やるべきことをすべて終え、恵美は玄関に立った。5年間暮らしたこの家を、最後にもう一度だけ、静かに見渡す。それから、しゃがみこんで、スーツケースに鍵をかけた。スーツケースの中身は、着替えが数枚と、あの人形の身元を証明する書類だけ。ほかには、何も持っていかない。この家のすべてに思い出が詰まりすぎていた。だから、恵美は何も持っていきたくなかったのだ。恵美の視線の先には、自分とそっくりな人形が立っている。同じ長さの髪、同じ目元。目尻にある小さなほくろの位置まで、まったく同じだった。人形は、恵美と同じ白いワンピースを着て、静かに指示を待っていた。「プログラム、起動」恵美は静かにそう言った。人形の瞳が、一瞬だけ青白く光ったが、すぐに元に戻る。恵美そっくりに小さく首をかしげると、いつもの彼女と寸分違わない笑顔を見せた。「こんにちは、小山恵美です」声も、話し方も、表情も、何もかもが完璧に再現されている。自分が作り出したものなのに、まるで不気味な鏡を見ているようで、恵美は思わず一歩あとずさった。「いい?私の代わりに、あの人のそばにいて。絶対に私を見つけさせないで」「かしこまりました」恵美は、にこやかに微笑む人形に最後の視線を送った。そして、一度も振り返らず、エレベーターに向かった。エレベーターのドアが閉まる瞬間、聞こえてきた。海斗が一番好きだった『ムーン・リバー』を、人形が自分の声でハミングしているのが……それは、二人が初めてデートした日に、海斗がカフェのピアノで弾いてくれた曲だった。……一方、海斗は恵美からの電話を切った後、なんとなく胸騒ぎがしていた。しかしその胸騒ぎも、胡桃と体を重ねるうちに消え去ってしまった。家に帰って様子を見ようという気さえ、失うほどに。自分が10年前の恵美とそっくりな胡桃に、溺れてしまっていることを、海斗は自覚していた。間違っていると分かっていても、どうしてもやめられない。結局、翌日の夕方になってしまい、慌てて家に帰った。しかし驚いたことに、ドアを開けると、懐かしい手料理の匂いがしたのだ。「恵美」がエプロン姿でキッチンから顔を出す。「おかえり。手を洗ってきて。もうすぐご飯だから」海斗は一瞬固まった。なんだか、今日の恵美は少し違う気がする。昔はたしかに、こうやっ
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