あの日、君を忘れなければ のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

21 チャプター

第11話

会員制バーの個室は、水を打ったように静まり返った。 その場にいた者たちは、息を殺して蓮を見つめていた。なぜ彼が突然声を荒らげたのか、誰にも分からなかったのだ。 紗良も困惑した様子で問いかけた。「蓮さん、どうしたの……?」蓮の冷え切った視線が、部屋にいる者たちをゆっくりと射抜いた。「お前ら、誰に言ってるんだ。結衣の名前を軽々しく口にするな」 「今後、彼女について一言でも余計なことを言ってみろ。許さないぞ」一同は一斉に顔色を変えたが、反論できる者は誰一人いなかった。 紗良の表情もひどく強張っていた。ここにいるのは、彼女の友人たちがほとんどだったからだ。 蓮がこれほどまでに厳しく彼らを一喝するのは、彼女の顔に泥を塗るも同然の行為だった。「蓮さん、ごめんなさい。この人たち、デリカシーがなくて……」 紗良は怒りを押し殺し、しおらしく言った。「みんな、蓮さんのために喜ぼうとして、つい口が滑ってしまっただけなの」しかし、いつもなら彼女を何より優先する蓮だったが、この時ばかりは見向きもせず、そのまま部屋を飛び出していった。 面目を丸つぶれにされた紗良の顔は、蓮が背を向けた一瞬、鬼のような凄まじい形相へと変わった。だがすぐにそれを取り繕うと、慌てて彼の後を追った。「蓮さん、待って!」家に戻るなり、蓮は門を固く閉ざすよう命じ、追いかけてきた紗良を外に閉め出した。 それから数日間、彼は家に引きこもり、ただ眠るか浴びるほど酒を飲むかだけの荒んだ生活を送った。 もはや、何をする気力も湧かなかったのだ。蓮は、空っぽになった心でぼんやりと考えていた。認めざるを得ない。自分は結衣を失ったことが、これほどまでに辛いのだと。 結衣が死んでしまった今、この広い世界で、あそこまで自分に狂おしいほどの愛情を注いでくれる人間は、もう二度と現れないだろう。すぐにこんな気持ちは消えると思っていた。だが…………蓮は力なく目を伏せた。結衣がこの世を去ってからというもの、彼は毎晩のように彼女の夢を見た。 ハッと目を覚ますたび、夢の内容は霧のように消えて思い出せない。だが、気づけば枕がびっしょりと濡れるほど、涙を流していた。それは罪悪感なのか、それともただの名残惜しさなのか。 いや、もっと心の深いところで渦巻いている、別の、もっと重い感情
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第12話

墓地から戻った後の蓮は、以前にも増してひどく落ち込み、まるで抜け殻のようになってしまった。 来る日も来る日も、浴びるほど酒に溺れ、会社に顔を出すことさえなくなった。『このままあいつが使い物にならなくなってくれれば、会社を乗っ取るのも楽でいいね』電話の向こうから、何者かが紗良に囁いた。 紗良は唇を噛み、何も答えなかった。 相手が茶化すように聞いた。『……まさか、本気であいつに惚れたわけじゃないわよね?』紗良のどす黒い表情が一変し、頑なに否定した。「……そんなわけないでしょ」電話を切ると、彼女は窓越しに、酔いつぶれて意識をなくしている蓮を冷ややかな目で見つめた。しばらくして、紗良は瞳の奥に宿る割り切れない感情を隠すように目を伏せ、その場を立ち去った。そうして蓮が自堕落な生活を送っている間、浅見家は何の前触れもなく、桐生グループに対して強烈なビジネス攻撃を仕掛けてきた。 蓮の父が彼の元へ乗り込んでくると、その頬を思い切り叩いた。「あれほど結衣とうまくやれと言ったのに、お前が聞き分けないからこんなことになるんだ。今さらそんな無様な姿をさらして、一体誰に同情してほしいんだ!」 「お前がしっかりしないと、会社が潰れてしまうんだぞ!」その激しい一撃で、蓮の意識はようやく、少しだけ現実へと引き戻された。蓮は無理を押して会社に戻り、混乱する現場の指揮を執った。 しかし、浅見家による攻撃は凄まじかった。 彼らは全方位から容赦なく打撃を与えてくるだけでなく、複数の大きな共同プロジェクトからも次々と資金を引き揚げた。蓮は急場をしのぐための穴埋め資金を調達しようとしたが、帳簿を調べて愕然とした。あろうことか、会社の口座にはほとんど資金が残っていなかったのだ。「金は一体どこへ消えたんだ!」会議室で、蓮の鋭い怒号が役員たちに浴びせられた。 秘書がおずおずと口を開いた。「……白河副社長が投資した複数のプロジェクトによるものです。ここ二年の損失額は、数千億円にのぼります」蓮の鋭い視線が、突き刺すように紗良へと向けられた。 紗良は心臓が跳ね上がるのを感じながら、目をこすって動揺を隠した。「……蓮さん、いえ、会長。申し訳ありません。私の見通しが甘かったばかりに……」 だが、彼女の目の下に刻まれた酷いクマを見た瞬間、蓮の心はま
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第13話

