追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません

追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません

last updateLast Updated : 2026-05-05
By:  花柳響Updated just now
Language: Japanese
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「もう誰にも触れさせない。お前は永遠に俺の腕の中で愛される運命だ」 家族に虐げられ、婚約破棄され地下室へ捨てられた令嬢・瀬理亜。絶望の底で彼女を迎えに来たのは、雨の夜に助けた青年――最恐の『黒竜』黎だった。 無自覚な【癒やしの力】を持つ彼女は、孤独な彼にとって唯一の『運命の番』。強引にタワマンへ攫われるが、「自分は便利な道具」と思い込む瀬理亜と、不器用な執着をぶつける黎の心はすれ違ってばかりで……。 惹かれ合いながらも焦れったい同棲生活の裏で、彼女を手放した者たちは自滅していく。 不器用な最強人外×自己評価の低い令嬢。すれ違いから絶対的な愛へと至る、極甘・救済ロマンス!

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Chapter 1

第1話 雨の夜の迷子①

 ――冷たいはずの深夜の雨は、ひどく生温かかった。

 足元のアスファルトを叩きつける水しぶきを浴びながら、両腕で胸に抱え込んだ分厚いバインダーをギュッと握り直す。

(どうして、こんなことになっちゃったんだろう……)

 一時間前の出来事が、まだ頭の中でうまく処理しきれていなかった。

 自室の狭いベッドの上で、いつものようにピアノの楽譜を眺めていた時のことだ。

 有栖川家という名門の体裁を保つためだけに、お嬢様学校へ通い、一流の講師からピアノを習わされている。屋敷に帰れば家族の肩を揉む雑用係として扱われる毎日の中で、白と黒の鍵盤に触れている時だけが唯一の息抜きだった。

 将来はこっそり家を出て、どこか普通の町で、近所の子供たちにピアノを教える先生になりたい。そんなごくありふれた夢を思い描きながら、注意書きで真っ黒になった楽譜を大切になぞっていたのだ。

 そこへ突然、父が乱暴にドアを開け放って怒鳴り込んできた。背後には、ハンカチを顔に当てて泣きじゃくる妹の麻里亜と、ひどく不機嫌そうな継母の姿があった。

『お姉様、どうしてこんなことを……っ。お母様の大切な宝石、欲しいなら、私に言ってくれればよかったのに』

 何の話かまったく分からなかった。麻里亜が震える指で示したベッドの下から、メイドが空っぽのジュエリーボックスを引っ張り出した時も、頭の中にはてなマークが浮かぶだけだった。

「あ、あの、麻里亜。一緒に探そうか? きっとどこかで……」

 心配になって声をかけようと立ち上がった瞬間、視界が横に吹っ飛んだ。

 火の出るような痛みが頬に走り、床に倒れ込んだところで、自分が父に力一杯平手打ちされたのだと気づいた。口の中に鉄の味が広がる。

『言い訳など聞きたくない。手癖の悪い役立たずめ。頭を冷やしてこい!』

 二の腕を乱暴に掴み上げられ、そのまま引きずられるようにして廊下を進み、土砂降りの裏庭へと放り出された。

 あまりの急展開に呆然としたまま、両腕にはベッドで読んでいた楽譜のバインダーを、まるで命綱のように抱え込んだままだった。大切な紙が濡れないよう、咄嗟に前傾姿勢になって背中で雨を弾く。

(麻里亜、大丈夫かな。お母様の大切な宝石、早く見つかるといいけど……)

 自分が理不尽に叩き出されたというのに、なぜか泣いていた麻里亜のことばかりが気にかかる。あんなに悲痛な顔をしていたのだから、きっと本当に大切なものがなくなってショックを受けているに違いない。誰かが掃除の時に、間違えて私のベッドの下に落としたのだろうか。

 ずぶ濡れの薄いブラウスが皮膚にべったりと張り付き、体温はとっくに奪い去られている。ガタガタと震える両膝を泥水に浸したまま、レンガ塀の暗がりでじっと息を殺していた。

