マノとマヤの恋愛カウンセリングルームー双子のM2ーM2: The Twin Scalpels ―Love’s Fatal のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

81 チャプター

第11話 傲慢

​「……お姉様。本日の初診は『名家の預かり息子様です」​マヤが、慇懃無礼なカーテシーと共に扉を開く。現れたのは、育ちの良さを誇示するような仕立てのいいジャケットを着た男・一条。彼は室内の調度品を一瞥し、鼻を鳴らしてソファーに深く腰掛けた。​「ふん、不衛生な場所だ。僕のような人間が足を運ぶような場所じゃないが……婚約者が、君たちの悪趣味な噂を聞きつけてね。僕の『教育』が足りないとでも言いたいらしい」​一条は、懐から取り出した絹のハンカチで指先を拭いながら、婚約者を「出来の悪い所有物」のように切り捨てた。マヤは、その言葉に深く感動したかのように、潤んだ瞳で一条を見つめる。​「……素晴らしい。家名という重い十字架を背負い、気高き血筋を守ろうとするそのお姿。一条様の孤独な戦い、私には痛いほど伝わってきます……」​「わかればいい。僕と結婚できるのは、僕の家系に泥を塗らない、完璧な『駒』だけだ。感情などという不確かなものは、我が家には必要ない」​一条はマヤの全肯定を「当然の賞賛」として受け取り、自身の特権階級としての論理を振りかざす。だが、その背後。マノが、分厚い医学書を閉じる重い音が、冷たく響いた。​「マヤ、その男の座っているソファー、後で消毒しておいて。……封建制度の亡霊が憑いているわ」​マノが、白衣のポケットに手を突っ込んだまま、一条の前に立ちはだかる。彼女の視線は、一条の家柄ではなく、その奥にある「空虚」だけを捉えていた。​「……なんだと? 無礼な。僕が誰だか分かっているのか」​「一条家の第18代当主候補? 笑わせないで。……マヤ、この『借り物の看板』の裏側を読み上げて」​マヤは一礼し、タブレットを一条の鼻先に突きつけた。​「はい、お姉様。ターゲット、一条。……一条家の資産は、先代の放漫経営により実質的に破綻。現在は借入金の返済のために、資産価値のある土地を次々と手放しています。一条様が誇る『血筋』も、中身は借金まみれのハリボテですね」​一条の顔が、一瞬で青白く、そして怒りで赤く染まった。マノが、男の喉元を射抜くような視線で言い放つ。​「家柄というメッキが剥げれば、あなたはただの『無能な債務者』ね。……効率の悪い、虚飾の人生だわ」​マノの言葉が、一条が唯一の拠り所にしていた「血筋」という名の鎧を、粉々に砕いていく。​「選ば
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第12話 崩落

​​「……借金だと? 嘘だ、我が一条家が、そんなはずはない! 貴様ら、不敬罪で訴えてやる!」​一条が、震える手でデスクを叩く。だが、マノは冷めた瞳で、タブレットに映し出された差し押さえの記録を次々とスクロールした。​「訴える? 効率の悪い遠吠えね。……あなたが守りたかったのは『伝統』じゃなく、働かずに威張っていられる『既得権益』でしょ。一条家を食い潰している寄生虫は、あなた自身よ」​マノの言葉が、一条の脳天を正確に撃ち抜く。一条は、仕立てのいいジャケットの胸元をかきむしり、酸欠の魚のように口をパクパクさせた。マヤが、そんな一条の横に、まるで最期の看取りをするかのように膝をついた。​「わかります……自分の名前から『一条』の二文字を引いたら、何も残らないという恐怖。……でも、一条様。その重い看板を下ろせば、ようやく一人の『ただの男』として息ができるんですよ?」​マヤの慈愛という名の毒が、一条の防衛本能を麻痺させていく。一条は崩れ落ち、自慢の絹のハンカチを握りしめたまま、床に突っ伏した。​「選ばれない理由、教えてあげるわ。……あなたは誰かを愛してるんじゃない。家柄という名の鏡に映る、自分自身の虚像にひれ伏しているだけ。……中身の腐った、ただの剥製ね」​マノが、トドメのメスを突き立てる。マヤが、部屋の隅にある古い蓄音機を止めるように、静かに告げた。​「……もう、終わりにしましょうか、一条様。時代遅れの芝居に、付き合ってくれる観客はもういません」​マノとマヤが、鏡合わせのように隣り立ち、一条の絶望を真っ向から見据えた。​「「双子のエムツー!心の解放、終幕!」」​重なる二人の声が、一条を縛り付けていた封建主義の呪縛を、跡形もなく消し去った。​「お姉様の仰せの通り。……地獄へ、お帰りくださいませ。名前以外に価値を持たない、無名の荒野という地獄へ」​マヤが無機質な動作で扉を開ける。一条は、もはや怒る気力もなく、重い足取りで去っていった。その背中は、脱ぎ捨てられた抜け殻のようにひどく虚しかった。​マノは、一条が座っていたソファーに除菌スプレーをひと吹きする。​「虚栄はコストの無駄。……さて、次はどんな『自分を特別だと思い込んでいる凡人』が来るかしら」​マヤが、温かいカモミールティーを差し出した。
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第13話 オーガニックな毒物