会場は、針が落ちる音さえ聞こえそうなほどの静寂に包まれた。 紗良は招待客たちの冷ややかな視線を浴びながら、必死に平静を装っていた。だが、恐怖で背中には嫌な汗がじわりと滲み、服をぐっしょりと濡らしていた。結衣が死んでなお、自分の正体を暴くための調査を続けていたとは。 まさか、あんな決定的な証拠が残っているなんて、彼女は夢にも思わなかったのだ。「この映像は、通りがかった登山客がこっそり録画していたものです。当時はトラブルに巻き込まれるのを恐れて通報も公表も控えていたようですが」アシスタントはそう言うと、まぶたをゆっくりと上げ、紗良を冷たく射抜いた。 「白河様。ご自分では完璧な計画だと思っていたのでしょうが、詰めが甘かったようですね」「デタラメよ!」 紗良は弾かれたように蓮の方を向き、必死に訴えた。「蓮さん、これは何かの間違いよ! こんな動画、合成に違いないわ!」彼女は憎しみを込めて叫んだ。「信じられない……結衣さんは、死んでまで私を陥れようとするなんて!」しかし、蓮は何も答えなかった。 その映像が専門的な編集による「作り物」なのかどうか、プロの目で見ればすぐに判別できる。 そして皮肉なことに、蓮はこうした映像解析の分野には非常に精通していた。彼が沈黙を守っているのを見て、紗良の心臓は一気に凍りついた。 「蓮さん、私にはそんなことをする理由がないわ」 彼女は瞳に涙を溜め、赤らめた目で彼を見つめた。「蓮さんはあんなに私に良くしてくれたのに、どうして私が、拉致なんてするの?」言葉が終わるか終わらないかのうちに、映像の中で紗良が突然、倒れている結衣を思い切り蹴り飛ばした。 そして、彼女の腕の中にいた蓮を力任せに引き離したのだ。「ちっ、危うく計画を台無しにされるところだったわ」 「あいつを助け出すのは私じゃなきゃいけないの。そうすれば『命の恩人』として感謝されて、もっとあいつの心に入り込める。最高のチャンスを邪魔させるわけにはいかないわ!」会場の人々は騒然となった。すべては、彼女が仕組んだ自作自演の茶番劇だったのだ。 蓮は背筋が凍りつくのを感じた。 紗良が亡き恋人・清香に似ていたこともあり、彼はこれまで「大切な人を守らなければ」という義務感で彼女を庇い続けてきた。 特に、あの事件で彼女が命
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第14話

