جميع فصول : الفصل -الفصل 60

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第51話

奈緒は一瞥し、それを受け取った。充が好きなだけ使えと言うのだ。使わない手はない……今後はもう、自分のお金を切り崩して彼の機嫌を取るような、馬鹿なことはしない。片や、充は屈み込むと、奈緒の額にそっと口づけをし、慰めるように肩を叩いた。「先に寝ててくれ。すぐ戻るから」そう言って、彼は振り返って、慌ただしく足早に去っていった。そして、彼の足音が徐々に遠ざかるにつれ、寝室には恐ろしいほど静けさが訪れた。そんな中奈緒はバスルームに駆け込み、発狂したように指先で首を掻きむしった。彼女は充が今つけた、肌に残る情事の痕を必死で消し去ろうとしたのだ。シャワーを出し、冷たい水を全身に浴びると、奈緒は体中に広がる嫌悪感で、思わず吐き気が込み上げてくるのだった。こんなところは息が詰まりそうで、1秒だって居たくなかった。引き裂かれたブラウスをゴミ箱に放り投げ、奈緒はクローゼットから持ち去るのを忘れていた古い服を取り出し、着替えると、一刻も早く、ここから離れようとした。そこへ、恵が部屋から慌てて飛び出てきて、奈緒の姿を見て、彼女は心配そうに言った。「奥様、どうかもう少々お待ちいただけないでしょうか?旦那様もすぐに戻られるはずです」奈緒は毅然と首を振った。「いいえ。もうこの家には、これ以上居たくないの」そう言って、奈緒は勢いよく水鏡ヶ丘の門を飛び出していく。一方、玄関先に佇む恵は、去りゆく奈緒の背中を悩ましそうに見つめ、小さな溜息をついた。恵は心の中でぼやいた。この二人、つい前まではあんなに上手くいっていたのに、一体どうしてこんなことになってしまったのか?片や、奈緒は自分の車を取りに戻ろうとして、路肩で暫く待った後、ようやくタクシーを拾えた。車に乗り込み、行先を伝えようとした矢先。美紀から挑発的なラインが届いた。【弱みを見せれば、あなたの最愛の旦那さんは我を忘れて会いに来てくれるのですね】奈緒が慌ててスクショを撮ろうとしたが、美紀も今回は賢く、すぐに送信取り消しをした。すぐに、美紀からまた追撃のメッセージが届いた。【そういえば、充さんと離婚するんですって?本当に良かったですね。出来るだけ早く別れてくださいね】【あなたのお母さんだってシングルマザーだったでしょう?あなたも結局同じ運命なんです。本当、可哀想な
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第52話

その頃、充は美紀のもとへ駆け寄っていった。美紀が鼻先を赤くしながら、涙を浮かべ、身体を震わせているのを見て、充は反射的に自分のジャケットを脱ぎ、彼女の肩にかけてやった。一方、美紀はそのまま彼にすがりつこうとした。充は無意識に距離を置こうとしたが、美紀に思いっきり抱き着かれてしまったのだ。そんな彼女はひどく震えていて、凍えて迷える子羊のようだった。充の心に一瞬ためらいが走るが、結局突き放すことはできなかった。「充さん……」美紀が充の胸に顔をうずめ、くぐもった声で呟く。「会いに来てくれてありがとう。やっぱり、一番頼れるのは充さんだわ」充は小さく溜息をつく。「どうしたんだ?仁哉まで……俺たちのことを疑っているのか?」そう聞かれ、美紀は涙に濡れた顔を向けて言った。「ええ。ネット上の噂を見たみたいで、私を問い詰めてきたの。あの告白が最初から嘘で、私の好きな人は自分じゃなく、本当はあなたなんじゃないかって。真実を言えって迫ってきたの。もし最初から偽りなら結婚の必要なんてないって……例え政略結婚だとしても」美紀の嗚咽交じりの訴えに、充の胸は痛みで締め付けられた。「俺が仁哉に直接話そう。事実はそんなことじゃないんだから」美紀の目から涙がこぼれ落ちた。「充さん、もし仁哉に離婚を切り出されたらどうしよう?子供が生まれたばかりなのに、そんなんじゃ、私はシングルマザーになってしまう。どうしてみんなして私たちの仲を誤解するの?私たちは本当にただの仲の良い従兄妹なのに。なんで奈緒さんがあんなデマを流すのよ……」美紀は絶望を滲ませた口調で訴え、今にも過呼吸になりそうで、足取りもおぼつかず、倒れそうになった。充はあわてて支え、自分の身体を預けさせた。懸命に彼女をなだめようとした。「俺たちは潔白なんだから、怖がることはない。泣かないで、俺がついている。帰ろう、俺が直接栗原邸へ送り届ける。何も考えず、全部任せてくれ」すると、美紀は潤んだ瞳で充を見つめて言った。「充さん。あなたもそんな噂まみれの私を見捨てて二度と関わらなくなるなんてことは……ないわよね?」充は言葉を詰まらせた。実は充もさっき奈緒といた時、この件について本気で考えたことはあった。美紀に優しくするのは長年連れ添った妹のような親しみからだ。しかし、この
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第53話