 その時だった。

 ふと、アスファルトを打ち据える単調な雨のノイズに混じって、異質な音が鼓膜を叩いた。

「……っ、がはっ……」

 ひどく重く、くぐもった呻き声。空気を無理やり肺の奥底に押し込もうとして、気道が激しく詰まっているような、ひどく苦しげな呼吸音だ。

 びくっと肩を震わせ、泥水の中で顔を上げる。

 音のする方向へ視線を巡らせると、レンガ塀の影に、巨大な黒い塊がうずくまっていた。

 目を凝らす。

 野良犬ではない。

 異常なほど大柄な男だ。

 仕立ての良い漆黒のスリーピーススーツを着込んでいるが、その高級な生地は泥と埃にまみれ、あちこちが無残に引き裂かれている。男は濡れたレンガに背を預けるようにして座り込み、頭を力なく垂れ下げていた。

 関わってはいけない。こんな夜更けにうずくまっている正体不明の男に声をかけたりすれば、また父から「余計なことをした」と怒鳴られる。頭の中で小さく警鐘が鳴った。

 しかし、男の喉から漏れる掠れた咳は、限界を超えて気管が破れそうなほど切実だった。

 胸に抱えていた楽譜のバインダーを、雨を避けるようにレンガ塀の僅かな庇の下へそっと置く。

 気がつけば、泥水の中を這うようにして、男の正面に膝をついていた。

 間近で見ると、さらに大きい。座っているのに、顔の位置がこちらの胸元あたりにある。

「ひゅぅっ……はぁっ……」

 男の胸が、激しく上下している。近づくにつれて、鼻の奥を突くような強い匂いが漂ってきた。雨の匂いではない。古い鉄錆と、何かが焦げたような、息苦しくなるような匂いだ。

 男の裂けたシャツの隙間から、その匂いの発生源が見えた。胸の中央、深く抉られたような凄惨な傷口。そこから赤黒い血がとめどなく溢れ出し、周囲の雨水と混ざって足元へと流れ出している。その血溜まりから、先ほどの異様な熱気が立ち上っていたのだ。

(痛そう……それに、息が、できてない……)

 私にこんな致命傷はどうにもならない。救急車を呼ぶにも、携帯電話など持たされていない。

 迷っている間にも、男の分厚い胸筋が痙攣し、硬い指先がレンガの表面を削り取るように掻き毟っている。

 痛みを抱えて苦しむ人間を見ると、条件反射で手が動いてしまう。有栖川家で長年、雑用やマッサージ係としてこき使われてきたせいで、身体が勝手に反応してしまうのだ。

「あの……大丈夫、ですか。ひどい怪我……」

 震える声を絞り出し、そっと手を伸ばした。

 男の胸に開いた傷口のすぐ横へ這わせる。

 裂けたベストの生地越しに手のひらを当てた瞬間、ジュッ、と指先の皮膚が焼けるような熱を感じた。雨で冷え切っていた手のひらが、一瞬で沸騰しそうになる。

 熱い。でも、手を引っ込めることはできなかった。指先から伝わってくる男の筋肉が、激痛に耐えるようにカチカチに硬直しているのがわかったからだ。父の肩のしこりをほぐす時と同じように、無意識に親指の腹に力を込め、その硬い筋肉の強張りを押し流すようにゆっくりと撫でる。

 ――痛いの、少しでも楽になるといいな。

 声には出さず、ただ指先に少しだけ体重を乗せた。

 その瞬間だった。

 手のひらと、泥に塗れたスリーピーススーツの接着面から、奇妙なほど澄んだ空気が波紋のように広がった。

 血の匂いと焦げ臭さが、シュワシュワと微かな炭酸が弾けるような音を立てて溶けていく。冷たい雨の匂いと泥の臭気に混ざり合って、ふわりと、干したてのシーツのような、あるいは雨上がりの陽だまりのような清潔な匂いが周囲の空気を一気に塗り替えた。

 男の喉から漏れていた、気道が塞がったようなひどい呼吸音がピタリと止まる。

 手のひらの下で荒れ狂っていた不規則な脈拍が、嘘のようにゆっくりとした、しかし岩盤を打つような力強いリズムへと変わっていくのが皮膚越しにわかった。

「……っ?」

 不意に、力なく垂れ下がっていた男の頭がゆっくりと持ち上がった。

 雨水をたっぷり吸い込んだ漆黒の前髪。その奥から現れた顔を見て、ヒュッと喉の奥で息が止まった。

 泥と赤黒い血に汚れているはずなのに、思わず目を奪われるほどの圧倒的な造形だった。真っ直ぐに通った高い鼻梁、薄く形の良い唇、そして鋭利な刃物のように美しい顎のライン。長い睫毛に縁取られた深い黄金色の瞳が、街灯の乏しい光の中でガラス玉のように透き通った光を放っている。

