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第31話

「わかりました、すぐに取りかかります」それから奈緒はまたあの2本の録音データのことを思い出し、無意識に時計を確認した……この時点で、翠に最後通告を送ってから、すでに5分が経っていた。「坂本さん、この録音を公開して。それから腕利きのライターに美紀と充の関係を暴く記事を書かせて。必ずあの二人の情事を、この深津市中が沸き上がるほどバラまいてやるんだから!」奈緒は録音データと、以前から準備していた資料のすべてを真司に手渡した。20億のお金なんて、彼女にとっては今はどうでもいいことだ。ただ、美紀と充の化けの皮を完全に剥がし、彼らの優雅で恵まれた暮らしをズタズタに引き裂きたい、そう望む一心だった。……真司はすぐに指示通り動いた。間もなく、奈緒の自筆署名入りの離婚届と退職届が、宮本渉(みやもと わたる)の手によって社長室へと届けられた。充はまず「退職」という文字に目を留め、書類を手に取ったが、気にも留めない様子で口元をゆがめた。「また始まったか。退職をチラつかせて俺を脅そうなんて、ふざけた真似を」その直後、彼が下に重なっていた離婚届に目を落とすと、表情が一瞬にして凍りついた。すべての内容に目を通し終えると、充の顔色は一瞬にして恐ろしいほど険しくなった。彼はデスクを強く叩き、勢いよく立ち上がると、迷うことなく奈緒の電話番号を押した。「どこにいる?」繋がった電話の向こうから、充の抑圧された冷徹な声が響く。今にも爆発しそうなほどの怒りを必死に抑え込んでいるのが伺えた。「私がどこにいようと関係ないでしょ?書類は届いた?」奈緒は淡々とした口調で聞き返した。それを聞いて、怒りのこもった充の声はますます荒々しくなった。「奈緒、今がどれほど大事な時期だってわかっていないのか?ゼニスビルのプロジェクトが動き出す直前にして、お前がこのタイミングで辞めるなんて言い出すのは自身が一手で立ち上げてきたプロジェクトをここで投げ出すつもりなのか?それと、わがままで離婚なんて言いだすような、ふざけたことはやめてくれないか?だいたい、俺は婚姻に対するお前のそんな投げやりな態度が一番嫌なんだよ!」その時、絶好の眺望が広がる露台でデッキチェアに横たわり、使用人が洗ってきたイチゴを口にしていた奈緒は、わずかに目を細めた。「美紀を
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第32話

ちょうど蛍からの着信があったからだ。「奈緒!今どこにいるの?家にいないみたいだけど!」「今、夕凪の丘にいるの。ここは静かで誰にも邪魔されないから」蛍は、思わず大声を上げた。「えっ?夕凪の丘って、あそこ、超一等地じゃない?なんでも、屈指の富裕層しか住めない場所だそうじゃない!ねえ、冗談でしょ?」奈緒は唇を噛み、電話越しに囁くように言った。「そんなに大きな声を出さないで」そして、奈緒は声を潜めて、ありのままを伝えた。「私の身内が用意してくれたの。少し落ち着いたら、あなたも招待するわね」それを聞いて、蛍は、興奮を隠しきれなかった。「少し落ち着いたらって、奈緒、もう私に構ってくれないの?優雅な暮らしが始まった途端に置いてきぼりにするなんて!」奈緒は苦笑した。「違うよ。バタバタと引っ越すことになって、まだ伝える余裕もなかったの」だが、奈緒がまだ言い終わらないかのうちに、再び蛍の驚いた声が響いた。「奈緒!大変よ、SNSが荒れてる!青木社長とあの愛人のことを指した、すごくえぐい暴露記事が出回ってるわよ!またあなたが何か仕掛けたのね?最近は手が早くてついていけないよ!えーん……」それを聞いて、奈緒はニヤッと口角を上げ、SNSアプリのホームをタップした。すると早速、スキャンダルがすでに騒動を巻き起こしているのだった。さすがの真司は動きが早い。写真や音声はまだ公表していないが、記事投稿だけでも検索ランキングの上位になっていた。