All Chapters of 我が子より他人の子?産後ワンオペ妻の離婚: Chapter 341 - Chapter 350

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第341話

その言葉にハッとして、奈緒は慌てて顔を上げた。慌てて顔を上げると、制服姿の中年男性が堂々とした足取りで入ってきた。厳格な顔立ちと、威圧せずとも周囲を黙らせる風格。彼が足を踏み入れた途端、署内の空気が一変した。先ほどまで椅子に座って騒動を見物していた警察官たちが、一斉に立ち上がる。そして声を揃えた。「須藤本部長!」その呼び名を聞き、翠と美紀は驚愕に目を見開いた。充の身体も、わずかに震える。充は、事前に手を回していた以上、奈緒たちには何もできないと確信していた。しかし、県警本部長本人が現れるとは……完全に不利になったこの状況に、充は脂汗を流し始めた。服についた臭いも忘れて、渉に助けを求めようとポケットに手を突っ込む。そこには何もない。携帯は奈緒の手の中にあったのだから。真っ青になっている充をよそに、須藤正国(すどう まさくに)は蘭の前まで歩み寄ってきた。先ほどまで全身にまとっていた厳しい気配を和らげ、自ら手を差し出す。その声音には、わずかな敬意すら滲んでいた。「酒井さん、ご無沙汰しております。須藤です。当時、あなたの事件を最後まで解決できなかったことを、今でも悔やんでいました。だから今日は、私自身がここへ来たんです」蘭は目を潤ませ、すぐさま頭を下げた。「こんなに経っているのに、まだ覚えていてくださったなんて……」「もちろんです」正国は署内を見回し、力強く続けた。「あの日、傷だらけで駆け込んできた酒井さんの姿を忘れたことはありません。当時は力不足で力になれませんでしたが、今は違います」そして彼は、驚愕で固まっている周囲を無視して尋問室の方を指さした。「全員、取調室へ入りなさい。被害届を出すというのなら、証拠をすべて机の上へ並べてもらいますので」奈緒はもう迷わなかった。両手で丁寧に携帯を差し出す。「須藤本部長。青木翠さんが主導したいじめ、そして青木充さんが動画を使って脅迫を繰り返していたことの証拠が、すべてこの携帯に入っています」正国は画面を立ち上げ、冷徹な目で充を見据えた。「ロックを解除してください」充の顔は土のようになり、見苦しい言い訳を並べる。「須藤本部長、それは私の私物ですので、会社の機密情報と個人情報も含まれています。法律上、俺には開示を拒否する権利が……」
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第342話

充は、わずか数秒で正国の圧力に屈した。何かを言おうとして口を開いたが、胸の奥に綿を詰め込まれたように息苦しく、声がまるで出ない。もう、仕方がない……そもそも15年前の一件は、母たちがあまりにも蘭を追い詰めたことが悪い。しかも正国までここにいて、どんな策も通じない今、妥協するしかないだろう。充が暗証番号を口にしようとした、その時だった。事態を悟った翠が、急に後ろで声を上げた。「ああ……だめ、心臓が痛い……苦しい……息ができない……」翠は白目を剥き、口から泡を吹きながら、四肢を大げさに痙攣させる。まるで今にも息絶えるような迫真の演技だった。「お巡りさん……蘭にやられたんです……モップで叩かれて……もう死にそうです……」その大げさな芝居によって、捜査の流れが一時中断された。正国は眉をひそめ、二人の警察官に指示を出す。「救急車を呼んで、病院に搬送しろ」それを見ていた充が正国を遮った。「須藤本部長、母は心臓発作を起こしています。命に関わることなので、今すぐ自分が病院へ連れて行きます。携帯の件は、また後日にしてください!」充は手を伸ばして、携帯を奪い返そうとする。だが正国が鋭く睨みつけると、充はそれ以上動けず、気まずそうに手を引っ込めた。充は蘭と奈緒を冷たく睨む。「もし母さんに何かあったら、青木家としてただではおかないからな!」充がそう言った矢先のことだった。黙り込んでいた蘭が、不意に動いた。床に倒れ、口から泡を吹きながらも、薄目を開けて周囲の様子を窺っている翠を見下ろす。「心臓が痛いの?苦しい?」蘭の声は大きくない。それでも、底冷えするような凄みがあった。「そこまで苦しいなら、私が楽にしてあげる。今すぐあの世へ送ってあげれば、ここでくだらない芝居を続ける必要もなくなるでしょ?」そう言うや否や、蘭は躊躇なく、翠の胸めがけて腰を下ろした。「ぎゃああああっ!」つい先ほどまで激しく痙攣していた翠は、驚くほど素早く蘭の下から抜け出した。転がるように立ち上がり、胸を押さえて叫ぶ。「死ぬかと思った!蘭!本当に私を殺すつもりだったの?!私はまだ死にたくない!まだまだ生き足りないんだから!」思わず本音をすべて口にしたあと、翠はようやく気づいた。その場にいる全員が、奇妙な目で自分を
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第343話

