朝の柔らかな光が、美咲の部屋に静かに入り込んでいた。桜井唯はスーツケースの横に立ち、深呼吸をした。 今日は黒崎家に残っていた最後の荷物を運び出す日だった。 美咲がキッチンから温かいトーストとコーヒーを持ってきてくれた。「唯、本当に大丈夫? 私も一緒に行こうか?」「ううん、大丈夫。荷物はもうほとんどないから。ありがとう、美咲」唯は笑顔を作ったが、心の中は少しざわついていた。 黒崎家に再び足を踏み入れるのは、離婚してから初めてのことだった。 あの冷たい部屋に、もう二度と戻らないと思っていたのに。タクシーに乗り、黒崎マンションに向かう道中、唯は窓の外をぼんやりと眺めていた。 胸の奥に、複雑な感情が渦を巻く。 安堵と、わずかな寂しさと、それでも確かに前を向く決意。マンションに着いた。唯はエントランスを抜け、最上階へ向かうエレベーターに乗り込む。胸が少し苦しくなった。 もう出てきたはずの檻に、また近づいていくような気分だった。そして、部屋の前。 そこに立っていたのは高倉櫂だった。 ワイシャツの上に動きやすいジャケットを羽織り、手袋をはめている。 唯は驚いて目を見開いた。「高倉さん……?」櫂は軽く頭を下げ、穏やかな声で言った。「桜井さん、おはようございます。社長から、荷物運びを手伝うよう指示を受けました。今日一日、お手伝いさせていただきます」唯は一瞬言葉を失った。 涼がそんな指示を出すとは思っていなかった。 でも、櫂の表情は真剣で、どこか優しかった。「ありがとうございます……でも、大丈夫ですよ」「いえ、重い家具もありますし、細かい荷物も多いでしょう。社長の指示ですので、ぜひやらせてください」櫂の言葉は丁寧だったが、唯は彼の目の中に、ただの「指示」以上のものを感じた。 唯は小さく頭を下げた。「……お願いします」作業が始まった。 ただ、最初に言った通り、重
Last Updated : 2026-04-28 Read more