追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません のすべてのチャプター: チャプター 231 - チャプター 240

290 チャプター

第231話 命を削らない浄化④

 黎の大きな胸元が、深く、本当に深く、室内の澄み切った空気を肺の奥底まで貪るように吸い込んでいく。 吸い込むたびに、厚い胸元が鋼のように膨張し、首筋から頬を覆っていた漆黒の鱗が、皮膚の下へとスルスルと溶けるようにして消え去っていった。鋭く湾曲していた両手の鉤爪も、人間としての太く硬い指先へと回帰していく。 黎の呼吸から、あの痛々しい擦れるような喘鳴が、嘘のように完全に消え失せていた。 岩盤の奥で鳴るような、重く、力強い鼓動のリズムが、静かな部屋に規則正しく響き始める。 黎は床についた掌に力を込め、ゆっくりと、その百九十センチを超える巨体を垂直に立ち上げた。 乱れた銀髪の隙間から覗く黄金色の瞳は、すでに完全な覚醒状態を取り戻し、怒りと、それ以上の強い熱を帯びて、真っ直ぐにこちらを射抜いていた。「……瀬理亜」 地鳴りのように低い声。けれど、そこにはもう、今朝のあの閉ざされた扉の冷たさは微塵も残っていない。 ただ、自分の大切な宝物を二度と手放さないという、狂おしいほどの執着の熱が、その響きの中に満ち満ちていた。 ヴィクトルは、長机の上に置かれていたあの色褪せた写真のフレームを長い指先で握りしめ、顔面を蒼白にしながら這いつくばるようにして床を見つめていた。「……エレノアの、歯車が……。私の、完璧なシステムが……」 眼鏡の奥の薄青い瞳は焦点が定まらず、完璧だった白いスーツの膝元は、床にぶち撒けられた冷却液で無残に濡れそぼっていた。 私は、ウールコートのポケットの中で、祖母のロケットの表面を指の腹でそっとなぞった。 手首の薄紫色の管は、もうドクドクと跳ねてはいない。身体の内側に、自分の体温がしっかりと残っているのがわかった。 命を、削っていない。 一人で背負わなかったから、私は自分の命を削らずに、あの人の呼吸を守ることができた。必要とされるためではなく、隣で一緒に息をするために、この力を選べたのだ。 白亜が回転椅子にドカッと座り直し、凍りつきかけていたコートの袖を、つまらな
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第232話 息が苦しくても、君がいい①

 飛び散った冷却液が真っ白な大理石の床に薄い水溜まりを作り、面発光パネルの青白い明滅を不規則に反射していた。 不自然なほど、音が消えていた。 耳の奥を劈くようだった警告音も、ガラス管の内部を激しく循環していたあの不快な高音の駆動音も、完全に光を失って沈黙している。時折、粉々に砕け散ったガラスの破片が、床の傾斜に沿ってチリ、と微かな音を立てて滑るだけ。 ウールコートの裾に付着した水滴が、床の白さに丸い染みを作っていくのを、這いつくばった姿勢のままぼんやりと見つめていた。指先はまだ黎の熱を焼き切った時の名残でジンジンと火照っている。けれど、身体の内側から生命力を根こそぎ吸い上げられていくような、あの強烈な枯渇感はもうどこにもなかった。 ジャリ。 室内に、硬い革靴の底がガラスの粒子を踏みしめる重い音が響いた。 その音が一つ鳴るたびに、部屋全体の空気が、目に見えない大きな波に押されるようにして、僅かに震える。 廊下の奥、崩れ落ちた天井の残骸の真ん中から、漆黒の塊がゆっくりとこちらに向かって歩みを進めてきていた。 黎だ。 雨水をたっぷりと吸い込んで重くなったスーツが、その百九十センチを超える規格外の巨体にべったりと張り付いている。引き千切られたシャツの襟元からは、人間のそれへと滑らかに回帰した太い首筋が見え、そこにはまだ、侵食を押し留めようとしていた時の黒い鱗の剥がれ落ちた生々しい痕跡が残っていた。乱れた銀髪の隙間から覗く黄金色の瞳は、瞬きすら忘れたかのように、ただ一点、床の上に立ち上がろうとしている私の姿だけを捉えて離さない。 ズシン、ズシン。 大理石を叩く足音が一つ近づくたび、肋骨の内側で暴れていた鼓動が、その重さに合わせて跳ねた。 先ほどまで部屋を埋め尽くしていた濃縮瘴気のねっとりとした臭気は、白亜の冷気によってすべて吸気口へと追い出されていた。あとに残ったのは、雨上がりの森のような、ひどく澄み切った空気。その清浄な空気を、黎の広い胸元が、最後の一滴まで肺の奥底へと吸い込むようにして、深く、長く呼吸を繰り返していた。 ゼイ、ゼイという、あの引き裂かれた管が擦れ合うような喘鳴は、もうどこからも聞こえない。岩盤の奥
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第233話 息が苦しくても、君がいい②