 あまりにも整いすぎた顔立ちから放たれる、ひどく熱っぽくて暴力的なまでの美しさに、自分がずぶ濡れで泥水の中にいることすら忘れて、一瞬だけ頭の中が真っ白にショートしてしまった。

 ただ怖いだけじゃない。目を逸らすことすら許されないような、強烈な引力がそこにはあった。

 呆然と見惚れていた、その時だ。

 ガシッ!!

 万力、という表現すら生ぬるい。鋼鉄の枷を嵌められたかのような圧倒的な力で、右の手首が掴み上げられた。

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hana
hana
不器用な男が大好物な民ですが、さすが人外…不器用のレベルが違いすぎてフフッてなります。 瀬理亜も黎もピュアでとても良い。幸せになってほしいですね…
2026-04-11 22:26:26
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第1話 雨の夜の迷子①
 ――冷たいはずの深夜の雨は、ひどく生温かかった。 足元のアスファルトを叩きつける水しぶきを浴びながら、両腕で胸に抱え込んだ分厚いバインダーをギュッと握り直す。(どうして、こんなことになっちゃったんだろう……) 一時間前の出来事が、まだ頭の中でうまく処理しきれていなかった。 自室の狭いベッドの上で、いつものようにピアノの楽譜を眺めていた時のことだ。 有栖川家という名門の体裁を保つためだけに、お嬢様学校へ通い、一流の講師からピアノを習わされている。屋敷に帰れば家族の肩を揉む雑用係として扱われる毎日の中で、白と黒の鍵盤に触れている時だけが唯一の息抜きだった。 将来はこっそり家を出て、どこか普通の町で、近所の子供たちにピアノを教える先生になりたい。そんなごくありふれた夢を思い描きながら、注意書きで真っ黒になった楽譜を大切になぞっていたのだ。 そこへ突然、父が乱暴にドアを開け放って怒鳴り込んできた。背後には、ハンカチを顔に当てて泣きじゃくる妹の麻里亜と、ひどく不機嫌そうな継母の姿があった。『お姉様、どうしてこんなことを……っ。お母様の大切な宝石、欲しいなら、私に言ってくれればよかったのに』 何の話かまったく分からなかった。麻里亜が震える指で示したベッドの下から、メイドが空っぽのジュエリーボックスを引っ張り出した時も、頭の中にはてなマークが浮かぶだけだった。「あ、あの、麻里亜。一緒に探そうか? きっとどこかで……」 心配になって声をかけようと立ち上がった瞬間、視界が横に吹っ飛んだ。 火の出るような痛みが頬に走り、床に倒れ込んだところで、自分が父に力一杯平手打ちされたのだと気づいた。口の中に鉄の味が広がる。『言い訳など聞きたくない。手癖の悪い役立たずめ。頭を冷やしてこい!』 二の腕を乱暴に掴み上げられ、そのまま引きずられるようにして廊下を進み、土砂降りの裏庭へと放り出された。 あまりの急展開に呆然としたまま、両腕にはベッドで読んでいた楽譜のバインダーを、まるで命綱のように抱え込んだままだった。大切な紙が濡れないよう、咄嗟に前傾姿勢になって背中で雨を弾く。(麻里亜、大丈夫かな。お母様の大切な宝石、早く見つかるといいけど……) 自分が理不尽に叩き出されたというのに、なぜか泣いていた麻里亜のことばかりが気にかかる。あんなに悲痛な顔をしていたのだから
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第2話 雨の夜の迷子②
