All Chapters of 追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません: Chapter 171 - Chapter 180

206 Chapters

第171話 ペントハウスに届いた黒いピアノ④

「……良い音だ」 背後から、黎の静かな声が降ってきた。「はい……」 両手を鍵盤の上に下ろす。 十本の指が、それぞれの鍵盤に吸い付くように馴染んでいく。 頭の中に、ずっと眠っていた楽譜が次々と浮かび上がってきた。 誰かに聞かせるためではない。 自分のための音。 ゆっくりと、息を吸い込む。 そして、指先を滑らせた。 滑らかなアルペジオが、滝の水が流れ落ちるように、低音から高音へと駆け上がっていく。 重厚な低音が腹の底に響き、きらびやかな高音が天井のシャンデリアを微かに震わせる。 完璧に調律された音の波が、リビングの空気を満たし、色鮮やかなタペストリーのように空間を織り上げていく。 指が、記憶の通りに動く。 いや、記憶よりもずっと自由に。有栖川の屋敷で感じていた、あの窮屈な見えない枷がすべて外れ、鳥が空を飛ぶように、軽やかに鍵盤の上を舞う。 和音を叩くたびに、腕から肩へ、そして胸の奥へと、心地よい振動が伝わってくる。 自分が生きているという感覚。 自分が、自分自身のままでここに存在していいのだという確信。 視界が、不意にぐにゃりと歪んだ。 鍵盤の白と黒の境界線が滲み、水滴が一つ、右手の中指のすぐ横にポタリと落ちた。 涙だった。 悲しいわけじゃない。怖いわけでもない。 ただ、胸の奥から湧き上がってくる熱いものが、どうしようもなく溢れ出して止まらない。 音を途切れさせたくなくて、唇を強く噛み締めながら指を動かし続ける。 ボロ、ボロと、大粒の涙が鍵盤の上に落ち、冷たい表面を濡らしていく。 背後で、衣擦れの音がした。 次の瞬間、演奏する両腕を外側から包み込むようにして、大きな身体が背中に密着した。 黎の腕が、肩から胸元を通り、そっと抱きすくめるように回される。 広い胸元の熱が、薄いパジャマ越しに背中全体へと伝わってきた。「……無理に弾くことはない。泣
last updateLast Updated : 2026-06-03
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第172話 ペントハウスに届いた黒いピアノ⑤

 黎の吐息が、頭頂部の髪を揺らす。  泣きじゃくるのをやめ、黎のシャツの胸元で小さく鼻をすする。 「黎様」 「なんだ」 「ありがとうございます。……私、このピアノ、すごく好きです」 「そうか」  短い返事。けれど、声はひどく満足そうだった。 「なら、毎日弾け。俺の耳が腐るまで、その音を聞かせてみろ」  乱暴な言い回しに、思わず小さく吹き出してしまう。  涙で濡れた顔を上げると、黎の顔がすぐ近くにあった。  黄金色の瞳が、少しだけ細められ、今まで見たこともないような穏やかな光を湛えている。  鳥籠だったはずのこの場所が。  逃げ出せない檻だったはずのこの空間が。  今、はっきりと、「帰る場所」へと変わった瞬間だった。 ◇ それから数時間後。  リビングに差し込む光が、少しだけ傾き始めた頃。  ソファで仕事の書類に目を通す黎の邪魔にならないよう、極めて小さな音で、鍵盤に触れ続けていた。  新しい曲のフレーズを思い出し、指に馴染ませるための反復練習。  弾けば弾くほど、ピアノの音は空気の中に溶け込み、部屋全体が透明な水に満たされていくような錯覚を覚える。  タン、タロ、タン……。  細かなアルペジオの粒が、光を反射してキラキラと舞うような感覚。  心地よい疲労感が指先に溜まっていくのがわかる。  しかし。  ある和音を強く押し込んだ瞬間。  指先から、バチッという微かな静電気が走ったような気がした。 (……え?)  気のせいかと思い、もう一度同じ和音を弾く。  今度は、音の振動とともに、指の腹から何か温かいものが「吸い出される」ような感覚があった。  ピアノの音が、耳の奥で不自然に反響する。  クリアだったはずの音が、少しだけ、本当に微かに、白く濁って聞こえた。  同時に、足元からフワリと重力が抜けたような、奇妙な浮遊感。  視界の端が、暗く波打つ。 「……ん……っ」  喉元で、小さな声が漏れる。  鍵盤の上に
last updateLast Updated : 2026-06-04
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第173話 音色に混じる黒い靄①