しかし、正国は無表情のまま、端末を渡さなかった。淡々と言い放つ。「暗証番号を言ってください。残りの作業はこちらで行いますから」充は先ほどから、部屋の隅にある水槽へ目を向けていた。携帯さえ手元に戻れば、すぐに水槽へ投げ込んで壊すつもりだったのだ。だが正国には、そんな考えまで見抜かれていたらしい。充は仕方なく、重い口を開いた。暗証番号の3桁目を言いかけたとき、後ろから翠が充の袖をきつく引き寄せた。伸びた爪が食い込み、痛みで肌が裂けそうになる。翠は全身を震わせ、声を限界まで落として囁いた。「充……解除しちゃ駄目。あの動画には私だけじゃなくて……深津市の名家の奥さんも映ってるんだから!公になれば私たちは終わり……巻き込まれる人たちは、あなたでも敵に回せない相手なの」充の瞳孔が細く収縮する。心の底から後悔していた。だが、もう後戻りはできないのだ。ここまで追い詰められていれば、もう従うしかない。拒否すれば、母だけでなく、自分自身も刑務所入りは確定だろう。「母さん、自業自得だよ。あの時、母さんたちは確かにやり過ぎだったんだ。もう少し考えていれば、こんな結末にはならなかったはずだろ?ごめん。もう、どうしようもないんだ……」充は苦しげに目を閉じた。そして残りの暗証番号を、すべて口にする。正国はすぐさまロックを解除し、部下に証拠としてデータを抽出させた。保存されていた写真や動画は、当時の蘭がどれほどの執拗ないじめを受けていたかの、揺るぎない証拠だった。間もなく、その場で翠は警察に身柄を確保された。動画に姿が映っていた加害者や、事件に関与した人物もすべて召喚され、順番に尋問されることとなった。奈緒と蘭が警察署から出てきたときには、すでに夜は更けていた。奈緒が蘭の手を握ると、蘭の手のひらは氷のように冷たく、冷や汗で濡れていた。「お母さん……大丈夫。どんなに暗い夜でも、必ず明日は来るから」蘭はこみ上げる涙をこらえながら頷いた。「ええ」少し遅れて、充と美紀も重い足取りで署を出てきた。充は奈緒たちを追いかけて、責任追及をやめてもらえないか、示談にできないか話すつもりだった。だが外へ出た時には、奈緒と蘭はすでに車へ乗り込み、走り去ったあとだった。遠ざかる車を見つめ、充の苛立ちは限界に達する。また
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第344話