「痛っ……!?」  ミシミシと、骨が軋む鈍い音が耳の奥に響く。血流が一瞬で止められ、指先から血の気が引いていくのがわかった。 (だめ、指が……っ、痛い……!)  恐怖で奥歯がカチカチと鳴る。  男の黄金色の瞳が、ゆっくりと細められる。  その視線は、助けてもらった恩人の顔を見るものではなかった。こちらの値踏みをするような冷たさと、ドロドロとした暗い怒りが、縦に割れた瞳孔の奥でチロチロと燃え上がっていた。 「……有栖川の、淀んだ血の匂いがするな」  地鳴りのように低く、そしてひどく掠れた声だった。  男の太い指が、手首をさらにギリギリと締め上げる。手首の骨が悲鳴を上げ、思わず顔が苦痛に歪んだ。 「お前たち一族が、俺をあの薄汚い場所に縛り付けた。……お前たちの血に染み付いた、あの忌々しい『浄化の残り香』のせいでな」  言葉の意味がまったく理解できない。有栖川家がこの男を縛り付けた? 浄化の残り香? 「ようやく下界の準備を整え、目覚めたというのに……この街の猛毒に焼かれ、俺は這いつくばって、この淀んだ屋敷の敷地に逃げ帰るしかなかった。この数ヶ月、人間の発する忌まわしい空気の中で、肺が焼け焦げる痛みを味わわせてくれたな」 「あの、何の話ですか……私はただ、あなたが苦しそうだったから……っ、痛い、離して……」 「黙れ」  短い一言が、氷のように冷たく空気を切り裂いた。  ぐいっと、手首を強烈な力で手前へと引っ張られた。 「きゃあっ……!」  水溜まりの上で足が滑り、完全にバランスを崩す。そのまま、男の分厚い胸板へと真正面から激突した。  硬い。まるで分厚い岩盤に勢いよくぶつかったかのようだった。鼻先が潰れるほどの衝撃。痛みに顔をしかめる間もなく、男の丸太のように太い腕が、背中と腰にきつく巻き付いてきた。 「あ……ちょっ、何するんですか! 離して……っ」  両手を男の胸に突き立て、必死に押し返そうと体重をかける。しかし、巨体はピクリとも揺るがない。  雨をたっぷり吸い込んだ高級なウール生地のザラつき。そこから放たれる火傷しそうなほどの高体温が、ずぶ濡れになって冷え切った衣服を通り越して、皮膚の奥深くまでジリジリと焦がすように伝わってくる。  男の美しい顔がガクンと下がり、首筋の真横に深々と鼻先が押し付けられた。  スゥーッ、と。
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第3話 婚約破棄と追放①
 翌日。 昨夜の得体の知れない熱と恐怖に当てられたのか、終始ぼんやりと魂が抜けたような状態のまま、流行遅れの地味な色のドレスを着せられ、ホテルの宴会場へと連れ出されていた。 有栖川家と獅子王グループの結びつきを祝う、華やかな婚約パーティー。 控室から促されるままに入場し、親同士が取り決めた婚約者である獅子王 理恩(ししおう りおん)の隣に立った、その直後だった。 パリンッ! シャンパングラスの乾いた破砕音が、静まり返った宴会場に響き渡った。 足元に散らばる鋭いガラス片よりも冷たいのは、こちらを見下ろす百人以上の招待客たちの、嘲笑と侮蔑を含んだ視線だ。「君との婚約は、今日この場をもって破棄させてもらう」 天井から降り注ぐシャンデリアの眩い光の下。オーダーメイドの黒いタキシードを完璧に着こなした理恩が、氷のように冷たい声で言い放った。細い指先には、中身を失ったクリスタルグラスの柄が力強く握られている。 ヒュッと、短く息が詰まった。肋骨を限界まで締め上げる時代遅れのドレスのコルセットのせいなのか、突然の言葉に脳が酸素の供給を止めたのか、声が出ない。「お姉様……ひどいわ……っ」 すぐ横で、甘ったるく人工的なローズの香水の匂いがふわりと舞い上がった。妹の麻里亜だ。 淡いピンク色の華やかなドレスの胸元を両手で押さえ、大きな瞳からポロポロと大粒の涙をこぼしている。「私、ただ理恩様にお祝いの言葉を伝えていただけなのに……どうして、あんなひどいことをするの……っ?」 震える声が、マイクを通したかのように静寂の会場によく響いた。「ひどいこと……?」 ようやく絞り出した声は、ひび割れて掠れていた。麻里亜に手出しなどしていない。ただ控室から出てきて、隣に立っただけだ。「とぼけるな、セリア」 理恩が麻里亜の華奢な肩を庇うように抱き寄せ、こちらを睨みつけた。整った顔立ちが、汚物でも見るかのように嫌悪で歪んでいる。「麻里亜から聞いたぞ。お前が昨夜、義母上の宝石を盗み出したそうじゃないか」「えっ……?」「さらに今日は控室で、麻里亜のドレスをハサミで切り裂こうとしたと。『私より目立つな』と罵りながらな。嫉妬で狂って妹を傷つけようとするとは、どこまで卑しいんだ」 目の前がチカチカと点滅した。宝石を盗む? ドレスを切り裂く? そんな危ないものを持ち歩くわけ
