追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません のすべてのチャプター: チャプター 181 - チャプター 190

206 チャプター

第181話 触れたいのに、触れられない④

 しゃがみ込んだまま、空中で行き場を失った両手を引き戻せず、震える声で訴えかける。「こんなもの、いつものことだ。お前がいなかった数千年間、俺はずっとこうやって息をしてきた。今更、どうということはない」 黎はソファから立ち上がり、長い脚で三歩、四歩と一気に後ずさった。 背中が、冷たい壁にぶつかる。 黎の胸は激しく上下し、強がりの言葉とは裏腹に、呼吸は完全に乱れていた。「嘘です。痛いのに、ずっと胸を押さえているじゃないですか」「嘘ではない! 俺の身体だ、俺が一番よく分かっている!」 黎が、壁に背中を預けたまま、ずるずると膝を折った。 長い脚がカーペットの上に投げ出され、大きな両手が自身の銀髪を掻きむしるように掴む。「黎様……」 立ち上がり、一歩近づこうとする。「来るな!!」 黎が、顔を上げた。 瞳は、怒りではなく、深い恐怖と絶望に染まっていた。「頼むから……俺を、甘やかさないでくれ」 ひび割れた、悲鳴のような声。「お前が近づいてくれば、俺の身体はお前の浄化を求めて、勝手に食らいつこうとする。お前の命を吸い上げて、自分が楽になろうと……そんな浅ましい本能を、俺はどうしても抑えきれないんだ……っ」 黎の逞しい腕が、小刻みに震えている。 私を傷つけるかもしれない自分自身を、必死に鎖で縛り付けようとしている姿。 あの、すべてを破壊する力を持つ強大な黒竜が、ただ一人の人間に触れてしまうことを恐れ、壁際で縮こまっている。「私は、吸われてもいいです」 はっきりと、声に出した。 迷いはなかった。「私が、黎様を楽にしてあげたいんです。私が触りたいから、触るんです」「ダメだ!!」 黎の叫びが空気を震わせた。「お前は、自分がどれだけ大事なものか、まだわかっていない……っ。お前が欠けるくらいなら、俺はこの肺ごと引き千切って捨てる」「
last update最終更新日 : 2026-06-08
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第182話 私は、あなたの酸素ですか①

 空中に伸ばしたままの右手が、行き場を失って微かに震えている。 ゆっくりと指先を曲げ、空っぽの空気を握りしめた。数秒前までそこに存在していた、熱も、分厚い掌のざらついた感触も、今はもうどこにもない。 広いリビングルーム。 間接照明のオレンジ色の光が、カーペットの上に長く伸びた自分の影をぼんやりと映し出している。 背後の巨大なガラス窓には、冷たい冬の雨が斜めに叩きつけられ、バラバラと不規則な音を立てていた。その雨音の隙間を縫うように、書斎の重い木製ドアの向こうから、ヒュゥゥ……という、空気が細い管を無理やり通るような掠れた呼吸音が漏れ聞こえてくる。 靴下を履いた足で、カーペットを静かに踏みしめる。 一歩、また一歩と、閉ざされた書斎のドアへと近づいていく。 足の裏から伝わる床の温度が、リビングの中央から壁際に近づくにつれて、少しずつ冷たくなっていくのがわかった。 木目が美しく磨かれた、焦げ茶色の重厚なドア。 その中央に取り付けられた真鍮のドアノブに、両手をそっと添える。 金属の表面は氷のように冷たく、手のひらの熱をあっという間に奪い取っていった。 カチャ、とノブを下に押し下げてみる。 硬い手応え。内側からしっかりと鍵が掛けられ、ミリ単位の隙間すら開く気配はない。「……開けてください」 ドアの表面に顔を近づけ、声を絞り出す。 雨音にかき消されないよう、少しだけ喉に力を入れた。 数秒の沈黙。 やがて、ドアの向こうから、ズリッ、という重い布が床を擦るような音が聞こえた。壁か床に、あの大きな身体を預けて座り込んでいるのだろうか。「……帰れ」 分厚い木材を透過して届いたのは、地を這うように低く、ひどくかすれた声だった。「寝室に戻って、寝ろ」「黎様が苦しんでいるのに、寝られるわけないじゃないですか」 ドアノブを握る手に、さらに力を込める。「俺の身体のことは、俺が決める。……こんなもの、いつものこ
last update最終更新日 : 2026-06-09
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第183話 私は、あなたの酸素ですか②