​「……お姉様。本日の『初診』は、SNSで大人気のライフスタイル・クリエイター様です」​マヤが、どこか楽しげに扉を開く。現れたのは、麻のシャツを無造作に着こなし、穏やかな微笑みを絶やさない男・サトシ。彼は部屋に入るなり、持参したハーブティーのボトルを机に置いた。​「失礼。この部屋の空気、少し淀んでいますね。……僕のブレンドしたオイルを焚きましょうか? 心が整えば、悩みなんて自然と消えていくものですよ」​サトシは、諭すような優しい口調で、同伴してきた妻の肩を抱く。妻は怯えたように肩をすくめ、一言も発することができない。マヤは、うっとりとした表情でサトシを見つめた。​「……素敵です。日常の些細な光を愛し、周りの人々まで浄化してしまうようなその慈愛。サトシ様の『善意』、まるで聖者のようでございます……」​「善意だなんて。僕はただ、彼女がもっと『本質的な幸せ』に気づけるよう、導いてあげたいだけなんです。……ねえ、君。僕の言う通りにしていれば、君の人生ももっと輝くはずだよ?」​サトシの「優しい呪い」が、診察室を侵食していく。だがその背後。マノが、無機質な消毒液を自分の手にすり込む音が、鋭く響いた。​「マヤ、窓を全開にして。……加湿器の中に混ざった『支配』の匂いが鼻につくわ」​マノが、冷徹な視線をサトシの「聖者の微笑み」に向けた。​「……なんだって? 僕は彼女のために、良かれと思って……」​「良かれと思って? 笑わせないで。……マヤ、この『丁寧な生活者』の裏アカウント、読み上げて」​マヤは一礼し、サトシが匿名で運営していた、妻への不満をぶちまける「愚痴アカウント」のログを画面に映し出した。​「はい、お姉様。ターゲット、サトシ。……SNSでは愛妻家を演じる裏で、妻が自分の理想通りに動かないたびに『魂のレベルが低い』『僕に感謝が足りない』と、深夜まで説教を繰り返しています。これは教育ではなく、ただの『精神的な去勢』ですね」​サトシの微笑みが、ピキリと凍りついた。マノが、男が差し出したハーブティーを指先で退ける。​「オーガニックな言葉で包めば、毒が消えるとでも思った? ……効率の悪い、自己満足の洗脳ね」​マノの一言が、サトシが築き上げてきた「完璧な善人」という名の城壁を、音を立てて崩していく。​「選ばれない理由、教えてあげるわ。……あな
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第14話 断罪