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第4話 婚約破棄と追放②
 向かう先は、誰も寄り付かない本邸の最下層だった。 軋む木製の階段を下り、さらにその奥にある、むき出しのコンクリートの階段へと足を踏み入れる。一段下りるごとに、空気が急激に冷え込んでいくのが肌でわかった。雨の湿気とは違う、何十年も澱んだままの、カビと埃が混ざったような不快な匂いが鼻腔を塞ぐ。 地下二階に相当する深さ。そこの突き当たりに、分厚い木製の扉で仕切られた古い地下室があった。使われなくなった家具やガラクタが放り込まれるだけの、暗く冷たい物置部屋だ。 黒服の男が重い扉を引き開け、背中から突き飛ばした。「ああっ……」 冷たいコンクリートの床に膝を打ち付け、ドレスの裾が埃まみれになる。 振り返ると、階段を下りてきた父が見下ろしていた。「獅子王家との繋がりは、麻里亜に引き継がせる。お前のような何の役にも立たない女は、もう表舞台に出る必要はない」「お父様……嘘です、私、本当にハサミなんて持ってなくて……」「言い訳など聞きたくない。食事は一日一回だ。そこで自分の無能さを噛み締めて反省しろ」 バタンッ! と鼓膜を劈くような音が鳴り響き、分厚い扉が閉ざされた。外側からガチャリと重い鍵が回される。 磨き上げられた革靴が向きを変え、コンクリートの階段を上っていく規則正しい足音が、徐々に小さくなっていく。 完全な静寂が落ちた。 窓一つない地下室には、外の光は一切差し込まない。コンクリートの壁からは冷気が染み出し、床の底冷えがドレス越しの肌の熱を急速に奪っていく。 両膝を抱え込み、埃っぽい床に座り込んだ。 父は「食事は一日一回」と言い捨てたが、その最低限の約束すら守られることはなかった。 閉じ込められてから何日が経ったのか。時間の感覚がすっかり麻痺してしまっていた。 一日目か、二日目のことだったか。扉の下の僅かな隙間から、プラスチックの皿が滑り込んできた。しかし、その上に乗せられていたのは、カチカチに乾燥したパンの切れ端と、ひっくり返されて空になった紙コップだけだった。 胃袋はとっくに空っぽになり、痙攣するような痛みを通り越して、今はただ鈍い鉛を飲み込んだような重さだけがある。喉の渇きが酷い。ひび割れた唇を舐めても、血の味が滲むだけで何の潤いにもならなかった。 体温を保つためのエネルギーすら枯渇し、手足の指先は氷のように冷たくなっている。 完
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第5話 黒竜との出会い①
 ふわりと、胃の腑が宙に浮くような奇妙な感覚があった。 意識が完全に漆黒の底へと沈み込む、まさにその境界線のことだった。冷たすぎるコンクリートの床に投げ出されていたはずの身体が、抗いようのない圧倒的な力で掬い上げられていた。 膝の裏と、肩甲骨のすぐ下。二箇所に差し込まれた太く硬い腕が、カビと埃にまみれた古いドレスごと、軽々と身体を抱え上げている。 ひび割れた唇から、声にならない微かな呼気が漏れた。 顔のすぐ横に、岩盤のように分厚く硬い胸板があった。地下室の澱んだカビの臭気を一瞬で塗り替えるほどの、むせ返るような強い匂い。雨の湿気と、獣の上質なウール、そして微かな古い鉄錆の匂いが混ざり合った、ひどく熱を持った匂いが鼻腔の奥深くまで侵入してくる。 極度の飢餓と脱水で完全に冷え切り、感覚すら失いかけていた頬に、じりじりとした火傷しそうなほどの熱が伝わってきた。 抱き上げている男の体温だった。厚手のスリーピーススーツ越しだというのに、その異常なほどの高体温が、凍えた皮膚の表面を突き破り、血管の奥へと痺れるような速度で浸透してくる。 重い瞼をわずかに持ち上げる。 すぐ頭上に、濡れた漆黒の前髪と、鋭利な刃物のような顎のラインが見えた。 