充は様子がおかしいと気づき、慌てて美紀の肩を支えた。「美紀、どうした?言っただろ、幼い頃に心臓の手術をしているんだから、興奮しちゃいけないって……いいか、深呼吸するんだ!」美紀は力を込めて息を深く吸い込もうとしたが、力が入らず充の胸元に倒れ込んだ。その瞬間、充は思わずドキッとして、これではいけないと思いつつ、とっさに突き放そうとしたが、あまりに苦しそうな美紀の顔を見ていると、どうしても突き放せなかった。一方、美紀は充の腰にしっかりと抱きつき、身体を震わせた。「充さん、もう離れたくないの。海外でのこの5年がどんなに辛かったか、あなたには分からないでしょ?やっと分かったわ。この世であなただけが一番優しくしてくれるの。あなたがいてくれなかったら、妊娠中や出産の時、どう過ごせばよかったのかさえ分からなかった」それを聞いて、充は切なくなり、かける言葉が見つからなかった。彼は未だに、美紀がかつて佐野静香(さの しずか)の手によって施設から引き取られてきた時の、あのか弱い女の子のままだと記憶しているのだ。美紀は出生時の心臓の欠陥から親に見捨てられ、施設に引き取られた。静香が慈善活動で美紀に出会い、命の危機にある彼女を不憫に思って引き取り、手術も手配した。だが美紀の病気が治ると、静香と佐野利明(さの としあき)の仲が急速に悪化した。絶え間ない冷戦に喧嘩、ひどい時には手まで出す有様……結局、美紀があまりに可哀想だと考えた充が、翠に話して美紀を青木家で預かることにしたのだ。青木家にやってきた頃の美紀は痩せて小さく、顔なんか充の手のひらに収まるくらいだった。充が根気強く食事を与えたから、少しずつ肉もつくようになったのだ。それから計算や文字を教え、新しい友達ができるよう支えてきた。あのか細い少女を、誰からも愛されるような女性に育て上げたのは充だった。彼は心から美紀を妹として大切にし、一生守り抜こうと誓っていた。だが誓って言える。美紀に対して、男女の感情など微塵も抱いてはいない。なぜ奈緒がこれほど焼きもちを焼き、仁哉までもが二人を誤解しているのか充には理解できなかった。そう思うと、充は今や頭を悩ませるしかなかった。確かに仁哉は仕事で忙しくすることが多いから、美紀一人に裕弥を任せて海外へ行かせるのはあまりに心配だ。
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第54話