​​「……な、何を。僕は彼女のためを思って、魂のレベルを引き上げようと……!」​サトシの穏やかだった声が、醜く上ずり始める。マノは冷徹な瞳で、サトシがSNSにアップしていた「幸せな食卓」の写真を一瞥した。​「魂のレベル? 笑わせないで。……あなたが彼女に強いた『無添加』な生活は、ただの『自己満足』の押し付け。彼女が本当に食べたかったのは、あなたの説教が混じっていない、普通のパンよ」​マノの言葉に、隣で震えていた妻の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。マヤが、そっと妻の肩を抱き寄せ、サトシの目の前に立ちふさがる。​「わかります……サトシ様。自分こそが正義であり、導き手であると信じ込む快感。……でも、サトシ様。あなたが彼女に与えていたのは光ではなく、逃げ場のない『純白の檻』ですよ」​マヤの微笑みが、深淵のようにサトシを飲み込んでいく。サトシは激昂し、持参したハーブティーのボトルを床に叩きつけた。​「黙れ! 誰が彼女をここまで育ててやったと思っている! 僕がいなければ、彼女はただの凡俗な女に逆戻りだ!」​部屋中に飛び散ったハーブの香りが、皮肉にもサトシの「正体」を露わにする。マノが、白衣の裾を翻し、一歩前へ出た。​「育ててやった? ……勘違いしないで。あなたは彼女の個性を殺して、自分の色を塗っただけの『塗り絵マニア』よ。……効率の悪い、魂の泥棒ね」​マノのメスが、サトシが唯一の拠り所にしていた「善意」という名のメッキを、根こそぎ剥ぎ取った。マヤが、絶望に震えるサトシの耳元で、甘く残酷に囁く。​「……もう、終わりにしましょうか、サトシ様。あなたが磨き上げたその『丁寧な世界』には、もう誰も……あなた自身さえも、入ることはできません」​マノとマヤが、一糸乱れぬ所作で並び立ち、サトシの虚栄心を真っ向から射抜いた。​「「双子のエムツー!心の解放、終幕!」」​重なる二人の声が、妻にかけられた「善意」という名の呪縛を、木っ端微塵に粉砕した。​「お姉様の仰せの通り。……地獄へ、お帰りくださいませ。自分の正しさ以外、何一つ信じられない『孤独な無菌室』という名の地獄へ」​マヤが、無機質な手つきで扉を全開にする。サトシは、自分が一番嫌っていた「乱れた姿」のまま、這い出すように去っていった。​マノは、散らばったボトルの破片を静かに見つめる。​「……マ
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第15話 歪曲

​「……お姉様。本日の『初診』は、大手広告代理店にお勤めの、非常に『お優しい』クリエイティブ・ディレクター様です」​マヤが、皮肉めいた優雅さで扉を開く。現れたのは、眼鏡の奥に知性的な瞳を光らせた男・ケンジ。彼は椅子に座るなり、申し訳なさそうに眉を下げて溜息をついた。​「いや、困っているんです。僕の彼女、最近情緒不安定で……。僕はただ、彼女のキャリアのために、客観的なアドバイスをしているだけなんですが。彼女、自分の能力を過信しているというか……世の中そんなに甘くないって、教えてあげているだけなんですけどね」​ケンジは「彼女を心配する慈愛に満ちた恋人」を完璧に演じている。だが、その言葉の節々には、「君には無理だ」「僕がいないと君は失敗する」という猛毒が塗り込まれていた。マヤは、感極まったように胸に手を当てた。​「……素晴らしい。相手の未熟さを包み込み、成長を促そうとするその忍耐。ケンジ様の『教育的配慮』、まるで慈父のような深さでございます……」​「教育だなんて。僕はただ、彼女が傷つかないように、現実を見せてあげているだけですよ。……彼女のためを思って言っていることが、どうして伝わらないのかなぁ」​ケンジの「ためを思って」という名の真綿が、診察室の空気を重く、息苦しくしていく。だがその背後。マノが、無機質なメスの刃先をライトにかざす音が、鋭く響いた。​「マヤ、その男の吐く『アドバイス』という名の排気ガスを、数値化して。……部屋の酸素濃度が下がっているわ」​マノが、白衣のポケットに手を入れたまま、ケンジの「知性的な仮面」を真っ向から見据えた。​「……なんだって? 僕はプロとして、彼女に適切なフィードバックを……」​「フィードバック? 笑わせないで。……マヤ、この『教育者』が彼女に送り続けた、100通を超える『ダメ出しメール』の解析結果を出しなさい」​マヤは一礼し、タブレットにケンジの執拗な人格否定の記録を映し出した。​「はい、お姉様。ターゲット、ケンジ。……内容はすべて『君の才能を認めているからこそ言うけど』という前置きから始まり、最後は必ず『やっぱり僕の言う通りにすればよかったね』と、彼女の自尊心を破壊する結びになっています。これは助言ではなく、ただの『精神的去勢』の継続ですね」​ケンジの余裕に満ちた表情が、一瞬で凍りついた。マノ
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第16話 ほどける指先