 視界の端から、色が抜け落ちていく。 先ほどまで鮮明だったグランドピアノの黒い鏡面も、窓から差し込む冬の柔らかな日差しも、すべてが真っ白な光のノイズに呑み込まれていくようだった。 指先が、鍵盤の冷たさを感じない。 座っているはずのピアノ椅子の固さすら、ふわりと消え失せた。(……あ、落ちる) 頭の芯がぼんやりとそう認識した瞬間、身体が横へ大きく傾いた。 重力に引かれ、上半身が鍵盤に向かって無防備に倒れ込んでいく。白い象牙と黒い黒檀の並びが、スローモーションのように眼前に迫ってきた。 顔面から激突する、と目を固く閉じた直後。 バァァァンッ! 巨大な不協和音が、ペントハウスの広いリビングルームに爆発したように響き渡った。 だが、顔に硬い鍵盤が当たる痛みは来なかった。 代わりに、右の頬に押し当てられたのは、微かに汗ばんだ上質なコットン生地と、焼けつくほど高い体温を持つ分厚い肉の壁だった。「……っ、おい!」 頭の上から、裂帛の気合のような怒号が降ってくる。 身体の裏側に逞しい腕が滑り込み、鍵盤に突っ伏す寸前の身体を、強引な力で真上へと引きずり上げたのだ。 黎の腕だった。 先ほどまでソファで書類に目を通していたはずなのに、床を蹴る音すらさせずに背後へと回り込み、ピアノの縁ごと身体を受け止めたらしい。 ガシャガシャと、無数の弦が共鳴する余韻が耳の奥で鳴り続けている。「息をしろ! 喉が詰まっているぞ!」 黎の荒々しい声。 肩を強く揺すられ、ハッと息を吸い込んだ。 ツン、と。またあの、酸素濃度が高すぎる部屋で深呼吸をしたような、肺の奥を針で刺される痛みが走る。「こほっ、けほっ……」 乾いた咳が連続して漏れた。 黎の黄金色の瞳が、恐怖に見開かれたままこちらを覗き込んでいる。その額には、うっすらと脂汗が滲み、シャツの襟元が乱れて呼吸が激しく上下していた。「……ごめんな、さい。急
last updateLast Updated : 2026-06-04
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第174話 音色に混じる黒い靄②

 息を大きく吐き出し、ソファの背もたれに身体を預ける。 身体のどこかが痛いわけではない。熱が出た時のように、関節が重いわけでもない。 ただ、指先から手首にかけて、奇妙な虚脱感が広がっている。まるで、細いストローを血管に刺され、ごくわずかな量の血を抜き取られた後のような、微細だけれど確かな喪失感。「……弾きすぎだ」 黎が、空になったグラスをテーブルに叩きつけるように置いた。「熱が下がったばかりだというのに、何時間も音を鳴らし続けるからだ。あれは明日、返品する」「待ってください! 返品なんて……っ」 慌てて身を乗り出そうとすると、黎の大きな手が肩を強く押さえつけた。「お前を倒れさせるような家具に用はない」「ピアノのせいじゃありません。私が……弾いた時に、ちょっと変だったんです」 黎の眉間に、深い皺が刻まれた。 瞳が、探るように細められる。「変、だと?」「はい……。ある和音を、少し強く弾いた時に。指先から、パチッて静電気が走ったような気がして」 言葉を探しながら、膝の上で両手を擦り合わせる。 まだ、右手の指先に、あのピリピリとした不快な痺れが残っている。「それから、音が……濁ったんです。白く濁って、すごく息苦しくなって。指の腹から、何か温かいものが、すっと吸い出されるみたいに……」 説明しながら、自分でも何を言っているのかよくわからなくなってきた。 ただの疲れかもしれない。熱上がりで神経が過敏になっているだけかもしれない。 しかし、言葉を聞いた瞬間。 黎の周囲の空気が、ピタリと凍りついた。 ソファの横に片膝をついていた黎の身体から、一切の動きが消える。黄金色の瞳の奥で、カチリと何かのスイッチが切り替わったような、鋭く、剣呑な光が点灯した。「……指を出せ」 地を這うような低い声。「え?」
last updateLast Updated : 2026-06-05
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第175話 音色に混じる黒い靄③