それを聞いて、充の胸が急に締め付けられた。美紀のあまりに悲惨な身の上と、かつて誓った約束が、怒涛の思いとなって彼を襲った。口元まで出かかっていた決別の一言までも、充は必死で飲み込んだ。しかし、そうして躊躇している間にも、奈緒と娘の小さな姿がふと脳裏をよぎった。美紀にとって一番つらい時期は、奈緒にとっても同じく苦しい時間だったはずだ。自分は「伯父」としてはそれなりに役目を果たせていたかもしれない。だが「夫」や「父親」として見れば、あまりに失格だった。すべてを落ち着かせたあと、きちんと奈緒母娘を支え直すべきだったのだ。人生というのは時として残酷なものだ。二人の妊娠と出産が、こんなにも絶妙に重なってしまうとは。本来なら、美紀を水鏡ヶ丘に移住させ、二人の子供をまとめて見てやろうと思っていた。だが、奈緒が美紀をひどく警戒しているようだし、もはやバランスを取るのは難しくなってしまっているのだ。ついに、奈緒から渡された離婚届、さらに最近のあの冷ややかな態度を思い出すと、充は目を閉じた。再び開いたとき、その瞳は完全に冷めきっていた。低い声で、彼は静かに告げた。「美紀。お前の面倒をみていたのは、お前が特別な時期だったからだ。でも裕弥くんが生まれてもう1ヶ月経ったし。俺も元の生活に戻らないと」そこまで言って、充は一呼吸置き、あえて美紀から視線を逸らして一歩後ずさった。「これから俺は、奈緒と娘を支えていくつもりだ。彼女たちこそが、俺の責任だから」それを聞いて、胸がえぐられる思いをした美紀は、信じられないような表情を浮かべ、後ずさりながら声を震わせて言った。「充さん……あの親子があなたの責任だって?じゃあ私、私は何なの?もう私を捨てるの?」しかし、充が向けてきた目線にはかつての慈しみの色はもうなかった。突きつけてきたのは冷酷な事実だった。「お前の後ろには仁哉が、そして栗原家も実家もある。どうしようもなければ、俺の母さんに頼るか、もっと手厚い世話係を雇えばいい。いつまでも俺に頼りきりじゃダメだ。美紀、お前は自立しないといけないんだ」「自立?充さん、どうすればいいっていうの……」凍てつくような感覚に全身が支配され、美紀はわなわなと震えながら、涙をこぼした。「仁哉に冷たくされ、今度はあなたまでもが私を放り出すの?そん
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第55話

「きゃっ!やめて!誰?何する気よ!」美紀が悲鳴を上げて暴れるけれど、相手の男は強引に彼女を押さえつけた。それは背が高く、黒いコートを着た男だった。男は何も言わず、月の光を浴びたその眼差しには、凍りつくような冷たさと殺意が宿っていた。そして、美紀が男の顔を確かめる前に、男は力任せに彼女を引きずり、荒波が打ち寄せる海辺へと歩みを進めた。「いやっ……嫌!誰か助けて!充さん――」美紀は砂の上で必死に足をバタつかせ、ヒールさえどこかへ蹴り飛ばされてしまったが、砂浜には彼女の暴れた爪痕だけが残った。それから、氷のように冷たい海水が容赦なく押し寄せ、あっという間に彼女の足首、そして、膝を浸してしまった。「ごぼっ……っ……」さらに、美紀は反応する間もなく、男に思いっきり頭を押さえつけられ、漆黒の冷たい海中へと沈められてしまった。「げほっ……けほっ……」しょっぱい海水が肺に入り、焼けつくような激痛が体を駆け巡る。美紀は水中でもがくように、両手を激しく動かした。しかし、男は容赦なく、彼女の頭を何度も何度も水面下へと押し付けていった。「もう懲りたか?」男の冷淡な声が、耳元で低く響く。「十分に頭を冷やしたら、少しはおとなしくしてろ。自分の立場を笠に着て威張るのはもうやめておけ」息も絶え絶えな美紀は、死を目前にした恐怖に完全に打ちのめされていた。「うっ……ううっ……」それから、男は美紀を死なせるつもりはないのか、十分な制裁を加えた後、ボロ布のように彼女を浅瀬に放り出した。美紀が震える体で顔を上げ、酷い仕打ちをしてきた男の顔を見ようとすると、面をつけていた男は、軽蔑しきった瞳で彼女を一瞥しただけで、瞬く間に夜の闇へ消えていった。……一方、充は急ぎで家に帰ったが、そこにはもう奈緒の姿はなかった。物音を聞きつけて出てきた恵は、充の険しい表情をみて、恐る恐る言った。「旦那様がお出かけになったあと、奥様もすぐに出て行かれましたよ」それを聞いて、充は顔色を一変させて、すぐさま奈緒に電話をかけたが、予想通り着信拒否の通知が流れるだけだった。だが、彼はもう固く決意した。これから奈緒母娘に誠心誠意、償っていこうと。どんなに遅くなっても、どうしても彼女ら親子に会いたかった。しばらく娘の顔も見ていない。
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第56話