 有無を言わさない強烈な力で、黎の広い胸元へと真正面から引き寄せられた。 ドンッと鈍い衝撃。 鼻先が黎の濡れたシャツに押し付けられ、雨に濡れたウールと微かな血の匂いが一気に肺へ流れ込んでくる。黎の両腕が、背中と腰に深く、隙間を埋めるようにしてきつく巻き付き、身動き一つとれないほど抱え込んだ。「痛っ……、黎様、近すぎます。パジャマが濡れちゃいます」「黙れ。動くなと言っているだろう」 頭の上から降ってきたのは、心底不機嫌そうな、けれどどこか子供のように強張った掠れた声。 黎の後頭部を掴む大きな掌が、私の髪の根元に乱暴に指を滑り込ませ、強引に自分の胸元へと押し付けてくる。コットンシャツの生地越しに伝わってくる黎の心音は、信じられないほど早かった。ドクン、ドクン、ドクンと、怒りと焦燥のままに血流を送り出している、腹の底を直接揺さぶる重低音の脈打ち。 (……さっきまで、ガラクタって言ってたくせに) 胸の中で、こっそりと小さなツッコミを入れた。 役に立たなくなったからと、冷たい言葉のナイフで何度も切り刻んで追い出した主が、今はこうして、壊れやすいガラス細工を必死に守るようにして、腕の中でその巨体をかすかに震わせているのだ。その理不尽で、横暴な過保護っぷりが、胸の柔らかいところをギュッと締め付けた。◇「あーあ。見てるだけでこっちの体温まで上がりそう。竜の常識とか言う前に、ただのバカでかい大型犬の甘えん坊じゃん、ノワール」 部屋の隅、ひっくり返った回転椅子に腰を下ろした白亜が、凍りついたコートの袖をはたきながら、呆れたようにため息をついた。「白亜ちゃん、その言葉、本人の前で言うには強すぎます」 黎の胸に顔を埋めたまま、少しかすれた声で注意する。「怒るなら怒ればいいじゃん。こっちはお姉さんのせいで、高級ホテルの新作ピスタチオタルトを五つも食べ損ねたんだからね。あとで絶対に、六本木のペントハウスにある巨大な冷蔵庫のプリン、全部私の名義に書き換えさせるから」 白亜は口を尖らせ、大理石の床に転がっていた真鍮のトレイを、靴の先でカチン
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第234話 息が苦しくても、君がいい③

