呼吸を楽にするための機能を持たない、ただの無能な人間に戻ってしまったら。 あの人は、それでも私の名前を呼んでくれるだろうか。『苦しくても……お前がいい』 昨夜のあの言葉は、痛みを堪えきれなくなった錯乱のせいだと言い捨てられたばかりだ。 力の無い私が、あの巨大な黒竜の隣に立つ理由なんて、どこにも残らなくなってしまうのではないか。「……お断りします」 沈黙の海から浮上するように、ようやく言葉を絞り出した。 ヴィクトルの完璧な微笑みが、ほんのわずかだけ、数ミリだけ形を歪める。「私の力は、誰かに抽出されて使われるためのものじゃありません。命が削られても……私が、自分で決めて使うものです」「なるほど。自己犠牲の精神ですか。美しいですが、ひどく愚かだ」 ヴィクトルはため息をつき、静かに首を横に振った。「あなたが今のままあの怪物の隣に留まれば、結果は二つに一つです。あなたが灰になるか、あるいは……限界を超えた怪物が、その本能のままにあなたを骨ごと食い尽くすか」 背筋に、氷を滑り込ませられたような悪寒が走る。 昨日の夜、黎自身が恐れていたこと。 自分の理性が吹き飛び、私の熱に食らいついてしまうかもしれないという、人外としての圧倒的な飢餓感。「私は……」「言葉で飾るのは簡単です。しかし、あなた自身の肉体は、すでに限界の悲鳴を上げている」 ヴィクトルの視線が、再び右手の指先へと突き刺さる。「あの有栖川の呪具のネットワークは、確かに物理的には破壊されたかもしれない。しかし、あなたの魂の回路には、長年繋がれていた見えない管の傷跡が残っている。そこに力が通るたびに、不快なノイズが走るはずだ。放置すれば、いずれその傷口からあなたの自我そのものが腐り落ちる」 言い当てられた事実に、反論の言葉が喉元で詰まる。 ピアノの鍵盤にこびりついていた、あの黒い靄。 黎が唇で焼き切ってくれた時の、あのチリチリとした焼
Last Updated : 2026-06-17 Read more