 午後の光が、ゆっくりと傾いていく。 リビングの空気は落ち着いていて、さっきまでのやり取りが嘘のように静かだった。李雨はソファで眠り、奏音はイヤホンをつけたまま画面に視線を落としている。 和泉は、テーブルの上を片付けていた。 グラスを手に取り、シンクへ運ぶ。水を流す音が、小さく響く。 背後に、気配が寄る。「それ、やります」 優士の声は、近い。「大丈夫」 振り返らずに答える。 けれど。 その一瞬の間に、手が重なる。 グラスを取ろうとした指先と、洗おうとした指先が、同じ場所に触れる。 ほんの一瞬。 逃げるほどでもなく、離れるほどでもない、曖昧な接触だった。 水の音だけが続く。 どちらも、すぐには動かない。 触れていると意識した途端に、時間がわずかに伸びる。 和泉が先に手を引いた。「……ありがとう」 意味の合わない言葉が出る。 優士は何も言わず、代わりにグラスを受け取る。 自然な動きで、水を止める。「こういうの、慣れてます」 軽く言う。 生活の中にある手つきだった。 誰かと暮らしたことのある人間の動き。 それを見て、和泉は少しだけ目を伏せる。「そうなんだ」 それ以上は聞かない。 聞けない。 優士も、話さない。 ただ、水気を拭き取る手元だけが静かに動く。 言葉にしないまま、少しずつ何かが伝わる。 沈黙は、不自然ではなかった。 むしろ、落ち着く。 ふいに、優士が手を止める。「さっき」 短く言う。 和泉は顔を上げる。「赤くなってたの、気づいてました」 逃げ場のない言い方だった。「……見てたの」「見てますよ」 即答だった。 和泉の呼吸が、わずかに乱れる。 冗談にする余地はある。 けれど。 優士は、冗談にしない。「困ります」 和泉は言う。「困らせてるつもりはないです」 優士は静かに返す。「でも、見てるのは本当なんで」 その言葉は、押しつけがましくないのに、逃げ場がない。 和泉は視線を逸らす。 胸の奥が、また少しだけ騒がしい。 嫌ではない。 それが一番、困る。「……優士」 名前を呼ぶ。 呼んだだけで、何を言うか決めていなかった。 優士は、それを待つ。 急かさない。 埋めない。 その間が、やさしい。 和泉は結局、言葉を選ばなかった。「……なんでもない」
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第17話 侵食

夜は、いつもより静かだった。窓の向こうに広がる光は変わらないのに、部屋の中だけが、どこか別の場所みたいに感じる。和泉は、ソファに腰を下ろしたまま、しばらく動かなかった。思考がまとまらないわけじゃない。むしろ、妙に整いすぎている。それが、気持ち悪かった。——光は、与えるものじゃない。奪い取るものだ。あの声が、消えない。強く言われたわけでもない。怒鳴られたわけでもない。ただ、静かに置かれた言葉だった。それなのに、胸の奥に沈んだまま、浮かんでこない。指先が、わずかに冷えていることに気づく。いつからだろう。「……気温、下がってる?」独り言みたいに呟いた声は、やけに軽くて、現実味がなかった。返事は、ない。当たり前のことなのに、ほんの少しだけ、違和感が残る。スマートフォンの画面が、淡く光った。——起動はしていない。それでも、ほんの一瞬だけ、何かが“反応した”ように見えた。見間違い。そう思うには、ほんの少しだけ、確信が足りない。和泉は、画面に触れかけて、やめた。触れてしまえば、確かめてしまう。確かめてしまえば、戻れなくなる気がした。「……別に」誰に言うでもなく、小さく息を吐く。そのとき、廊下の向こうで、わずかな音がした。足音。軽くて、迷いのない歩き方。振り向かなくてもわかる。「……まだ起きてたの」ドアの向こうから、声がする。いつも通りの、温度。何も知らない声。和泉は、少しだけ目を閉じた。「うん。ちょっとだけ」それだけ返して、立ち上がる。床に足をつけた瞬間、さっきまでの感覚が、少しだけ遠ざかる。日常に、引き戻される。でも——完全には、消えない。何かが、ほんのわずかに、ずれている。それはきっと、外側じゃない。自分の内側で、起きている。窓の外で、風が動いた。光が、揺れる。その揺れ方が、なぜか少しだけ、怖かった。
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第18話 断末魔