 黎の大きな親指の腹が、私の指先をそっと、怪我をさせないように慎重な力加減で擦った。 熱が、指先から手のひら、そして腕の血管を通って一気に全身へと駆け巡る。「……熱は、上がっていないな。脈も、さっきよりは落ち着いている」 黎の声は、ひどく低く、掠れていた。「ええ。言ったでしょう。一人で背負わなければ、命は削られないんです。お祖母様の手記に書いてあった通り、場の空気の流れを循環させればいいだけですから」「……お前という女は、なぜそうやって、俺の目の届かないところで勝手な無茶をする」 黎の眉間に、深い皺が刻まれた。 彼の大きな手が、私の手首を掴んだまま、ゆっくりと自分の左胸へと持っていった。 シャツの引き千切られた肌。黒い鱗が沈み込んだあとの、硬く引き締まった胸のど真ん中。 そこに、私の手のひらをピタリと押し当てる。 ヒヤリとした、金属のような異物感はもうどこにもなかった。ただ、人間離れした平熱と、岩盤を打つような力強い心音が、手のひらを通してダイレクトに伝わってくる。「……触れろ」 黎が、地を這うような低い声で呟いた。「え?」「触れて、俺のこの肺の痛みを、お前の力で吸い取ってみろ。……ほら、早くしろ」 黎の言葉には、命令の形を取りながらも、どこか哀願に近い切実な響きが混じっていた。 私は、押し当てられた手のひらにそっと力を込め、黎の胸元の筋肉の強張りを撫でるように動かした。 けれど、手のひらと黎の肌の接触面から、いつものあのシュワシュワとした炭酸の弾けるような感覚は、一向に湧き上がってこなかった。私の魂の回路は完全に凪いでおり、黎の体内から痛みを吸い上げるような反応は、ピタリと停止している。 黎の呼吸は、それでも滑らかで深いリズムを刻み続けていた。 痛みが消えたわけではない。私が力を放出していないのに、黎の肺は、この無菌室の澄み切った空気を吸い込むことで、正常な機能を取り戻していた。「……
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第235話 息が苦しくても、君がいい④

「私が、黎様を楽にしてあげたいと思うのは、役に立つ道具だからじゃなくて……。私が、あなたの隣にいたいから、自分の意思でそう決めたからです」 黎の喉仏が、大きく上下に動く。「一人で背負うから、命が足りなくなるんです。……白亜ちゃんの空気の流れを借りて、場の淀みを外へ逃がす方法を、私はさっき見つけました。だから、もう二度と、黎様のために自分の命を燃やし尽くしたりしません」 まっすぐに、その琥珀色の瞳を見つめ返す。 黎の目の奥で、迷いも怒りも恐怖も混ざり合い、やがて一つの、どうしようもないほど熱い光へと収束していくのがわかった。「……浄化できなくても、いい」 不意に、黎の口から紡がれたのは、掠れた、けれど絶対的な重みを持った言葉だった。「お前が、俺のこの肺の痛みを癒やしてくれなくても構わん。俺の気管が再び狭窄し、のたうち回るようなことになろうとも……」 黎の大きな右手が、私の頬を包み込んだ。 ごつごつとした指の関節が、冷え切っていた皮膚の表面に、じっくりと熱を落としていく。「苦しくても、お前がいい」 その一言は、鼓膜を通り過ぎて、肋骨の内側へまっすぐ沈んだ。 ただの命綱としての執着ではない、生存本能という便利な言葉では到底片付けられない、彼自身の魂の底から絞り出された、純粋な愛の告白。 ずっと、ずっと欲しかった答えが、最も信頼し、隣にいたいと願い始めた存在の口から、はっきりと届けられた。 有栖川の屋敷で、どんなに床を磨いても、どれだけピアノの練習を重ねても、誰一人として私自身の存在を認めてくれなかった。役に立たなくなれば、また地下室に捨てられると、ずっと怯え続けていた私の最深の不安。 それが、黎のこの熱い指先の温度と、短い言葉の響きによって、一瞬にして完全に融解し、消え去っていくのを感じていた。「……ええ。今度は、私がここにいたいです」 私は、黎のシャツの胸元をギュッと掴み、彼の広い肩口に顔を埋めた。 視界が急激に滲
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第236話 息が苦しくても、君がいい⑤