「これ以上ごちゃごちゃ言うなら、車から降りろ!」その一喝で、美紀が続けようとしていた言葉はすべて喉につかえた。目を大きく見開き、信じられないという顔で充を見つめる。そして、大粒の涙が瞳からぽろぽろとこぼれ落ちた。「充さん……どうして、そんな酷いこと言うの!?」甘く柔らかな声には、深い悲しみが滲んでいる。充はちらりと彼女を見た。さすがに少し言いすぎたかと思い、声をわずかに和らげる。「俺も今は余裕がないんだ。これ以上、同じ話をして苛立たせないでくれ。先の交差点で降りて。これから会わなきゃいけない人がいるんだ」美紀は甘えようとしたが、今の充の冷え切った空気に気圧され、結局黙り込んだ。充は運転手に指示を出し、交差点で美紀を下ろす。続いて、車を高級住宅街のリバーサイドレジデンス・雲際へ走らせるよう命じた。リバーサイドレジデンス・雲際の入口に立ち、冷たい風を受けながら、充は仁哉へ電話をかけた。電話が繋がると、澄んでいて落ち着いた男の声が聞こえてきた。「用件は?」「家にいるか?」仁哉は大きな窓の前に立ち、冷えた瞳で階下にいる充の姿を見下ろしていた。「いるけど、何?」充は数秒置いて口を開いた。「中に入れてもらえないか?すこし……話したいことがあるんだ」仁哉は唇を引き結んだ。しばらく沈黙した後、遠隔操作で門のロックを解除する。「入れば」充が中に入ると、そこにはシンプルで広々としたリビングが広がっていた。以前あったはずの子供用品や玩具はすべて撤去され、家具家電も壁の色に合わせた寒色系のものに入れ替わっていた。ただ一つ、テーブルの上には鮮やかな向日葵が飾られていた。その無機質な空間の中で、ただ一つ鮮やかな色を放っていたのが、ローテーブルに飾られた新鮮な向日葵。白い部屋着姿の仁哉はリビングのソファに腰かけたまま、立ち上がることもなく、隣の席を指さす。「そこに座れ」充は座り込み、真っ直ぐに仁哉を見つめて探りを入れるように言った。「今夜のこと、奈緒から聞いてるだろ?」仁哉はわずかに目を細める。「仕事の話以外、奈緒さんとプライベートな話などしない。何が起こった?教えろ」充はテーブルの向日葵を見つめたまま、妙な調子で尋ねた。「この花……誰にもらった?」仁哉は眉間を押さえ、
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第345話

充はなんとか感情を抑え、平静を装う。「俺を助けてくれってわけじゃなくて、栗原家にとっても大事なことだろ?芳恵さんが今回の件に関与していると公になれば、お前の伯父さん、栗原先生の出世にも栗原家の名前にも、甚大な被害が出る」充は少し間を置いてから、さらに声を潜めて付け加えた。「今回、奈緒はやりすぎた。一度に複数の名家を敵に回したんだから。何年も前の出来事のために、いくつもの名家を敵に回す価値があると思うか?」仁哉は最初、何の反応も示さなかった。だが「何年も前の出来事」という言葉を聞いた瞬間、瞳の奥の怒りが隠しきれなくなる。仁哉は立ち上がると、氷のように冷たく鼻で笑い、充を見下ろした。「何年も前の出来事?充、自分が傷ついていないから、そんなことが言えるんだよ。君は自分の母親を救うために、真夜中だろうがプライドを捨てて僕に助けを求めに来た。なのに、奈緒さんが自分の母親の汚名をそそぐために戦うことは、悪いって言うのか?」またもや胸の内を見透かされ、充は顔を引きつらせた。勢いよく立ち上がり、必死に体面を保とうとする。「別に、助けてもらいにきたわけじゃない。ただの忠告だ。芳恵さんも、巻き添えを食らうと言っているんだ。そうまで言うならもういい。俺がこなかったことにしろ」充は背を向けて出て行こうとしたが、その胸中は後悔でいっぱいだった。わざわざ来て恥をかいただけだ……その背中に、仁哉の冷徹で揺るぎない声が突き刺さる。「充。善悪は、人の心と事実が決めるんだ。どれだけ時間が経っても、被害者には加害者の責任を追及する権利がある。法の前では誰もが平等だ。金も権力も、他人の尊厳を踏みにじり、傷つけていい理由にはならない。芳恵さんも、君の母親も同じだろ?僕は宗邦さんの人格を信じている。もし本当に芳恵さんが悪かったのなら、宗邦さんは庇ったりしない。自分のしたことに責任を取らせるはずだ。だから僕のところに来ても無駄。栗原家では、誰であっても間違いを犯せば、その責任を負う。うちの家風は、君たちの家とは違うから」仁哉は一言も露骨に充を罵らなかった。それでも、一言一言が平手打ちのように充の頬へ叩きつけられる。充の表情は暗く沈み、焼け付くほどの痛みと屈辱に胸の内を焼かれた。彼は足を止めて振り返り、殺気立った声で言い放つ。
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第346話

