All Chapters of あの日、君を忘れなければ: Chapter 1 - Chapter 10

21 Chapters

第1話

余命一ヶ月と知った浅見結衣 (あさみ ゆい)が、真っ先に取った行動は――桐生蓮(きりゅう れん)を呼び戻し、強引に自分のそばへ引き留めることだった。その夜、結衣の腰に手を添えた蓮は、息を乱しながらも、沈んだ目で彼女を見つめている。しかし、その目だけは冷えきっていた。自分と狂おしいほどに肌を重ね合わせる女を見つめる彼の瞳の奥には、残酷なほどの憐れみが滲んでいる。「結衣、こうしてしつこく付きまとって何になる?いくら体を重なっても、お前に惹かれることなどあり得ないって、分かってるだろう」以前の結衣なら、それだけで十分に傷ついたはずだ。しかし、自分の余命がわずかだと悟っている彼女は、そんな言葉は耳に入らないとばかりに、さらに艶めかしい仕草で蓮と唇を重なり、それ以上の言葉が出ないよう完全に封じ込めた。……すべてが終わると、結衣は名残を惜しむようにそっと蓮に口づけし、ベッドを下りて洗面所へ向かった。自分が死んだあとのことを、蓮ときちんと話しておくつもりだ。しかし、数歩歩いたところで突然目の前が真っ暗になった。倒れ込んだ拍子に、蓮がテーブルに置いている鍵を落としてしまった。パシャン――部屋の中に、甲高い音が響き渡った。次の瞬間、蓮が飛び出してきた。しかし、彼の視線は床に倒れた結衣には一切向かず、ただ自身のキーホルダーだけを捉えている。鍵についているクリスタルのストラップが砕け散っているのを見た途端、蓮の顔色がさっと変わった。「何やってんだよ!」彼は低く押し殺した声で言った。「お前、どこに目をつけてるんだ!?」怒鳴りながら、蓮の目はすでに赤く染まっている。結衣は誰かを突き落として死なせたてしまったかのような底知れぬ恐怖を覚えた。喉の奥にひどく渋く苦い味が広がる。結衣は分かっている。そのストラップがそれほど高価なわけではない。ただ、瀬戸清香(せと さやか)が蓮に贈ったものだからだ。「ごめんなさい」彼女は体を起こし、ストラップの破片を拾おうとした。だが、蓮は彼女の手を払いのけ、瞳の冷たさを露わにした。「その汚い手で触るな!」結衣は唇を噛みしめた。「わざとじゃないの。ちょっと目眩がして、つい……」結衣は説明した。彼女は少しだけためらい、言葉を紡いだ。「蓮、私……もうすぐ死ぬの」蓮は冷笑
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第2話

ポケットの中のスマホから突然、通知音がした。【浅見様、お申し込みの墓地使用契約が無事に承認されました】ちょうどその時、蓮が両手に破片を持って部屋から出てきた。「墓地ってなに?」結衣はそれ以上、自身の状況について口にすることはなかった。「死」という言葉を出せば、蓮からほんの少しの同情を引き出せるのではないかと期待していた。しかし今の冷たい態度を見る限り、もし自分が本当に死ぬと知れば、彼は間違いなく祝杯をあげるほど喜ぶに違いない。結衣は、そんな残酷な光景を絶対に見たくない。結局、彼女は「何でもないわ」とだけ返した。そして話題を変えるように、「どこへ行くの?」と尋ねた。蓮はわざとらしいことを聞くなとばかりに冷ややかな視線を向けた。「清香からの大切な贈り物を台無しにしておいて、これ以上俺がここにいられると思うのか」結衣は唇を強く噛みしめた。「どこへ行こうか知らないけれど、今すぐ部屋に戻って。さもなければ、浅見家と桐生グループの取引はすべて白紙に戻してやる」蓮の胸が一瞬激しく鼓動した。そしてその瞳の奥が、みるみるうちに氷のように冷たくなった。「お前がここまで卑劣な女だとは思わなかった」結衣は淡々と頷いた。「だから、大人しく言うことを聞いた方が身のためよ」結局、蓮は顔をこわばらせたまま部屋に入った。固く閉ざされた寝室のドアを見つめながら、結衣は自嘲めいた笑みを浮かべた。無理に引き留めたところで、蓮の心はもう自分に向くことはないと、結衣は痛いほどわかっている。それでも、もう愛されていなくてもいいから、せめて人生の最後くらいは蓮にそばにいてほしい。翌朝、結衣はまた血を吐いた。彼女は無表情に口元を拭い、アシスタントからの電話に出た。「社長、今夜八時から新港ふ頭で晩餐会がございます。ご出席をお願いいたします」結衣は眉をひそめた。残されたわずかな時間はすべて蓮と一緒に過ごしたいが、この晩餐会はずっと前に出席を承諾しており、今さら断ることはできない。仕方なく、結衣は蓮と一緒に晩餐会へと向かうことにした。しかし、華やかな晩餐会の会場で、結衣は決してそこにいるはずのない人物の姿を捉えた。白河紗良(しらかわ さら)が笑顔で歩み寄ってくる。「浅見社長」そして蓮の方へ視線を移すと、ひときわ親しげな声色
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第3話

