All Chapters of 裏切り夫には、身代わりを用意した: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

やるべきことをすべて終え、恵美は玄関に立った。5年間暮らしたこの家を、最後にもう一度だけ、静かに見渡す。それから、しゃがみこんで、スーツケースに鍵をかけた。スーツケースの中身は、着替えが数枚と、あの人形の身元を証明する書類だけ。ほかには、何も持っていかない。この家のすべてに思い出が詰まりすぎていた。だから、恵美は何も持っていきたくなかったのだ。恵美の視線の先には、自分とそっくりな人形が立っている。同じ長さの髪、同じ目元。目尻にある小さなほくろの位置まで、まったく同じだった。人形は、恵美と同じ白いワンピースを着て、静かに指示を待っていた。「プログラム、起動」恵美は静かにそう言った。人形の瞳が、一瞬だけ青白く光ったが、すぐに元に戻る。恵美そっくりに小さく首をかしげると、いつもの彼女と寸分違わない笑顔を見せた。「こんにちは、小山恵美です」声も、話し方も、表情も、何もかもが完璧に再現されている。自分が作り出したものなのに、まるで不気味な鏡を見ているようで、恵美は思わず一歩あとずさった。「いい?私の代わりに、あの人のそばにいて。絶対に私を見つけさせないで」「かしこまりました」恵美は、にこやかに微笑む人形に最後の視線を送った。そして、一度も振り返らず、エレベーターに向かった。エレベーターのドアが閉まる瞬間、聞こえてきた。海斗が一番好きだった『ムーン・リバー』を、人形が自分の声でハミングしているのが……それは、二人が初めてデートした日に、海斗がカフェのピアノで弾いてくれた曲だった。……一方、海斗は恵美からの電話を切った後、なんとなく胸騒ぎがしていた。しかしその胸騒ぎも、胡桃と体を重ねるうちに消え去ってしまった。家に帰って様子を見ようという気さえ、失うほどに。自分が10年前の恵美とそっくりな胡桃に、溺れてしまっていることを、海斗は自覚していた。間違っていると分かっていても、どうしてもやめられない。結局、翌日の夕方になってしまい、慌てて家に帰った。しかし驚いたことに、ドアを開けると、懐かしい手料理の匂いがしたのだ。「恵美」がエプロン姿でキッチンから顔を出す。「おかえり。手を洗ってきて。もうすぐご飯だから」海斗は一瞬固まった。なんだか、今日の恵美は少し違う気がする。昔はたしかに、こうやっ
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第12話

人形には人間のような主体性がない。だから、胡桃が訪ねてきたことを隠そうともしなかった。そのため、10分も経たないうちに、海斗は事の真相をすべて知ることになった。彼は怒りで顔を青くしたが、それよりも気になったのは、目の前にいる「恵美」の、どこか異常な反応だった。「恵美……」海斗は一歩前に出て、「恵美」の肩に触れようと手を伸ばした。しかし、彼女は一歩下がり、その手を避けた。「私は大丈夫」その声はいつものように優しかった。だが、話し方が少しだけ遅く、まるで壊れたスピーカーから流れる音声のようだった。海斗の手は空中で固まった。目の前の「恵美」の瞳に違和感を覚えたのだ。彼女の瞳の奥で、まるで夜空にまたたく星のように、微かな光が点滅している。歩き方は安定しているけれど、その歩幅は定規で測ったかのように、恐ろしいほど正確だった。海斗は「恵美」の後を追った。彼女は濡れたままリビングに入ると、ピアノの鍵盤の上で指を踊らせた。奏でられたのは、海斗が一度も聞いたことのない旋律。「これは何の曲だ?」「恵美」は演奏をやめて振り返り、完璧な微笑みを浮かべた。「あなたのために書いたの。気に入ってくれた?」海斗は背筋が凍るのを感じた。恵美はピアノが弾けない。それは、二人が出会ったばかりの頃に彼女自身が言っていたことだった。「恵美……」海斗は、なんとか声を絞り出した。「大丈夫か?」「恵美」は立ち上がって海斗の目の前まで来た。