仁哉から突然、ロウゲツ・カフェへ呼び出された美紀。しかも、わざわざVIP個室まで予約してあるという。これは、復縁の話に違いない。美紀は胸の奥に湧き上がる歓喜を必死に抑えながら、喜んで約束の場所へ向かった。自分の父の正体が保雄であることを知った仁哉が、復縁を求めてくるに決まっている。男なんて、結局は打算的な生き物なのだ。VIP個室の扉を開けると、そこに仁哉が座っていた。白いポロシャツ姿だった。変わらぬ清らかな空気を纏うその姿は、一目見るだけでときめいてしまうほど眩しい。胸が高鳴るのを抑え、美紀は笑みを浮かべた。「あなた……じゃなくて、仁哉。今日はどうしたの?」仁哉は淡々と眉を動かし、向かいの席を示す。「座って」美紀はすぐに腰を下ろした。頬杖をつき、期待に満ちた眼差しで仁哉を見つめる。「私の本当のお父さんの件、もう聞いたんでしょ?盛岡グループの社長だったなんて私も驚いたわ。もう少ししたら、お父さんが盛大なお披露目パーティーを開いて、私を正式に盛岡家へ迎えてくれるの」仁哉は少し予想外といった顔をしたものの、軽く「ああ、そう」と返しただけだった。「仁哉、今日私を呼び出したのって、復縁の話?」自分の意図を完全に誤解されていると気づき、仁哉の表情が冷えた。口を開こうとしたが、美紀が先に勢い込んで話し始める。「私ね、あなたと離婚してから、ようやく自分が間違っていたって分かったの。もう一度結婚してくれるなら、これからは絶対にあなたの言うことを聞く……」それ以上聞いていられなかった仁哉は、冷たく遮る。「復縁の話をするために、君を呼んだわけじゃない。僕たちの関係は完全に終わってるんだから」美紀の思い描いていた美しい希望は、そこで崩れ去った。仁哉から連絡が来た以上、復縁を望んでいるに違いない。もう一度彼の心を取り戻せば、奈緒にも何一つ渡さずに済む……そう考えていたのに。だが仁哉の一言は、大量の冷水を頭から浴びせるように、美紀の胸の中で燃えていた期待を一瞬で消し去った。美紀は呆然とし、信じられない思いで尋ねた。「じゃあ、なんで私を呼んだの?」仁哉の声は凍りつくように冷たい。「君と夢香さんが奈緒さんの娘を勝手に連れ去ったのは、DNA鑑定をするためだったのか?」美紀の表情が固まった。瞳が瞬く間に
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第347話

美紀の話など、仁哉は一片たりとも信じていなかった。彼には、奈緒という人間への信頼がある。奈緒よりも美紀との付き合いが長いとはいえ、相手を信じられるかどうかは付き合いの長さによるものではない。その人物が日々どんな行いをしているか、それを見れば分かることだ。美紀が裏で汚い真似をしていたとしても、仁哉は驚かない。そして、奈緒はそんなことをする女性ではない。自分の耳を疑った美紀は、仁哉をじっと見つめて声を震わせた。「あの人がそんな女じゃないって、本気で信じてるの?知り合ってどれくらい?どうしてそこまで確信を持てるの?どうして少しも疑わないのよ!」仁哉の瞳に宿る揺るぎない信頼が、美紀を狂わせた。自分たちは5年夫婦だった。それなのに美紀は、一度として仁哉からこれほど深く信頼されたことがない。いつだって仁哉の視線は凪のように静かで、何の感情も伝わってこなかった。だからこそ5年間、美紀はいろんな騒ぎを起こして仁哉を振り回した。たとえほんの少しでも、仁哉に自分を見てほしかったから。だが、何をしても無駄だった。仁哉の意識が、自分へ向けられることはなかったのだ。ところが今、美紀にははっきりと分かる。奈緒の話をする時だけ、まるで違っている仁哉の目。いつものように静かなだけではない。その瞳の中には、確かに何かがある……それが何なのか、美紀にはうまく言葉にできなかった。ただ、その違いが彼女を激しく傷つけた。充に同じ話をした時、彼はここまで奈緒を信じていなかった。それなのに、なぜ仁哉にはできるのか?美紀は悔しさに体が震えた。拳を強く握り、爪が皮膚へ食い込んで血が滲む。仁哉の目は澄み切っていた。「奈緒さんの娘は、間違いなく充の子供だ。この件は僕が責任を持って調べ直す。美紀、離婚の手続きが済んだ時、君に対して出来る限りのけじめはつけた。血の繋がりのない裕弥の養育費だって、18歳までの分を一括で払ったはずだ。あえてそうしたのは、君には母親としての責務を全うしてほしかったから。子供に罪はない。なのに君は今、母親の自覚など欠片もなく、奈緒さんと充の仲を壊すようなことばかりしている。裕弥の苗字は変えてくれ。二度と栗原の姓は名乗らせない。これ以上奈緒さんに泥を塗るようなことを続けるなら、裕弥の出自について事実を公表すること
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第348話

