朝六時半。キッチンは、すでに柔らかな光に包まれていた。黒崎唯は朝からちゃんと身支度をした上でフリルのついた白いエプロンをして、白い磁器の皿に丁寧に朝食を盛り付けをしていた。夫である涼の好物である焼き鮭、ほうれん草のおひたし、味噌汁、ふっくら炊けた白米。どれも彼が「まずくない」と一言だけ言ってくれるメニューだ。唯は小さく息を吐きながら、最後に小さなお新香を添えた。完璧だった。いつも通り、完璧に。「唯」背後から低い声がした。振り返ると、すでにスーツを着た涼が立っていた。黒い髪をきっちり整え、表情はいつものように感情が読めない。32歳とは思えないほど冷ややかな美しさを持つ顔が、そこにあった。「おはようございます、涼さん。朝食、できました」唯は明るく微笑んで、テーブルに皿を並べた。涼は無言で席に着き、新聞を広げた。箸が動く音と、ページをめくる音だけが響く。「今日の予定は?」唯がそっと尋ねると、涼は目を上げることなく答えた。「夜は遅くなる」「……そうですか」唯は笑顔のまま頷いた。それ以上、何も聞かない。聞かないのが、この家のルールだった。朝食を終えた涼が立ち上がると、唯はすぐに彼のシャツの襟を軽く直した。彼が起きてくる前に選んでおいた三本のネクタイを並べ、「今日はこちらはいかがですか?」と聞く。涼は一瞬だけ視線を落とし、「それでいい」と短く言った。唯は選ばれたネクタイを彼の首にかけ、丁寧に結んだ。指先が涼の喉元に触れても、彼は微動だにしない。ただ、唯の動作が終わるのを待っているだけだった。「いってらっしゃいませ」玄関まで見送り、唯はいつもの笑顔で頭を下げた。涼は振り返ることなく、「ああ」とだけ返してドアを開けた。ドアが閉まり、カチリ、という鍵の音が響いた瞬間、唯の肩から力が抜けた。広いリビングに一人残された唯は、ソファに腰を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。結婚して三年。この家は相変わらず静かで、広くて、冷たかった。唯は目を閉じ、ふと三年前の自分を思い出した。当時、フリーランスのグラフィックデザイナーとして活動していた唯は、黒崎グループの大規模プロジェクトのデザインを任された。初めて対面した黒崎涼は、会議室の端に座りながら、唯のプレゼンを冷ややかに聞いていた。「君のセンスは悪くない」それが、彼が唯にか
Dernière mise à jour : 2026-04-10 Read More