「……私の、完璧なエレノアが……。命を制御するための、私の、歯車が……っ」 眼鏡の奥の薄青い眼球は焦点が定まらず、床に飛び散った冷却液とガラスの破片を、血走った目で見つめ続けている。 完璧だった白いスーツの膝元は泥と水で完全に汚れ、手にした金属製のフレームの中の写真――あの淡い栗色の髪をした女性の笑顔は、割れたガラスの曲面の下で、ひどく歪んで見えた。 命の不条理を許せず、魂の仕組みさえ管理しようとした、あの人の執念。 けれど、その冷酷な無菌室の計算は、私が放った白光の奔流と、白亜の冷気の循環によって、跡形もなく粉砕されてしまったのだ。 ヴィクトルは震える手で写真のフレームを胸元へと抱え込むと、長机の裏側にある、壁面の一部へと視線を向けた。 そこには、大理石のパネルと同化するようにして、細い隠し通路の扉が細く開いていた。「……まだ、終わらせない。ウロボロスの技術(ちから)があれば、あの夜会の舞台で、もう一度……」 喉から、ギリギリと呪詛のような低い声が漏れる。 ヴィクトルは泥に汚れた白い背中を丸め、その隠し通路の闇の中へと、足音一つ立てずに滑り込むようにして姿を消していった。 バタン、と。 大理石のパネルが元の位置へと戻り、完全に壁と一体化して閉ざされる。 彼が残していった、あの失われた歯車への強烈な執着と、終盤の夜会へと続く不穏な火種。それが、澄み切った無菌室の空気の底に、見えない黒い煤となって僅かに滞留した。「あーあ。逃げ足だけは一流だね、あの白スーツ」 白亜が長机の前に立ち、ヴィクトルの消え去った壁面を、つまらなそうに爪先でコツコツと叩いた。「追うか、瀬理亜。お前を傷つけようとしたゴミの分際だ。今すぐその隠し通路ごと、地底の底まで叩き潰して――」 黎が、私を抱きしめたまま、低い、冷酷な咆哮を廊下の奥へと向けようとした。「……だめです、黎様」 私は、黎のシャツの胸元を掴んでいた右手
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第237話 番ではなく、私の名前を呼んで①

 漆黒のセダンが地下駐車場への緩やかな傾斜を滑り降りると、タイヤが滑らかなコンクリートを噛む一定のロードノイズが、車内の密閉された静寂にこもって響いた。 フロントガラスの向こうでは、自動でせり上がる金属製のシャッターが、重々しい金属音を立てて開いていく。 後部座席の極上の本革シートは、黎の規格外の質量を受けて深く沈み込んでいた。仕立ての良い白いシャツは水分を含んで肌にべったりと張り付いているはずなのに、その胸元から発せられる熱量は、最大に上げられた空調の熱風を完全に上書きするほどに高い。 グレーのウールコートの繊維の隙間から、彼自身の皮膚が放つ、焦げたスパイスのような独特の匂いが鼻腔を甘く満たしていた。「おい。指先がまた冷えてきているぞ。機能が低下しているのではないか」 隣に座る銀髪の男の、低く掠れた声。 黎は不機嫌そうに眉根を寄せると、コートのポケットの奥に突っ込まれていた右手を、大きな掌で強引に包み込んできた。ごつごつとした骨ばった指の関節が、こちらの冷え切った指先を一つ一つ揉みほぐすようにして、強めの力で圧迫してくる。「冷えていません。黎様の体温が、高すぎるだけです」 唇をわずかに尖らせて見返すと、黎はフンと鼻を鳴らし、繋いだ手を彼自身のコートのポケットの中へと乱暴に押し込んだ。布地の擦れるカサリとした音が、狭い座席の間に響く。「俺の感覚がすべてだ。お前のその薄い皮膚は、少し放っておくだけですぐに大理石のように冷たく強張る。吸い込むべき熱が足りん」 有無を言わさない、いつもの独善的な言い回し。 けれど、ポケットの中で指を一本ずつ絡めてくるその動きには、二度と壊れ物を手放さないという、ひどく慎重な労わりが張り付いていた。「あーあ。助手席まで二人の熱気が伝わってきて、こっちの銀髪が湿気でうねりそう。竜の常識云々の前に、ただの過保護な猛獣じゃん」 運転席の執事の斜め後ろ、助手席のシートから、月の光を紡いだような白い髪がひょっこりと顔を出した。白亜はシートの背もたれに顎を乗せ、アイスブルーの瞳を退屈そうに瞬かせている。「白亜、静かにしろ。お前のその騒がしい呼気が混ざるだけで、車内の循環が滞る」
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第238話 番ではなく、私の名前を呼んで②

