All Chapters of 我が子より他人の子?産後ワンオペ妻の離婚: Chapter 311 - Chapter 320

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第311話

仁哉の心臓が、口から飛び出しそうになるほど高鳴った。奈緒の突然の接近に、頭の中が真っ白になる。彼女の意図が分からず戸惑っていると、不意に背中へひんやりとした感触が走り、その直後、かすかな痛みが広がった。耳元で奈緒の声が響く。「どうしたの?体にこんな傷がいっぱいだなんて。しかも背中まで……仁哉さん、誰かと揉めたの?ねえ、もしかして私のせい?」その一言で、仁哉の意識は一気に現実へ引き戻された。熱を帯びていた視線も、瞬く間にいつもの冷静さを取り戻す。彼は落ち着いた声でこう答えた。「奈緒さんのせいじゃないよ。何があったかは……聞かないでくれ」奈緒は最後まで丁寧に傷の手当てを終えた。仁哉が話したくなさそうなので、それ以上は何も聞かなかった。ちょうどそこへ、弘樹が洗った果物を持ってきた。その中身を見た奈緒は、思わず目を丸くする。ブルーベリーやイチゴ、マスカット――どれも普段、自分がよく買うものばかりだった。自分は毎日の栄養と摂取カロリーを細かく管理していたので、低カロリーの果物を選んでいたのだ。まさか仁哉が、そのことに気づいていたなんて。ふと、充と暮らした5年間を思い出す。同じ職場で働き、同じ家で暮らしていたのに、充は自分の好きな果物さえ知らなかった。以前には、自分の大嫌いな高カロリーのマンゴーやアボカドを嬉しそうに買ってきたことまである。そう思うと、あまりにも対照的で、胸の奥が少しだけ切なくなった。奈緒はブルーベリーとマスカットを数粒つまみ、ゆっくりと口に運ぶ。一方の蛍は、我慢しきれない様子で奏介が買ってきたスイーツを頬張っていた。一口すくうと、そのまま奈緒の口元へ差し出す。「奈緒、すっごくおいしいよ。一口食べてみて」奈緒は唇をきゅっと結び、絶対に甘い物は食べないという態度を崩さない。その様子に蛍は吹き出した。そして、思わず悪態をつく。「奈緒、本当にストイックすぎ。こんなに細いんだから、たまには甘い物くらい食べてもいいんじゃない?そんなに我慢ばっかりしてたら、人生つまらないよ」しかし、奈緒は穏やかに微笑んだ。「人間が一番怖いのは、『欲』なの。うまく抑えられないと、悪魔みたいにどんどん心の中を侵食してくるから。私は欲望に流されるより、自分自身をきちんとコントロールできるほうが、ず
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第312話

翠にとって、息子は自分の宝物であり、誇りであり、人生そのもの。ここ数日、高熱に肺炎、そして食欲不振でほとんど食事も取っていない。そんな息子を見て、翠は気が気ではなかった。これまで滅多に料理などしなかった翠も、この数日は毎日キッチンに立ち、少しでも栄養がつくようにと、あれこれ工夫しながら試行錯誤を続けていた。自慢の息子をここまで苦しめた……奈緒。包丁で肉を叩くたびに怒りが込み上げ、まるで敵を斬るかのような勢いだから、青木家の使用人たちが「厨房で事件でも起きるのでは」と本気で心配するほどだった。「充、来たわよ。見てちょうだい。特選の骨付き肉をコトコト煮込んだスープを作ったの。牧草育ちの極上の肉よ。充のためにわざわざ空輸させたんだから、早く味わって頂戴。他にも、サーモンの刺身にタラバガニのガーリック蒸し、特選ステーキも焼いてあるわよ……」子どもの頃から肉や海鮮が大好きだった充。だから、翠はこの数日、彼の好物という好物をすべて作ってきた。しかし、今の充にとって、それらの料理は全く魅力的に映らなかった。料理を熱心に説明する母を一瞥しただけで、感情のない目を向ける。「母さん、とりあえずそこに置いておいて。聞きたいことがあるんだ」翠は構わず料理を小皿によそい、充の前へ差し出した。「その前に少しでも食べなさい。温かいうちに。ほら、お母さんが食べさせてあげるから」充は母の手をそっと押し返す。大人になってから、こんなふうに甘やかされるのは性に合わなかったのだ。「母さん、置いておいてくれ。あとで食べるから」充を怒らせてはいけないと、翠は慌てて皿を下ろし、笑顔を作る。「分かったわ。でも後でちゃんと食べるのよ。それで、聞きたいことって何?」充は静かに母を見つめた。「母さん。昔、奈緒の母親を追い詰めた時、証拠として写真や動画を撮っていたって言ってたよな?あれは……まだ残ってるのか?」驚いた翠が急に立ち上がったため、椅子がガタンッと音を立てる。「充、どうして急にそんなことを聞くの?まさか奈緒に返そうなんて考えてるんじゃないでしょうね?絶対に渡さないわよ!あれは私の最後の切り札。まだ使ってないだけで、奈緒がこれ以上好き勝手するなら、あの恥ずかしい写真も動画も全部世間にばら撒いてやるつもりなんだから。
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第313話

