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第41話

「社長、奥様がすでに自宅で夕食の準備を……」秘書が丁寧に告げるが、最後まで言う前に仁哉は言葉を遮った。「家に帰る前に、会っておかなければならない人間がいる」そう言うと、仁哉はスマホを取り出し、連絡先から相手を選んで通話をかけた。その頃、奈緒は蛍と二人で、混ぜ麺を頬張っていた。妊娠中から出産後の今まで、ずっと薄口の食事をしていたため、1年ぶりの濃い味付けに奈緒は心底満足していた。蛍は授乳中の奈緒のために辛さ控えめに調整してくれていたが、食べ終わると奈緒はなんとなく黎への罪悪感を覚えた。そんな自責の念に浸っていた時、不意にスマホが鳴り響いた。画面に仁哉の名前が表示され、奈緒はすこしポカンとした。仁哉は今、A国で秘密プロジェクトに携わっているはずでは?なぜ今、突然電話をしてきたんだ?奈緒は疑問に思いながら受話器を取った。「もしもし?」すると朗らかで落ち着いた声が聞こえてきた。「奈緒さん。今、深津市にいるんだが、会えませんか?」そう言われ、奈緒はドキッとして思わず警戒心が湧いた。「なんで私に会おうと思ったんですか?」だが、仁哉の声は至って平静としていた。「例のSNSの投稿について、少し話をしたいのですが」それを聞いた奈緒は少し目を細め、直感的に仁哉は美紀のために文句を言いに来たのだろうと思った。そんな重要な秘密の仕事があるにも関わらず、SNSの投稿程度でわざわざ帰国して美紀を庇うなんて。本当に、美紀の言う通りだ。仁哉は彼女のこととなると我を忘れるらしい。そんな考えを巡らせていると、奈緒の口から出る声は、自然と冷ややかなものになっていた。「奥さんのために文句を言いに来るなら、会う必要はありません」だが、仁哉の声は相変わらず穏やかだった。「そのつもりではありません。詳しいことは会ってから話しませんか?30分後、ロウゲツ・カフェで待っています」そして、奈緒の返事を待つこともなく、仁哉は通話を切った。その確信に満ちた口調からは、奈緒が来ることを見越しているような余裕が感じられた。奈緒がスマホを置くと、蛍と見つめ合った。蛍は言った。「あの美紀さんの旦那さん?あの伝説の建築家?しかもあなたの憧れの人が……会いたいって?」奈緒は頷いた。「ええ、行くべきかな?」蛍が勢いよく胸を叩
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第42話

30分後。ロウゲツ・カフェの2階にあるVIP個室は、焙煎されたコーヒー豆の香りが漂っていた。奈緒がドアを開けると、一人の男が窓際のソファに深く腰を下ろしているのが目に入った。亜麻色のシャツを着て、袖をまくった先に見える腕はすらりとしていて、そこには古風で上品な数珠のブレスレットがつけられていた。扉を開ける音に気づき、男はゆっくりと顔を上げた。その瞬間、奈緒は澄み切った雪解け水を思い浮かべるほどの目と視線が合った。その瞳は穏やかで、確かな気品が宿っていた。彼の顔立ちは整っていながらも、鋭い凛々しさはなく温厚で、曲線の美しい眉、すっと通った鼻筋、そして口元には春風のような優しい笑みを浮かべていた。それはビジネスマン特有の攻撃的な雰囲気は皆無で、まるで学者を思わせる静かな知性に満ちている姿だった。その気高さは身に着けているブランドから醸し出されているのではなく、生まれもったもののようで、浮世離れの気品はすべてを包み込む大らかさがあった。「ようこそ」と、キリリとした透明感のある声で仁哉が微笑んだ。しかし、奈緒は思わずドキッとして、逆に緩んでいた神経が途端に緊張し始めた。彼女は仁哉の現実離れした美貌を目の前にして、ふと心の中で「本当にこんな人がいるなんて」と感嘆するのだった。「はじめまして、仁哉さんですね。ずっとお会いしたいと思っていました」奈緒は敬意を込めて手を差し出す。仁哉も立ち上がり、上品な所作で握り返してきたその手は温かく力強かった。