「美紀、好き勝手喋るのは構わないけど、言葉は好き勝手言っていいものじゃない。僕は今まで、君に何も言わなかった。だからといって、何度も僕を挑発していい理由にはならない」仁哉は拳を固く握り締め、湧き上がる怒りを必死に抑えた。そして息の詰まるような女から逃れるように、足早に個室を出ていく。こんな女と5年も夫婦でいたのかと思うだけで、胸が締めつけられるようだった。美紀は諦めきれず、慌ててあとを追った。だが仁哉には追いつけず、代わりに正面から歩いてきた男の胸へ勢いよくぶつかってしまう。「すみま……」謝罪を言い終える前に、男の目がぱっと輝いた。顔いっぱいに喜びが広がる。「美紀?」怪訝そうに顔を上げた美紀の目の前にいたのは、背が低く、やや小太りな角刈りの男だった。脂ぎった顔に、贅肉のついた身体。着ているスーツのジャケットは明らかに前が閉まらず、大きな腹が突き出している。美紀の身体が強張った。次の瞬間、逃げるように首を振る。「ち、違います。人違いだと思いますよ」美紀は急いで駆け出した。一刻も早くここから消えたい。男は鼻をこすりながら、異常なまでの鋭い眼光を走らせた。彼は近くにいた部下二人に目配せをし、美紀のあとを追わせた。……蘭の長年隠されていた事件は、正国の徹底した捜査によって、ついに全容が明らかになった。一人ずつ事情聴取と捜査が行われ、当時の動画に映っていた加害者は、一人残らず責任を問われた。実刑を受ける者、罰金を科される者、拘留される者……遅すぎたとはいえ、ようやく正義が果たされたのだ。宗邦の妻である芳恵までもが事件発覚後、自ら頭を下げに蘭を訪れ、当時の傍観を謝罪した。彼女は現場にはいたものの、自ら暴力や罵倒には加わっておらず、責任は最も軽かった。奈緒と蘭は話し合った末、最終的に彼女を許すことにした。奈緒は最後まで、あの動画や写真を見ようとはしなかった。というよりも、見る勇気がなかったのだ。一度目にしてしまえば、また心が壊れ、深い闇へ引きずり込まれる気がした。幸い蘭はもともとさっぱりした性格だったため、長年覆っていた雲が晴れると、すぐに気持ちを切り替えた。過去を手放し、胸を張って新しい人生へ進むことを選んだのだ。月末。奈緒と蘭は、深津市の雲際ホテルで黎の百日祝いを行った。今や黎は、一家
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第349話