◇ VIP専用のエレベーターが最上階へと音もなく滑り上がり、チーンという澄んだ電子音が鳴ってステンレスの扉が開いた。 リビングルームへと足を踏み入れた瞬間、大理石の床を踏み締める靴の裏で、細かな何かが擦れ合う音がした。 見れば、昨日ヴィクトルの研究所へ向かう前に黎が叩き閉めたはずの、あの巨大な黒いグランドピアノの周囲。割れたガラスの破片はすでに、執事の手配した清掃業者によって一粒残らず片付けられていた。パノラマウィンドウの巨大なガラスも、新しい強化ガラスが嵌め込まれ、都会の眩しい日差しを無機質に反射している。 埃の一粒すら存在しない、完璧にコントロールされた元の無菌室。「……あ」 リビングの中央に置かれた本革のソファの前に辿り着いた瞬間、膝の関節からカクンと力が抜けた。 昨日からの緊張と、有栖川の地下、そしてあの白い実験室での生命力の放出。それらの疲労が一気に波のように押し寄せてきて、視界がわずかに横へと傾く。 ドン、と重い衝撃。 しかし、硬い大理石に倒れ込むことはなかった。黎の逃げ場のない腕が、脇の下を滑り落ちるような速度で差し込まれ、そのまま身体を軽々と宙へと抱え上げたのだ。「無茶をするなと言っているだろう」 頭の上から降ってきたのは、心底不機嫌そうな、けれど子供のように強張った低い声。 黎はグレーのウールコートごと身体をホールドすると、ソファの上へとそっと、壊れやすいガラス細工を並べるような手つきで横たわらせた。クッションが深く沈み込み、彼自身の衣服から漂うスパイスの匂いが一気にと押し寄せてくる。「寝室へ運ぶ。そのまま動くな」「ここでいいです。……少し、この光を浴びていたいですから」 パノラマウィンドウの向こう、冬の澄み切った青空から降り注ぐ明るい日差し。あの影を消し去られた実験室の白さとは違う、人間の世界の生々しい光の粒が、大理石の床の上でキラキラと踊っている。 黎はソファの横に片膝を突き、長い銀髪を乱暴に掻き乱しながら、じっとこちらを見下ろしていた。 割れていた瞳孔はすっかり丸い人間の形に戻
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第239話 番ではなく、私の名前を呼んで③