​「……不愉快だ。私の善意を、そんな低俗な言葉で汚すとは。彼女は、私の管理下にあるからこそ、この混沌とした世界で『清らか』でいられるのだ。君たちのような野蛮な解釈に、私と彼女の聖域を侵害させるわけにはいかない」​藤堂の声は、どこまでも平坦で、感情の起伏という不純物を一切排除した機械のようだった。彼はゆっくりと立ち上がり、妻の細い手首を、まるで壊れやすい骨董品を確認するかのような手つきで、、強く、白くなるまで握りしめた。​「帰るよ。これ以上、この澱んだ空気に触れるのは君の教育に良くない。……さあ、私の足音に合わせて歩くんだ。右、左。乱れは許さないと言っただろう?」​一歩、また一歩。藤堂が刻むリズムは、妻にとっての「死の行進」だった。だがその時。マノが、机の上に一束の「古い手紙」を、無造作に放り投げた。それは、藤堂がかつて『矯正』に失敗し、精神を病んで表舞台から消していった、歴代の『教え子』たちの生存記録だった。​「聖域? 笑わせないで。……あなたの足元には、あなたが剪定しすぎて枯らした死体が、幾重にも積み重なっているわ。……効率の悪い、魂の墓守ね」​マノの言葉が、藤堂の背中に、冷たい氷の楔を打ち込む。藤堂の動きが、一瞬だけ止まった。完璧だったはずの歩法に、コンマ数秒の狂いが生じる。​「……それは、彼らが未熟だったからだ。私の理想についてこれなかった、淘汰されるべき弱者たちの末路だよ。彼女は違う。彼女は私の最高傑作だ!」​「傑作? ……いいえ、藤堂様。彼女は、あなたの姿を映すための『鏡』でしかありません」​マヤが、いつの間にか藤堂の背後に音もなく立ち、その耳元で、甘い毒を含んだ吐息を吹きかける。マヤの手が、藤堂の肩にそっと置かれた。それは慰めではなく、獲物の急所を定める捕食者の接触だった。​「わかります……自分の正しさを疑う恐怖。……でも、藤堂様。あなたが愛しているのは彼女ではなく、彼女を支配している瞬間の『全能感』という名の麻薬ですよ。……彼女が自分自身の意志で、あなたの名前を呼ばなくなった時、あなたという存在は、この世から消えてなくなる。……そうでしょう?」​マヤの微笑みが、深淵のように藤堂を飲み込んでいく。藤堂は、掴んでいた妻の手首を、激しい拒絶反応と共に振り払った。彼の端正だった銀髪が乱れ、眼鏡の奥の瞳が、初めて「恐怖」とい
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第19話 奈落