アシスタントは会場を後にする直前、足を止めてこう言い放った。 「浅見家の当主から伝言です。『桐生お坊ちゃんでいられる残りの時間を、せいぜい大事に味わっておくことだ』……とのことです」その言葉を合図にするかのように、浅見家によるさらなる猛攻と容赦のない報復が始まった。 蓮の会社はなす術もなく追い詰められ、倒産の危機に瀕していた。だが、今の蓮には抗う力など残っていなかった。 すべての真実を知った瞬間から、彼の精神は音を立てて崩れ去り、もはや泥沼に沈む会社を救い出す気力など微塵も残っていなかったのだ。結局、グループを存続させるために、会社側はまず蓮を社長の座から引きずり下ろした。さらには父親からも家を追い出され、親子の縁を切られてしまった。 蓮名義の個人資産も、紗良の巨額横領事件への関与が疑われ、すべて凍結された。たった一晩のうちに、かつて誰もが羨むエリートだった御曹司は、一文無しの負け犬へと成り下がった。母親がこっそり工面してくれた薄汚い安アパートの片隅で、蓮は膝を抱えて丸まっていた。その瞳には、もはや何の光も宿っていない。暗闇の中、持ち込んだプロジェクターが静かに映像を壁に映し出している。 そこには、紗良が涙ながらに被害を訴える姿があった。 「蓮さん、私が清香さんに似ているからでしょうか、結衣さんは私をひどく嫌っているみたい。……さっきも、あの人の差し金で乱暴されたんです」 そう言って、紗良は血まみれの腕を差し出した。蓮は思い出した。これこそが、彼が結衣を憎み始めるきっかけだったのだ。 だが皮肉なことに、記憶を消す催眠をかけられた後、初めて結衣と再会した時、彼は確かに彼女に好感を抱いていた。あの日、彼はチャリティー・パーティーの騒がしさから逃れるためにテラスへ出た。 そこで、静かに酒を口にしている結衣に出会ったのだ。 目が合った瞬間、彼女の澄んだ黒い瞳には月光と星々が映り込み、彼女は彼にグラスを掲げて見せた。 「桐生様、お会いできて光栄です」なぜか、彼女を見た彼の胸に言いようのない高鳴りを覚えた。「浅見さんも、風に当たりに来たのか?」蓮が問いかけると、結衣は微笑んで頷いた。彼女は、何も説明しなかった。だが実は、かつて二人で恋愛ドラマを観ていた時、蓮が何気なく口にした言葉を、彼女
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第15話

「……どういう意味だ!」 蓮はカッとなって、接見テーブルまで詰め寄ると、紗良の襟首を力任せに掴み上げた。「はっきり言え!」紗良は苦しげに顔を歪めた。もはや蓮がかつての情をかけてくれるなどとは期待していない。彼女は一か八かの捨て身の覚悟で、取引を持ちかけた。 「私をここから助け出して。そうしたら、全部教えてあげる」だが、蓮は冷たく笑った。その瞳には、氷のような冷徹さだけが宿っている。 彼は汚れ物に触れたかのように紗良を突き放すと、嫌悪感を露わにして手を払った。 「紗良。俺にお前を救い出す力はないが、刑務所の中で死ぬより辛い地獄を味わわせることなら簡単だぞ」紗良の顔から、一気に血の気が引いた。 忘れていた。目の前の男は、桐生家の頂点に立つ権力者なのだ。最初から、甘い相手であるはずがなかった。 今までのように彼を意のままに操れると思い込んでいた自分の愚かさを、彼女は今さらながら思い知った。「一分だけ待ってやる。考えろ」 蓮は彼女の頬を軽く叩き、低く言い放った。「話せば、せめて塀の中での暮らしを少しはマシにしてやる。……さもなければ……」紗良は激しく身震いした。 蓮の刃のような視線に射すくめられ、彼女は震える声で白状し始めた。「……あなたに催眠をかけたあの精神科医は、私の共犯よ……」 「……覚えている? オレンジジュース、小さな振り子、拘束椅子。そして……あの密室を」その言葉を聞いた瞬間、蓮の瞳が大きく見開かれた。 何の関係もなさそうな四つのキーワードが、猛烈な嵐となって彼の脳内を吹き荒れた。 彼は頭を抱え、苦悶の声を漏らしてその場にうずくまった。どれほどの時間が過ぎただろうか。蓮の喉の奥から、絞り出すような慟哭が漏れ出した。 その四つの言葉は「鍵」となり、封印されていた記憶が、一気に蘇ったのだ。 失われていた七年間の歳月が、次々と彼の中に流れ込んでくる。蓮は、ついに思い出した。結衣と共に過ごした、あの七年間のすべてを。そして、それと同時に蘇ったのは、あの催眠の日に起きたことのすべてだった。あの日、催眠を受ける決心をした時の自分は、切なくてなまらない思いの中にいた。そして結衣も同じように、深い絶望の中にいたことを蓮は覚えていた。 だからこそ、クリニックへ向かう時、彼は結衣をそ
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第16話