奈緒と蛍は点滴を終えたあと、さらに血液検査を受け、薬物成分が完全に体外へ排出されたことが確認できたため、そのまま退院した。娘が辛い思いをしたことに胸を痛めた蛍の両親は、自ら車で迎えに来て、蛍を自宅で静養させるため連れて帰った。奈緒はタクシーで帰るつもりだったが、いつの間にか仁哉が車を寄せていた。彼は余計なことは何も言わず、ただ助手席へ乗るよう静かに促す。奈緒を家の前まで送り届けると、仁哉はそのまま車を走らせて去っていった。遠ざかるテールランプを見送る奈緒の胸に、ほんの小さな温もりが灯る。仁哉は昔から口数が少なく、言葉より行動で示すタイプだった。彼の気遣いはいつも絶妙な距離感を保っていて、押しつけがましくもなく、誤解を招くこともない。そんな彼が、仕事のパートナーであり、友人でいてくれることが奈緒には嬉しかった。帰宅後、奈緒はそのままバスルームに向かい、熱いシャワーを浴びて疲れと病院特有の消毒液の匂いを洗い流す。髪を乾かし、部屋着に着替え、黎の元へ行こうとしたその時……携帯が震えた。画面を見ると、表示されていたのは、最も尊敬する恩師の名前――妙子からの電話だった。電話に出ると、受話器越しに朗らかな笑い声が響く。「奈緒ちゃん、体調はもう大丈夫?実はね、厄介な古建築修復の案件があって、専門家による意見交換会を開くことになって。みんなの知恵を借りたいんだけど……明日、時間はあるかしら?」古建築修復は、大学時代に妙子の勧めで副専攻として学び始めた分野だった。妙子は仁哉の祖母にあたり、同時に奈緒の高校時代の美術の先生でもあるが、もっと広く知られた肩書きがある。それは、深津市古建築研究協会の会長。彼女との出会いがきっかけで、奈緒は古建築修復の世界に魅了された。各時代の建築様式や伝統工法を学ぶことに夢中になり、高校から大学にかけて書き溜めたノートだけでも百冊を超える。退職後の妙子は、全国各地の危機に瀕した古建築を救うため、今なお精力的に飛び回っていた。70歳を過ぎても驚くほど健脚で、情熱を失わず、自らの理想を追い続ける女性である妙子。これまでの数年、妙子の努力によってどれほどの古建築が解体から救われ、息を吹き返したことか。まさに国内屈指の古建築修復の第一人者である。しかし、重要な修復案件では、
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第314話