​​「……お姉様。本日の『初診』は、雨に濡れた子犬のような瞳を持つ、哀れな『殉教者』様です」​マヤの声が、湿り気を帯びた秋の夜風のように部屋を這う。扉が開くと、微かなカビの匂いと、重苦しい湿度が流れ込んだ。現れたのは、色あせたカーディガンを羽織り、今にも泣き出しそうな表情をした男・直人。彼は椅子に座るなり、震える手で顔を覆った。​「……すみません、僕みたいな人間がここに来て。彼女が、僕と一緒にいると息が詰まるって言うんです。僕はただ、彼女の幸せだけを願って、自分の人生のすべてを彼女に捧げてきたのに。僕が身を粉にして働いて、彼女の夢を支えて……それなのに、どうして」​直人は、自分がどれほど彼女のために犠牲を払ってきたかを、祈るような口調で、切々と説き始める。その言葉の一つひとつには、相手の首に巻き付く「感謝という名の鎖」が、べったりと塗り込まれていた。マヤは、悲痛な表情で直人の手を取り、その「献身」を称えるように、深く、深く頷く。​「……なんて尊い。自分という存在を消し、相手の色に染まることでしか愛を証明できない、その極限の孤独。直人様の『滅私奉公』、まるで泥の中に咲く蓮のようでございます……」​「わかってくれますか? 僕は彼女のためなら、死んでもいいと思っている。僕が不幸であればあるほど、彼女への愛は純粋になる。……そうでしょう?」​直人の言葉は、底なしの沼のように、聞いた者の精神をじわじわと引きずり込んでいく。その愛は、酸素を奪い、光を遮り、共倒れになるまで離さない「死の抱擁」だった。だがその背後。マノが、使い古されたカルテをゴミ箱に投げ捨てる乾いた音が、その湿った空気を一喝した。​「マヤ、その男の周りに溜まった『自己憐憫』という名の汚水を排出しなさい。……湿気で、言葉が腐っているわ」​マノが、白衣のポケットに手を突っ込んだまま、直人の「悲劇の主人公」という名の聖域を土足で踏み荒らす。彼女の視線は、直人の涙ではなく、その裏側に隠された「冷酷な支配」を冷たく射抜いた。​「……なんだって? 僕は彼女のために、すべてを捨てたんだ。僕の愛を、汚水だなんて……!」​「すべてを捨てた? 笑わせないで。……あなたが捨てたのは、自分の人生に対する『責任』よ。相手を『加害者』に仕立て上げることで、自分を永遠の『被害者』という安全圏に置いてい
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第20話 咲く花の毒

​「……な、何を言う。僕は彼女のために、自分の夢も、友人も、すべてを犠牲にしてきたんだ! 彼女が笑ってくれるなら、僕は泥水をすすったって構わない。それを『人質』だなんて……君たちに、僕の孤独の何がわかるんだ!」​直人が椅子から身を乗り出し、喉をかきむしるように叫ぶ。その瞳には、絶望という名の悦悦(えつえつ)とした光が宿っていた。彼は自分が傷つくことでしか、相手の関心を引けない「精神的な自傷者」だった。マノは冷徹な視線で、直人の使い古された手帳を一瞥した。そこには、彼女の行動を分刻みで監視し、自分の「不幸」がいかに彼女のせいであるかを論理立てて書き連ねた、狂気の記録があった。​「犠牲? 笑わせないで。……あなたが差し出したのは『愛』じゃない。相手を一生、自分という名の『負債』に縛り付けるための、高利貸しの担保よ。あなたが不幸であればあるほど、彼女は自由を奪われる。……効率の悪い、魂の吸血行為ね」​マノの言葉が、直人が大事に抱えていた「被害者」という名の盾を、粉々に砕いた。直人は、ガタガタと震える手で自分の胸元を掴み、床に崩れ落ちた。マヤが、そんな直人の背後に音もなく膝をつき、その冷え切った耳元で、慈愛に満ちた毒を囁く。​「わかります……直人様。誰かに必要とされない自分には、生きる価値がないという恐怖。……でも、直人様。あなたが彼女に求めていたのは救いではなく、自分と一緒に腐ってくれる『共犯者』ですよ。……彼女が、自分の足で光の方へ歩き出した瞬間、あなたという影は、ただの暗闇に帰る。……そうでしょう?」​マヤの微笑みが、直人の「依存」という名の生命線を、じわじわと締め上げていく。直人は、絶叫しようとして、声にならずに口をパクパクさせた。彼の「悲劇」という名の舞台は、観客である彼女が立ち去った瞬間に、ただの無意味な残骸へと成り果てた。​「君の不幸は、君自身の選択。……そして、彼女の幸せも、彼女自身の選択よ。あなたが入り込む隙間なんて、最初から一ミリも存在しなかったのよ」​マノが、白衣の裾を翻し、一歩も引かずに「死刑宣告」を下す。マノとマヤが、左右から鏡合わせの所作で、直人の歪んだ献身に一条の「見切り」を突き立てた。​「「双子のエムツー!心の解放、終幕!」」​重なる二人の声が、診察室を支配していた重苦しい湿気を、一瞬で蒸発させた。直人は、もは
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