三年という歳月は、長くもあり、短くもあった。だが、すべてを一変させるには十分すぎる時間だった。刑務所の重い扉をくぐり抜けた蓮は、降り注ぐ眩しい太陽の光に思わず目を細めた。「……蓮」前方から、掠れた低い声が聞こえた。 蓮が声のする方へ目を向けると、そこには驚くほど老け込んだ両親が立っていた。彼は力なく微笑み、「父さん、母さん」と短く応えた。 その声を聞いた瞬間、母親の目から涙がボロボロと溢れ出した。蓮はひどく動揺した。正直、どのような顔をして両親に会えばいいのか、分からなかったのだ。 自分のせいで、二代にわたって築き上げてきた桐生家のすべては、破産という形であっけなく崩れ去った。 これまで一度も苦労などしたことがなかった両親も、彼のせいで巨額の借金を背負うことになってしまった。今の彼には、それを償う術(すべ)などこれっぽっちも残っていない。 絞り出すように口にできたのは、たった一言だけだった。「……ごめんなさい」母親は泣きながら首を振った。「あなたのせいじゃないわ。ただ……人を見る目がなかっただけなのよ」 父親も深く重いため息をつき、蓮の肩をぽんと叩いた。 「行こう。話は家についてからだ」車に乗り込んだ蓮は、何も言わずにただ、流れていく外の景色を眺めていた。今の彼は、三年前よりもさらに魂の抜けた抜け殻のようだった。 全身にどす黒い死の気配が漂い、両親が心配しているのは分かっていたが、自分でもどうしようもないほど生きる気力を失っていた。まさに、生き地獄そのものだった。刑務所は、郊外の山の中腹にあった。 車を走らせて十キロほど過ぎた頃、死んだようだった蓮の瞳に、わずかな光が宿った。「……止めてくれ」車を降りると、蓮は乱れた髪を整え、服のしわを必死に伸ばした。 髪は整える術もないほど短い坊主頭で、服は三年前の古いデザインだ。 蓮はいたたまれない気持ちで眉をひそめたが、それでも込み上げる焦燥感に突き動かされるように、前へと歩き出した。 まさか帰り道に、結衣が眠る墓地があるとは思わなかったのだ。墓地の奥へ進むにつれ、蓮の心臓の鼓動はどんどん速まっていった。 緊張を紛らわせるために、何度も服の裾を整える。 だが、ようやく辿り着いた結衣の墓前で、蓮の表情は凍りついた。
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第17話

蓮は後ろから結衣を強く抱きしめた。溢れ出した涙が、彼女の薄手の服をぐっしょりと濡らしていく。 彼の手にあるスマホの画面には、今もっとも世間を騒がせているニュースが映し出されていた。『国内初の人体冷凍保存プロジェクトが劇的な成功を収める。我が国の医療水準が新たなステージへ』 『唯一の蘇生者である鬼グループの浅見結衣氏は、この研究への投資を拡大すると表明。将来、すべての難病患者に「再生」のチャンスが訪れるかもしれない』ニュースを見てから数時間が経っても、蓮の興奮は冷めやらなかった。 「結衣……生きていてくれて、本当によかった。また君に会えるなんて、夢みたいだ……」だが、そんな彼とは対照的に、結衣の反応は驚くほど冷たく、どこかよそよそしいものだった。彼女は蓮を突き放すと、表情一つ変えずに問いかけた。「どうやってここに入ったの?」「玄関の暗証番号……俺の誕生日だろ? 昔、君が教えてくれた……」 蓮はそう言いながら、また彼女を抱きしめようと手を伸ばす。 しかし結衣は素早く後ろへ下がり、さらに声を冷たく沈ませた。「たとえパスワードを知っていたとしても、家主の許可なく上がり込むなんて。……人として最低限のマナーも欠いているようね」その言葉に、蓮はようやく自分の失礼な振る舞いに気づき、たじろいだ。 「……ごめん、結衣。どうしても君に会いたくて、我慢できなかったんだ」 彼は目を真っ赤に腫らし、必死に訴えた。「ずっと、君に会いたかった」「……本当に、すまなかった。あの日、君がいなくなった後で……」蓮は「死」という不吉な言葉を飲み込んだ。「紗良が何をしていたのか、全部知ったんだ。過去の記憶も、全部取り戻した」「あんなに君を傷つけてしまったこと……本当に後悔している。死ぬよりも辛くて、もう、耐えられなかったんだ……」 涙まみれの顔に、彼は歪んだ笑みを浮かべた。 「でも、神様は見捨てていなかった。またこうして君に会わせてくれたんだから」そう言って、蓮は結衣にキスをしようと一歩近づいた。「……結衣、もう一度、やり直させてくれないか?」だが、結衣は顔を背けてその唇をかわすと、不快そうに眉をひそめた。 「いい加減にして」 呆然とする蓮を冷たく見据え、彼女は吐き捨てるように言った。「あいにくだけど、私
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第18話