そして彼は彼女に、向かいの席を勧めた。「何かお飲みになりますか?カプチーノか、ラテ、それともブラックコーヒーを?」「ブラックコーヒーをお願いします」仁哉はすぐに店員を呼び、オーダーを伝えた後、女性が好むような洒落たお菓子をいくつか追加した。それから彼はすぐに本題に入った。「充と美紀のスキャンダルは、君が仕組んだことですね」確信に満ちた口調で、彼は真っ直ぐ奈緒を見据えて言った。その視線には揺るぎない知性があった。不意を突かれ、奈緒は思わず「ええ」と頷いた。仁哉が少し身を乗り出し、聞き入れようという体勢をとった。「理由を聞かせてくれませんか?」そう言う彼の温厚な瞳の奥に、得体の知れない威圧感を感じた奈緒は直感的に、彼は自分を問いただしにきたのではないと感じた。
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第43話

奈緒は仁哉の目を真っ直ぐに見つめた。「充はあなたの頼みだと言っていたが、本当なのでしょうか?」すると、仁哉は衝撃を受けた表情を浮かべ、少し沈黙したあと、言った。「充は僕の親友であり、美紀の従兄でもあるから、美紀の世話を彼に頼むことが、誰よりも安心だと思ってました」そう言って、仁哉の誠実な眼差しに少し申し訳なさが浮かんだ。「ただ、あなたも妊娠中であることまでは知らなかったんです。そんな時期に辛い思いをさせたこと、本当にすまないと思っています」奈緒は、この4人の関係が招いた嵐の中で、誰よりも自分と同じ立場の人間から先に謝罪を受けるとは思ってもみなかった。驚きを隠せず、奈緒は力なく笑った。「あなたが謝ることはありません。悪いのは私の夫と、あなたの奥さんです。美紀のあからさまな挑発さえなければ、私もここまで追いつめられなかったんです。でも、今は状況が違います……」仁哉はただ静かに聞いているだけで、何を考えているのか分からなかった。奈緒は少し待ったが、相手が何も言いそうにないので、率直に思いを伝えた。「公にするやり方は褒められたものじゃないと分かっているし、あなたに迷惑がかかるのも承知しています。きっと仕事も中断して帰国したのでしょう。でも……許せないのです」奈緒は迷いのない瞳で仁哉を見つめた。「充とはもう別れるつもりです。これからも彼と美紀を見過ごすつもりはありません。二人のしたことは一線を越えているものですから。あなたをむやみに傷つけたくはないのですが、もしあなたが美紀をかばって、仕返しをしてくるなら、受けて立ちます」奈緒は静かに腰掛けたまま、穏やかな口調で攻撃的な言葉を吐き出した。ショートヘアが彼女の顔を可愛らしく引き立たせて、あごのラインを掠めた一抹のおくれ毛が不敵な雰囲気を醸し出していた。細く描いたような凛とした眉と、少し吊り上がったクリっとした漆黒の瞳はキラキラしていた。すらっと伸びた鼻筋はキレイな顔のラインをより彩って見えて、最も印象的なのはその唇だった。笑わないときはキリリとしているが、笑顔を見せた途端に茶目っ気が出る不思議な魅力があるように感じられた。透き通るような白肌は今にも壊れそうなほど儚げだが、彼女自身から芯の強さが滲み出ていた。そんな奈緒はこの時静かにそこに座っているだけで、不屈
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第44話

それを聞いて奈緒は表情を曇らせて、冷たく笑った。「じゃあ、今日わざわざ私に会いに来た目的は何ですか?正直理解できません」仁哉は表情を切り替え、温厚な目元に複雑な光を宿した。「人の本性を疑いたくはないが、自分だけ何も知らされないままなのもごめんです。君に会いに来たのは、僕も真実を知りたいからです」仁哉は深く視線を落とし、小さく溜息をついた。「美紀と結婚する時、彼女はずっと前から僕に憧れていたと言ってました。一生を共にしたい、とね……」仁哉の真意を読み取った奈緒は、探るように言葉を返した。「それが二人の馴れ初めってこと?