 黎の黄金色の瞳が、怒りで氷点下にまで冷え込む。「……やはりな。あのクズ共の呪いが、まだお前の身体にこびりついている」 黎が、忌々しげに舌を打った。「そんな……だって、あの時、桐箱は完全に壊れて……」「元栓を破壊したところで、長年お前の内側に根を張っていた管の切れ端が、完全に消え去るわけではないということだ」 黎は指先を掴んだまま、低い声で事実を並べ立てた。「あの地下で、お前は自分の力を極限まで放出した。その時、枯渇したお前の回路の奥底に、破壊された呪具の残滓が、微細な塵となって入り込んだのだろう」「塵……」「普段は息を潜めている。だが、お前がピアノを弾き、あの浄化の力を無意識に指先から外部へ放出しようとした瞬間、その力の流れに混じって表面に浮かび上がってきた。そして、お前の力を吸い出そうとした」 背筋を、冷たいものが滑り落ちる。 有栖川の呪いは、まだ終わっていなかった。 あの屋敷から逃げ出し、過去を清算したつもりでいたのに、私の身体の一番深い部分には、まだあの泥のような匂いがこびりついている。 その事実に、胃の底がひんやりと重くなった。「……どうすれば、消えるんでしょうか」 震える声で尋ねる。 せっかく手に入れた、自分の音。 黎が用意してくれたピアノを弾くたびに、有栖川の呪いが顔を出すというのなら、私はもう二度と、あの鍵盤に触れることができない。 黎は何も答えない。 ただ、眉間に深い皺を刻んだまま、掴んだ右手をじっと見つめ続けていた。 やがて。 黎の大きな手が、掴んでいた右手をゆっくりと自分の方へと引き寄せた。 そして、顔を少しだけ下に傾ける。「え……黎様?」 何が起きるのか理解する前に。 黎の唇が、右の中指の先端に、そっと押し当てられた。「……っ!?」 全身
last updateLast Updated : 2026-06-05
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第176話 音色に混じる黒い靄④

「あ、あの、でも……汚い、ですし……」 恥ずかしさで頭が真っ白になりながら、必死に言葉を絞り出す。「お前の身体のどこに、汚い場所がある」 黎は一度唇を離し、真顔で言い切った。 そして間髪入れず、今度は人差し指の先端を唇で挟み込む。 ハムッ、という柔らかな音。 黎の熱い吐息が、指の付け根にまで吹きかかり、背筋にゾクゾクとした粟立ちが走る。 ソファの上で、身体が小さく跳ねた。 黎はまったく気にする様子もなく、人差し指の腹を舌で執拗に舐め上げ、微かに残る黒い靄を探り当てては、熱で焼き切っていく。 静かなリビングルームに、衣擦れの音と、黎の微かな吐息、そして指を舐める生々しい水音だけが響き渡る。(こんなの……心臓が、持たない……っ) 空いている左手でソファのクッションを力一杯握りしめ、目を固く閉じる。 指先という、神経が集中している場所。 そこを、極めて繊細に、かつ抗いようのない力強さで愛撫されているような感覚。 黎にとっては単なる「治療」や「解毒」のつもりなのだろう。その証拠に、彼の手つきに卑猥ないやらしさはなく、どこまでも真摯で、少しの塵も残さないという執念に満ちている。 だが、される側としては、指の腹を舌で転がされ、犬歯で軽く甘噛みされるたびに、お腹の奥のほうがギュンと熱く締め付けられるような、未知の感覚に襲われていた。 薬指、小指。 一本ずつ、丁寧に、執拗に。 黎の銀色の前髪が、時折手の甲をくすぐり、たびにビクンと肩が震える。 最後に、親指。 黎は親指の第一関節までをすっぽりと口の中に含み、強い力で吸い上げた。「んん……っ!」 声にならない悲鳴が漏れる。 ジュッ、と今日一番の熱が指先に走り、微かに焦げたような匂いが鼻を突いた。 黎がゆっくりと唇を離す。 銀色の糸が微かに引き、すぐにぷつりと切れた。 黎は口元を手の甲で
last updateLast Updated : 2026-06-06
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第177話 音色に混じる黒い靄⑤