一束のバラが地面に落ち、無残にも足元で踏みにじられた。 結衣は、すべてを思い出したはずの蓮が、なぜ清香を捨てて今さら自分を追いかけてきたのかなど、聞きもしなかった。彼女はただ、蓮の顔にじわじわと顔を近づけ、耳元で囁いた。「よくもまあ、どの面下げて私の前に現れたものね。もし私があなたの立場なら、私が目覚めたと知った瞬間に、どこか遠くへ逃げ出して二度と姿を見せないわ。それとも何? 私がそんなに物分かりのいい、優しい女だとでも思っていたの?」首を絞める力がさらに強まり、蓮の呼吸は次第に苦しくなっていく。 視界が霞む中で彼が見た結衣の瞳は、先ほどまでの「知らないふり」をしていた時とは、まるで別人のようだった。その眼差しは、氷のように冷たく、そしてドロドロとした憎しみに満ちている。 蓮の心臓は、恐怖と衝撃で激しく跳ね上がった。「……結衣、まさか……思い出したのか?」結衣は何も答えず、ただ唇をきつく噛み締めて、首を掴む手にさらに力を込めた。 彼女は、心底から蓮を憎んでいた。 この男は、彼女の生きる希望を、何度も、何度も、完膚なきまでに叩き潰してきたのだ。 あの時、ナイフで刺され、自分の命が尽きていく絶望感を、結衣は今でも鮮明に覚えていた。もし、傷ついたのが自分一人だけだったなら、これほどの憎しみは抱かなかったかもしれない。 だが、彼女が冷凍保存されている間、最愛の母親は娘を亡くした悲しみに打ちひしがれ、精神を病んでしまっていた。ぼんやりと車道に足を踏み出し、何台もの車に次々と撥ねられ、無残に命を落としたのだ。結衣の瞳が、怒りで赤く染まる。 かつて彼を深く愛していた分だけ、底知れぬ殺意が彼女を支配した。 一瞬、本当にこのままこの男を殺してやろうかという衝動が彼女を支配した。だが、最後に結衣はパッと手を離し、地を這うようなほど低い声で言い放った。 「……消えて」蓮は後ろによろけ、喉をかきむしるようにして激しく咳き込んだ。酸欠で目に溜まった涙が、ボロボロと地面に滴り落ちる。 結衣はそんな彼に目もくれず、冷徹な表情のまま階段を降りていった。数歩歩いたところで、彼女は足を止め、振り返らずに鋭い警告を残した。 「私が戻ってくるまでに、ここからいなくなって。蓮、これ以上私を怒らせないで」病院での検査を
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第19話