だけど、もし美紀の言葉が嘘で、本当に慕っていたのは充だとしたら……あなたもひどく傷つくのでは?」仁哉は顔を上げ、静かに奈緒を見つめた。「傷つくことはないですよ。元々政略結婚でしたから。ただ、夫婦の間に嘘があることは許容できないです。だから、あの二人の間にある真実を確かめる必要があります。帰国してすぐに二人を問い詰めず、真っ先に君に連絡したのはそのためです」仁哉は語調を強め、目線には誠実さを込めて奈緒を見つめた。「仕事で何度か関わった君を、僕は信頼しています。同じ理念を持つ人間として、理由もなく誰かを追い詰めたりはしないと確信していますから」仁哉から寄せられた厚い信頼に、奈緒の胸は高鳴った。それはこれまでの人生で充からは一度も感じ取れなかったものだったからだ。もっとも、二人はこれまで面識がなく、実際に会ったのだってこれが初めてなのだ。「信頼してくださり、ありがとうございます」奈緒は声を潜めた。「期待を裏切ったりはしません。あの二人について私が知っていることは、このあとお送りします」そう言われ、仁哉は席を立ち、再び手を差し出した。「ありがとうございます。そのお礼と言ってはなんだが、建築デザインで何かあったら僕に相談してもらって構いません。いつでもお力になります」奈緒は息を大きく吸い込み、堂々とその手を取り返した。「はい。交渉成立ですね」仁哉の手は優しくも力強かった。短い握手を終えて奈緒がバッグを手に取り、背を向けようとしたその時だった。仁哉が突然声をかけた。相変わらず優しい口調ではあったが、どこかはぐらかせない鋭いトーンを響かせていた。「仮に充と美紀の間がただの兄妹関係だ
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第45話

一方、奈緒がロウゲツ・カフェを出ると、外はしとしとと雨が降り始めていた。ここは街から離れた路地裏にあり、車を停めたところまでは少し距離があった。傘を持たない奈緒は、店先で少しの間、雨の様子をうかがった。止みそうにないので、彼女がバッグを頭にかざして、駆け出そうとしたが、足を踏み出した瞬間、力強い腕が奈緒をグイと引き戻した。そして、穏やかで心地よい声が耳元で響いた。「産後でまだ体が弱っているんじゃないですか?雨に濡れるのは良くありませんので送りますよ」奈緒が驚いて振り返ると、そこには優しげで深みのある眼差しを向けて来る仁哉が立っていた。次の瞬間、彼は奈緒の腕を離すと、片手で大きな黒い傘を広げ、中へ入るように促した。戸惑いながらも、奈緒は狭い路地でその傘の下に入った。仁哉が少しだけ傘を奈緒側に傾けると、二人は肩を並べて石畳の上を歩き出した。「深津市は、この時期、雨が多いんですね」仁哉が静かに切り出した。「ええ、そうですね」と、奈緒は淡々と返した。「車で来ていますか?よかったら……」と、仁哉がさらに聞こうとした。奈緒は慌てて、「お構いなく、車はすぐにそこに停めてありますので」と話を遮った。そう言われ、仁哉もそれ以上は踏み込まず、ただ「そうですか」と言った。ほどなくして、奈緒の車が見えてきた。車のドアを開け、仁哉は紳士的に傘をかざし、奈緒が席に乗り込むまで待つと、軽く手を振って「またね」と告げた。しかし仁哉が背を向けた時、奈緒は初めて自分が全く濡れていないのに対して、彼のもう片側の肩が雨でぐっしょり濡れているのに気がついた。こんな風に細やかな配慮ができる紳士的な男性なら、誰だって好感を抱いてしまうものだ。バックミラー越しに仁哉を見送ると、奈緒は彼の車、あの黒のロールスロイスがすぐ後からついて来ているのが見えた。美紀はこんなにも素晴らしい男性と結婚して、一体何が不満だというのか?そう思って、納得がいかないまま、奈緒は首を振って車を走らせた。そして、蛍からのメッセージを見て、彼女は改めて会話に夢中で頼まれていた写真を撮るのを忘れていたのを思い出したのだった。【ごめん、撮るの忘れてた】すると蛍からは呆れたように返してき。【……】申し訳なさを感じて、奈緒はこう返した。【ごめんね、