結衣の全身は激しく震え、言葉には、魂を削るような痛みが滲んでいた。「蓮、分かっているの?この医師たちが去れば、私の手術だって失敗に終わる可能性が高いのよ」「それに……あなたをあの海から救い出したのは私なの。紗良じゃないわ!」蓮の目元が、痛々しいほど赤く染まった。「すまない、分かっているんだ……でも、彼女がまた俺の目の前で命を落とすのを、ただ黙って見ることなんて、俺にはできないんだ」結衣は絶望に耐えるように、静かに瞼を閉じた。「……蓮、いい加減に目を覚まして。紗良は清香さんじゃないのよ」しかし、蓮はなりふり構わず、結衣の前に崩れ落ちるように膝をついた。「結衣、一度だけでいい、彼女を助けてくれ。頼む。……もしお前が死ぬのなら、俺も一緒に逝く。だから、お願いだ」 その時の彼は、絶望と悲しみの果てに、どこか病的なまでに追い詰められていた。縋り付くような低い声で、彼は結衣に何度も哀願を繰り返す。 紗良のために、これほどまでの醜態をさらす蓮の姿を、結衣は想像すらしていなかった。ただ、あの女の顔が清香に似ているという、たったそれだけの理由のために。諦めずに思い続けていれば、いつかは彼の頑なな心も溶かせる日が必ず来ると、結衣はずっと信じていた。 しかし今、かつて味わったことのないほどの激しい敗北感が、彼女の心を冷酷に締め上げた。 「……私の後を追うなんて、そんなこと必要ないわ」長い沈黙の後、結衣は声を絞り出した。「もし私が生き延びることができたら、その時は……私と再婚して」蓮は考える間もなく、即座に拒絶の言葉を叩きつけた。「ダメだ!」彼はガバッと顔を上げ、結衣をじっと見つめた。「分かっているだろ、俺が愛しているのは清香なんだ。そんなことをして、一体何の意味があるっていうんだ?」 何の意味があるのか——。その答えなんて、自分でも分からなかった。おそらく、共に過ごしたあの幸せな七年間の記憶があまりにも深く魂に刻まれてしまい、どうしても手放すことができないのだろう。 あるいは、ただ単に清香に負けたくないだけなのかもしれない。たとえ蓮の心は手に入らなくても、せめて彼の存在だけは自分の隣に繋ぎ止めておきたかった。結衣は一歩も引かず、一点を射抜くような声で言い放った。「答えて。……受け入れるのか、しないのか。そ
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第4話