優秀な女性ほど、結婚すると家庭という現実に足を取られ、自分の歩みを遅らせてしまう。それでも、奈緒はあきらめずに建築の仕事を続けていた。それは、妙子にとって何より嬉しいことだった。妙子は朗らかに笑う。「もう大丈夫よ。あれはちょっとした事故だっただけだから、少し静養すれば十分だったの。実はもう全国を飛び回ってるのよ。家族が心配するから、まだ療養所にいるって嘘をついてるだけ。だから奈緒ちゃんが来なくて正解。来ても私はそこにはいなかったから。明日午後の2時、私のオフィスに来て。奈緒ちゃんの意見をぜひ聞かせてほしいの」奈緒は二つ返事で答えた。「はい。では明日また」電話を切ったあと、奈緒は先日の旧市街での出来事を思い出した。割れてしまった湯飲みは修復師に頼んで直してもらったものの、元通りとはいかなかった。早く妙子に話したかったけれど、どこから説明すればいいか分からなかった。妙子にはきちんと謝りたいと思っていたのだが、仁哉と知り合った経緯そのものが偶然の連続で、何から話せばいいのか分からなかったのだ。翌日の午後2時。奈緒が時間通りに妙子のオフィスを訪ねると、そこには、仁哉と妙子が並んで立っていた。妙子は奈緒の記憶のままの姿だった。真っ白な髪をきっちり後ろでまとめ、流行に左右されない白いブラウスに黒いパンツ姿。背筋はまっすぐ伸び、その佇まいは歳月を重ねてもなお力強く凛としている。一方、仁哉はライトグレーのポロシャツにカーキ色のスラックスというシンプルな装い。顔にはまだ殴られた痣が残っていたが、それでも彼特有の品の良さと端正な雰囲気は少しも損なわれていなかった。奈緒と仁哉はそれぞれ用事があると言って、さっきヤジン・デザインから別々に出たはずだ。それが30分後、こんなところで再会するとは思わなかった。互いの顔に、同じ驚きが浮かぶ。先に口を開いたのは仁哉で、その顔には隠しきれない喜びが広がった。「つまり、祖母が言ってた『古建築修復の天才』って、奈緒さんだったってこと?」奈緒も目を輝かせる。「まさか、仁哉さんもこの分野に興味あったの?現代建築だけでも十分すごいのに、古建築まで?」仁哉は慌てて手を振る。「いや、僕はむしろこの分野が苦手なんだ。だから勉強しようと思って来たんだよ。帰国してから古建築修
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第315話

風鳴塔は800年ほど前に作られてから、幾度の修復を経てその姿をとどめてきた。しかし、先の大雨が原因で限界を迎えてしまい、塔は激しく傾き、中心を支える柱が腐食して、倒壊寸前の状態だった。第一回の専門家会議では、全員一致で「修復不可能」という結論が出されている。現地で解体し、新たに建て直すしかない――それが専門家たちの総意だった。だが、妙子だけが強く反論し、再度の審議を求めたため、今回は国内の古建築修復の第一人者たちが一堂に会していた。奈緒と仁哉は妙子を挟むように左右に座る。ほどなくして会議が始まった。スクリーンには最新の調査映像が映し出され、損傷箇所が細部まで映されていく。専門家たちが口を揃えて出した結論は一つだった。骨組みが腐り切っているため、もはや修復は不可能。それを聞いた文化財課の課長・栗原宗時(くりはら むねじ)は、苦しげに妙子を見た。「墨谷会長……安全面を考えるなら、やはり解体して建て直すしかありません。もう限界でしょう」その時、妙子の傍らから、涼やかで力強い声が上がった。「栗原課長、皆さん、私はその結論を出すのは、まだ早すぎるかと思います。風鳴塔は壊さずとも、修復できます」そう言ったのは奈緒だった。仁哉は思わず彼女を見つめる。奈緒は会議中、ずっと静かに話を聞きながらペンを走らせていた。仁哉が何度か横目で覗き見ると、奈緒が描いているのは、風鳴塔の精巧な構造図だった。そんな彼女が今、専門家全員の結論を真っ向から覆した。国内でも権威とされる古建築学の大家が顔を真っ赤にして怒鳴る。「何も知らんくせに大口を叩くな!我々は古建築を何十年も研究してきた。社会に出たばかりの若造が、我々以上だとでも言うのか?」他の専門家たちも次々と奈緒を笑った。宗時も困り果てたように溜息をつく。「申し訳ありませんが、建設的な意見がないなら、会議の進行を妨げないでください」そこで妙子が手を上げ、ゆっくりと立ち上がり、会場を見渡した。「若い人を侮ってはいけません。頭の柔らかさでは、皆さんより優れていることだってあるんです」妙子は隣に座る奈緒を指した。「彼女こそ、これまで数々の古建築修復で決定的な助言をしてきた人物――セイフウです。栗原課長、その名前には聞き覚えがあるんじゃないでしょうか?」「
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第316話

