All Chapters of 身代わりは卒業。甘やかした彼を捨て叔父の妻へ: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話

「お姉ちゃん。この前話してくれた人、会ってみようかなって思ってるんだけど」電話の向こうで、姉の鈴木奈津美(すずき なつみ)が少し驚いたようだった。「どうしたの、急に?この間まで、智也じゃなきゃ絶対に嫌って言ってたのに」鈴木彩花(すずき あやか)は数日前に自分が言ったことを思い出し、自分がどれだけ馬鹿だったかと、後悔する。「目が覚めたの。それだけ」「わかった。その人、ちょうど来月の頭に帰ってくるらしいから、また連絡するよ」電話を切った彩花は、すぐにスマホに予定を書きこんだ。来月の頭まで、約2週間。夢を見るのは、もうおしまい。しっかり、現実を見なくては。ちょうどその時、寝室のドアが開いた。いつものように優しい笑みを浮かべた宮崎智也(みやざき ともや)が、手に持っていたケーキ屋の箱を彩花に差し出す。「3時間も並んで買ってきたんだよ。食べてみて」彩花は受け取って、箱を開けた。やはり、ショートケーキだった。彩花はケーキをそっと脇に置く。「ごめん。今は、ケーキって気分じゃないの」智也は彩花の隣に腰を下ろし、優しくその肩を抱きしめた。「どうしたの、彩花?誰かに何か言われた?俺が懲らしめてやるから、言ってみ?」彩花は力なく笑った。智也と付き合ってもう3年になる。これまで、ショートケーキは好きではないと、何度も伝えてきたはずなのに。彩花が好きなのは、チョコレートケーキ。だが、智也が買ってくるのはいつもショートケーキだった。最初は、単純にチョコレートケーキが売り切れてしまっただけだと思ってた。1週間前のあの夜までは……智也がシャワーを浴びている間に彼のスマホが鳴り、画面にはツイッターの通知が表示されていた。「あやか」というアカウントが、新しいツイートを投稿したという通知だった。【いろんなスイーツを食べてきたけど、やっぱり一番は桜通りにあるお店のショートケーキ!】智也はこのアカウントの通知が来るように、わざわざ設定している。それに、そのアカウント名を見たとき、彩花は何だか変な感じがした。なぜなら、「あやか」という自分と同じ名前だったから。彩花は気になって、自分のスマホでもその「あやか」というアカウントを検索してみた。彼女の投稿を遡って見ていたら、いつの間にか3年分もスクロールしていた。
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第2話

彩花は一晩かけて、荷物を全部整理した。自分の服や本、それにこの数年で少しずつ買い足してきた小物や絵も全て片付けた。この家はいつか自分のものにもなるのだと、信じていた。だから、すごく心を込めて部屋を飾ってきたのに。今は、その物たちも、主である自分と同じように、ここから消えるべきなのだ。その夜は、一晩中雨が降っていた。智也が帰ってきたのは、次の日の朝だった。白いシャツ一枚だけで、ずぶ濡れになっている。彩花の顔を見るなり、彼はやましいことでもあるのか、気まずそうに目をそらし、ぎこちなく笑った。「こんなに早く起きるなんて、どうしたんだ?もっと寝てればいいのに」彩花は答える。「早起きは気持ちいいから」特に何も気づいていないようで、智也は頷いただけだった。「それもそうだな。俺は、先にシャワー浴びてくるから」「智也」「ん?どうした?」「昨日の夜……」「ああ、クライアントから急に仕事を頼まれて。催促もすごかったから、残業だったんだよ。一晩中かかりっきりで、ご飯食べる時間もなくってさ。本当、疲れたよ……」人は嘘をついているとき、急に口数が増えるものだ。相手に信じてもらえないのが怖いから、必死で細かいことを話して、本当らしく見せようとするらしい。智也が、まさにそうだった。彼は普段、口数が多い方ではない。いつも簡潔に話すし、彩花をなだめるときでさえ、こんなに長く話したりはしない。だから、彩花は言った。