蛍は言いたい放題言った後、勢いよくドアを閉めた。ドア枠が響くほどの大きな音だった。充の表情が、一瞬で凍りついた。蛍の言葉に含まれたあまりにも過激な情報を、飲み込めずにいたのだ。奈緒、今度はもっと金持ちで、もっと力のある男を見つけたというのか?しかも、その男が娘に豪邸までプレゼントしただと?そんなはずがない。充の知る限り、奈緒は自分と結婚してからというもの、ひたすら仕事に打ち込み、交友関係も驚くほど明白なものだった。弘樹を除いて、異性と親しくするような姿など一度も見たことがなかった。あの日、弘樹が残した含みのある言葉を思い出し、充の胸に嫌な予感がよぎる。まさか、弘樹が奈緒と……あの二人は学生時代からの付き合いで、昔から周囲が疑うほど関係が近かった。弘樹は幾度となく奈緒を褒め称え、自分が見た中で最も気取らず、芯の強い女性だと語っていた。そう思って車に戻った充は、ぎこちない手つきで弘樹に電話をかけた。二人で言い争って以来、充から連絡を取るのはこれが初めてだった。呼び出し音が長く続き、ようやく出た弘樹の声は、氷のように冷たく淡々としていた。「なんだ?」相手のよそよそしい態度に苛立ちを覚えつつも、充は単刀直入に尋ねた。「奈緒はどこだ?お前がどこかに匿ったのか?」すると、弘樹は鼻で笑い、呆れたように返した。「お前の奥さんを、俺がわざわざ匿う理由なんてないだろう?」そう言われ、返す言葉がなかった充は口をつぐんだ。そうだ、奈緒は自分の妻だ。しかし最近の彼女は、まるで見知らぬ人のように、手の届かない場所へ去っていく気がしていた。充は声を少し穏やかにして、情報を聞き出そうと試みた。「誰かが家をプレゼントしたっていう噂を聞いたんだが、本当にお前じゃないのか?」「俺がお前の奥さんに家なんて買ってどうするんだよ?」と、弘樹は冷たく言い放った。再び言葉に詰まり、充は無言になった。電話越しに沈黙が流れる。充は目を閉じ、弘樹の声のトーンからして、本当に彼ではないと確信せざるを得なかった。すると、電話の向こうで弘樹が最後に皮肉を込めた一言を言い放った。「日頃から少しでも奈緒に気を配っていれば、どこにいるかも分からずに俺へ電話してくるなんて惨めなことにはならなかったはずだ。仁哉さんが帰っ
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第57話

あまりの消費金額に、充は完全に凍りついた。奈緒はこれまで、こんな派手な金遣いをしたことがなかったからだ。生活はなるべく節約すべきだと、彼女はいつも微笑みながらそう言っていた。倹約家でしっかりした妻だと、充はずっと安心していたのだ。散財ばかりする美紀とは違い、奈緒は将来のために蓄える賢い女性だと思っていた。カードを渡したのは、奈緒の堅実な性格なら使い過ぎる心配はないと信じていたからだ。ところが今はどうだ。渡して1日も経たずに、驚くほどの額をあっさりと使われてしまっているのだ。これでは、いくら青木グループでも持ち堪えられない。充は即座に銀行に連絡し、そのカードの利用停止を命じた。……一方、仁哉が海岸に駆けつけると、美紀は全身濡れた状態で砂浜に力なく倒れていた。しかし、仁哉はその光景を見ても眉をひそめるだけで、慌てる素振りはなかった。「いつまで騒いでるんだ?なんでこんなことになったんだ?」美紀は全身を震わせ、泣き出しそうな表情で唇を噛んだ。「違うの、私じゃない……知らない男に海に突き飛ばされて、無理やり海の中に押し込まれてしまったの。もう限界……気持ち悪い」それを聞いて、仁哉は辺りを見渡した。だが、海岸には自分以外の足跡はなく、美紀の証言を裏付けるものは何一つもなかったのだ。仁哉は困ったように眉を寄せ、美紀を抱き上げたが、その目線は至って冷たかった。「その悲劇のヒロイン気取りの芝居はA国でも散々やってきたな。言ったはずだ。僕らはただの政略結婚に過ぎない。互いの利益のための結びつきしかないんだから、君には自立してもらわないと。いつまでも頼ろうとするな」青ざめて震える美紀を抱きながらも、仁哉の目には一切の同情も浮かんでいない。充の温もりと違い、仁哉という男は、どれだけ寄り添おうとしても冷たく突き放す氷のような人だった。改めてそう感じた美紀は力なく口元をゆがめた。「子供を産んでも、結局あなたの態度は変わらないのね?」それを聞いて、仁哉は冷たい声で答えた。「好きだと嘘をついて結婚したんだろ?その嘘についてはもう言及するつもりはない。妊娠の経緯だって、分かっているんだろう?僕はあの日、酒を飲んでいても自分を失うほど酔ってなどいない」それ以上、仁哉は何も言わなかった。彼は美
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第58話