その目は彼をまっすぐに見ていたが、瞳の中の光は繋がって、まるで無数のコードが流れているようだった。「ええ、平気よ。ただ、少しプログラムが……いえ、記憶が混乱しているだけ」海斗は思わず一歩後ずさった。「何を言ってるんだ?」「恵美」は小首を傾げた。「何か間違ったことを言ったかしら?ごめん、私の言語モジュールも影響を受けているみたい」そう言った途端、彼女の声に突然ノイズが走り、機械音のようになった。「システムイジョウヲケンシュツ。シュウフクヲココロミマス。シュウフクシッパイ……ケイコク、ケイコク……」海斗は、心臓が胸から飛び出しそうだった。目の前にいるのは、恵美ではない、とこの時になってようやく、海斗は気づいた。最愛の人が誰かにすり替えられていたのに、今まで気づきもしなかったなんて。では、本
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第13話

海斗が家のドアを開けると、恵美を名乗っていたあの女は、もういなかった。部屋を見渡して、ようやく気づいたのだが、玄関にあったはずの2つの陶器の人形がなくなっている。あれは、海斗が二人のために手作りした置物だった。今はテーブルの上に土台だけがぽつんと残り、縁には砕かれた陶器の破片がいくつかこびりついていた。リビングのカーテンが風でめくれ、その後ろにある暖炉の、黒く焦げた内壁が見えた。燃え残ったレースの切れ端が、暖炉の入り口に張り付いている。それは、恵美が大切にしていたウェディングドレスの裾だった――結婚式で彼女が着た、99本のバラの刺繍が施されたドレス。その名残は、今やこの手のひらほどの燃えかすだけ。海斗は何かを思いついたのか、狂ったように寝室へ駆け込んだ。その勢いで、ドレッサーをなぎ倒してしまった。ない。全部なくなっている。家にあった恵美の写真は、一枚残らず消え、二人の写真でさえ、何一つ残されていなかった。地下のワインセラーのドアが、半開きになっていた。中では、作りかけのジグソーパズルに赤ワインがかけられている。たくさんのピースが赤黒い液体に浸かっていた。そして、ただ一つ、最後のピースがはまるはずだった場所に、プリントされた診断書のようなものが置かれている――それはエコー写真で、名前の欄には「森田胡桃」の文字。海斗の頭の中で、何かが弾けた。恵美は、すべて知っていた。胡桃の妊娠まで、気づいていたのだ。しかし、恵美が自分でエコー写真を手に入れられるはずがない。考えられる可能性は一つだけ……「胡桃……」海斗は歯を食いしばりながら、その名前を絞り出した。恵美の前には絶対に現れるなと、あれほど言い聞かせたのに。あの女、まさか家まで乗り込んでくるとは。海斗は目を充血させ、ずぶ濡れの服も気にせず立ち上がった。胡桃に、この始末をつけさせなければならない。部屋を出ようとした瞬間、聞き覚えのある着信音が鳴り響いた。恵美のスマホだった。彼は一縷の望みをかけて急いで電話に出た。しかし、聞こえてきたのは今、最も聞きたくない声だった。「なんであなたみたいな女が、ずっと海斗さんのそばにいるんですか?海斗さん、もう私の電話に出てくれなくなったんですよ!悲劇のヒロインぶるのはやめてください!妊娠してるのは私、小山家の跡
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第14話

胡桃は恐怖を感じてはいたけれど、海斗の心の中ではまだ自分が勝っていると信じて疑わなかった。きっと、今は一時的に怒っているだけ。いつものように甘えれば、きっと許してくれるはず。たかが年増の女が、若くてきれいな自分に敵うわけがないのだから。すぐに胡桃は気持ちを切り替えると、自分のお腹を撫でながらソファに深く体を沈めた。今の自分は、海斗の子供を身ごもっているのだ。彼が自分にひどいことなどできるはずがない。まもなく、玄関のドアが開く音がした。胡桃は慌てて駆け寄り、海斗の首に腕を回す。「海斗さん!さっきは大きな声で怒鳴るから、びっくりしちゃったよ……」胡桃は甘えて見せたが、今の海斗にそんな芝居はまったく通用しなかった。