華やかな結婚式は、見るも無惨な茶番劇に終わった。 友人が笑いものにされる姿を眺める趣味など、結衣にはない。彼女は友人の肩をそっと叩き、「何かあれば電話して」とだけ言い残して、その場を後にした。ところが、教会の外に出た途端、結衣の視界が急激に暗転した。 抗う術もなく、体が前方へと崩れ落ちる。迫り来るアスファルトの地面を見つめながら、結衣は心の中で力なくため息をついた。 ……これで、顔に傷が残っちゃうわね次に目を覚ました時、彼女は病院のベッドの上にいた。 傍らでバイタルデータを確認していた専門医が、彼女の意識が戻ったことに気づいて説明を始めた。「脳貧血による一時的な失神ですね。冷凍保存の後遺症ですから、完全に回復するにはまだ時間がかかりそうです。しばらくは一人で出歩かないようにしてくださいね。それと、あまり感情を刺激されるようなことは避けて、安静にすることです」結衣は静かに頷いた。「分かりました。ありがとうございます」医師が部屋を出ると、ずっと付き添っていたアシスタントが口を開いた。「社長、実は桐生様が、ずっと外で待っているそうます」 「……え?」 「社長が倒れたところを偶然見かけて、ここまでついてきたようです。ガードマンが足止めしており、中には入れませんでした」時計に目をやると、気を失ってからすでに数時間が経過していた。 窓の外は、いつの間にか激しい土砂降りになっている。 結衣は何も言わず、ただじっと雨に煙る景色を見つめていた。アシスタントは彼女の真意を測りかねたが、外でずぶ濡れになっている蓮のもとへ向かった。 「浅見社長はもう大丈夫です。桐生様、お引き取りください」 その言葉を聞いた瞬間、蓮の張り詰めていた糸が切れ、安堵の色が広がった。 彼はアシスタントに小さく頷くと、そのまま背を向けて立ち去った。帰宅した蓮を待っていたのは、激しい悪寒だった。熱はみるみるうちに上がり、意識も朦朧としてくる。真夜中、彼は耐えきれずふらつく足取りで病院へ向かい、点滴を受けることになった。「あの……桐生蓮さん、ですよね?」 点滴の準備をしていた看護師が、確信を持てない様子で声をかけてきた。 蓮が力なく「そうです」と答えると、看護師の目がパッと輝いた。 「よかった! ナースステーションに一箱、あ
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第20話

風が吹き抜け、二人が過ごした七年間は、灰と共に跡形もなくどこかへ消え去ってしまった。結衣は蓮をその場に残し、たった一人で車を走らせた。だが、走り出してから間もなく、彼女はハンドルを握る自分の手が激しく震えていることに気づいた。追い打ちをかけるように、あの不吉な眩暈が彼女を襲った。意識が遠のき、ハンドルから手が滑り落ちる。制御を失った車は、そのまま土手の下へと突っ込んでいった。再び病院のベッドで目を覚ました結衣は、自分でも呆れるのを通り越して、もはや無力感に包まれていた。医師が口を開く前に、彼女は自分から謝罪を口にした。「……分かっています。感情的になりすぎて、失神したんですよね。次は気をつけます」医師は何も言わず、カルテを閉じた。「自覚があるならいいです。とにかく、できるだけ穏やかに過ごすこと。一人での外出は、本当に控えてくださいね」医師が去ると、結衣の顔から笑みが消えた。口では冷静を装っていたが、あのお面や思い出の品々を目の当たりにしたことは、想像以上に彼女の心にダメージを与えていたのだ。あの七年間は、間違いなく彼女の人生で最も輝いていた時間だった。それを自らの手で焼き払ったことで、彼女の心にも、ぽっかりと大きな穴が空いてしまった。だが、その穴を何かの感情で埋めるつもりは、もうさらさらなかった。彼を愛していたのは事実であり、同時に、心底から憎んでいるのもまた事実だ。今の彼女にできるのは、蓮との縁を完全に切り捨て、二度と自分に関わらせないようにすることだけだった。結衣は唇を噛み締め、しばらく沈黙した後、意を決してスマホを手に取った。かけた相手は、蓮の父親だった。「……叔父様、折り入ってお話があります。取引をしましょう」それから数日も経たないうちに、蓮の家には借金取りたちが次々と押し寄せ、怒号を上げ始めた。出所してからというもの、これほど凄惨な修羅場を蓮は見たことがなかった。彼は恐怖で震える母親を抱きしめ、目の前で家財道具が叩き壊されるのを、ただ呆然と見守るしかなかった。男たちは汚い言葉を浴びせて脅しをかけると、嵐のように去っていった。その後も、嫌がらせは毎日のように続いた。常に怯えて過ごす日々に、母親の精神は限界に達していた。彼女は蓮の前に泣き崩れて膝をついた。「蓮、お願い。もうここ
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