蓮はすぐさま、大急ぎで119番に通報した。救急車が来るのを待つ間、彼は紗良をその腕に抱きかかえ、鋭い視線を突き刺すように結衣を睨みつけた。「さっきの質問を、今答えてやる。……俺は、嫌だ」結衣の瞳が、わずかに震えた。蓮は指輪を床へと投げ捨て、そらすことなく結衣を見つめ返した。怒りのあまり、彼の言葉はもう誰にも止められないほど残酷なものになっていた。「もし選べるのなら、たとえ一生独りで死ぬことになったとしても、お前と再婚なんて絶対にしない」それだけでは飽き足らず、大勢の招待客たちの前で、蓮はさらに追い打ちをかけるような一言を吐き捨てた。「結衣……お前と過ごしたあの七年間の結婚生活こそが、俺の人生で一番の後悔だ」周囲からの冷ややかな視線と嘲笑まじりの囃し立てが、一斉に結衣を包み込んだ。だが、今の結衣にはそんな騒音すら耳に届かなかった。ただ信じられないという思いで、呆然と蓮を見つめていた。「……今、なんて言ったの?」「言ったはずだ」蓮は射抜くように見据え、言葉の一つひとつを心に叩きつけるように繰り返した。「俺の人生で一番の後悔は、お前のような女と七年もの時間を無駄にしたことだ!」その残酷な言葉がようやく現実のものとして突き刺さったのか、結衣は膝の力が抜け、よろめくように一歩後ずさった。……そして次の瞬間、彼女の口から真っ赤な血が激しく噴き出した。意識が遠のき、その場に崩れ落ちる瞬間、結衣の目に映ったのは、真っ青な顔をしてステージへと駆け寄ってくる両親や親族の姿だった。 その一方で、蓮は一度も振り返ることなく、紗良を抱きかかえたまま会場を去っていった。 二人の結婚式は、結局のところ、あまりにも滑稽で無残な笑い話となり、人々の好奇の目に晒される格好の噂の種に成り果ててしまった。結衣は、もう二度と目が覚めることはないだろうと、心のどこかで確信していた。しかし、再び意識を取り戻した彼女は、ただ静かに天井を見つめたまま、長い間、物思いに沈んでいた。蓮が最後に言い放ったあの冷酷な言葉が、いつまでも頭の中で鳴り止まない。 それを思い出すたびに、鋭い刃で生身の心を切り刻まれているような、言葉にできない苦痛が結衣を苛んだ。共に寄り添い、歩んできた二千日以上の歳月。 生死を分かつような絶望的な状況でさえ、かつては互
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第5話

一方、結衣のアシスタントを追い返した蓮は、掃除に来ていたスタッフにあの箱を無造作に押しつけた。 「これ、捨てておいてくれ」その様子を見ていた紗良の口元には、満足げな笑みがかすかに浮かんだ。 だがすぐに心配そうな表情を作ると、蓮に問いかけた。「蓮さん、こんなことをして……浅見社長にまた何かされるんじゃないかしら?」「俺のことは心配しなくていい」蓮は微笑みながら、紗良の髪を優しく撫でた。 「それより紗良の方だ。あんな無茶なことは二度としないでくれ。処置が少しでも遅れていたら、命を落としていたんだぞ」 紗良が毒を飲んだ瞬間の光景を思い出すだけで、蓮の心は今も恐怖で震える。「でも……」紗良の瞳に涙が浮かぶ。「私のために、蓮さんが望まない結婚をするなんて耐えられなかったの」蓮は何も言わなかった。本音を言えば、自分だって結衣と再婚などしたくはなかった。 だが、結衣は目的のためなら手段を選ばない狂った女だ。下手に逆らえば、容赦なく桐生グループに牙を剥くだろう。 ここ数年、経営が思わしくない桐生グループに対し、浅見グループの勢いは留まるところを知らなかった。数日後、蓮は迷った末に、やはり結衣の元を訪れた。結衣はもう自分の足で立つことさえできず、車椅子に深く身を預けていた 。 その姿を目にした瞬間、蓮は思わず息を呑んだ。「……どうしたんだ、その体は」車椅子を押していたアシスタントが、思わず声を震わせた。「社長は、あなたのせいで……」 だが、結衣はそっと手を挙げ、それ以上は言わせなかった。一ヶ月前、蓮が拉致された際、彼を救い出した結衣は正体不明の薬物を注射されていた 。それは、この世に存在しない新型の猛毒だった。一度体内に入れば、二ヶ月も経たないうちに、逃れられない激痛の中で命を落とすことになる 。 かつての結衣は、どれほど彼を繋ぎ止めたくても、この件を切り札にして同情や愛を乞うような真似はしなかった 。すべてを諦めようとしている今なら、なおさら伝える必要などない。「なんでもないわ。少し不注意で怪我をしただけよ」結衣は淡々と、静かに答えた。 蓮は、彼女が結婚式で吐血したことを言っているのだと思い込み、鼻で笑った。「相変わらず、大げさなやつだな」 彼は少し言葉を切り、続けた。「お前が望むなら、式の続き
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第6話