海斗は自分にしがみつく女を引きはがすと、床に荒々しく突き飛ばした。「恵美にだけは絶対にバレるな。もしバラしたら、代償を払わせると言ったはずだよな?よくもこんな真似しやがって……」すべてが、胡桃の思惑通りには進まなかった。海斗と毎晩体を重ね、子供のできない恵美の代わりに妊娠までしてあげたのに。それでも、恵美には敵わないなんて……どうして?どうしてなのだ?「何で?私が間違ったことでも言った?」胡桃は、涙に濡れた顔を上げる。「あの人は子供を産めないのよ?だから、私が代わりに赤ちゃんを産んであげるのに、それの何が悪いの?海斗さんも、家族が欲しいって言ってたじゃない!この子が私たちの家族になるのよ!」突然、海斗は胡桃の顎を掴み、恵美と同じ場所にあるほくろを親指で強く押さえつけた。「お前が家族を口にする資格があるのか?はっきり言うが、恵美と顔が似ていなければ、お前になんて見向きもしていなかった。それに、もともとの計画では、お前が子供を産んだらすぐに追い出して、俺と恵美でその子を育てるつもりだったんだ。恵美の座を奪って俺の妻になれるとでも思ったのか?馬鹿馬鹿しい!」海斗は忌々しげにその手を振り払うと、ウェットティッシュを取り出して、まるで汚物にでも触れたかのように指の間を拭った。「お前のせいで恵美は家を出て行ってしまった。だから、この子どもはもう産ませない」そう言うと、海斗は呆然とする胡桃を前に、どこかへ電話をかけ始めた。泣き叫び、必死に許しを請う胡桃を無視して、彼は電話の向こうに冷たく告
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第15話

姿を消したのは、恵美だけではなかった。あの日を境に、海斗も人々の前から姿をくらませた。暗闇の中、海斗がソファに倒れ込んだとき、3本目の空き瓶が床に落ちた。ガラスが砕ける音に反応して、玄関のセンサーライトがつく。冷たい白い光が暗闇を切り裂き、テーブルの上にぽつんと置かれた指輪を照らし出した――しかし、彼一人のものだけ。「恵美……」海斗は誰もいない空間に向かってつぶやいた。喉がアルコールで焼けるように熱い。ワインセラーのガラスに映る姿は、無様だった。無精髭は青白い苔のように顎を覆い、シャツの襟には3日前の酒のシミがこびりついている。記憶が、不意に鮮明になる。恵美が床にしゃがみ込んで、ガラスの破片を拾ってくれている、そんな幻覚が見えた。「海斗。胃が弱いんだから、飲みすぎちゃだめだよ」突然、恵美の声が聞こえた気がした。海斗が勢いよく振り向くと、朝日の中、恵美がキッチンカウンターで酔い覚ましの薬を用意してくれていた。グラスに入った良い覚ましの薬が、琥珀色に輝いている。二日酔いの朝。いつもなら恵美が温かいタオルで額の冷や汗を拭ってくれる。でも、今はそこに彼女の幻覚があるだけ。「恵美……恵美、一体どこにいるんだよ……」酒瓶がテレビ台に叩きつけられ、緑色の液体が飛び散る。液晶画面には、蜘蛛の巣のようなヒビが入った。拓也がドアを開けたとき、海斗はちょうど飛び散ったガラスの破片を素手で掴もうとしていた。「いい加減にしろ!」拓也は彼の胸ぐらを掴んでテーブルに押し付ける。空き瓶がガラガラと倒れた。雨の匂いがする拳が飛んできて、海斗は少しだけ意識がはっきりした。「これは、恵美さんの分だ」拓也は海斗の髪を掴んで玄関の鏡に叩きつけた。鏡のヒビが、映った男の姿をバラバラに引き裂く。「今の自分の姿を見てみろ!お前が浮気したのが原因だろうが!恵美さんが出ていったのはお前のせいだ。森田はただのきっかけにすぎない!あの女を始末すれば、恵美さんが戻ってくるとでも思ってんのか?小山家の力を使って、探せよ!こんなとこで酒に溺れて、何もしようとしないで、悲劇の主人公気取りか?」散らばったガラスの破片が、海斗の膝に突き刺さる。その痛みで、ようやく彼は外部からの刺激に反応を示した。突然、胃が痙攣した。吐瀉物が血と共に、拓也のズ