どれも知る人が見ればわかるような、充と美紀の関係性を匂わすような内容ばかりだった。「協力者に頼んだのよ。蛍、もう何も我慢したくない。これまでのことを一気にやり返したいの」それを聞いて、蛍の声はさらに弾んだ。「それでこそ、私が見込んだ女ね!よくやった!どうせ、お金に困ってないんだから、慰謝料なんかよりあの二人のスキャンダルを根こそぎ暴いて、世間にあいつらの卑しい本性を曝け出さないと!イェーイ!」奈緒はスマホを握り締め、笑みを深めた。そして、次から次へと溢れ出すコメントを見ながら、これまでつっかえてきた気持ちがスカッとするようだった。美紀があれほど何度も挑発してくるのは、後ろ盾があるからだ。いつまでも自分が成すがままに傷つけられる相手だと勘違いしていたのだろう。けれ
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第33話

そう言って充は通話を切り、どんよりとした窓の外を深く見つめた。娘の生後1ヶ月を祝うパーティー以来、深津市の空はずっと晴れることがなかった。それが憂鬱な気持ちを、一層どんよりさせた。充は再び奈緒に電話をかけようとしたが、番号を変えても全て着信拒否にされていた。仕方なく、彼は受話器を置き、車のキーを手に書斎を出た。電話に出ないなら、直接碧瀾郷に行って本人を問い詰めるまでだ。自分と美紀の名声を貶めるのが奈緒の狙いなら、どうしてそんなことをするのか、はっきりと聞いてやる。昔の奈緒は慎重で、そんな大局を無視するような真似は決してしなかったはずだ。一体、何を企んでいるのか?……その頃、水鏡ヶ丘にて。奈緒は恵からの連絡で、美紀が息子を連れて水鏡ヶ丘に入り浸っていることを知り、すぐに車を走らせた。リビングに入ると、ちょうど美紀と翠がソファに並んで座り、対策を練っている様子だった。二人は背中を向けていて夢中になっていたため、奈緒が戻ったことに気づいていなかった。美紀が小声で泣きながら言った。「翠さん、どうしましょう……スキャンダルのことを栗原家に誤解されてしまいました。明日、栗原邸で集まるようにと言われて……本当に怖くて仕方がありません」翠も怒り心頭で、胸を押さえながら言った。「許せない。あの奈緒、何を考えているのかしら。本当にそんな度胸があるなんて思いもしなかったわ」「充さんとの間には何もやましいことはないです。昔少し好きだったのは認めるけれど、ずっと昔の話なんです」美紀は泣き崩れ、息も続かないほど取り乱していた。「もし栗原家との仲がこじれたら、青木グループの取引にも影響が出てしまいます。翠さん、奈緒さんをなんとかしないといけません」それを聞いて、焦る翠は必死に美紀を宥めて言った。「分かったわ、安心して。私が何とかするから」一方、奈緒は音声をこっそり録音し、二人の会話をすべて押さえた。そして、目を細めて、こっそり近寄ると翠の耳元で囁いた。「私のことをどうするおつもりですか?聞かせていただけますか?」不意をつかれた二人は悲鳴を上げ、ソファから転げ落ちそうになった。すると振り返った翠が奈緒の近づく顔を見ると、一気に怒りを爆発させた。「奈緒!スキャンダルをリークしたのはあんたの仕業
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第34話

そう言われ、はっとした翠は余計なことを口走ったと気づき、思わず一瞬慌てたが、すぐさま取り繕うように続けた。「あんたの母親の評判なんて知れたものよ。あの女がいかに深津市で悪名高いか、あんたが一番よく知っているでしょ?」だが、奈緒は怒りを目に宿し、翠の襟元を掴んで離そうとしなかった。「今、『私たち』って言いましたね?かつて、あなたもその一件に関わっていたってことね。母に何があったのかは詳しく知らないですが、全て調査してやります!母を傷つけた人間は、一人残らず絶対に許しません」ついさっき翠が口を滑らせた言葉が、奈緒の心の奥にずっとあった古傷を切り裂いたのだ。事件が起きたあの日、奈緒はまだ5歳だった。