 結局、抗いようのない力差には敵うはずもなく、あっさりと左手首を捕獲されてしまった。「暴れるなと言っているだろう」 黎は呆れたようにため息をつきながら、再び顔を傾け、左の小指の先端を唇に含んだ。「あう……っ」 もう抵抗を諦め、クッションに顔を埋める。 チュッ、チュッという音が繰り返されるたびに、顔から火が出てそのまま灰になってしまいそうだった。 すべての「治療」が終わる頃には、すっかり息が上がり、ソファの上でぐったりと力尽きていた。 両手の指先は、黎の熱と唾液で赤く艶を帯び、ジンジンと脈打っている。 黎は満足げにうなずき、立ち上がった。「これで、しばらくは表面に出てくることはないだろう」 言葉に、少しだけ安堵の息を吐く。 しかし、黎の表情はすぐに元の険しいものへと戻った。「だが、根本的な解決にはなっていない。あの屋敷の呪いが、お前の深い部分でまだ繋がっているという証拠だ」 黎の黄金色の瞳が、窓の外の灰色の空を睨みつける。「俺が直接、あの有栖川の連中の息の根を止めてくれば、すべての繋がりは物理的に断たれるはずだが」「ダメです。犯罪者になっちゃいます」 ソファから顔を半分だけ出し、即座に却下する。「犯罪者? 人間の法など俺には適用されない」「私に適用されます。黎様が捕まったら、私が面会に差し入れとかしなきゃいけなくなりますから」「……お前の思考回路は時々、妙に現実的だな」 黎がふんと鼻を鳴らし、乱暴に髪を掻き上げた。「まあいい。今はまだ泳がせておく。だが、もしこれ以上、お前の指先から力を吸い出そうとする真似をすれば、その時は本当に屋敷ごと更地にする」 黎の言葉には、一片の冗談も混じっていなかった。 背中を見つめながら、両手を胸元でぎゅっと握りしめる。 指先には、まだ黎の唇の熱が鮮明に残っている。 有栖川の呪いが残っているという事実は、確かに怖い。 でも、もう以前のように、ただ震えて縮こまるだけの自分では
last updateLast Updated : 2026-06-06
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第178話 触れたいのに、触れられない①

 象牙色の白鍵と、黒檀の黒鍵。 その境界線にべっとりと張り付いた、カビのような黒い靄の跡。 指先を伸ばしかけたその時。 背後から、熱を帯びた大きな影が覆い被さってきた。 バァァァンッ!! 巨大な爆発音のような轟音が、ペントハウスの広いリビングに響き渡った。 黎の分厚い掌が、上部に開いていたピアノの鍵盤蓋を、一切の容赦なく叩き落としたのだ。重い木材同士が激突し、ピアノの内部で無数の弦がワァン、ワァンと悲鳴のように共鳴し続ける。 風圧で前髪が大きく揺れ、鼻先をスパイシーな怒りの匂いが掠めた。「……やはり、弾くべきではなかったな」 頭上から降ってきたのは、地鳴りのように低く、冷え切った声だった。 振り返ると、黎が眉間に深い皺を刻み、黄金色の瞳で閉ざされた鍵盤蓋を睨みつけている。その横顔は、彫刻のように硬く強張っていた。「明日、購入先に連絡を入れる。業者の手配がつき次第、こんなガラクタは引き取らせる」 黎は吐き捨てるように言い、長い脚を翻して窓際へと歩き出そうとする。「待ってください!」 思わず、閉ざされたピアノの蓋の上に両手を広げ、覆い被さるようにして立ちはだかった。 黒く艶やかな塗装の表面に、自分の手のひらがピタリと張り付く。ひんやりとした木の感触。「返品なんて……嫌です。せっかく、届いたのに」 黎の足が止まる。 ゆっくりと振り返ったその瞳には、血走ったような痛々しい色が浮かんでいた。「あれを見たはずだ。お前が指先から流し込んだ力の跡に、あの屋敷の呪いが吸い寄せられてこびりついていた。お前の命を吸い上げるための管が、まだお前の内側に潜んでいる証拠だ」「でも……っ、私が、弾く時に気をつければ。無意識に力が出ないように、ただ音を鳴らすだけなら……」「無意識に漏れ出すものを、どうやって制御するというんだ」 黎の低い声が、容赦なく反論を切り捨てる。「お前はあの地下で限界まで力を使い果たし、防
last updateLast Updated : 2026-06-07
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第179話 触れたいのに、触れられない②