一方、奈緒が退職するという知らせは、あっという間に業界を駆け巡った。充が会社へと車を走らせている間、スマホは絶えず震えていた。取引先や競合他社、知人まで、事の真偽を確かめようと電話をかけてきた。充はすべてをミュートにし、点滅し続ける画面を無視したが、シャツは冷や汗でぐっしょりと濡れていた。彼は、今さらながらに痛感させられたのだ。奈緒は単なる形式上の妻ではない。青木グループの設計部を支える司令塔であり、ゼニスビルプロジェクトの要そのものなのだと。ゼニスビルは、青木グループの向こう5年の経営を左右する極めて重要な事業であり、新しい深津市のシンボルになるはずだった。今、そのチーフデザイナーの奈緒が辞め、プロジェクトのチームメンバーたちまでもが一斉に退職した。図面の修正も儘ならず、工事は目前に迫っている……プロジェクトは一夜にして破綻の危機に陥っていた。充のスマホ画面は消える間もなく光り続ける。役員からの責任追及や協力企業からの不信感、ライバルたちからのあからさまな探りが立て続けに押し寄せた。彼は唇をかみしめて無言のまま無視した。専用の駐車スペースに車を停めると、渉がすでに待ち構えていて、すばやく助手席のドアを開けると、焦った様子で言った。「社長、チームメンバーたちが一斉に辞めるという噂で持ちきりです。今さっきも、カセイ・ホールディングスの社長からも追加融資で新しいチームを組み直さないかと電話が来ました。明らかにこちらの弱みに付け込もうとしています」充は鼻で笑うと、鋭い目を向けた。「どいつもこいつもハイエナか。青木グループの混乱に乗じて株を買い叩こうって魂胆だな」渉は小さく頷き、おずおずと言った。「社長、なんとしても奥様をなだめてください。この大事な時期に奥様がいなくなれば、現場は完全に統制を失ってしまいます」そう言われ、動揺を隠せない充は、渉を鋭く睨みつけた。「君は、奈緒が本気だと思うか?それとも単純に駄々をこねているのか?」充には何も分からなかった。5年も結婚生活を共にしてきた奈緒が、もはや全く理解できない存在に思えた。かつての従順で、家庭を守り、自分を立ててくれていた控えめな姿とは打って変わり、今の奈緒はひどく冷酷無情になっているのだ。家庭のことも、仕事のことも、すべてを捨ててここから消え去ろ
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第59話