暴徒のように家に押し入ってきた連中の顔を今でも覚えている。彼らは荒々しく母を寝室へ引きずり込み、鍵をかけてしまった。あの日、母が何をされたのかは分からない。ただ覚えているのは、部屋から出てきた母の姿。髪は乱れ、瞳には焦点が合っておらず、頬を涙で濡らしていた。それから生活は一変した。父と兄は姿を消し、豪邸を追い出され、寂れた団地で暮らすことになった。そして、彼女が学校から帰ると、母が体に痣を作っていることも増えた。口元もいつも血が滲んでいた。当時の奈緒はあまりに幼く、記憶も朧げだった。気づいた頃には、母はまた気丈に振る舞い、綺麗に装っていた。けれど奈緒は子供ながらに分かっていた。父と兄がいなくなったあの日、ただならぬ悲劇があったことを。しかし、それを聞いた翠は冷ややかに鼻で笑った。「随分大きな口を叩くのね。奈緒、自分が何者か分かっているの?この数年、充があんたを妻として守ってあげていたから、こんな風にのうのうと生きてこられたんじゃないの?身の程をわきまえなさい。今すぐ膝をついて、私と美紀ちゃんに謝り、動画をSNSで公開すること!でなければ、今度こそは絶対に許さないから!」だが、奈緒はくすりと笑って言った。「それはこっちのセリフよ。勘違いしないでもらいたいものだわ」そう言われ、翠は怒りで肩を震わせた。「どうやら、少し懲らしめないと言うことを聞けないようね……誰か来て!この女を縛り上げて!」翠の叫び声と共に、ドアの外からガタイのいい二人のボディーガードが入って来て、奈緒の両腕を捕らえた。それで
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第35話

すると美紀は黙り込んだ。彼女は奈緒の態度に苛立ち、怒りのあまり、胸がつっかえてしまい、何も言葉が出てこなくなった。一方、翠も怒りを露わに、部屋中を歩き回り、罵声をあげながら充に電話をかけた。「なんなのあの態度!許せない!充、すぐに水鏡ヶ丘に戻って来て!よく見て見なさい、これがあなたの嫁!なんて太々しいの!」その頃充も、碧瀾郷でちょうど門前払いを受けていた。奈緒がどこへ行ったのか不思議に思っていると、突然そんな電話がかかって来て、奈緒が水鏡ヶ丘に戻ったと聞いた彼は慌ててすぐに車を走らせた。そして道中、彼の頭の中はずっと混乱したままだった。これまでずっと高い立ち位置にいて、すべてを思うようにしてきた充にとって、物事が思い通りにならないという事態は初めてだった。この時、彼はまるで身震いするほどの不安に陥っていた。一刻も早く奈緒と落ち着いて話し合いたいと思った。でなければ、奈緒がこうして羽目を外したことを続ければ、いづれすべてが取り返しつかなくなるだろう。そう思って充は、運転手にスピードを上げるよう命じた。そんな行き場のない怒りを抱え、充の端整な顔には珍しくも吹き出物ができてしまうほどだった。相当ストレスが溜まっていたのだろう。だが、充にはどうしても解せなかった。自分はただ友達の愛する女と子供の面倒を見ていただけだ。殺人や放火をしたわけでもない。奈緒が怒ったとしても、そこまでする必要があるだろうか?退職、離婚、メディアへのリーク……立て続けの嫌がらせで、自分をとことんまで追い詰めていた。奈緒はそこまでしておいて、将来的に和解を求める時、自分が応じないとは少しも心配じゃないのだろうか?そんな中、道中車内の空気は、ひどく張り詰めていた。充は何度もネクタイを緩めたが、胸のつっかえが一向に取れないでいた。なんとかして耐え抜いて、ようやく水鏡ヶ丘に到着した。車から降りて、彼は足早に庭先に入ると、美紀はすでに奈緒によって追い出されていた。翠もまた、怒りに震えながら車に乗り込み、去っていくところだった。今回奈緒の出方は怒涛で、いつにも増して手強かったから、美紀も翠も真っ向から対決できず、その場を一旦去るしかなかったのだ。先制攻撃は成功したが、奈緒の心に喜びは少しもなかった。かつて自分が丹精込め
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第36話

