その言葉にハッとして、奈緒は慌てて顔を上げた。慌てて顔を上げると、制服姿の中年男性が堂々とした足取りで入ってきた。厳格な顔立ちと、威圧せずとも周囲を黙らせる風格。彼が足を踏み入れた途端、署内の空気が一変した。先ほどまで椅子に座って騒動を見物していた警察官たちが、一斉に立ち上がる。そして声を揃えた。「須藤本部長!」その呼び名を聞き、翠と美紀は驚愕に目を見開いた。充の身体も、わずかに震える。充は、事前に手を回していた以上、奈緒たちには何もできないと確信していた。しかし、県警本部長本人が現れるとは……完全に不利になったこの状況に、充は脂汗を流し始めた。服についた臭いも忘れて、渉に助けを求めようとポケットに手を突っ込む。そこには何もない。携帯は奈緒の手の中にあったのだから。真っ青になっている充をよそに、須藤正国(すどう まさくに)は蘭の前まで歩み寄ってきた。先ほどまで全身にまとっていた厳しい気配を和らげ、自ら手を差し出す。その声音には、わずかな敬意すら滲んでいた。「酒井さん、ご無沙汰しております。須藤です。当時、あなたの事件を最後まで解決できなかったことを、今でも悔やんでいました。だから今日は、私自身がここへ来たんです」蘭は目を潤ませ、すぐさま頭を下げた。「こんなに経っているのに、まだ覚えていてくださったなんて……」「もちろんです」正国は署内を見回し、力強く続けた。「あの日、傷だらけで駆け込んできた酒井さんの姿を忘れたことはありません。当時は力不足で力になれませんでしたが、今は違います」そして彼は、驚愕で固まっている周囲を無視して尋問室の方を指さした。「全員、取調室へ入りなさい。被害届を出すというのなら、証拠をすべて机の上へ並べてもらいますので」奈緒はもう迷わなかった。両手で丁寧に携帯を差し出す。「須藤本部長。青木翠さんが主導したいじめ、そして青木充さんが動画を使って脅迫を繰り返していたことの証拠が、すべてこの携帯に入っています」正国は画面を立ち上げ、冷徹な目で充を見据えた。「ロックを解除してください」充の顔は土のようになり、見苦しい言い訳を並べる。「須藤本部長、それは私の私物ですので、会社の機密情報と個人情報も含まれています。法律上、俺には開示を拒否する権利が……」
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