胡桃は真っ直ぐに充の前に立ち、見上げるようにして弟の目を見つめた。「退職は本人の意志よ。本人が辞めると言っている以上、引き留める道理なんてどこにもないわ」それを聞いて、充は言いようのない怒りに包まれた。「姉さん、自分が何を言っているのか分かっているのか?奈緒はうちの社員というだけじゃない。俺の妻でもあるんだぞ……」だが、胡桃は冷ややかな声で彼の言葉を遮った。「妻だって?でもこの5年間、あなたは職場で『公私混同はしない』と豪語していたはずよね。今まで彼女を妻として扱ったことなんてあったかしら?なかったでしょ?」充は絶句した。まさか奈緒の退職に、真っ先に同意したのが普段一番厳しく彼女に当たっていた胡桃だとは、夢にも思っていなかったのだ。奈緒も一瞬きょとんとして、驚いたように胡桃を見つめた。ここまでこじれた以上、青木家の人間が心から助けてくれるなんて甘い考えをもつほど、奈緒も単純じゃない。もしかすると胡桃は、美紀のために自分をさっさと追い出して席を空けたいだけなのかもしれない。奈緒はこのところ、美紀と青木家の関係について調べを進めていた。美紀は充の叔母である静香に養女として引き取られたが、長年青木家で育ったため、充の3人の姉からもまるで妹のように可愛がられていた。だけど、胡桃の考えはどうでもよかった。奈緒からしてみれば自分と敵対していなければ、それを利用させてもらうまでだ。奈緒は即座に口を開き、自分とチームのために最大限の要求を通そうとした。「提出済みの退職届は社内規定に従ったものだから、会社が承認をしない理由なんてないのよ。それにゼニスビルプロジェクトの統括は私。核心となるデータと設計コンセプトは私の知的所有権に帰属するわ。もちろんプロジェクトの設計チームも同様に私には彼らを連れ去る権利があるはず」充は信じられないといった様子で声を荒げた。「何を言っているんだ?ゼニスビルは青木グループのプロジェクトだ。個人の持ち物ではないし、チームも会社に帰属している。連れて行かれてたまるものか!」しかし胡桃が先回りして、断言した。「奈緒さんは5年間、放置されていた設計部を立て直し、国際的な賞を取るまでに引っ張り上げた。ゼニスビルの初稿も、あなたが海外出張中に奈緒さんが徹夜で仕上げたものでしょ?功績はすべて
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第60話

胡桃は……いま自分に同情した?ありえないことだ。胡桃といえば、この業界では誰もが知る「無情な鉄の女」だ。その仕事ぶりは、充以上に厳しく、冷酷だ。胡桃は浮いた噂も一切なく、独身を貫く主義で、建設業界からは恐れられる存在だった。この5年間、青木グループにいる間、自分が何度胡桃に冷たい目で見られ、怒鳴られたことか、数えても数えきれないほどだ。だから,胡桃は青木家で自分を一番嫌っているのだと思っていた。それなのに、誰よりも冷血そうに見える胡桃が、自分が充との離婚を決意した途端、不意に人間らしい温もりを見せたのだ。奈緒は何と答えていいか分からず、ただ黙り込むしかなかった。しかし、驚いたことに、胡桃はさらに意外な行動に出た。「辞めたいなら辞めればいいし、別れたいなら別れなさい。女なら、一人の男に縛られて一生を台無しにすることはないわ。この5年間、あなたはずいぶんと惨めな生活を送ってきたみたいだけど、ここ最近ようやく自分の人生を見出したみたいね」奈緒は呆然とし、言葉を失った。そして、胡桃は、さらにたたみかけるように言った。「この退職は、私が責任をもって承認する。グループの取締役としての権限は私にある。退職した後はゆっくり休み、子供との時間を大切になさい。寂しくて男が恋しくなったら、いつでも紹介してあげるわ」そこまで言われては、奈緒に返す言葉はなかった。「分かりました。お言葉に甘えさせてもらいます。ありがとうございます、胡桃さん」実は、奈緒も退職を巡って、充と泥沼のやり取りを覚悟していたから、十分すぎるほどの用意をしてきたのだ。まさか大物である胡桃が味方してくれ、あっという間に悩みの種を解決してくれるとは。奈緒は清々しい気分になり、ダンボール箱を抱えてそのまま部屋を出ようとした。だが、歩き出してすぐに背後から慌ただしい足音が聞こえてきた。その直後、充に腕を掴まれ、人目も憚らず彼は奈緒を懐へと引き寄せた。続いて彼の低く、怒気に満ちた声が響いてきた。「姉さんのデタラメを聞くな。退職には俺の許可が必要だ。姉さんが取締役とはいえ、俺を飛び越えて特例で許可を出せないはずだ」充は、憤りを感じながら同時にどうしようもない気持ちになった。奈緒が自分に歯向かうようになってからは、まるで世界中を敵に回したみたいだ。
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