それを聞いて、奈緒が眉間にしわを寄せ、ふと顔を上げると、充の鋭く淀んだ瞳と目が合った。黒いスーツに身を包んだ彼の姿は、いっそう凛々しく見えた。そしてポケットに手を入れ、眉をひそめた様子には、かつて自分が慕っていた優雅で成熟した風格が漂っているのだった。しかし、奈緒は鼻で笑った。「何でもかんでも仁哉さんを言い訳にしないでよ。美紀と一緒にいたいなら、そう言えばいいじゃない?回りくどいわね」充は顔を真っ青にして言い返した。「お前には、俺がそんなに示しがつかない男に見えるのか?」そう言われ、奈緒は余計呆れたように思えて、鼻で笑った。「あなたは自分自身をよく分かってるじゃない?まさにその言葉通りの男ね」充はあまりのことに言葉を詰まらせた。胸を押さえて何とか気持ちを落ち着かせ、彼は奈緒に歩み寄り、その小柄でか弱い女性を見下ろした。大学のホールで初めて出会った時のことを未だに覚えている。あの時奈緒は自分の対面に座り、落ち着いて取材をしていた。当時の奈緒は、ショートヘアを揺らして、小ぶりな顔に丸くて大きな瞳が印象的だった。すっぴんのままの顔立ちは派手ではないが、嫋やかな気品があった。純真無垢な目で、自分と視線を合わせても、怖気づくことなく、敢えて馴れ馴れしくすることもなかった。そんな彼女の落ち着いた秘めた雰囲気には人を思わず惹きつけてしまう魅力があった。充も、奈緒に対して全く情がなかったわけではない。男が酒を飲んでしたことなんて言い訳に過ぎない。ただの酒の勢いで、欲望を満たしたかっただけだ。奈緒を愛しているとまでは言えないが、一時の衝動で近づいたわけでもないのだ。憐れみという感情もあったし、なにより全身全霊を込めた奈緒の愛はなんとも心地が良かったのだ。でも、どうしてこうなったんだろう?子供が生まれてからは、何もかもがおかしくなってしまったようだ。今の奈緒は、まるで全身にトゲを張り巡らせているようで、少しでも近づくと攻撃されてしまい、落ち着いた対話など全くできなくなってしまったのだ。それでも充は、怒りを押し殺しながら堪えた。無理に笑顔を作って、彼は手元の宝石のプレゼントを差し出した。「美紀がこの間急病でね、最高級の高麗人参エキスがどうしても必要だったんだ。あれは渡すしかなかった。これ、Cブランドの最新作だ
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第37話

充がそう言うと、奈緒が鼻で笑ったのを、彼ははっきりと聞いた。一方、奈緒は強く充の腕を振り払って言った。「充、気を遣ってもらわなくても結構よ。好きなだけ怒りをぶちまけて、あらゆる手段を使ってかかってきなさいよ!どうせやり合うなら、とことんまでやり合おうじゃない。こっちだって絶対引き下がらないから!」その言葉を聞いて、充の視線は少しずつ沈んでいった。「本気か?奈緒、お前にチャンスを与えているんだ!それを無駄にすれば、後で泣きを見るぞ」だが、奈緒は背筋を伸ばし、反抗的な眼差しを充に向けた。「そんな機会なんていらないわ。今はただ離婚したいだけ!充、後悔なんてしない!だってもう、愛してなんかいないから!」最後の一言一句を、彼女は喉の奥から絞り出すように歯を食いしばって言った。しかし、きっぱりとした口調で言い切ったものの、その瞬間、彼女の心は激しく切り裂かれたような痛みに襲われた。「充」という名は、かつて彼女にとって自ら心に刻み込んでいたものだったから。それを今、完全に消し去ろうとすると、そう簡単にはいかないのだ。頭で忘れたいと願っても、心はえぐられるように痛む。奈緒は目を伏せ、鼻の奥がツンとするのを耐えながら、水鏡ヶ丘を駆け足で去った。その後ろ姿には断固とした意志表示が滲み出ていた。充は表情を曇らせたまま、奈緒の姿が見えなくなるまで呆然と立ち尽くした。その瞬間彼の心には、怒り、悲しみ、落胆、あるいは喪失感が絡み合い……なんとも言いようのない複雑な感情が湧いた。しかし、確かなことが一つあった。