「聞きたかったのは、上着のことなんだけど。昨日の夜、家を出たときは上着を着てたでしょ?だから、上着はどうしたのかなって思って。会社にでも忘れてきた?」智也は明らかにホッとした様子で、笑みを浮かべると、ため息をついた。「ああ、会社に置いてきた。大丈夫、寒くないから」「そう。じゃあ、シャワー浴びてきたら」智也は近づいてきて、優しく彩花の髪を撫でた。「彩花、そんなに俺のことを心配してくれたのか?」彩花は少し頭を動かして、彼の手を避けた。そして素早く智也のそばを離れ、背を向けて窓際に立つ。「早くシャワー浴びてきて。濡れた服をずっと着てたら、風邪ひいちゃうよ」智也の手は空中で止まった。少し呆気に取られていたが、自分自身の濡れたシャツを見て彼は笑った。「俺が濡れてるから嫌だったんだな。それもそうか、お前まで濡らし
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第3話

週末、智也の同窓会があった。本当は一緒に来たくなかった彩花だったが、智也が何年も想い続けている女が気になってしまい、結局着いてきたのだった。二人が着いたとき、カラオケボックスの中はもうすごく盛り上がっていた。智也の親友、柴田翔(しばた しょう)が彼の首に腕を回す。「智也!遅いぞ!綾香が帰ってきたんだろ?お前の長年の片思いもやっと報われるってもんだな……」智也は少し慌てて、絡んでくる翔の手を振り払った。「変なこと言うなよ」「変なことって何だよ?お前が綾香のこと好きだったのは、クラスの奴らみんなが知ってることだろ?」そう話していた翔の視界の隅に、智也の後ろにずっと立っていた彩花の姿が入った。翔は笑みを浮かべ聞いた。「こちらは……」智也は少し気まずそうに紹介する。「俺の彼女だ」翔は呆気に取られた。「彼女?お前、彼女できたのか?なんで俺が知らないんだよ?いや待てよ。お前ずっと綾香のこと待ってたんじゃなかったのか?なんで急に彼女なんて……」智也の顔色が少し暗くなる。ちょうどそのとき、人混みの中から、ひときわ目を引くきれいな女性が歩いてきた。「誰に彼女ができたって?」翔は慌てて言った。「綾香、ちょうどいいところに来た!智也が彼女できたって言うんだけどさ、俺どうも信じられないんだよな」智也が何年も心に秘めていたその人が、ついに目の前に現れた。彩花は今までツイッターでしか彼女の写真を見たことがなかったが、これでようやく、本人に会うことができた。本当にきれいで、ハッとするような、強烈な印象を与える美人だった。これなら、智也が何年も彼女を忘れられないのも無理はない。綾香は彩花をじろじろと見つめた。その目には、疑いと、それ以上の敵意がこもっている。「智也。この人が、本当にあなたの彼女なの?」智也は口を開きかけたが、言葉を詰まらせたのか、ゴクリと喉を鳴らした。「この人は……」彩花はひきつった笑みを浮かべて言った。「私は、忘れ物を探しに来ただけなんです。さっきまでこの部屋にいたんですけど、忘れちゃったみたいで……」智也が驚いたように彩花を見た。彩花は、智也が見ていることに気づいていたが、視線を返さなかった。ただうつむいて、自分のつま先を見つめる。翔が彩花に聞いた。「何を探してるんですか?」彩花はと
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第4話

智也が帰ってくると、彩花はテレビを見ていた。テレビでは夜のニュースが流れている。智也は気まずそうに笑って言った。「急にニュースなんか見て、どうしたの?前まではニュースなんて見なかったのに」彩花が答える。「嘘ばっかり聞かされるのにうんざりしたから、たまには本当のことでも見ようかなって思ってね」智也は一瞬意味がわかっていないようだったが、すぐに彩花の言葉の裏に気づくと、ため息をついて言った。「彩花、誤解だから。俺と綾香はただの友達なんだよ。それに、翔が言うことなんていつも適当だから、真に受けないでね」「そうなんだ」「うん。そうだから」「智也、ひとつ聞いてもいい?」