「嫌だもんねー。これは私がお姉さんをあのミキサーから守ってあげた正当な報酬。ノワールこそ、そんな険しい顔してないで、早くお姉さんに美味しいお茶でも淹れてあげなよ。人間の身体は、水分が足りなくなるとすぐにカサカサに干からびちゃうんだから」 白亜は回転椅子に勝手に腰を下ろすと、銀のスプーンを口にくわえてケラケラと笑った。 黎はチッと盛大に舌打ちをし、ソファの縁に置かれていたリモコンを無造作に掴むと、キッチンの方へと大股で歩き始めた。大理石を叩く硬い革靴の音が、規則正しいリズムでリビングに反響する。◇ ケトルのシュンシュンという沸騰音がキッチンの奥から聞こえ、やがて香ばしい焦げた豆の匂い――ブラックコーヒーの濃厚な香りが、リビングの甘ったるい空気の底をゆっくりと塗り替えていった。 黎は二つの白いマグカップをトレイに乗せ、音を立てないように細心の注意を払いながら、大理石のローテーブルの上にコトンと置いた。「飲め。……砂糖とミルクは、あの棚にあるものをすべて注ぎ込んでおいた」 黎はソファの端に深く腰掛け、長い脚を無造作に投げ出した。黒いスラックスの生地が張り詰め、規格外の筋肉の起伏が朝の光の中に晒される。 手渡されたマグカップを受け取ると、驚くほど重かった。中を見ると、真っ黒な液体が完全に白茶色に変色し、底の方には溶けきらない砂糖の結晶がドロドロと沈んでいる。「……甘いです」 一口すすると、喉が痺れるほどの強烈な糖分が、疲弊した脳髄に直接染み渡っていくようだった。「エネルギーの補給だと言っている。お前は回路を使いすぎて、中身の水分が枯渇している。これくらい泥のようになったものでなければ、その脆い肉体は維持できまい」 黎は自身のカップを長い指先で摘み上げ、苦いブラックコーヒーを一息に喉へ流し込んだ。太い首筋の喉仏が、ゴクリと大きく上下する。 その呼吸は、驚くほど滑らかで、深かった。 あの研究所の地下で、気管が完全に狭窄し、血を吐きながら床を這いつくばっていた痛ましい喘鳴は、もう聞こえない。代わりに、岩盤の奥深くで鳴るような重く力強い鼓動だけが、
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第240話 番ではなく、私の名前を呼んで④

 黎の黄金の瞳が、限界まで見開かれた。縦に割れた瞳孔が微かに収縮し、繋いだ手元を食い入るように見つめる。 シュワシュワとした、あの生命力を吸い取られる時の炭酸の弾けるような感覚は、どこからも湧き上がってこなかった。魂の回路は完全に凪いでおり、互いの体温だけが、静かに混ざり合っている。「……なぜだ。なぜ、お前の力が発動しない。俺のこの肺の奥には、まだわずかにあの研究所のオゾンの嫌な匂いが残っているというのに。……お前が触れても、俺の中の澱みが、お前の底を削り取ろうとしないのは何故だ」 黎の声は、ひどく低く、どこか狼狽していた。 彼は、自分が私の命を薪のように燃やし尽くしてしまうことを、世界の何よりも恐れていた。だからこそ、あの朝、冷たい言葉のナイフを並べて、この鳥籠から突き放したのだ。「一人で背負うから、命が足りなくなるんです」 繋いだ手に、そっと力を込めた。「白亜ちゃんの空気の流れを借りて、場の淀みを外へ逃がす方法を、私はさっき見つけました。澱みをすべて自分の内側に溜め込むんじゃなくて、循環させればいいだけなんだって、お祖母様の手記が教えてくれましたから。……だから、もう二度と、黎様のために自分の命を燃やし尽くしたりしません」 黎は無言のまま、繋いだ手をじっと見つめ続けていた。 彼の顎の筋肉がギリッと硬く引き締まり、何かを言おうと口を開きかける。「……浄化できなくても、いい」 喉から紡がれたのは、掠れた、けれど絶対的な重みを持った言葉だった。「お前が、俺のこの肺の痛みを癒やしてくれなくても構わん。俺の気管が再び狭窄し、あの地下室の底でのたうち回りながら息を止めるようなことになろうとも……」 黎の空いている左手がゆっくりと伸びてきて、冷え切っていた頬の皮膚をそっと包み込んだ。 ごつごつとした指の関節が、肌の表面に、じっくりと熱を落としていく。「苦しくても、お前がいい」 生存本能という便利な言葉では到底片付けられない、彼自身の魂の底から絞
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