たとえ、どれだけ信じがたいことが起きても、充は奈緒が本気で自分と縁を切れるとは、どうしても思えなかったのだ。ゼニスビルの設計案は、奈緒が死に物狂いで完成させた心血の結晶だ。苦難の末にやっと生まれようとしている我が子も同然のはずだ。だからこそ、奈緒の性格を知り尽くしている充には、ここで彼女が諦めるとは思えなかった。そして、夫婦としての情もある。どれほど奈緒が自分を慕い、この結婚生活を大切にしてきたかを誰よりも知っていた。そのようやく掴み取った結婚生活を、奈緒がみすみす手放すはずがあるだろうか?ただ構ってほしいだけだろう……どうせすぐに諦めて、自分の方へ折れてくるに違いない。そう思いながら、充が独り
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第38話

充は数秒間動きを止めてから、渉にこう命じた。「前に奈緒に渡したあのカード、残高はいくらある?」渉は答えた。「奥様にお渡しになったカードは、ずっとお母様が管理されていました。奥様はその資金に一度も触れておらず、お母様がずっと使っているようです」それを聞いて充の眼差しが鋭くなった。「どういうことだ?この5年間、奈緒は一度もそのお金を使っていないだと?ではこの5年間、彼女はどうやって……」そう言いながら、充は衝撃のあまり驚いていた。そんなはずはない。この5年間、水鏡ヶ丘での生活費に、自分が着ていた服、それに奈緒から贈られた高価なプレゼント。それらの合計額はかなりのものになり、奈緒の給料で賄えるはずがないからだ。充はカードを奈緒に渡した日からこの件について全く気に留めていなかった。奈緒がそのカードを使ってやりくりしているものだと本能的に決めつけ、ずっと安心していたのだ。一方、渉は続けた。「お母様は厳しく奥様を監視しており、社長のお金を使わせないようにしました。奥様もプライドが高い方ですから、本当にそのお金を一切使いませんでした。しかも、社長とお母様の関係が悪くなるのを恐れて、私にも口外しないようおっしゃっていました……」その話を聞いて、充は胸が締め付けられるような思いだった。以前の奈緒は、こんなにも物分かりがよく、いつも自分の立場になって考えてくれるような女性だった。あれほど理不尽な目にあっていたのに、泣きつくこともなく、自分と母の間にトラブルが起らないようにさえ気遣ってくれてた。だがこの5年間、奈緒はどこからあれほどの大金をどうやって工面してきたのだろうか?ひょっとして、弘樹の言っていたことは、全て事実だったのか?奈緒は青木グループでの仕事以外に、人知れず副業を掛け持ちしていたというのか?そう思うと、充の胸に言葉にできないほどの切なさが込み上げてきて、彼は思わず声を和らげた。「どうやら、最近あんなに突っかかってくるのには理由があったようだな。俺が以前、冷たくあしらいすぎていたから……」そこで渉が付け加えた。「実はずっと申し上げようか迷っていたことがあります」「遠慮するな。言え」「社長、他の事はともかく、奥様が妊娠中、悪阻で痩せ細っていた時も、社長はお気付きにならずに大量の仕事を押し付けておられまし
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第39話

10億円で離婚しろ、黎と青木家と「縁を切れ」だと?こんなこと直々に聞いていなければ、まさか今時こんなことを言う人間がまだいるなんて到底信じられなかっただろう。娘を蔑ろにする考えがまだ存在するなんて。そもそも青木家だってそれほど権力があるわけでもないのに。そう思って、奈緒は思わず吹き出した。腹が立ちすぎて、逆に言葉が出てこなかった。だが、奈緒以上に激昂したのは、キッチンでフライ返しを握りしめ、ドアの先で立ち聞きしていた蛍だった。この時、蛍は奈緒と一緒に食事をしようと手際よく料理をしているところだった。しかし、玄関先でただならぬ騒動が起きていると感じたから、彼女はフライ返しを持ったままキッチンを飛び出してきた。向かい側の奈緒の家のドアはわずかに開いていた。