「何?」彩花は振り向き、智也の目をじっと見つめて言った。「この世に、男女の友情って本当にあると思う?」智也はきょとんとした。しかし、その表情は、すぐに寂しげなものに変わった。「あると思うよ」きっと、綾香のことを思ったのだろう。智也の気持ちなんて、周りはみんな知っている。もう何年も、智也は綾香を待ち続けている。それでも、綾香にとっての彼は、「親友」のままなのだ。綾香は、智也からの好意を当たり前のように受け取りながら、彼の気持ちにははっきりと応えようとしない。綾香の智也への気持ちが友情だとしても、じゃあ智也の綾香への気持ちはどうなのだろう?ピコン――また智也のスマホが鳴った。画面にさっと目を通した彼は、わずかに表情を変えると、すぐに車のキーを掴んで家を出ようとした。「彩花、俺は……」「またクライアントからの連絡でしょ?」彩花は言った。「早く行った方がいいんじゃない?待たせたら失礼でしょ?」智也は何かを言いかけては、ためらっているようだった。しかし、今度は電話が直接かかってきた。小鳥がさえずるような綾香の明るい声がする。「智也、メッセージ見た?早く来てよ!」「うん、見たよ。すぐ行くから」出ていく間際、智也は言った。「彩花、余計なことは考えずに早く寝なよ。明日、お前の大好きなショートケーキを買って帰ってくるからさ!」彩花が返事をする前に、智也の姿はもう消えていた。がらんとした家の中、彩花は目の縁を赤くしながら、ぽつりと呟く。「でも……私、ショートケーキは好きじゃないのよね」昔からずっと好きなのは、
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第5話

彩花がカフェに着くと、綾香が先に来ていた。綾香は完璧にメイクを決めていて、いかにも高そうなバッグをそばに置き、背筋をぴんと伸ばして座っている。彩花を見るなり、隠しきれない優越感をにじませた。そして、あからさまに嫌そうな顔をする。「このカフェ、ペット禁止なんですけど」彩花は、なっちゃんを抱いてきていた。最近、色々と忙しくしていたせいで、なっちゃんが少し分離不安気味になってしまっていたのだ。だから、ひとりで留守番させるのが可哀想で一緒に連れてきたのだった。彩花は言った。「じゃあ、外に出ます」「たかが犬じゃないですか。それも汚い雑種犬を、宝物みたいに抱っこしちゃって……」「この子は、私の宝物ですから」綾香は鼻で笑った。「あなたのセンス、ほんと最悪ですね」「智也も、この子のこと、すごく可愛がってくれてますから」「あら、そうですか?私と別れてから、智也のセンスも地に落ちたみたいですね。ペットの趣味だけじゃなくて、女を選ぶ趣味まで最悪になるなんて」綾香は心底軽蔑した目つきで、彩花を頭のてっぺんからつま先まで眺めた。しかし、彩花は淡々と言い返す。「こんなくだらない話をするために、私を呼び出したんですか?」綾香は笑った。「あなたが私にそんな口をきく資格なんてないと思いますけど?わかってますよね?あなたが智也と付き合えてるのは、私のおかげだってこと。私たちの名前の読み方が、たまたま一緒だったから、あなたは智也の彼女になれたんですよ?」「それが何ですか?」「知ってますか?あなたと付き合う前にも、智也には何人か彼女がいました。でも、みんな私とどこか似てたんです。それに――私が『気に入らない』って言えば、智也はすぐにその女達と別れました。少しも迷わずに、ね?」彩花は思わず言い返した。「智也の気持ちを知っているくせに、あなたはどうしてそうやって彼の心をもて遊ぶんですか?」「私にもてあそばれたい彼と、もてあそびたい私。需要が一致してるんです。あなたには関係ないでしょう?」「好きにしてください。私は用事があるので、これで失礼します」彩花はなっちゃんを抱きかかえて立ち上がり、くるりと背を向けた。「ねえ」と綾香が呼び止める。「もしあなたが私に頼むなら、智也にあなたと別れないように言ってあげてもいいんですよ?」彩花は眉