あの雨の夜、裏庭の暗がりで苦しそうに血を吐いていた、規格外に巨大な男だった。 どうして、彼がここにいるのか。 思考を回そうとするが、酸素不足の脳はひどく鈍く、まともな答えを弾き出してはくれない。「……っ、げほっ」 喉の奥にへばりついた土埃を吐き出そうとして、掠れた咳が漏れた。 その瞬間、抱え上げている巨大な腕の力が、ギリッと一段階強くなった。肋骨が軋み、肺に残っていた僅かな空気が押し出されるほどの強いホールド感。落とさないように抱えているというよりは、獲物を絶対に逃がさないように拘束していると表現した方が正しい、容赦のない力加減だった。 男の硬い革靴が、砕け散った木製扉の残骸を踏み砕き、コンクリートの床を蹴る。 コツ、コツ、という重く規則正しい足音が、狭い地下の階段に反響し始めた。 彼が一歩を踏み出すたびに、分厚
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第6話 黒竜との出会い②
 顔を上げる体力すらなかったが、周囲の空気が一瞬にしてマイナス数十度まで凍りついたのが肌でわかった。 暴力的なまでのプレッシャー。物理的な手出しを一切していないにも関わらず、ただそこに立って見上げているだけで、空間の酸素が根こそぎ奪い去られたような錯覚に陥る。「……道を空けろ」 地鳴りのように低く、一切の感情を排した声が、階段の踊り場に響き渡った。「ヒッ……あ、が……っ」 黒服の男の喉から、声にならない引き攣った悲鳴が漏れた。 ガチャン、と硬いものが階段を転がり落ちる音。次いで、膝から崩れ落ちるような鈍い音が複数重なった。 有栖川家に雇われた程度の警備員では、この男が放つ「本物の殺気」――いや、自分たちとは次元の違う上位存在の気配を前に、生物としての本能が完全に警鐘を鳴らし、立っていることすらできずに這いつくばるしかなかったのだ。 男は再び歩き出す。 泡を吹いて気絶しかけている黒服たちを一瞥することもなく、まるで路傍の石ころを踏み越えるかのように、淡々と階段を上りきった。 ◇ ギィィ、と重い裏口の金属扉が開く音がして、突然、頬に冷たい夜風が吹きつけた。 地下特有のカビの臭気が一掃され、雨上がりの土の匂いと、微かな排気ガスの匂いが鼻をくすぐる。 外に出たのだ。 閉ざされた地下室から、どれくらいぶりに外の空気を吸ったのか見当もつかない。 男の腕の中で小さく身をよじり、重い瞼をこじ開けて周囲の景色を見た。 そこは、有栖川家の本邸の裏庭だった。あの日、彼と出会ったのと同じ、暗く冷たい芝生の上。 迎えの車でも停まっているのかと視線を巡らせたが、暗がりには何もなかった。ただ、冷たい風が木々の枝を揺らしているだけだ。 男は裏庭の中央で立ち止まると、ふと、空を見上げた。「しっかり掴まっていれ」 頭上から降ってきた低い声に、思考が追いつくよりも早く。 男の太い腕が背中と膝裏をさらに強く締め上げ、私の身体が、彼の岩のような胸板に完全に密着させ
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第7話 黒竜との出会い③
 冷たい夜風が容赦なく肌を刺すはずだった。 しかし、私を抱え込む男の身体から発せられる熱気が、奇妙なほど温かい見えないドームのように周囲を覆い、強烈な風圧のほとんどを弾き飛ばしていた。 眼下には、オレンジと白の光の海。 東京の眩い夜景が、まるで精巧なジオラマのように広がっていた。 雲のすぐ下を、身一つで飛んでいる。現実の物理法則を完全に無視した光景。極度の飢餓と寒さが見せている幻覚だろうか。「……目を開けろ」 頭上から、風の音に負けない明瞭な声が響いた。 恐る恐る顔を上げると、夜空を背景にして、男の顔がすぐ近くにあった。「俺のことは、黎……御影 黎(みかげ れい)と呼べ。それが、俺がこの現代で名乗っている名前だ」 黎。 その名前を頭の中で反芻する。 彼を見つめ返した瞬間、ヒュッと喉の奥で息が止まった。 間近で見る彼の瞳は、もはや人間のそれではなくなっていた。 