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第46話

「一体こんなところに何をしに来ているんだ?」そう言われ、渉も眉間にしわを寄せた。「ここは設計会社やクリエイティブなオフィスが集まる場所ですよ。まずいですね……」「何がまずいんだ?」「奥様はつい数日前に仕事を辞めたばかりです。もしかして、どこか別の会社で働こうとしているのでしょうか?それとも自分でスタジオを立ち上げる気かもしれません」それを聞いた瞬間、充の表情は険しくなった。「……」一方、渉も何も言えず、車内に沈黙が流れた。そして、充は黙ったままタバコに火をつけ、何本も連続で吸い続けた。立ち去ろうともせず、車を降りようともしなかった。見かねた渉はおずおずと尋ねた。「社長、中に入って様子を見てみますか?それとも、もう行きますか?」充は冷たく告げた。「業界中に根回ししろ。奈緒はうちの人間だ。どこも雇わせるな」……5年間、在宅でフリーランスとして仕事を請け負ってきた奈緒だったが、この時初めてパートナーである「ヤジン・デザイン」を訪れたのだった。ヤジン・デザインは奈緒の想像を遥かに上回るスケールだった。洒落た内装にカフェエリア、社員用の休憩室にエンターテインメントルームまで完備されていて、観葉植物もそこかしこに配置され、優雅な大テラスまで併設されていた。その居心地の良い職場環境を見て、奈緒の目は輝いた。ハンドルネーム「NAO」として紹介を終えると、すぐにチャットでやり取りしていたオーナー本人との面会がかなった。相手のハンドルネームは「知日」だ。自己紹介の後で知ったことだが、本名は栗原秀智(くりはら ひでとも)。身長183センチの、整った顔立ちの青年だった。たった1日で、栗原という苗字の男性に二人も会うなんて、奇遇だと奈緒はふと思った。そしてテラス席に腰を掛けると、奈緒は思っていたことをつい口に出してしまった。「栗原ということは、もしかしてオーナーは深津市の栗原家の人間ですか?」秀智は2秒ほどきょとんとした後、笑って否定した。「そうなら嬉しいんだけど、残念ながら自分にそんな縁はないですよ」ならいいけど……そう思って、奈緒は張り詰めていた気持ちを少しだけ緩めた。すぐに、彼女は率直に話を切り出した。「ここのオフィス、すごく居心地が良さそうですね。メンバーもたくさんいるし、毎月の維持費もかなりのものじ
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第47話

どうして充は自分がここにいることを知っているのだろう?奈緒は少し驚いたが、充の威圧的な視線を受けながら前に出た。そして彼女は充を見て見ぬふりをして、至って自然に車のドアを開けようとした。すると、温かく力強い手のひらが、突然彼女の手に重なり、男は冷ややかな声で言った。「何か説明をしたいことはないのか?」奈緒は目を上げ、淡々とした目つきで充を見た。「何の説明が必要なの?」「どうしてここにいるのか、説明しろ。さっき笑顔で見送っていた男は誰だ?」奈緒は鼻で笑った。「教える必要はないわ」そう言われ、充は激怒した。奈緒が反応する間もなく、充は彼女の華奢な体を軽々と抱え、肩に担いだ。「ちょっと!充、何をするの!離して!」気を取り戻した奈緒は怒鳴り散らし、充の広く力強い背中を何度も叩いた。充はそれを無視した。力いっぱい奈緒の足を固め、絶対に逃がそうとしなかった。こうして、奈緒は充に担がれて、車の後部座席に投げ込まれた。そして、充は彼女の手首を砕けそうなほどの強さで握りしめて、押さえつけた。「これ以上自分勝手に動くのを、見ていられないんだ。家に帰るぞ」驚いた奈緒は額に青筋を立てて怒鳴った。「頭おかしいんじゃない?」だが、充は彼女の目をまっすぐに見つめ、疲れたような表情を見せて言った。「喧嘩をしたくないんだ、奈緒」一方奈緒は聞く耳をもたず、発狂しそうなほど掠れた声で叫んだ。「離して!」しかし、充は奈緒の両手を掴んで離さなかった。「離さない。