――冷たいはずの深夜の雨は、ひどく生温かかった。 足元のアスファルトを叩きつける水しぶきを浴びながら、両腕で胸に抱え込んだ分厚いバインダーをギュッと握り直す。(どうして、こんなことになっちゃったんだろう……) 一時間前の出来事が、まだ頭の中でうまく処理しきれていなかった。 自室の狭いベッドの上で、いつものようにピアノの楽譜を眺めていた時のことだ。 有栖川家という名門の体裁を保つためだけに、お嬢様学校へ通い、一流の講師からピアノを習わされている。屋敷に帰れば家族の肩を揉む雑用係として扱われる毎日の中で、白と黒の鍵盤に触れている時だけが唯一の息抜きだった。 将来はこっそり家を出て、どこか普通の町で、近所の子供たちにピアノを教える先生になりたい。そんなごくありふれた夢を思い描きながら、注意書きで真っ黒になった楽譜を大切になぞっていたのだ。 そこへ突然、父が乱暴にドアを開け放って怒鳴り込んできた。背後には、ハンカチを顔に当てて泣きじゃくる妹の麻里亜と、ひどく不機嫌そうな継母の姿があった。『お姉様、どうしてこんなことを……っ。お母様の大切な宝石、欲しいなら、私に言ってくれればよかったのに』 何の話かまったく分からなかった。麻里亜が震える指で示したベッドの下から、メイドが空っぽのジュエリーボックスを引っ張り出した時も、頭の中にはてなマークが浮かぶだけだった。「あ、あの、麻里亜。一緒に探そうか? きっとどこかで……」 心配になって声をかけようと立ち上がった瞬間、視界が横に吹っ飛んだ。 火の出るような痛みが頬に走り、床に倒れ込んだところで、自分が父に力一杯平手打ちされたのだと気づいた。口の中に鉄の味が広がる。『言い訳など聞きたくない。手癖の悪い役立たずめ。頭を冷やしてこい!』 二の腕を乱暴に掴み上げられ、そのまま引きずられるようにして廊下を進み、土砂降りの裏庭へと放り出された。 あまりの急展開に呆然としたまま、両腕にはベッドで読んでいた楽譜のバインダーを、まるで命綱のように抱え込んだままだった。大切な紙が濡れないよう、咄嗟に前傾姿勢になって背中で雨を弾く。(麻里亜、大丈夫かな。お母様の大切な宝石、早く見つかるといいけど……) 自分が理不尽に叩き出されたというのに、なぜか泣いていた麻里亜のことばかりが気にかかる。あんなに悲痛な顔をしていたのだから
Last Updated : 2026-03-11 Read more