 怒りで無理に声を出したせいで、気管が完全に痙攣してしまったのだ。「黎様……っ!」 慌ててドアノブを両手で掴み、ガタガタと前後に揺する。 咳の音は数十秒間続き、やがてヒュー、ヒューという、細く頼りない喘鳴へと変わっていった。「……近づくな。頼むから」 咳の合間に、擦り切れたような声が漏れる。「お前が俺に触れれば、俺の身体は間違いなく、お前の浄化の力を食らいつく。あの鍵盤にこびりついていた黒い靄と同じだ。お前の命の芯を削り取って、自分が楽になろうとする」「私は、吸われてもいいと言いました」 ドアの表面に両手をつき、必死に言葉を返す。「私の命が削られるっていっても、別に今すぐどうにかなるわけじゃありません。ちょっと熱が出るくらいです。それで黎様が楽になるなら、全然平気です」「俺が平気ではない!!」 ドンッ、と。 内側から、ドアが重い何かで殴りつけられた。 拳で叩いたというよりは、背中や肩を力任せに打ち付けたような、鈍く重い衝撃。ドア越しのすぐ目の前、わずか数センチの距離に、黎の身体がある。「……お前が傷つくくらいなら。お前の指先が冷たくなるくらいなら……俺の肺など、このまま千切れて腐り落ちた方が何万倍もマシだ」 呻くような、悲鳴のような声。 かつて、高層ビルの窓ガラスを粉砕し、有栖川の人間たちを震え上がらせた、あの絶対的な強者の面影はどこにもない。 ただ、一人の人間の体温を奪ってしまうことを極限まで恐れ、暗い部屋の片隅で自分自身を鎖で縛り付けている。 その不器用で、痛ましいほどの執着が、胸の奥の柔らかい部分をギュッと締め付けた。 ◇ ドアに押し当てていた額を、ゆっくりと離す。 リビングの空気は、エアコンの適切な温度管理によって十分に温かいはずなのに、指先から足元にかけて、奇妙な冷たさが這い上がってきていた。 有栖川の屋敷にいた頃。 私は、あの暗い地下室で、毎日ただ呼吸をするた
last update最終更新日 : 2026-06-09
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第184話 私は、あなたの酸素ですか③

 それなのに、彼はドアに鍵をかけ、私を遠ざけている。 私が「役に立つ道具」として消費されることを、彼自身が誰よりも拒絶しているのだ。 両手を胸元でぎゅっと握り合わせ、大きく息を吸い込む。 雨音が、背後で一定のリズムを刻み続けている。「……黎様。一つだけ、聞かせてください」 努めて平坦な、落ち着いたトーンを作って呼びかけた。 ドアの向こうの荒い呼吸音が、一瞬だけピタリと止まる。「なんだ」 警戒するような、硬い声。「私は、黎様の酸素ですか」 静かなリビングに、その問いかけが不自然なほどはっきりと響いた。 ドアの向こう側から、布が擦れる微かな音がした。黎が、壁に預けていた背中を少しだけ起こしたのかもしれない。「……どういう意味だ」「言葉通りの意味です」 ドアノブから手を離し、木製のドアに背中を預けるようにして、その場にずるずると座り込んだ。 フローリングの硬い感触が、パジャマの薄い生地越しにお尻に伝わってくる。 膝を抱え、自分のつま先を見つめながら言葉を紡ぐ。「息が苦しい時に吸い込んで、肺を楽にするための、ただの酸素マスクですか。役に立つ時だけ口元に当てて、それ以外の時は邪魔にならない場所に置いておく、便利な道具ですか」「そんなわけがあるか!!」 即座に、怒りに満ちた声が跳ね返ってきた。 ドンッ、と再びドアが内側から叩かれる。「俺がいつ、お前を道具扱いした! 俺はただ、お前の命を……」「だったら、開けてください」 黎の言葉を遮り、強い口調で言い切る。「酸素マスクじゃないなら。私がただの便利な道具じゃないなら、私の力を吸い取る必要なんてないじゃないですか」「理屈が通っていない! 俺の身体の構造の問題だと言っているだろう!」「通っています。私が触りたいから、触るんです。私が、黎様の隣にいたいから、このドアを開けてほしいんです」 膝に置いた両手に、ギリッと爪が食い込むほど
last update最終更新日 : 2026-06-10
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第185話 私は、あなたの酸素ですか④