奈緒、俺たちにはちゃんと話し合う必要があるんだ」奈緒は至って冷静だった。決して、衝動的に行動を起こしているわけではないのだとも自覚していた。ただ、もう以前みたいに聞き分け良くしたくないだけなのだ。それで、充は自分の態度に慣れていないのだろう。「話したくないわ。言うべきことはもう全部言ったはず。あとは、あなたが退職届にサインして、離婚に応じてくれればいいの」それを聞いて、充の目が冷え切った。「離婚?理由を言え……」奈緒は視線をそらした。「一緒にいたくないだけ」「奈緒、そういう茶番はよせ。結婚とはお前の一存で終わらせられるわけがないんだ。言っておくが、俺にとって離婚なんてあり得ない話だから。帰るぞ!」それを聞いて、奈緒の
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第48話

充の吐息が熱く、有無を言わせぬ勢いで奈緒の全てを飲み込んだ。奈緒は窒息しそうな眩暈を覚え、屈辱の涙が堰を切ったようにこぼれ落ち、こめかみを伝って髪を濡らした。どれほどの時間が経っただろうか。ようやく唇を離した充が、掠れた声で低く言った。「これでも、まだ離婚するって言うのか?」奈緒は顔を背け、激しく肩を揺らしながら、涙を流しながらも強い口調で答えた。「充、絶対離婚を成立させてやるから」それを聞いて、充の眼差しは更に冷え切った。地下駐車場に車を入れた瞬間、彼はすばやく奈緒の細い体を抱え上げ、抵抗もさせぬまま強引にエレベーターへ担ぎ込んだ。とうとう、力の限りを尽くしても無駄だと悟った奈緒は、抵抗を諦めた。こうして、彼女は2階の寝室に連れ込まれ、ベッドに乱暴に投げ出された。ベッドには出産前に変えた月光色の寝具がそのまま掛けられており、まるで雲のように柔らかい肌触りだった。しかし、今の奈緒には、その柔らかささえも逃げ場のない檻のように感じられた。ベッドに横たわった途端、妊娠中、夜な夜な充の帰りを待ちわびていた焦燥感が、彼女を真っ向から襲った。いつも「忙しい」と言い続け、出産直前の電話でさえ、本人ではなく渉が代わりに出ていたのだ。あの寝返りを繰り返し、眠れない夜はどれもが孤独に満ちていた。奈緒は息が詰まりそうになり起き上がろうとするが、その体の上に覆いかぶさった充は、骨がきしむほどの強さで彼女の腕を押さえ込んだ。「奈緒……」低い声が耳元で響く。充は唇の端を上げたが、そこに笑みはなかった。彼はさらに深く覆いかぶさり、奈緒の耳たぶを愛しげに甘噛みした。その親密さが、かえって奈緒に吐き気を催させた。「触らないで。触れられるだけで吐き気がするの」奈緒はただただ屈辱でしかなかった。充の腕の下から逃げ出そうと必死で抵抗し、爪を立てて彼の手の甲にいくつも爪痕を残した。だが、充は瞳を暗くさせ、身を引くどころかさらに強く奈緒を押さえ込み、声にも危険なニュアンスを醸し出していた。「すぐ……そんな気持ちは消えてなくなるよ」容赦ない口づけは唇から喉へと降りていく。有無を言わさぬ強硬的で……絶望をさせるような力を帯びていた。結婚して5年。妊娠前の二人の夜の営みは、申し分のないものだった。他人には語れないよ
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第49話

「償いはする。明日、水鏡ヶ丘の家もお前名義にするよ。新しい家族カードを作った。今後は俺の財産を全部共有する。好きなだけ使っていい」そう言って、充は愛おしげに、奈緒の額にかかった髪をかき上げた。「前にも言っただろ。結婚した以上、離婚なんてあり得ない。奈緒、お前は生涯俺の妻でいるんだ。お前は俺を愛してる。そうなんだろ?」充が少しずつ奈緒に顔を近づけ、その温かい吐息が彼女にかかった。「奈緒」充は低く、少し掠れた声で囁いた。「俺たち……これだけ合うんだ。別れるなんて、できるわけないだろう?」そう言いながら、充は指を動かした。ビクン――奈緒は電流が走ったような感覚を覚え、頭の先からつま先まで全身が麻痺していくのを感じた。