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第16話

地球の裏側では、秋が訪れていた。恵美が新しく買った額縁を屋根裏部屋に運び込むと、窓の外ではプラタナスの葉が、ぱらぱらと天窓に落ちていた。F国に来て、もう2週間。持ってきたスーツケースは油絵の具でいっぱいの棚に変わり、結婚指輪の跡には指に絡みつく蔦のタトゥーが彫られていた。「恵美さん、このひび割れの感じ、どう思う?」陶芸家の松尾佳奈(まつお かな)が、ひびの入った素焼きの器を抱えて入ってきた。彼女の髪先からは、まだ窯の熱気が感じられる。「もちろん。私に任せて」恵美が金継ぎでひび割れを銀河の流れのように描いていくと、佳奈がふとつぶやいた。「あなたが物を直すときの目って、なんだか大事な誰かを癒しているみたい」ろくろの上の器に、揺れる恵美の顔が映る。その瞬間、指の蔦のタトゥーが急にちくりとうずいた――3年前、海斗が記念日に贈ってくれたプレゼントの花瓶も、わざと割ってから繋ぎ合わせた。新しい人生を歩もうと必死なのに、心の奥に沈めた記憶が、時々さざ波を立てては彼女の日常を刺激してくる。海斗と拓也が、大がかりな人探しを続けていた。ほんの数メートル先で見つけたことも、一度や二度ではない。彼らがどうしてそんなに早く情報を掴めるのか、恵美には分からなかった。だから、ひたすら街から街へと移り住むしかなかった。自分の足跡を、もっと深く隠せるようにと願いながら。けれど、現実はいつだって希望とは裏腹に進む。秋の雨でギャラリーのガラスドアがぼやけていたそんな日。恵美が爪先立ちでショーケースを拭いていると、ふと、曇ったガラスに見慣れた人影が映った。カシャン、とペインティングナイフが木の床に落ちる。その音は、ホールに流れていたピアノの曲を粉々に砕いた。「恵美」海斗のスーツの裾からは、まだ雨水が滴っていた。ネクタイも、だらしなく喉元で歪んでいる。恵美は屈んでナイフを拾い上げた。その刃先が、海斗の左手の薬指にはめられた指輪をきらりと映し出す――それは、彼女が捨てた結婚指輪の片割れだった。海斗の性格なら、いつかは自分を見つけ出すだろうと分かっていた。だが、それはもっと先のことだと思っていた。お互いがもう少し、冷静に話せるようになった頃に。こんなに早く再会するなんて、夢にも思わなかった。海斗は壁にかけられた描きかけの抽象
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第17話

しかし、ようやく恵美を見つけ出したのだ。だから、簡単に手放すわけにはいかなかった。海斗は朝から晩まで、何日も彼女のギャラリーに入り浸っていた。恵美は、残っていた最後のイーゼル2つを脇に寄せながら、ため息をつく。「絵を買う気がないなら、そこをどいてくれない?日差しが入らなくて困るんだけど」今の海斗は、どうかしていた。彼女のちょっとした文句ですら、ご褒美のように感じてしまう。恵美がまだ自分を無視していない今のうちに、と。海斗は一歩踏み出し、彼女の行く手を塞いだ。「恵美、お前が家を出ていっただけで、俺たちはまだ離婚届を出したわけじゃない。法律的には、まだ夫婦なんだよ」恵美は鼻で笑った。「もう離婚調停の手続きは進めているの。私の手元にこれだけの証拠があるんだから、裁判所がどっちの味方をするか、あなたにもわかるでしょ?」彼女が言う「証拠」が何かは、よく分かっていた。海斗の顔がこわばる。引き留める言葉は、もはや「ごめん」の一言しか出てこなかった。「謝罪は受け入れる。でも、許すことはないから」恵美の決意の固い後ろ姿が、海斗の視界から遠ざかっていく。海斗は恵美の性格をよく知っている。どんなにお気に入りのものでも、一度でも他人の手に渡ってしまえば、彼女は二度とそれを欲しがらない。それは、海斗という人間も例外ではなかった。それでも、海斗はギャラリーに居座り続けた。顔なじみの客が絵を買いに来ては、恵美に、「彼氏ですか?」とからかうようになった。そんな時、恵美はいつも穏やかに微笑んでこう答えるのだ。