「すでに足の先が冷たいです。あ、くしゃみも出そうです」 本当はまったく寒くないし、くしゃみの兆候もないけれど、わざと鼻をすする音を立ててみる。「埃っぽいですし、背中も痛くなってきました」「……っ、お前という女は……!」 ドアの向こうで、黎が地団駄を踏むような、苛立ちの極致といった音が響く。「脅せば俺が折れるとでも思っているのか」「思っていません。でも、私は有栖川の人間なので、わがままなんです。昨日、黎様が言ってくれたじゃないですか」 雨音が、二人の間の沈黙を埋めるように降り注ぐ。 一秒、二秒、三秒。 やがて。 カチャリ。 ドアの内部で、冷たい金属部品が噛み合う音がした。 内側から、鍵のツマミが回された音。 ゆっくりと立ち上がり、ドアノブに手をかける。 今度は、抵抗なくノブが下へと回った。 ◇ ギィィ、と微かな摩擦音を立てて、重い木製ドアが内側へと開く。 真っ暗な書斎から流れ込んできたのは、リビングの空気よりも数度高い、焦げるような熱気だった。 そして、古い紙とインクの匂いに混じる、微かな血の匂い。 ドアのすぐ横の壁に背中を預けるようにして、黎が立っていた。 リビングからのオレンジ色の光が、黎の横顔を半分だけ照らし出している。 その姿は、痛ましいほどに乱れていた。 仕立ての良い白いシャツは、冷や汗で胸元や背中にべったりと張り付き、無造作に開けられた襟元からは、苦しげに上下する喉仏が見える。長い銀髪は乱れに乱れ、額にへばりついている。 そして何より、その黄金色の瞳。 普段の氷のように冷徹な光は完全に鳴りを潜め、怯える獣みたいに、微かに揺れながらこちらを見下ろしていた。「……開けたぞ」 黎が、掠れた声で吐き捨てるように言う。 壁に手をついたまま、その大きな身体は今にも崩れ落ちそうに前傾していた。「中には入るな。そこから一歩でも動けば、今度こそお前
last update最終更新日 : 2026-06-10
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第186話 私は、あなたの酸素ですか⑤

 見上げると、黎の喉仏が激しく上下し、ヒュッ、ヒュルゥという、気管が狭窄するような苦しい呼吸音が頭上から降ってくる。「黎様」 両腕を身体の横にだらんと下げたまま、まっすぐにその瞳を見つめ返す。「酸素マスクじゃないって、はっきり言ってください」「……こんな時に、何の話をしている」「大事な話です。私が、ただの役に立つ道具じゃないって。私が息を楽にしてあげなくても、ここにいていいんだって、言葉にしてくれないとわかりません」 黎の大きな右手が、宙を彷徨う。 私の肩を掴んで突き飛ばしたいのか、それとも引き寄せたいのか。 空中で行き場を失ったその手は、ブルブルと激しく震えた後、黎自身の胸ぐらをギリッと強く握りしめた。 シャツのボタンが一つ、弾け飛んで床に落ちる。「……お前は……」 黎の口から、ひび割れた声が絞り出される。「お前は、酸素なんかじゃない。ただの道具だったことなど、一度もない……っ」 充血した瞳が、苦痛に歪みながらも、私の目をしっかりと捉えていた。「俺は……お前が触れてくれなくてもいい。俺の痛みを、吸い取らなくてもいい」 言葉の途中で、激しい咳が込み上げそうになるのを、黎は奥歯を噛み締めて無理やり飲み込んだ。 ゴクン、と喉が鳴る。「この肺が焼け焦げても……息ができなくて、のたうち回るようなことになっても……」 黎の銀色の前髪の隙間から、ポタ、と冷や汗の滴が床に落ちた。「苦しくても……お前がいい」 言葉が、書斎の埃っぽい空気の中をゆっくりと落下し、私の胸のど真ん中へとストンと落ちた。 役に立たなくてもいい。 痛みを吸い取らなくてもいい。 ただ、私がいい。 ずっと、ずっと欲しかった言葉。有栖川の屋敷で、どれだけ床を磨いても、どれだけピアノを練習しても、誰一人として
last update最終更新日 : 2026-06-11
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第187話 私は、あなたの酸素ですか⑥