奈緒は会場を見渡し、落ち着いた声で続けた。「この構造の目的は、単純に塔を支えることではなく、『力の流れを導く』ことです。塔身にかかる応力を改めて分散させる。たとえるなら、猫背の人の骨を折って直すのではなく、矯正具を装着して正しい姿勢へ導くようなものですね。職人の方々がこの案に沿って施工すれば、風鳴塔を再生させることは十分可能です」奈緒が説明を終えると、会場は水を打ったように静まり返った。宗時をはじめ、その場にいた専門家たちは、まるで神業でも目の当たりにしたかのような眼差しで奈緒を見つめていた。人々の中に静かに座り、彼女から目を離せずにいた仁哉。まるで一筋の光が奈緒だけを照らしているかのようで、その姿はきらきらと輝き、普段とはまた違う、唯一無二の魅力を放っている。奈緒の美しさは外見などではない。魂の奥から自然にあふれ出す光こそが、彼女の本当の美しさだった。まるで原石のように、最初は目立たなくとも、知れば知るほど希少で、特別な存在になっていく。そして、次第に目を離せなくなり――ますます心が惹かれていくのだ。「権威ある専門誌で連載を持ち、鋭い論調から『建築界の裁判官』と呼ばれているセイフウさんは、てっきりもっと年配の方かと思っていましたが、まさか……こんなにお若い方だとは!」「そう言えば、2年前に私が古塔を修復していた際、オンラインで意見をもらったことがあります。あの時いただいた助言も、今日と同じように目から鱗が落ちるものでした。自分の未熟さを思い知らされましたよ」「まさに後生畏るべしだな。私たちは人生の半分以上を研究に費やしてきたというのに、こんな若い女性に及ばないとは……」「……」会場のあちこちから、感嘆と称賛の声が上がる。プライドから納得できない者が少しは残っていたものの、奈緒の提案が専門的で実行可能なのは明らかだった。議論が止まらない様子を見て、宗時は採決を促した。奈緒の意見を採用して修復を試すか?それとも建て替えるか?最終的に、国宝級の古建築を守ることに人生を捧げてきた専門家たちは、満場一致で奈緒の案を採用することに決めた。その後も、奈緒の提案を基にして細部の調整と修正が続けられた。ようやく会議が終わった時には、すでに夕方の5時を回っていた。奈緒と仁哉が妙子と共に会議室を出ようとしたとき、宗時が
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第317話

奈緒はその場で固まった。頭が完全に停止し、数秒ほど経ってからようやく声が出る。「えっ?仁哉さん、栗原課長とは……」仁哉は意味ありげに微笑むと、すぐそばの宗時の肩へ気安く腕を回した。まるで親しい友人を紹介するような軽い調子だった。「紹介するよ。この人は栗原宗時、文化財課の課長で、骨董品や古建築の専門家、書道家……あと、常盤グループの実質的なオーナーでもある。そして、僕の父」仁哉が矢継ぎ早に並べる肩書きに、奈緒はめまいがしそうだった。極めつけの「僕の父」という言葉は青天の霹靂で、自分の耳を疑う。「この馬鹿息子が!セイフウさんの前で、そんな取るに足らない肩書きを並べてどうする!」宗時はわざと厳しい顔を作り、仁哉の後頭部をぱしんと叩いた。仁哉は素早く頭を押さえ、大げさに叫ぶ。「父さん、頭は叩くなよ。馬鹿になったらどうするんだ」宗時は目を見開き、今度は仁哉の腕を叩こうとした。「セイフウさんの前で親に向かってその口の利き方は何だ!しつけがなっていないなら、今からでも叩き直してやる!」仁哉はひらりと身をかわす。そのまま宗時の腕の下をくぐり抜け、手首を逆に取った。力の流れを利用して宗時を押し引きすると、流れるような動きで、60歳近い宗時をあっさり脇へ転がした。あまりの展開に、奈緒は言葉を失った。これは本当に親子なのだろうか?それとも……昔からの宿敵?仁哉と父親の関係は、想像以上に砕けたもので、そして妙に荒々しい。仁哉は得意そうに鼻を擦り、少年のような屈託のない笑みを浮かべる。「父さん、もう認めたら?今じゃ僕には勝てないよ。今日は腕を怪我して力が入らないからこれで済んだけど、本調子ならもっと派手に転がってたからね」宗時も怒る様子はなく、笑いながら服の埃を払って立ち上がった。「この親不孝者め!覚えてろよ。家に帰ったら母さんにたっぷり叱ってもらうからな!」隣では妙子がすでに腹を抱えるほど笑っていた。どうやらこの賑やかな親子のやり取りは、いつものことらしい。妙子は笑いながら手を振った。「はいはい、二人とも文化財課の前で大騒ぎして。人に見られたら笑われるわよ。仁哉、ここはあなたのお父さんの職場なんだから、少しは顔を立ててあげなさい。奈緒ちゃん、この二人は放っておいて、うちで夕食を食べましょう」
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第318話