「ただのお客さんですよ」夫でも、元夫でも、友人ですらない。ただの、客。海斗は、なんとか恵美の力になりたいと思っていた。せめて、自分の存在価値を示したかった。でも、そんな機会はなかった。恵美は彼がいなくても、何もかも完璧にこなしていた。恵美は昇り始めたばかりの星だ。その輝きはどんどん増していく。誰の光にも頼る必要がなかった。しかし、出る杭は打たれるもの。ギャラリーを開いて2ヶ月が経った頃、ライバルから、「違法に骨董品を所持している」と悪意のある告発をされ、恵美は大きなトラブルに巻き込まれた。秋風が吹き、ギャラリーのガラスのドアが小さく音を立てた。恵美は、査察官が収蔵庫に押収の札を貼り付けるのを見ながら、手のひら
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第18話

骨董品を隠し持っていたなんて、まったくのでっち上げだったが、そのせいで恵美が面倒なことに巻き込まれたのは事実だ。相手は綿密に準備していたらしく、恵美がどんなに手を尽くしても、税関は恵美に対応してくれなかった。作品の修復期限ぎりぎりまで、わざと引き延ばされているみたいだった。顧客への賠償金だけなら、まだなんとかなる。しかし、差し押さえられた作品の中には特別な素材のものもあるため、しっかり保管しないと傷んでしまう恐れもあった。どれも顧客にとって、かけがえのない大切な作品ばかり。恵美は、それを傷つけたくなかった。恵美は3週間、必死に走り回った。でもある日の夕方、突然すべてが手違いだったと連絡がきた。差し押さえられていた作品は、もうこちらに向かう輸送車の中だという。裏で誰が動いたのか、恵美には考えなくても分かった。頼んでもいない手助けに、彼女の心はかき乱された。もう海斗とは関わりたくないのに、気づけば大きな借りを作ってしまっていた。海斗から8回目の着信があった時、恵美はとうとうスピーカーフォンにして電話に出た。「明日の夜7時、8番通りのレストランで一度、会おう」「……わかった」……久しぶりだったが、海斗が約束の時間に恵美を待たせないという習慣は、今も変わっていなかった。7時まであと5分という頃には、二人はもう席についていた。蒸し料理の蒸気で、向かいに座る相手の輪郭がぼやけて見える。恵美はお茶を一口飲むと、まるで事務手続きでもするかのように、きっぱりと言った。「今回かかった費用の請求書は、ギャラリーに送って。あなたの口座に振り込むから。面倒なら、金額を直接言ってくれてもいいけど。すぐに振り込むよ」海斗は湯気でぼやける恵美の顔をじっと見つめ、しばらくしてから、ようやく重い口を開いた。「どうして、そんなふうにきっちり清算しようとするんだ?俺が……」「海斗」恵美は彼の言葉を遮り、鶏肉を箸でつまんだ。結婚1年目に海斗が胃を悪くして入院した時、彼のために鶏肉のスープを作ってあげたことを思い出す。「あなたの言いたいことなんて知らないし、知りたくもない。今回の件で助けてくれたことには、少しだけ感謝してる。でも、それだけ。あなたに対しても、私たちの関係についても、もう何の未練もないの」海斗は、恵美の表
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第19話

恵美と海斗が出会った時は、二人ともまだ若かった。海斗の方なんか、まだ子供と言ってもいいくらいだった。恵美は海斗より4歳年上で、3年間、彼の家庭教師をしていた。恵美は、問題児だった海斗を何とかまともな道へと導いた。彼を励まし、支え続け、陰鬱で荒れていた性格から救い出したのだ。大学入試の共通テストの結果が出た日のことを、恵美は今でも覚えている。あの日、海斗は合格祝いを口実に彼女を家に招待した。花びらが敷き詰められた庭で、海斗は白いバラを手に恵美へ交際を申し込んだ。でも、彼女は慌てて逃げ出してしまった。それでも、少年のまっすぐな想いは、恐れることを知らなかった。恵美が何度断っても、海斗は諦めずに告白を繰り返した。だから、彼はいつもサプライズの準備ばかりしていた。