入口に着いた蛍はすぐに入らなかったが、交わされた会話ははっきりと聞こえた。ついに我慢の限界を迎えた蛍は、ソースのついたフライ返しを握りしめ、翠に向かって突きつけて言った。「あんた、本当に卑怯で腐りきった老いぼれね。どうやったらこんな血の通わない性格になれるわけ!黎ちゃんにはあんたの血も流れているのよ。生まれたときから顔も見せず無視しておいて、今さらお金で縁を切るだと!だから、あんたらの家は子宝に恵まれないのよ。全部その冷酷無情が祟ったんじゃない!さっきの発言全部録音したからね。これ以上ごたくをならべるなら、今すぐSNSで拡散して、世間にあんたの醜態を晒してやるから!」「……」蛍は怒りに震えながら、フライ返しを振り回して詰め寄った。そんな展開など予想もしなかった翠は悲鳴を上げ、パニックになって逃げ回るうちに、勢いあまってフライ返しから飛び散ったソースが目に入ったのだった。「ぎゃあ!」翠は目を押さえて悶絶し、悲鳴をあげた。そして、あまりの痛みに彼女は涙を流す目を押さえながら、反撃する余裕すらなく部下たちを連れて、そそくさと逃げていった。翠たちの見るに堪えない姿に、奈緒と蛍は目を見合わせ、ハイタッチをして大笑いした。「最高!あのババァ、懲らしめて当然よ。今日の復讐は大成功ね!思えばこの5年、ひどい仕打ちばかりされてきたよね。真冬の夜中にお菓子が食べたいなんて言って、使用人じゃなくて妊婦のあなたにわざわざ買いに行かせるなんて。あなたもあの時よく
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第40話

蛍の作る混ぜ麺は絶品だった。奈緒がまだ授乳中であることを考え、彼女のためには辛さを控えたものを別で作ってあげた。二人は食べることに夢中になりながら、楽しげに話し続けた。奈緒は思った、こんなふうに思いっきり笑うのがいつぶりだったんだろう。一方、車の中に追い出された翠は、とても笑ってはいられなかった。左目にソースが入ったことによって、まるで焼けたような激痛に襲われていた。翠は思いっきり左目を押さえ、悲鳴のような声を上げた。「痛い!痛すぎるわ!目が!失明してしまう!早く!早く!何とかして!」彼女は泣きわめきながら、そばにいる運転手に無理やり助けを求めた。だが、こすったせいでソースはすでに目を奥に入ってしまったようで、専門医でない運転手にはどうすることもできなかった。「あの……すぐに病院へお連れします。専門医に任せた方が良いでしょう」痛みに絶叫する翠を見て、運転手は焦りながら助言した。そして、翠はすぐに病院の救急処置室へと運ばれた。医師によってなんとか無事処置はされたが、炎症でひどく腫れ、眼帯を巻かれて目を固定する羽目になった。そして、救急処置室から出てきた時、翠の表情は険しかった。視線の先には、同じく顔色を悪くした充が、紺色のシャツ姿で廊下に立っていた。事の経緯は、充のもとに運転手からすでに報告済みだった。翠の行いを知った充の胸の内には、怒りと苛立ちしかなかった。「母さん、あれは俺の妻と娘なんだ。なぜ縁を切るなんてひどいことを言うんだ?俺と相談もせずに。まったくやりすぎだよ」翠は左目を押さえたまま、悔しさに声を震わせた。「奈緒があんな騒ぎを起こすから、美紀ちゃんもあなたも外で後ろ指をさされてるのよ。あんな手段を選ばない女、早々に縁を切るべきだわ!それに10億もの大金を要求してくるなんて。そんなの一生かけても稼げないって分かっているから要求してきたのかしら?あと、見てよ!私は目に怪我までさせられたのよ。なのにあなたは心配じゃないの?あなたにとって、私は母親じゃないってこと?」翠は鼻の奥がツンとし、涙を流そうとしたが、泣くと左目に激痛が走り、表情がゆがんだ。一方、充はそんな彼女を冷たく見やり、複雑な表情で言った。「自業自得だ。奈緒との件は、自分で解決する。母さんはもうこれ以
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