輝く黄金の月を真っ二つに切り裂いたような、人知を超えた鋭い縦長の瞳がこちらを見据えている。その瞳の奥には、ドロドロとした暗い熱と、人間という脆い生き物を遥か高みから見下ろすような、根源的な傲慢さが揺らめいていた。 さらに、私を抱える彼の手の甲や首筋の皮膚の下に、一瞬、黒い鱗のような硬質なテクスチャが浮かび上がり、再び消えていくのが見えた。 熱い。彼から放たれる体温は、ただの人間の熱ではなかった。内側から燃え盛る巨大な炉心のような、触れれば灰も残らないほどの暴力的な熱量。「怖いか? 俺が」 黎の黄金の瞳が、面白がるように、しかしどこか試すように細められた。 縦に割れた瞳孔が、私の恐怖を値踏みするように見つめている。「あなたは……人間じゃ、ない……?」 震える声で絞り出した問いに、黎は喉の奥で低く笑った。「人間だと名乗った覚えはない。かつて人間どもは、空を統べる俺の同族を『竜』と呼んで恐れたがな。……最も穢れ、忌み嫌われた黒
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第8話 黒竜との出会い④
 お父様にとっての「雑用係」。理恩にとっての「見栄えのいい飾り」。 そしてこの人外の化け物にとっては、「呼吸をするための空気清浄機」。 どれだけ環境が変わっても、私の本質的な価値は「誰かの役に立つ道具」でしかないという事実は変わらない。役に立たなくなれば、またあの暗い地下室に、あるいは別のゴミ捨て場にポイと捨てられるだけだ。 自己肯定感の低さが、思考を真っ黒な沼へと引きずり込んでいく。 でも。 恐怖で奥歯がガタガタと鳴り、彼から放たれる熱と威圧感に押し潰されそうになりながらも。 私は、黎のスーツの胸ぐらを握りしめていた指先の力を、決して緩めなかった。 たとえ道具としての価値しかなくても、この恐ろしい化け物は、私を「必要だ」と言ってくれた。「お前が死ねば、俺も苦しむ」と、そこまでの強烈な依存をぶつけてくれたのだ。 生まれてから一度も、誰かからそんなに強く、暴力的なまでに求められたことなどなかった。 たとえそれが歪んだ執着であり、自己中心的な生存本能の裏返しであったとしても。 今の私にとっては、彼のその強圧的な宣告だけが、この世界に辛うじて繋ぎ止めてくれる唯一の蜘蛛の糸のように思えた。「……わかり、ました」 私は震える顔をわずかに上げ、縦に割れた黄金の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。「私が、黎様の役に立てるのなら……傍に、います」 掠れた声で、精一杯の強がりを口にする。 黎は少しだけ目を見開いた。獲物が恐怖で泣き叫ぶとでも思っていたのだろうか。 やがて、彼は「フン」と短く鼻を鳴らした。「物分かりが良くて助かる。有栖川の淀んだ血を引く女だから、もっと喚き散らすかと思ったがな」 黎はそう言い捨てると、再び視線を前方へと向け、夜の雲を突き抜けてさらに加速した。 強烈な風切り音と、耳元で響く黎の力強い心音。 スーツ越しに伝わってくる火傷しそうなほどの高体温が、私の芯まで冷え切った身体を、外側から強引に溶かしていく。(……道具、なんだよ
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第9話 夜空のフライトと、六本木の鳥籠①
 吹き荒れていた猛烈な風の音が、不意に鼓膜のすぐ外側でふっと途切れた。 胃袋がふわりと持ち上がるような、エレベーターが下降する時特有のあの浮遊感が全身を包み込む。 まどろみかけていた意識が、急激な気圧の変化と重力の移動によって強引に現実へと引き戻された。閉じていた重い瞼をこじ開けると、視界の端でオレンジ色の街灯が勢いよく上へと流れていくのが見えた。 落ちている。 そう認識した瞬間に悲鳴を上げそうになったが、背中と膝裏をホールドしている太い腕の強固な拘束が、それが墜落ではないことを理屈よりも先に細胞へ叩き込んでいた。 タンッ、と。 呆気ないほど静かな着地音が、暗がりに響いた。 