結衣は、蓮とこれほど早く再会することになるとは思ってもみなかった。 翌日、アシスタントが興奮に声を震わせながら、知らせを持ってきた。「社長……あなたの体にある毒の出所が分かりました!」 「海外のある研究所で開発された新型の毒物で、少し前にスタッフの一人が盗み出したそうです」 アシスタントは大きく息を吸い込み、言葉を継いだ。「そのスタッフというのが……白河紗良だったんです!」 結衣の表情が、一瞬で鋭くなった。 つまり、一ヶ月前に蓮を拉致したのは紗良だったのだ。 おそらく、彼女と蓮の運命的な出会いさえも、最初からすべて仕組まれた計画の一部にすぎなかったのだろう。 「……彼女はどこ?」結衣は低い声で問いかけた。 「すでに捕らえさせました。地下室にいます」 三十分後、結衣は自宅の地下室で、激しく抵抗する紗良と対峙していた。 「今すぐここから出しなさい! 蓮さんに知られたら、あなたたち、ただじゃ済まないわよ!」 結衣は冷え切った瞳で、騒ぎ立てる女を見つめた。「一ヶ月前、蓮を拉致して私に毒を打ったのは……あなたね」 紗良の顔色が一変した。だが、すぐさま声を荒らげてしらを切った。「……何のことか、さっぱり分からないわ」 「いいわ。今から思い出させてあげる」 結衣の言葉が終わるか終わらないかのうちに、誰かの蹴りが紗良の腹部へとめり込んだ。 紗良の口から苦悶の悲鳴が漏れる。 それからしばらくの間、静まり返った地下室には、彼女の絶叫だけが響き渡った。どれほどの時間が経っただろうか。結衣はようやく手を止めさせると、ボロボロになり、血の気が引いた紗良の前に車椅子で進み出た。そして、逃げ場のない視線で冷酷に見下ろした。 「……そろそろ、話す気になったかしら?」 紗良の体は、激しく震えていた。 目の前にいる結衣は、病に侵され、今にも死にそうな姿をしているはずなのに。紗良は、骨の髄まで凍りつくような恐怖が、自分の手足を侵食していくのを感じていた。 「私は……」 彼女がようやく口を開きかけた、その時だった。 一つの人影が、凄まじい勢いで地下室へと飛び込んできた。パシンッ――乾いた音が地下室に響き渡り、結衣の頬にはくっきりと手形が浮かび上がった。蓮は怒りのあまり全身を震わせ、その瞳には底知れぬ殺意が
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第7話

目の前で紗良が逃げ去るのを黙って見送るしかなく、その屈辱と憎しみで、結衣の心は押しつぶされそうだった。 表情こそ平穏を装っていたが、その内側では荒れ狂う海のように激しい感情が渦巻いている。 蓮が去って間もなく、彼女は力尽きたように車椅子の上で意識を失った。今回の発作は、かつてないほど激しいものだった。 処置室からは、ひっきりなしに危篤の知らせが次々と伝えられ、ついには浅見家の人々が全員駆けつけるほどの事態となった。廊下の向こう側。一号処置室の前のただならぬ騒ぎを、蓮は眉をひそめて見つめていた。 そこには、結衣の両親らしき姿も見える。 ……結衣の体は、本当にそこまで酷いのか? 蓮の心臓がドクリと跳ねた。思わず立ち上がり、様子を見に行こうとしたその時、隣から押し殺したような紗良の呻き声が聞こえてきた。踏み出そうとした足が止まる。蓮は慌てて振り返り、紗良の体を支えた。 「どうした? どこか痛むのか」 紗良は顔を蒼白にさせ、「胸が……。きっと肺まで傷ついてしまったんだわ」と苦しげに呟いた。 言うなり、彼女はどす黒い血を激しく吐き出した。蓮の顔色が変わり、すぐさま医者を呼びつけた。「さっきの検査では、肋骨が折れているだけだと言ったじゃないか!」 彼は申し訳なさに眉を寄せ、紗良を抱き寄せた。「すまない……結衣がここまで紗良にひどいことをするなんて、思わなかったんだ」紗良の瞳の奥にどろりとした憎悪がよぎったが、口から出たのは別の言葉だった。「蓮さん、自分を責めないで。あんな狂った女に関わってしまったのが運の尽きだわ」 彼女は逆に蓮をなだめるように言った。「蓮さん、急ぎの用があるんでしょう? 私は大丈夫だから、行って。ただ……」 「……どうして結衣さんがあそこまで私を犯人だと決めつけるのか、それが怖いの。また酷いことをされるんじゃないかって」それを聞き、蓮の罪悪感はさらに深まった。彼は力強く首を振った。 「いや、もうどこへも行かない。これからは片時も離れず、俺がそばにいてやる」 「あいつには、二度と紗良に手出しをさせないよう、釘を刺しておく」 彼は紗良を抱き上げると、「行こう。もう一度、ちゃんと診てもらおう」と告げた。検査室に入る直前、蓮は遠くで人々がひしめき合っている廊下を一度だけ振り返った。
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第8話