「……ほら。何も起こらないでしょう?」 黎の目が見開かれた。 私の頬に触れた黎の指先が、ビクンと小さく跳ねる。 有栖川の呪いが鍵盤から吸い上げようとしたような、あの不快な痺れも、力の枯渇感も、今はまったくない。 ただ、皮膚と皮膚が触れ合い、互いの体温が混ざり合っているだけ。「俺の、身体が……痛みを、求めていない……?」 黎が、信じられないものを見るような目で、自分の右手と私の顔を交互に見つめる。 いつもなら、私が触れた瞬間に無自覚な浄化の波が流れ込み、黎の肺の痛みを瞬時に消し去っていた。 しかし今は、黎の呼吸はまだ浅く、ヒュルルという摩擦音も微かに残っている。 痛みが消えたわけではない。 黎自身が、私の命を削るまいと、本能の暴走をその強靭な意思の力で完全にねじ伏せているのだ。「痛いのは、代わってあげられません。でも、こうして触っていることはできます」 黎の手のひらに頬を擦り寄せながら、小さく笑いかける。「苦しい時は、私がずっと手を握っていますから」 黎の喉仏が、大きく上下した。 見開かれていた黄金色の瞳が、ゆっくりと、ゆっくりと細められていく。 充血した目の奥にあった恐怖の色が、静かな、けれど強い熱を帯びた光へと変わっていくのがわかった。「……お前は、本当に」 黎の口から、深い、深い溜息が漏れた。 それは、痛みを堪える息ではなく、張り詰めていた糸がふつりと切れたような、どうしようもない安堵の吐息。 頬に押し当てられていた大きな手が、ゆっくりと動く。 固い指の腹が、私の目の下、頬骨のラインをなぞるように優しく撫でた。「俺がどれだけ我慢しているか、わかっていてそんなことを言っているのか」 先ほどまでの掠れた声とは違う、低く、甘く響くようなトーン。「我慢って、痛みのことですか?」「違う」 黎の空いている左手が伸びてきて、私の腰に回された。
last update最終更新日 : 2026-06-11
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第188話 冷たい声と、閉じた扉①

 まぶたの裏に、薄白い冬の光が染み込んできた。 ゆっくりとまつ毛を押し上げると、高い天井の寝室が、いつもよりどこか寒々しい灰色に満たされているのが見えた。窓の外では、昨夜の激しい雨が嘘のように上がり、雲一つないクリアな青空が広がっているはずなのに、部屋の隅々には冷たい影が淀んでいる。 シーツの中で、小さく寝返りを打つ。 カサリ、と上質なリネンが擦れ合う微かな音。 無意識のうちに右手を伸ばし、隣のスペースの布地へと触れた。 しかし、指先が捉えたのは、綺麗に引き伸ばされた冷たいシーツの感触だけだった。昨夜、暗い書斎の片隅で自分を折れそうなほど強く抱きしめていた、あの熱い体温も、ドクン、ドクンと耳の奥を叩いていた力強い心音も、そこにはもう残っていない。 手のひらでシーツの表面をそっとなぞる。完全に熱は失われており、ずっと前に起き上がってしまったことがうかがえた。 ゆっくりと上半身を起こす。 パジャマの襟元を直しながら、深く息を吸い込んだ。 鼻先をかすめたのは、いつもの清浄なミントの香りと、それから――ごく微かに残る、焦げたスパイスのような匂い。 昨夜、耳元で囁かれた、あの掠れた低い声が脳裏に蘇る。『苦しくても……お前がいい』 役に立たなくても、痛みを吸い取らなくても、ただそこにいてほしいと、あの最恐の黒竜が確かに求めてくれた。その記憶が、胸の奥の最も柔らかい部分をじわりと温め、頬の皮膚が僅かに火照るのを感じた。 ベッドから降り、冷たいフローリングに素足を下ろす。 いつもなら、この時間帯にはリビングの方から、コーヒー豆を挽く細かな音や、陶器のカップがソーサーと擦れ合う生活音が微かに聞こえてくるはずだった。 しかし、ドアの隙間から漏れ聞こえてくる音は、何もない。 エアコンの送風音すら、今日は妙に遠く響いているような気がした。 ドアノブに手をかけ、静かに引き絞るようにして扉を開ける。 一歩、リビングルームへと足を踏み出した瞬間、私の身体は、その場に縫い付けられたようにピタリと止まった。 広大なリビングは、ブラインドが半分
last update最終更新日 : 2026-06-12
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第189話 冷たい声と、閉じた扉②