 黎の黄金色の瞳が、こちらを真っ直ぐに射抜く。「俺への接触もだ。今日から完全に禁止する」「え……」「俺の身体は、現代の瘴気で常に腐りかけている。お前が触れれば、お前のお人好しな本能が勝手に俺の痛みを吸い取ろうとして、力を放出してしまう。それは、さっきの鍵盤への接触と何ら変わりない。むしろ、吸い上げる規模はもっと大きい」 黎が一歩、後ろへ下がる。 ただの一歩。たった数十センチの距離が、とてつもなく遠い断絶のように感じられた。「俺の肺が痛もうが、喉が焼けようが、お前は一切手を出すな。触れることも、近づくことも許さん。……いいな」 冷徹な命令。 しかし、その声の端々が微かに震えているのを、聞き逃すことはできなかった。 ◇ その言葉通り、黎の極端な距離確保が始まった。 午後。 広いペントハウスのリビングは、いつもと同じように完璧な空調が効いているはずなのに、どこか寒々しい。 黎はダイニングテーブルの最も端にある椅子に腰掛け、ノートパソコンの画面を険しい顔で睨みつけている。 キッチンに立ち、お湯を沸かす。 電子ケトルのスイッチがカチリと鳴り、お湯がボコボコと沸騰する音が、静かな空間にやけに大きく響いた。 戸棚から白い陶器のティーカップを二つ取り出し、カモミールのティーバッグを入れる。お湯を注ぐと、甘くて青っぽい香りが湯気とともに立ち昇った。 お盆にカップを二つ乗せ、ゆっくりとダイニングテーブルへと歩いていく。 カーペットに足音が吸収され、無音のまま黎の背後へと近づく。 黎の肩幅は広く、白いシャツ越しにもその分厚い筋肉の輪郭がはっきりとわかる。いつもなら、背後から覗き込むと、不機嫌そうに「なんだ」と言いながらも、大きな手でカップを受け取ってくれた。 テーブルの横に立ち、お盆からカップを持ち上げる。「黎様、お茶……」 コトリ、とソーサーをテーブルに置こうとした瞬間。 ガタァッ! 激しい音を立てて、黎が
last updateLast Updated : 2026-06-07
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第180話 触れたいのに、触れられない③

 ただ、自分の身体が勝手に私の命を削ってしまうことを、狂気的なまでに恐れているのだ。 黎がカップを口に運ぶ。 その時、微かに、ヒュッという空気が擦れるような音が聞こえた。 黎の喉仏が上下し、眉間に皺が寄る。 呼吸が、重くなっている。 昨日まで、隣に座って手を繋いでいた時は、あんなに滑らかで深い呼吸をしていたのに。私が力を放出しないことで、ペントハウスの空気はただの「東京の空気」に戻りつつある。 それは、黎の肺にとって、微量の毒ガスを吸い続けるのと同じこと。 カップを持つ黎の大きな手の甲に、うっすらと青い血管が浮き出ている。 手を伸ばせば、すぐに届く距離。 手に少し触れるだけで、黎の眉間の皺を消し去ってあげられるのに。 両手をエプロンのポケットに突っ込み、見えないように強く握りしめる。 自分の無力さが、これほどまでに息苦しいものだとは知らなかった。 ◇ 夜。 外は冷たい冬の雨が降り出していた。 バルコニーの巨大なガラス窓に、無数の水滴が斜めに打ち付けられ、不規則な模様を描き出している。 間接照明のオレンジ色の光だけが灯る、薄暗いリビング。 黎は本革のソファの端に深く腰掛け、目を閉じていた。 テレビの電源は入っておらず、雨音と、エアコンの微かな送風音だけが空間を満たしている。 少し離れた一人掛けのソファに座り、膝の上に置いた本を開いていたが、活字はまったく頭に入ってこなかった。 視線は自然と、黎の横顔へと引き寄せられてしまう。 黎の呼吸は、昼間よりも明らかに悪化していた。 ヒュゥゥ、ケホッ。 時折、喉から乾いた咳が漏れる。 たびに、黎の大きな右手が自身の胸ぐらをギュッと掴み、痛みを堪えるようにシワを寄せるのだ。 閉じたまぶたの裏で、眼球が小刻みに動いている。眠っているわけではない。ただ、痛みに耐えながら時間が過ぎるのを待っているだけ。(……どうして、そんなに我慢するの) 膝の上の本を閉じ、音を立てないようにロー
last updateLast Updated : 2026-06-08
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