結衣の目には何も見えなかった。だが、自分に刃を突き立てたのが誰なのか、瞬時に悟った。 「……蓮?」 絶望が波のように押し寄せ、喉はひりついて声にならない。「どうして……?」「清香の墓を掘り返すなんて……。結衣、よくもそんな真似ができたな」 蓮の冷酷極まりない声が、目の前で響いた。結衣は力なく口を開きかけた。これもきっと、紗良の仕業に違いない。 だが、あまりの激痛に、一言も説明することができなかった。 ……いや、もう説明する気力すら、残っていなかったのだ。蓮は結衣の沈黙を「認めた」のだと受け取り、瞳の奥に恐ろしいほどの怒りを燃え上がらせた。 彼は結衣の耳元に顔を寄せた。その囁きは、まるで恋人に囁きかけるように甘く、だがその内容は、この上なくおぞましい呪いだった。「結衣……あの世に行って、清香に詫びを入れろ お前のような人でなしは、地獄のどん底まで堕ちるのがお似合いだ。 安心しろよ。お前が死んだ後は、二度と生まれ変わってこられないように、仏様の前で毎日祈ってやるからな」言い終えるなり、突き立てられていた刃が、容赦なくその体から引き抜かれた。 次の瞬間、傷口から鮮血が激しく噴き出した。結衣はこらえきれず、苦悶の声を漏らした。そのまま意識は深い闇へと沈んでいく。 だが、いつもならそのまま眠り続けるはずの意識が、今回に限っては、恐ろしいほどの鮮明さですぐに目覚めた。続いて彼女の耳に届いたのは、医師の重苦しい宣告だった。 「……もう、手遅れです。今の浅見様の状態では、手術に耐えられるだけの体力は残っていません」 それと同時に、両親の激しい怒鳴り声と、身を切るような泣き声が響き渡った。それを聞きながら、結衣は心の中で、声にならない絶望の叫びを上げた。 この瞬間、彼女は蓮を心の底から憎んだ。 あと少し……。あと少しで解毒剤が手に入り、健康な体を取り戻せたはずなのに。「社長……」 すぐそばで、アシスタントが震える声で呼びかけた。 結衣はわずかに首を動かした。「……蓮は?」 「……混乱に乗じて、どこかへ立ち去りました」結衣は小さく「そう」とだけこぼすと、力なく、だがはっきりとした口調で命じた。 「私の首にかかっている……このお守りを、外して」 アシスタントは言われた通り、そっとその紐を解い
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第9話