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第6話

綾香が道端の方へ倒れた。そこへ、自転車がちょうど通りかかり、綾香にぶつかってしまう。綾香の目にはみるみる涙が溜まっていった。「智也、何でもっと早く来てくれなかったの……」智也は駆け寄ってきて、地面に膝をついた。「遅くなって、ごめん。どこ怪我した?」「足がすごく痛い」すると、智也はすぐさま、綾香を横抱きにした。「病院で診てもらおう」「でも、彩花さんがまだここに……」そう言いながら、綾香は弱々しい様子で、なっちゃんを抱いて道端に立っている彩花をちらりと見た。彩花は、そんな目の前の男女を冷ややかに見つめる。泣きじゃくる女と、心配する男。なんて感動的なお芝居なのか。自転車に乗っていた人まで、綾香に言う始末だ。「彼氏さんに、とっても大事にされているんですね」あまりに呆れると、人は笑ってしまうものらしい。本当の彼女である自分のことなんか、智也は一度も見ようとしない。通行人まで、あの二人がカップルだと思っている。智也は目を真っ赤にし、怒り狂ったライオンのように彩花を睨みつけた。「不満があるなら全部俺に言えよ。綾香を傷つけたりなんかして!しかも、ここは車道のすぐそばだぞ?自転車だったからよかったものの、もし車だったらどうするつもりだったんだ?責任取れるのか?」彩花は何と言ったらいいのか分からなかった。それに、これはそもそも彩花が説明すべきことではない。一方、智也の腕の中にいる綾香は、わざとらしくか細い声で彼を止めた。「私は大丈夫だから。そんなに大ごとにしないで。彩花さんもわざとじゃないはずだから」「でも、こいつがお前を車道に突き飛ばすのを、俺はこの目で見たんだ!綾香、お前は人が良すぎる……」「ふふ。昔から私がこうなの、智也だって知ってるでしょ?」智也の目に浮かぶ愛情は、もはや隠しきれていない。「これまで、お前が外国で一人、どれだけ大変な思いをしてきたか……」この茶番劇に、彩花はもう口を挟む気も、見ている気も失せていた。「そんなに心配なら、病院に連れて行ってちゃんと検査してもらえば?治療費も慰謝料も、私が払うから。じゃあ、私はこれで」「待て」と智也は言った。「謝れ」彩花は信じられない思いで振り返り、智也の鋭い目を見つめ返す。「なんて?」「綾香に謝れって言ったんだ。今すぐ、謝れ」
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第7話

翌朝早く、彩花はなっちゃんを連れて、最後のワクチンを打ちに行った。ワクチン接種証明書を受け取ると、獣医がこう言った。「なっちゃんのワクチンはこれで全部終わりです。これからは他のわんちゃんと普通に遊べますよ」彩花は尋ねた。「なっちゃんくらいの年齢は、長距離の飛行機に乗っても大丈夫ですか?」「貨物室に?」「はい」「なっちゃんはまだ小さいですし、それに野良だった過去もあるので、少し分離不安の傾向があります。だから、飼い主さんと長時間離れるのは、なるべく避けた方がいいかもしれませんね」彩花は少し困った顔をした。「もうすぐ他の街に行くので、どうしても一緒に連れて行きたいんです」獣医は少し考えてから言った。「それなら、直行便はやめて、乗り継ぎを挟んでみてはどうでしょうか。乗り継ぎの時間に、なっちゃんを安心させてあげられるかもしれませんので」彩花はうなずいた。動物病院を出たあと、彩花は獣医のアドバイス通りに航空券を手配した。深津までは4時間のフライト。だから、2回に分けて飛ぶことにした。深津に着くまでに結構な時間がかかってしまうけれど、なっちゃんのためなら平気だ。奈津美に電話すると、事情を話した彩花を応援してくれた。「気をつけて来てね。急がなくていいから。あなたもなっちゃんも、無理しないように」「うん、分かってるよ、お姉ちゃ……」突然、強い吐き気が喉までこみ上げてきた。彩花は思わずその場にうずくまり、激しく嘔吐した。電話はまだ繋がったままで、奈津美が心配そうに叫ぶ声が聞こえる。「彩花?大丈夫?」