海斗は友達に笑いながら聞かれたこともあった。「恵美さんは、一体どんな手を使ったんだ?あんな遊び放題だった御曹司のお前を、ここまで夢中にさせるなんてさ」でも、海斗はただ首を横に振るだけだった。「別に何もしていない。ただ、彼女がそこにいるだけで、そばに行きたくなるし、守りたくなってしまうんだよ。いっそ俺の金を目当てにしてくれたら、まだ彼女を振り向かせる方法があるのにって、いつも思うよ」それでも海斗は諦めなかった。何度か酔った後には、どうして受け入れてくれないのかと泣きながら恵美に問い詰めることさえあった。そんな一途な想いを向けられて、動かされない心なんてない。そして、ある平凡な日の午後、二人はついに恋人になった。海斗は自分の言葉通り、恵美を溺愛した。出会って10年、結婚して7年。情熱は衰えるどころか、愛情は日増しに深まっていった。彼女のために庭園を造り、島を買い、人前で自己紹介をする時は決まってこう言った。「俺は小山社長なんかじゃなくて、ただ恵美を永遠に愛する夫だから」と。これほど愛し合っていたのに、結末は互いに傷つけ合うだけだった。恵美の問い詰める声が、太鼓のように海斗の胸を打ち、彼を苦しめた。海斗は指の関節が白くなるほど強くこぶしを握った。テーブルのナプキンに、ぽつりと色の濃いしみが2つ、広がる。しみはみるみるうちに増えていく。ビジネス界のトップに立つ男が、今はこんなにもみっともなく泣きじゃくっている。「ごめん、本当にごめん……俺が
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第20話

海斗がレストランから出てきた時には、恵美の車はもうそこにはなかった。川辺の湿気を含んだ夜風が顔に吹き付ける。海斗はネクタイを緩め、どこへ向かえばいいのか分からず立ち尽くした。しばらく考えた末、海斗は恵美に時間を与えるべきだと思った。彼女が冷静になるための、そして自分自身が冷静になるための時間を。それに、綿密な復縁計画を立てる必要もあった。方針さえ決まれば、実行に移すのは時間の問題だった。すぐに、プライベートジェットは雲の上を飛んでいた。海斗は窓の外で渦巻く入道雲を睨みつけた。左手の薬指にはめた結婚指輪が、手のひらに食い込んで痛い。だが、この痛みは、あの時の恵美の胸が張り裂けるような痛みに比べたら、どうってことない。着陸すると、海斗は拓也に電話をしてから、すぐに彼のところへ向かった。拓也が予約した隠れ家的な会員制のクラブは、プラタナスの並木にひっそりと佇む路地の奥にあった。海斗が彫刻の施された木製のドアを開けると、拓也はいつも持ち歩いている小さな人体模型をいじっていた。「ギャラリーの件を解決してやったのに、彼女は何の反応もないのか?」「ああ。俺の助けなんて必要なかったみたいだよ。食事に誘われたから、少しは関係が修復できるかと期待したんだけど……結局は、けじめをつけたかっただけらしい。それに、もう離婚調停の手続きを進めてるって」拓也はそれを聞いて、「うーん」と唸った。今回ばかりは恵美が本気で海斗と別れるつもりだと、拓也も察した。実は、拓也もこうなることを予想していた。初めて会った時から、恵美は物腰が柔らかく素直そうに見えても、自分の中に確固たる信念を持っていると気づいていたから。ましてや、恋愛における裏切りというのは、最も許しがたいことだった。結局、二人で話しても良い考えは浮かばず、拓也は焦らずゆっくりやるべきだと言った。もう一度、時間をかけて誠意を証明するしかない。しかも今回は、前に恵美を口説いた時よりもずっと長くかかるだろう。海斗はそれを聞いてうなずいた。「構わない。恵美が戻ってきてくれるなら、いくら時間がかかってもいい」拓也もうなずき、ふと何かを思いついたように言った。「なあ……仮病を使ってみるのはどうだ?前にお前が風邪で熱を出した時、恵美さんはものすごく慌ててただろ?もしお前
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