けれど今の宗時は、自分のことばかりをもち上げ、息子である仁哉のことを酷くこき下ろしている。そんな父子の軽妙で愉快なやり取りを見ているうちに、奈緒もつられて笑みをこぼした。奈緒は勝手に、栗原家のような名門は、さぞかし堅苦しく息が詰まるような場所だと思い込んでいた。普段は淡々として近寄りがたく、どこか雲の上の存在のように見える仁哉が、家族の前ではまるで大人になりきれていない少年のように、いたずら好きで表情豊かになる。奈緒にとっては、何もかもが新鮮だった。皆でわいわいと言い合いながら車に乗り込み、栗原家へと向かう。マセラティでは目立ちすぎて気が引けたので、奈緒はタクシーで来ていた。なので、妙子と共にそのまま仁哉の車に乗せてもらった。車中、妙子が仁哉の幼い頃の話をいくつも聞かせてくれた。そのおかげで奈緒も、彼がどんな家庭で育ったのか、ようやく大まかに理解できた。秀智は弟ではなく、実は従弟だということも分かった。秀智の両親が幼い頃の事故で亡くなり、仁哉の両親が秀智を引き取って育てたのだという。不憫な境遇だったこともあり、仁哉の両親は何かと秀智を優先し、息子である仁哉に対しては、ほとんど放任に近い育て方をしてきたらしい。そのおかげで、仁哉は自分の家でも祖父母の家でも、伸び伸びと自由に暮らしてきたそうだ。妙子夫婦も仁哉の両親も、子どもの個性を尊重する考え方だった。仁哉のやりたいことは、何であれ全力で応援する――そんな家庭だった。そもそも、天性の天才なんてどこにいるのだろうか?興味に導かれ、夢中になって学び、ひたすら上へ伸び、外の世界へ手を伸ばし続けた結果として、天才と呼ばれているだけなのかもしれない。仁哉が8歳の頃には妙子の本棚にあった本をすべて読み終えていたと聞き、奈緒は思わず笑った。自分も子どもの頃は同じだった。典型的な本の虫で、どんな本でも手に取れば夢中になって読んだ。当時、蘭は毎日忙しく、昼夜逆転の生活を送っていた。そして、家に帰ってきても酒に酔っていることが多く、奈緒はほとんどの時間を本と共に過ごした。だから、奈緒の価値観や人生観は、書物から得た知識によって形作られたと言っても過言ではない。建築学に惹かれた最初のきっかけも、一人の女性詩人の作品だった。興味を持ってその生涯を調べるうちに、彼女
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第319話