しばらくして少し落ち着いた彩花は、なんとか答えた。「大丈夫。たぶん、何か変なものでも食べたんだと思う」奈津美は少し黙ってから言った。「彩花、一度病院で診てもらったほうがいいんじゃない?」「大丈夫。薬を飲めば治るから」「ねえ、もしかして……妊娠してるんじゃ……」その言葉は、まるで頭を殴られたような衝撃で、彩花はしばらく何も考えられなかった。彼女はなっちゃんを一旦動物病院に預け、その足で病院へ向かった。検査結果に書かれた【妊娠8週目、心拍確認】という文字を見ても、彩花はほとんど現実感がなかった。産婦人科の医師が言う。「おめでとうございます。赤ちゃん、楽しみですね」しかし、ずっと黙っている彩花を見
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第8話

中絶の痛みは人それぞれ。生理痛みたいに軽い人もいれば、死ぬほどの苦しみを経験する人もいる。彩花は、後者だった。彼女はまだ妊娠初期だったので、薬で処置ができた。薬を飲んでから、彩花はトイレでまるまる6時間、ひたすら痛みにもがき苦しんだ。便器の中が、目を刺すほどの真っ赤な血で染まる。彼女は小さな塊をティッシュに包み、産婦人科の診察室に戻った。医師は慣れた様子で、綿棒でティッシュの中身を軽くつつき、頷いた。「ちゃんと出てますね。もう帰って大丈夫ですよ。誰か家族の人にでも迎えに来てもらってください」家族?この街には、自分にそんなものはない。いるとすれば、動物病院で自分を待っている、なっちゃんだけ。あまりの痛みで立っていられず、倒れそうになったが、そばにいた看護師が親切に支えてくれた。「大丈夫ですか?」彩花は礼を言う。「大丈夫です。ありがとうございます」「付き添いの人は?赤ちゃんの父親は来てないんですか?電話番号を教えてくれれば、私が呼びますよ?」「いえ、結構です……」言い終わる前に、彩花のスマホが鳴った。電話に出ると、智也の怒鳴り声が響いた。「なんでずっと電話に出ないんだよ!逃げれば責任逃れできるとでも思ってんのか?綾香が痛くて泣いてるんだぞ?謝るくらいできるだろ!」擦り傷くらいで、泣いてる?だとしたら、中絶したばかりで、立っているのもやっとの自分は、いったい何だというのか?「智也、もう一度言うよ。行けないし、謝らないから」「そんな態度なら、警察を呼ぶしかないな。彩花、俺たちは3年も一緒にいたんだ。俺だってこんなことしたくない。だから早くこっちに来て、素直に謝ってくれ。綾香は優しい子なんだ。きっと許してくれる……」「通報したいなら、通報すればいいよ。警察がちゃんと調べて、それでも私が謝るべきだっていうなら、その時には謝ってあげるから」彩花はそう言うと、一方的に電話を切った。看護師が温かいお茶を持ってきてくれたので、彩花は少し休ませてもらうことにした。病院を出ると、彩花はタクシーを拾って動物病院へ向かう。なっちゃんは彼女の姿を見つけると大喜びで、キャンキャンと鳴き続けた。獣医が笑って言った。「なっちゃんは本当に飼い主さんのことが大好きなんですね」彩花は目に涙を浮かべる。
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第9話

彩花は、この街こそが自分の居場所だと思っていたので、ここを離れたら、死ぬほどつらいだろうと覚悟していた。だが、いざ飛行機に乗ってみると、驚くほど心が軽やかだったのだ。すべてを捨てるのとは、予想外なほど簡単だった。貨物室に預けたなっちゃん以外、彼女は何も持ってこなかった。窓の外の景色に最後の別れを告げていると、タイミング悪くスマホの着信音が鳴った。電話の相手は、また智也だった。用件はいつもと同じ。綾香に謝りに行け、という催促。ちょうどその時、客室乗務員のアナウンスが流れた。「お客様、まもなく離陸いたします。電子機器の電源をお切りになるか、機内モードに設定をお願いいたします」彩花は電源を落とす。スマホの画面が真っ暗になるのを見届けた瞬間、彩花は今までにない解放感を味わった。