一日後、アシスタントは再び蓮の元を訪れた。 「なんだ、お前のところの社長は、ようやくくたばったのか?」 アシスタントは黙って頷くと、一通の訃報と、血に染まったあのお守りを差し出した。その顔には、もはや何の感情も浮かんでいない。「浅見社長の葬儀は、三日後に行われます」蓮の表情が、その場で凍りついた。 白黒の、冷たい紙面に並ぶ「訃報」の文字が、彼の目を強く引き付けた。 耳の奥で、嫌な羽音が鳴り響くような感覚に襲われた。だが、その取り乱した様子は、ほんの一瞬のことだった。 次の瞬間には、彼はいつもの冷笑を浮かべ、平静を取り戻していた。「あいつには、いい加減にしてくれと言ったはずだ。同情を引くための薄汚い狂言など、俺には通用しない」 彼は忌々しそうに訃報をアシスタントに投げ返した。 「俺を騙すために、こんな不吉なものまで用意するとはな。本当に地獄に落ちるとは思わなかったのか?」アシスタントは、不快そうに眉をひそめた。「社長は本当に亡くなったのです。関連者たちにもすでに連絡は回っていますし、彼女は……」 「ならちょうどいい」 蓮はイラ立った様子で、彼女の言葉を遮った。「死んだというのなら、今頃あの世で清香に詫びを入れているところだろうな」アシスタントは、結衣が歩んできたこの数年をずっとそばで見てきた人間だった。 彼女が蓮に尽くしてきた時間が、どれほど虚しく、無価値なものだったか。その思いが、今ほど強く胸を締め付けたことはなかった。 もはや、この男に何を言っても無駄だ。彼女は冷い態度で、蓮が突き返してきたお守りを、そのまま道端に置いた。「……私の役目は果たしました。信じるかどうかは、好きになさってください」 そう言い残すと、彼女は一度も振り返ることなく、その場を立ち去った。去っていくアシスタントの背中を見送りながら、蓮は鼻で笑った。 「……随分と手の込んだ芝居だな」結衣が死んだという言葉を聞かされた瞬間は、確かに心臓が止まるかと思うほど驚いた。 だが冷静になって考えれば、あの時自分は怒り狂っていたとはいえ、刺した傷は決して深くはなかったはずだ。どれほど残酷な言葉を吐いたとしても、あれが致命傷になるはずなどない。 ましてや、ここは病院だ。処置が遅れることなどあり得ないのだから。分析すればす
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第10話

テレビの中の女性アナウンサーの声は淡々と続いているが、今の蓮には何も聞こえなかった。 彼は玄関を飛び出すと、汚れも気にせず道端のゴミ箱をあさり、先ほど引き裂いたばかりの訃報の紙をかき集めた。黒い縁取りに白い文字。その白黒の文字が、今は恐ろしいほどに彼の目を突き刺す。 破片を握りしめる蓮の手は、自分でも制御できないほどガタガタと震えていた。「……そんなはずがない」 「あいつが、死ぬわけがないんだ」蓮はうわごとのように繰り返した。「結衣のことだ、テレビ局を買収して、俺を陥れるためにこんな悪質な悪ふざけを仕掛けているに決まっている」 だが、すぐに言葉を失った。全国放送のニュースで、これほど大掛かりな嘘を流す人間がどこにいるというのか。「いや……あいつならやりかねない。結衣なら、俺を苦しめるためなら、どんなえげつないことでも平気でするはずだ」 自分を安心させるようにそう言い聞かせると、震える手で知り合いの経営者仲間に片っ端から電話をかけた。 「……おい、結衣が死んだというニュースを見たか?」 「ああ、届いているよ」 「本当のことらしいな……。まさか、あんなに若くて有能な彼女が……」蓮は引きつった笑みを浮かべようとしたが、どうしても頬が動かなかった。彼は家から出てきた紗良を振り返る。 「……聞いたか? 結衣のやつ、俺の友人たちまで買収して、この茶番に付き合わせているんだ。」紗良は心配そうな顔で彼を支えた。「蓮さん、落ち着いて。他のネットニュースもSNSも、今はこの訃報で持ちきりよ……」それでも、蓮は信じようとしなかった。 いや、信じたくなかったのだ。 自分のあの一突きが、結衣の命を奪ったのだとは……。 ただの男に過ぎない彼にとって、「一人の人間の命を奪った」という事実は、背負いきれるほど軽いものではなかった。彼は紗良を突き放すと、足をもつれさせながら地下駐車場へと駆け込み、そのまま車を飛ばして浅見家へと向かった。 ……この目で見届けるまでは、絶対に信じない。浅見家に到着するなり車を降り、リビングへと突進したが、中に入る前に飛び出してきた誰かに、思い切り顔を殴り飛ばされた。 それと同時に、泣きすぎてかすれた声が、骨の髄まで凍りつくような憎しみを込めて頭上で響いた。「娘の命を返して! 結衣
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