに縋り付いて喘いでいる自分は、滑稽なほどに惨めで、どうしようもなく彼女を渇望していた。 ◇ ホテルのラウンジ。 白亜がケーキのビュッフェ台へと向かってから、数分が経過していた。 ティーカップの縁を指の腹でゆっくりとなぞりながら、窓の外の景色をぼんやりと眺める。 その時。 ふわりと、見知らぬ匂いが鼻先を掠めた。 病院の手術室を思わせる無機質な消毒液の匂いと
last updateLast Updated : 2026-06-15
Read more

第198話 空っぽの鳥籠⑥

「お隣、よろしいですか。有栖川瀬理亜さん」 声は驚くほど穏やかで、上質なベルベットのように滑らかだった。 しかし、声を聞いた瞬間、背筋をゾクリと冷たいものが滑り落ちた。 理恩の歪んだ悪意とも違う。黎の圧倒的な暴力性とも違う。 まるで、実験台の上のモルモットを観察するような、完全な「無機質」な視線。「……誰、ですか。私の名前を、どうして」 膝の上で両手を強く握り合わせ、警戒心を隠さずに問い返す。 男は微笑みを崩さず、長い指を組んでテーブルの上に置いた。「失礼しました。私は、ヴィクトル・フォン・フランケンシュタインと申します。しがない研究者であり、少しばかり……命の仕組みに興味がある人間です」 ヴィクトル、と名乗った男の視線が、テーブルの下で握りしめられている私の右手に向けられた。 眼鏡の奥の瞳が、僅かに細められる。「有栖川の不出来な仕掛けのせいで、随分と痛ましい火傷を負われているようだ。……まだ、指先に不快な痺れが残っているのではないですか?」 ハッと息を呑んだ。 昨夜、黎が焼き切ってくれたはずの、有栖川の呪いの残滓。それがまだ自分の内側に潜んでいることを、この男は一目で見抜いたのだ。「あなたには、素晴らしい価値がある。その特異な魂の構造は、人間社会にとっても、そしてあの黒竜にとっても、奇跡と呼ぶにふさわしい」 ヴィクトルの滑らかな声が、静かなクラシックの旋律に混じって耳の奥へと入り込んでくる。「ですが、その力はあなた自身の命を削っている。……彼を救いたいと願いながら、自分が消費されていく恐怖に怯えるのは、さぞお辛いでしょう」 男の言葉は、私が一番触れられたくない不安の核心を、メスで切り裂くように正確に突いてきた。 ヴィクトルはゆっくりと身を乗り出し、甘い香水の匂いを漂わせながら囁いた。「私なら、あなたのその力を……あなた自身の命から、安全に切り離して差し上げることができます」 ティーカッ
last updateLast Updated : 2026-06-15
Read more

第199話 白衣の紳士と、普通の未来①

「……切り、離す?」 かすれた音が、カチャリという陶器の触れ合う音に混じって漏れ出た。 膝の上で固く握りしめた両手から、一気に血の気が引いていくのがわかる。 テーブルに置かれたティーカップから立ち昇るダージリンの華やかな香りが、目の前の男から放たれる無機質な消毒液と、甘く重たい香水の匂いに完全に塗り潰されていく。 ヴィクトルと名乗った白いスーツの男は、完璧な左右対称の微笑みを顔に貼り付けたまま、静かに顎を引いた。「ええ、そうです。切り離すのです。果実から果汁を絞り出すように、あるいは、毒蛇から牙を抜き取るように」 ベルベットのように滑らかな声が、ラウンジに流れるクラシックピアノの生演奏に溶け込んで鼓膜を撫でる。 心地よいはずのその声の響きが、背筋にぞわりとした冷たい粟立ちを呼んだ。「あの黒竜の命綱という鎖から解放される……って、どういうことですか」 テーブルの縁を両手で掴み、前のめりになりそうになる身体を必死に抑え込む。「簡単な理屈ですよ、瀬理亜さん」 ヴィクトルは、テーブルの上に置かれた純白のナプキンを、長い指先で芸術品でも愛でるようにゆっくりと撫でた。爪の先まで完璧に手入れされたその手は、冷たい大理石の彫刻のように血の通った温もりを感じさせない。「あなたの魂に宿る浄化の力は、確かにあの現代の瘴気に蝕まれた竜の肺を癒やすことができる。しかし、それは暖炉にくべた薪を燃やすのと同じ行為だ。あなたの生命力の芯を削り、燃焼させることで、あの怪物の呼吸を長らえさせている。……このままでは、遠からずあなたは灰になって崩れ落ちる」 その指摘は、昨日あの有栖川の地下牢で、白亜から突きつけられた残酷な事実と全く同じだった。 力を使えば、命が削られる。 あの時、胸元の寄生具を破壊するために限界まで力を放出した結果、高熱を出して倒れ込んだ。黎は、そのことに気づき、触れることすら恐れるようになってしまったのだ。「……そんなこと、わかっています」 喉にへばりつく嫌な渇きを飲
last updateLast Updated : 2026-06-16
Read more

第200話 白衣の紳士と、普通の未来②

 サンプル。 その単語が、男の丁寧な言葉遣いの中に潜む決定的な異質さを浮き彫りにした。 この男の目には、目の前に座る人間が、血の通った人間として映っていない。フラスコの中で反応を起こす未知の薬液か、あるいは解剖台に並べられた珍しい臓器を見るような、完全な観察者の視線。「奇跡、なんて呼ばれる筋合いはありません」「ご謙遜を。あの地下の『奈落』に数世代にわたって蓄積した濃密な呪いを、たった一人の人間の容量で一瞬にして無に帰した。……あのエネルギーの奔流を観測した時、私は身震いしましたよ」 ヴィクトルの瞳に、初めて微かな熱のようなものが灯った。しかしそれは、愛情や同情ではなく、狂気に近い探求心の炎だった。「あなたの力は、あの狭いペントハウスで一匹の竜の肺を潤すためだけに使われるには、あまりにも惜しい。世界を清浄に保つための、無限の可能性を秘めている」「……だから、切り離すって言うんですか。私から、この力を奪って……どうするつもりですか」「奪うなどと、人聞きの悪い言葉を使わないでいただきたい。私は、あなたを救いたいのです」 ヴィクトルは組んでいた指を解き、真っ白な手のひらを上に向けて差し出した。「私の研究施設にお越しいただければ、最新の魔術的アプローチと科学を融合させた設備で、あなたの魂の根幹から『浄化の力』だけを安全に抽出することができます」 抽出。 まるで、コーヒー豆から成分を抜き取るような手軽さで、命の芯に根ざした力を抜き取ると男は言っている。「抽出した力は、増幅フィルターを通してあの黒竜へ供給すればいい。そうすれば、あの怪物はあなたの直接の接触なしに呼吸の苦しみから永久に解放される」 言葉に、心臓がドクンと大きく跳ねた。 黎の呼吸の苦しみが、永久に解放される。 あの、夜の書斎で胸ぐらを掴み、肺を焦がしながら咳き込んでいた痛ましい姿を、もう二度と見なくて済むというのだろうか。「……そして、あなたは」 ヴィクトルの滑らかな声が、さらに一段低く、
last updateLast Updated : 2026-06-16
Read more
PREV
1
...
161718192021
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status