男は凛々しい顔を奈緒の間近まで近づけ、漆黒の瞳で、至近距離からじっと彼女を見つめているのだった。その間も、彼の指の動きは止まらなかった。まるで獲物を捉えて離さない手慣れた狩人のように、慣れた手つきで罠をしかけているのだ。奈緒は睫毛を震わせ、口を開いて反撃したかったが、あいにく彼女の弱点をすべて充に握られていたから声すら出せないでいた。「どんな願いでも聞く。言ってみてくれ。離婚は撤回してくれ。それだけでいい。分かったか?」しかし、奈緒には答える隙さえなかった。「……」充が再び彼女の唇を塞いだからだ。吐息は熱を帯び、重なる唇の温度が上がる。シダーウッドの香りが体からあふれ出し、二人の距離を埋め尽くした。奈緒は全神経を研ぎ澄まし、思わず目を見開いた。パシッ――充が突然電気を消した。5年もの間、奈緒の体を知り尽くした充が、熱のこもった深い口づけで、彼女が胸の内に抱える反抗心を塗りつぶそうとした。ついに、奈緒は思い切り右手を上げ、充の頬をひっぱたいた。だが、充は顔を傾けてそれをかわし、逆に彼女の両手を頭上に強く押さえつけた。そして、横暴な態度とは裏腹に彼は甘い言葉を囁いた。「悪い子だ。これ以上わがままを言うなら、お仕置きをもっときつくするぞ」そういうと、彼は再び容赦なく、再び熱い口づけをしてきた。怒りに震えた奈緒は、充の舌を思い切り噛んだ。激痛を感じ、充はようやく彼女を離した。やっと得た自由な空気の中、奈緒は荒い息を吐きながら、もう一度彼を打とうとした。
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第50話

充は奈緒の目をじっと見つめた。まさか彼女が本気でそんなことを言っているとは思えず、相変わらず、ただの怒り任せの戯言としか捉えていなかった。「いい加減にしてくれよ。仁哉も帰国したんだ。これから美紀のことはあいつに任せて、俺がお前のためにたっぷりと時間を割いてやるからさ」充はそう言って、優しく奈緒を宥めようとした。しかし今の奈緒は、そんな甘い言葉だけで宥められるような女ではなくなったのだ。妊娠中、充がずっと他の女のそばにいたこと。愛する娘が邪険にされ、冷ややかな視線を向けられてきたこと。そして、ことあるごとに自分たち親子を放っておいて、他の親子には豪華なプレゼントを用意して驚かせたこと。そのすべてを思いだすたび、奈緒の気持ちは冷え切っていく一方だった。自分の夫が、何よりも他の女を優先させるなんて、もう耐えられない。さらに、命がけで生んだ愛娘を、充がぞんざいに扱っていたことが許せなかった。黎は奈緒にとって最大の砦だ。今まで黎が受けた不当な扱いを思い出すと、奈緒の中で沸き立った憤慨は一向におさまらなかった。充は冷え切った奈緒の顔を見て、理解できずにいた。良好だった二人の関係が、なぜこうも袋小路に追い詰められてしまったのか?以前の奈緒はこんなに感情をぶつけることはなかったし、宥めるのも難しくはなかったはずだ……充は苛立ちを覚えつつも、打つ手立てがなく、どうすれば以前の奈緒に戻せるのか全く分からなかった。リンリンリン――そんな中、耳障りな着信音が、室内の詰まったような空気を切り裂いた。スマホの画面には「美紀」の文字が光っていた。充は苛立ちながら、眉をひそめて即座に着信を切った。ところが直後、またすぐに着信が入った。充が拒否しても、相手は何度でもしつこくかけ直してくるのだった。その目に眩しいほどかかってくる着信を見て、奈緒は皮肉っぽく口元を歪めた。「出たら?もしかしたら向こうは夫婦喧嘩をして『死んでやる、海に飛び込んでやる』なんて言ってるのかもよ。出なかったら、取り返しのつかないことになっちゃうじゃない?美紀の旦那さんは帰ってきたはずなのにね。やっぱり、あなたに、四六時中あれこれ構ってもらわなきゃ気が済まないみたいね」幼馴染だというのはなんとも便利な口実だ。行き過ぎた気遣いも妹を心配する兄としての立場
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