奈緒も視線を落とし、蛍の携帯の画面を覗く。画面には、派手で大げさなピンク色のボリュームドレスを着た美紀が映っていた。頭には眩いティアラを載せ、得意満面で中年男性の腕へ自分の腕を絡ませ、隣の宴会場の入口に立っている。顔には眩しい笑み。まるで世界中の人間を足元に従えたような、勝ち誇った表情だった。隣にいる中年男性に、奈緒は見覚えがあった。それはヤジン・デザインの大口顧客の一人であり、盛岡グループの社長――保雄。どうしてこの二人が、これほど親密そうにしているのだ?奈緒が眉をひそめ、さらによく見てみると、看板に大きく書かれた文字が目に飛び込んできた。【お披露目パーティー――盛岡家の娘・美紀】全身の血が一瞬止まったような感覚に襲われた。すぐに奈緒は鼻で笑った。「じゃあ、隣のお披露目パーティーの主役は美紀ってこと?その父親が、盛岡社長?」蛍は力強く頷くと、悔しそうに言った。「そうよ!私も信じられなかった!あの女ったら、どれだけ運がいいの?裕福な佐野家に養子に入って、青木家で育てられて、栗原さんと結婚して離婚したと思ったら、今度は金持ちの本当の親が見つかるなんて!どうしてあの女ばっかり、そんな幸運に恵まれているわけ?!」蛍は苛立たしげに吐き捨てた。奈緒もまた内心動揺していた。確かに美紀は、最初からかなり恵まれた手札を持っている。波瀾万丈とはいえ、確かに神様は美紀に味方しているようだった。ただ、あいにく彼女は、その最高のカードをことごとく最悪の形で切ってきた。今更、実の父親の権威を盾にしたところでどうなるというのだ?表面ばかりを気にし、感情を抑えられず、目先の勝ち負けにしか興味を持てない美紀の性格では――たとえ神が味方しても、形勢をひっくり返すことなどできないだろう。「美紀にどれほどのことができるのか、見せてもらおうよ」と奈緒は平然と言い放った。「そうだよ!盛岡社長が父親だったからって何?今の私たちは、もうあの女なんて怖くないんだから!」蛍は憤然と言った。「調子に乗るようなら、さっさと叩き潰してやるだけね!違う違う!今日は黎ちゃんのための日なんだから、こんな縁起の悪い話も、あんな女の話もやめよう!」そう言うと、蛍は深呼吸して気持ちを切り替え、再び会場の準備へ戻っていった。酒井家がこれ
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第350話

それを聞いた美紀は、すぐさま買って出た。「お父さん、私が行ってくる。こんな些細なこと、お父さんが出ていくまでもないから」そう言うと、美紀は数人のボディーガードを呼び、両手を腰に当てて、息巻いて隣の会場へと向かった。その頃、奈緒と蛍は受付のそばでプレゼントを整理していた。入り口に背を向けていたため、美紀が近づいてくることには全く気づかない。二人の後ろ姿を目にした瞬間、美紀の胸の中で怒りが一気に燃え上がった。口を開くなり、いかにも上から目線の口調で命じる。「ねえ!もっとお洒落な曲に変えてくれない?それに、音量下げてよ。こっちまで聞こえてきてうるさいんだけど!」耳障りで、かつ聞き覚えのある声。そこに立つ美紀の傲慢な顔を見た瞬間、二人は一瞬驚いたものの、すぐに表情を冷たくした。蛍が真っ先に食ってかかる。「え、美紀さんじゃん?私たちが借りている会場で好きな曲を流しているだけなんだから、そっちに関係ないでしょ?」美紀は数秒固まり、ここを借りているのが奈緒たちだとようやく理解した。入口の案内板へ目をやる。そこに書かれた「百日祝い」の文字を見ると、美紀の瞳に納得したような光がよぎり、すぐにこの上なく軽蔑した表情を浮かべた。「子供の百日祝いだったんだ。道理で、こんな品のない曲がかかっているわけね」美紀は顎を高く上げた。その裾を長く引くピンクのドレス姿は、得意げに胸を張るフラミンゴのようだった。「今日は私が盛岡家の娘であることを皆に知ってもらう、華やかなお披露目パーティーなの。私の父は盛岡グループの社長なんだから。あんたたちの音楽があまりに品がないから、せっかくのお披露目パーティーが台無し。だから、私に止める権利があるに決まってるでしょ?」蛍は怒りのあまり、今にも駆け寄って美紀の頬を張り飛ばしそうになった。奈緒がすぐに腕を掴んで止める。「美紀、あなたは自分のお披露目パーティーをやればいいし、こっちはこっちでやるから。お互い関わらないようにしよう」美紀は奈緒側の簡素な会場を見渡し、鼻で笑った。「あのね、余計なお世話かもしれないけど、身の丈に合わないことはしないほうがいいわよ。雲際ホテルみたいな一流のとこを選んで、見栄を張る必要がある?ここの会場は最低でも50テーブルからでしょ?あなたとあなたの母親だけで、
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