奈緒は仁哉たちと共に栗原邸へ足を踏み入れた瞬間、時代を飛び越えたような錯覚に陥った。深津市郊外にある栗原邸は、歴史ある豪邸が集まる場所にあった。門は年月を経ているのに威厳を放っていて、歴史を感じさせる。奈緒は妙子と腕を組んで、仁哉たちと共に回廊を歩いた。歩を進めるたびに景色が変わる。曲がりくねった小径の先には、池に沿って東屋や卒塔婆が点在し、枯山水や植木が巧みに配された回遊式庭園が広がっていた。長い回廊は龍のように庭園を巡り、すべてが人の手で造られたはずでありながら、まるで自然そのものが形づくったかのような調和を見せていた。これまで奈緒は、青木家の本邸こそが豪邸の極みだと思っていた。しかし、それはどうやら間違いだったらしい。栗原邸はまるで迷路のように広く、あちこち曲がるうちに、奈緒はまるで歴史小説の世界に入り込んでしまった少女のように緊張していた。やがて居間に到着すると、室内には重厚感のある伝統的な調度品が整然と並んでいた。掛け軸も、飾り棚に置かれた器も、照明を受けて厳かな雰囲気を放っている。どれも値段のつけられないほど貴重な骨董品ばかりだ。宗時から連絡を受けていたのだろう。仁哉の母親が、すでに待っていた。彼女はすぐに立ち上がり、穏やかで慈愛に満ちた笑みを浮かべる。紹介によれば、この上品な女性の名は栗原琴葉(くりはら ことは)というらしい。大学で文学を教える教授であり、著名な童話作家でもあるという。琴葉は鮮やかな黄色の服を身にまとい、すらりとした長身を美しく保っていた。歳月さえ味方につけたのか、彼女からは優雅で教養ある知性が滲み出ている。琴葉は親しげに奈緒の手を取り、驚きと喜びが混じり合った表情を浮かべた。「まさか、あのセイフウさんが、こんなに聡明で可愛らしいお嬢さんだったなんて」すぐさま琴葉は妙子へ向き直り、わざと責めるように言う。「お母さん、なぜもっと早く教えてくれなかったの?セイフウさんのコラムは、宗時が私にも読ませるから、二人でずっと一度はお目にかかりたいって話してたんだから。それに、セイフウさんがどんな方か賭けまでして。私はお母さんのような知的で堂々とした女性だと言って、宗時は頑固な年寄りの学者だと言い張っていたの。結局、二人とも外れだったわね。ふふふ……」明るい笑い声が響き、古い屋敷に漂
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第320話

食事を終えたあと、奈緒は先ほど通りかかった書斎のことを思い出した。壁一面にそびえる本棚があまりにも壮観で、どうしても気になって仕方がない。そこで遠慮がちに、中を見せてもらえないかと尋ねてみた。宗時は、その申し出に目を細めて喜ぶ。電子情報があふれるこの時代、埃をかぶった彼の書斎に興味を示す者など、ほとんどいない。そんな中、自ら本を読みたいと願い出る者が現れたのだ。宗時は大喜びで、奈緒を自ら案内した。2階建てで広く、古風で上品な造りをしている書斎。室内は静寂に包まれ、空気には淡い白檀の香りが漂っている。中へ入った途端、奈緒の目は本棚の最上段に置かれた一冊の和綴じの古書へ吸い寄せられた。背表紙は擦り切れているが、長い歳月をくぐり抜けてきた重厚な風格をたたえている。奈緒はつま先立ちになり、仁哉に手伝ってもらいながら、その本を棚から下ろした。表紙には、力強く「作庭記」と書かれていた。奈緒はそっと指先で表紙をなぞった。思わず呼吸が速くなる。これは、かの有名な造園家の著書で、世界でもっとも古い庭園の専門書ともいわれている。土地の選定、基礎造り、建築、内装などの造園技法が詳しく記されているだけでなく、「借景を巧みに活かし、土地に適した美を極める」という伝統的な美学と哲学が詰め込まれていた。現在、世に出ているのは複製が大半なのだが、今手にしている本は、紙が黄ばみ、乾いて硬くなっている。古くなった墨の香りや版面、紙の年代から見て、初期のものである可能性が高い。ひょっとすると、原本に極めて近いかも……「これは……」奈緒は顔を上げ、信じられないものを見るような目で尋ねた。「これは初期の頃に書かれた『作庭記』なんですか?」奈緒がその価値を知っていることに気づき、宗時はさらに顔を綻ばせた。「さすがです!昔、海外のオークションで手に入れたものなんですよ。今の若い人たちは『作庭記』という名すら知らないし、ましてや一目でそれだと見抜ける人間はまずいません」奈緒は細心の注意を払いながら、一枚だけページをめくった。紙の間には、乾燥したイチョウの葉が栞として挟まれていて、まるで百年も昔の職人が残した温もりが、そこに宿っているようだった。精緻な図面や注釈を見つめていると、数百年前の職人たちが庭園の中で汗を流す姿まで目に浮かんでくる。建築と自
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