 黎だった。 その輪郭が見えたことに安堵し、胸の奥のバクバクとした高鳴りを抑えながら、ゆっくりと歩み寄る。「……黎様。おはようございます」 声をかけると、組まれていた黎の腕が、僅かにピクリと動いた。 しかし、振り返る動作はない。 ただ、長い銀色の睫毛が僅かに上下し、黄金色の瞳が、冷たいガラス窓に映るこちらの姿を捉えただけだった。「体調は、もう大丈夫ですか? まだ、喉が痛んだり……」 さらに二歩、距離を詰めようとしたその時。「そこを動くな」 地を這うような、極端に低い声がリビングの空気を震わせた。 あまりの冷たさに、伸ばしかけた足が床の上でピタリと止まる。 黎はゆっくりと身体を反転させ、こちらに向き直った。 顔を見た瞬間、喉がヒュッと鳴った。 昨夜、書斎の暗闇の中で見せていた、あの怯える子供のような痛々しい表情は、跡形もなく消え去っていた。 彫刻のように硬く強張った顎のライン。 黄金色の瞳は、一切の感情を削ぎ落とした、絶対零度の氷そのもの。 ただそこにあるだけで、周囲の分子を凝固させるような、圧倒的なまでの人外の威圧感が、壁際から津波のように押し寄せてくる。 息をするのすらためらわれるほどの緊張感が、二人の間の数メートルの空間を支配した。「……黎、様……?」 戸惑いながら、名前を呼ぶ。 黎の薄い唇が、不自然なほど滑らかに動き、冷徹なトーンの言葉を吐き出した。「昨夜は、少しばかり調子が狂っていたようだ。瘴気に肺を焼かれ、正常な判断ができていなかった」 その言い回しに、胸の奥がチクリと刺されたように痛む。「調子が、狂っていた……?」「ああ。お前を近くに呼び寄せ、見苦しい弱音を吐いた。あれは、ただの錯乱だ。忘れるといい」 黎はふんと鼻を鳴らし、組んだ腕の指先で、自身の二の腕をトントンと一定のリズムで叩き始めた。苛立ちを隠そうともしない、
last update最終更新日 : 2026-06-12
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第190話 冷たい声と、閉じた扉③

 その単語が、有栖川の屋敷で長年浴びせられ続けてきた、あの地下室の冷気と埃の匂いを鮮明に呼び起こした。 掌に、じわりと嫌な冷や汗が滲む。「……そんな嘘、つかないでください」 奥歯を噛み締め、震えそうになる膝に力を込めて見上げる。「昨日、黎様は私の手が震えるのを心配して、お茶を飲む時だって、直接触らないようにしてくれて……。私の命が削られるのを、あんなに怖がって……」「それが、道具を管理する者の当然の心理だ」 黎の氷のような瞳が、冷酷にこちらを見下ろした。「壊れてしまっては、次の替えを探さねばならん。あのピアノの鍵盤にこびりついた黒い靄を見て、確信した。お前という器は、俺の放つ瘴気を吸い尽くすには、あまりにも脆く、小さすぎる」 黎の長い指先が、閉ざされたピアノの蓋を無造作に指し示す。「お前がピアノを弾くたびに、あるいは俺に触れるたびに、そうやって中身を空っぽにして倒れられては、俺の命綱としての機能を果たさない。要するに、お前はもう――俺の肺を潤すための役目を果たせない、ただのガラクタだ」 ガラクタ。 その響きが、頭の芯を鋭く殴りつけた。 有栖川家で、妹の麻里亜の引き立て役として、何一つ完璧にこなせない無能だと捨てられた時の、あの婚約パーティーの夜。理恩の冷たい視線。父の侮蔑の声。 また、同じことが起きているのだろうか。 役に立たなくなったから。 お前の中身はもう、使い物にならないから。 だから、いらない、と。 もっとも恐れていた答えが、最も信頼し、隣にいたいと願い始めた男の口から、一片の容赦もなく突きつけられている。 喉がカラカラに乾き、唾を飲み込むことすら難しい。呼吸が急速に浅くなり、パジャマの胸元を左手で強く握りしめた。「……だから、お前はもう俺の傍にいるな」 黎の声が、広いリビングに冷たく響き渡る。「この六本木の部屋に、お前の居場所はない。どこへでも好きなところへ行くがいい。有栖川の屋敷へ戻りたけれ
last update最終更新日 : 2026-06-13
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