「それはダメですって、さっきも言いました」 重ねられた彼の手の甲を、左手で上からぎゅっと握りしめた。黎の皮膚の熱が、冷え切っていた指先を心地よく溶かしていく。「黎様。私は、有栖川の屋敷にいた頃、毎日ただお父様たちの顔色を窺って、嵐が過ぎ去るのを待つことしかできませんでした。理恩様に婚約破棄を突きつけられた時も、地下室に閉じ込められた時も、ただ誰かがドアを開けてくれるのを待っているだけの、中身の空っぽな人形でしかなかったんです」 ゆっくりと、一文字ずつに自分の意志を込めて伝える。「でも、ここで黎様に出会って、不器用な優しさに触れて、私は初めて、自分の名前を呼ばれて生きる意味を知りました。……だから、もう逃げたくないんです」「逃げるのではない。俺がお前を守るために、あの船ごと――」「守ってもらうのを、ただ待っているだけなら、私はあの地下室にいた頃と何一つ変わりません」 黎の言葉を、まっすぐな視線で正面から遮った。「お母様の命を食い潰し、私の力を搾取しようとしていたあの家と、本当の意味で決別するために。……私は、私の足であの船に乗ります。お父様たちの前に立って、『私はもうあなたたちの道具じゃない』って、はっきりと私の言葉で突きつけたいんです。それが、私の過去への落とし前ですから」 黎は何も言わなかった。 ただ、繋がれた彼の手のひらが、恐怖か焦燥か、あるいはそれ以上の激しい熱を帯びて、小刻みに震え始めるのが伝わってくる。「……お前を、あの不浄な男の前に立たせたくない」 黎の太い喉仏が、大きく上下に動いた。「あいつはお前を『便利な土台』と呼び、自分の生存のために再び所有しようとしている。そのねっとりとした欲の匂いが、お前に一ミリでも近づくこと自体が、俺の腹の底を狂いそうにさせるんだ。お前が俺の視界から一瞬でも消えれば、俺は……自分の本能を抑えきれずに、あの船を沈めてしまうかもしれない」「消えません。三歩以上、離れないって約束しましたから」 悪戯っぽく微笑み、彼の手を強く握り返す。
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