ビルの数十階はあろうかという高空からの自由落下だったはずなのに、衝撃は膝の関節がわずかに沈み込んだだけで完全に吸収されていた。私を抱き抱えている黎の強靭な肉体が、常識外れのバネとなってすべての物理的な負荷を殺したのだ。「……着いたぞ」 頭上から降ってきた低い声に、私はビクッと肩を震わせた。 そっと顔を上げると、そこは高いコンクリートの壁に挟まれた、ひどく薄暗く、じめじめとした路地裏だった。むせ返るようなゴミの腐敗臭と、雨上がりのアスファルトの匂いが鼻を突く。つい先ほどまで肺を満たしていた、冷たく澄んだ上空の空気とはまるで違う、淀みきった都会の底の匂い。 黎の腕の力がふっと緩み、私の足の裏が冷たく濡れた地面に触れた。 しかし、数日間も水すらまともに飲まず、地下室の床に転がっていただけの筋肉は、自身の体重を支えることすら拒絶した。「あっ……」 膝からカクンと力が抜け、そのまま泥水溜まりへと崩れ落ちそうになる。 咄嗟に目を閉じたが、冷たい泥水が頬を打つことはなかった。 強靭な指先が、私の二の腕を万力のような力で掴み上げ、強引に引き留めていたからだ。「チッ。自分の足で立つこともできないのか」 黎が苛立ったように舌打ちをする。 見上げると、街灯の乏しい光の下で、鋭利な刃物のように真っ直ぐ縦に割れた黄金の瞳が、私を冷ややか
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第10話 夜空のフライトと、六本木の鳥籠②
 路地裏のどん詰まりには、錆びついた分厚い鉄の扉があった。  看板も何もない。ただ、扉の隙間から、ひどく淀んだタバコの煙の匂いと、微かな機械の駆動音が漏れ聞こえてくる。  黎はノックなどしなかった。  空いた方の手で扉の取っ手を無造作に掴むと、ミシッ、という不吉な金属音とともに、鍵のかかった鉄扉を力任せに引き開けたのだ。蝶番が悲鳴を上げ、歪んだ金属片がパラパラと足元にこぼれ落ちる。 「……なんだテメェ!」  扉の奥から、怒声が飛んできた。  そこは、薄暗い蛍光灯に照らされた地下駐車場の跡地のような空間だった。無造作に置かれた折りたたみ机には、ノートパソコンと札束の山。その周囲を、安っぽいスーツを着崩したガラの悪い男たちが数人、タバコを吹かしながら囲んでいた。  裏社会の換金所、あるいは非合法な資金の隠し場所。有栖川家の箱入り娘として生きてきた私でも、ここがまともな場所ではないことくらいは肌で理解できた。  男たちが一斉に立ち上がり、懐から黒光りする鈍器や刃物を引き抜く。  空気が一瞬で張り詰め、私は恐怖で思わず黎のスーツの胸ぐらをきつく握りしめた。 「ひっ……」  私の喉から漏れた小さな悲鳴を聞きつけたのか、男たちの一人が下卑た笑いを浮かべた。 「おいおい、どこの誰か知らねえが、ずいぶんといい女連れてるじゃねえか。迷子なら、俺たちがたっぷり可愛がって……」  その男の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。  ドンッ! !  空気が爆発したかのような鈍い音が響いた。  黎が一歩、ただ前に足を踏み出しただけだ。  それだけで、空間の酸素が根こそぎ奪い去られたような、圧倒的なプレッシャーが地下室全体を押し潰した。男たちの顔から一瞬で血の気が引き、全員の動きがハエが止まったように硬直する。 「……数ヶ月前に手配させておいた、俺の資産を出せ。手筈はとうに整っているはずだ」  地鳴りのように低く、一切の感情を排した声。  怒りすら含んでいない、ただ事実だけを述べる傲慢な響き。それが逆に、彼と底辺の小悪党たちとの、生物としての決定的な「格の違い」を浮き彫りにしていた。  机の奥で震えていた初老の男が、顔面を蒼白にしながら這いつくばるようにしてジュラルミンケースを二つ、床に滑り出させた。 「ひ、ひぃっ……! 御影、様……っ。お、お待ちし
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