……何度も電話をかけた智也だったが、一向につながらなかった。彼はもう一度、発信ボタンを押す。「おかけになった電話番号は、電源が入っていないか……」機械的なアナウンスに苛立ち、智也は不機嫌そうに眉をひそめて通話を切った。向かいに座っていた綾香がつま先で彼のすねを軽く蹴り、甘えるように言った。「ねえ、さっきから話しかけてるのに。もしかして聞こえてなかった?」「ごめん」智也はこめかみを押さえながら謝る。「何の話だっけ?」綾香はすぐに笑みを浮かべた。「私が目の前にいるのに、頭の中には誰がいるの?」智也は一瞬ためらったが、正直に話した。「俺が連絡したい時にいつでも繋がるようにって、彩花は24時間携帯の電源を切らないでいてくれてるんだ。それなのに、今日はずっと電話が通じなくて……」胸騒ぎがする。もしかして何かあったのではないか、と不安になった。智也の不安が大きくなる前に、綾香の声がそれを遮った。綾香は明るい笑顔で言う。「もちろん心配してあげるべきだけど、男の人には女心って分からないものなのね。今頃きっと、あなたが慌てて探しに来るのを待ってるんだよ。謝って、機嫌をとって、自分が悪かったって言ってくれるのをね。そうすれば、優位に立ってあなたを思い通りにできるでしょ?」その言葉を聞いて、智也の彩花への心配は一瞬で薄れてしまった。確かに、そうだ。あいつに限って、何かあるわけない。どうせ前のことを根に持って、気を引こうとしてるだけだ
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第10話

その頃、智也は自宅の玄関に立ち、浮かない顔をしていた。もう何日も彩花と連絡がつかない。最初はたいして気にしていなかったが、今では焦りばかりが募る。彩花にここまで無視されたのは、初めてだった。これまでどんなに長くても、せいぜい半日だ。自分の方から電話すれば、すぐに彼女は許してくれた。もう何度もこっちから折れてやっているというのに。もしかして、何か事件にでも巻き込まれたのだろうか?その時、リビングから綾香が電話している声が聞こえてきた。智也の前では優しくて思いやりがあるのに、電話の向こうの彼女はまるで別人のようで、声には自慢げな響きがあふれ出ている。「言ったでしょ?智也は私に惚れ込んでるって。ちょっと仕掛ければ、何でも言いなりなんだから。昨日もわざと夜中に、南区にあるお店の夜食が食べたいって言ってみたの。そしたら、すぐにベッドから出て買いに行ってくれたんだからね。ん?智也の彼女のこと?ああ、あれは私の身代わりだっただけ。私が戻ってきたら、智也はまた私に夢中。だから当然、追い出してやった。あの女が物分かり良くて助かったよ。じゃなかったら、もっと面倒なことになってたと思うし。それにあの女の飼ってる犬、本当にムカつくんだから。バカで人にも懐かないただの雑種。あんな安っぽい女だからこそ、あんな犬を大事にするんじゃないの?あの犬、私の顔を見るたびに歯をむき出してきて、本当にうっとうしい。あの女がいなくならなかったら、毒でも盛ってやるところだったよ。この前なんて、もうちょっとだったんだけど――」綾香はなっちゃんへの嫌悪感を隠そうともしなかった。だが、すごい勢いで目の前に現れた智也の姿を見て、慌てて電話を切る。智也は、彼女が隠しきれなかった表情を見て、急にこの女が別人に思えた。そして信じられない思いで問い詰める。「今、何言ってたんだ?」綾香は一瞬だけうろたえたが、すぐにいつもの様子を取り戻した。そして、逆に智也を責めるように言った。「何よ、そんなに怒鳴って。私、あの犬に噛まれそうになったんだよ?なのに、友達に愚痴の一つも言っちゃいけないわけ?それに、本当に殺したわけじゃないでしょ」矢継ぎ早の言葉に、智也は混乱した。まるで、本当に自分が綾香に悪いことをしたかのような気分になった。しかし、あんな悪意に満ちた言葉が、ただの愚痴で済まさ
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