過去の五年間に、さよならを のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

10 チャプター

第1話

結城深也(ゆうき しんや)と秘密裏に付き合って五年。周りの誰もが、私たちは犬猿の仲だと思っている。共通の友人・篠原雅(しのはら みやび)の結婚式の前に、独身パーティーが開かれた。雅の提案で、独身男性は全員が目隠しをして、その前を独身女性たちが歩くことになった。香りで女性の身分を当てて、一番好きな香りの女性と一日限定のカップルになるというゲームだ。私・水瀬凛(みなせ りん)はわざとゆっくり歩き、深也の目の前で一瞬だけ立ち止まった。しかし、目隠しが外されたその瞬間。彼が両腕で強く抱きしめていたのは、その幼馴染であり、ずっと心の中で忘れられない人、夏目杏奈(なつめ あんな)だった。「すげえな結城!あんなに香水が混ざってたのに、一発で杏奈ちゃんを当てたなんて。神様もお似合いだって言ってるぜ!」杏奈は感動で泣き出しそうで、深也も彼女を見下ろして甘やかすように笑っている。二人とも、ずっとその腕を離そうとはしない。二メートル離れた場所に立つ私は、ふと笑みをこぼした。昨夜、彼はベッドで私の胸元にある傷跡にキスして、結婚すると言っていたのに。どうして瞬きする間に、全部忘れてしまったのだろう。「結城さん、これは神様もが二人の恋を応援してくれてるんだよ。一日カップルになって、青春の続きをしろってさ」「そうだよ。結城さんなら条件も良くて、何年だって浮いた話一つないなんてさ。やっぱり心に決めた人がいたってわけかな」周囲の視線が、曖昧込めて深也と杏奈の間を行ったり来たりする。見つめられて耳を赤くした杏奈がポカポカと深也の胸を叩くが、彼はただ口元に笑みを浮かべているだけだ。「いい加減にしろよ。もう過ぎたことだし」否定も肯定もせず、話題にはぐらかした。「俺には他の匂いなんかよく分からなかったんだ。杏奈を選んだのは、学生時代と変わらないジャスミンの香りがしたからさ。間違えてここにいる他の子を抱きしめて、迷惑かけたらどうするんだよ?」その言葉に周囲からはヒューヒューと、からかう声が上がり、甘い空気はピークに達した。私も適当に笑い声を上げたが、無理に作った笑顔のせいで口元が引きつりそうだった。心の中に渦巻く感情が何なのか、自分でもうまく説明できない。ただひたすらに、胸の奥が酸っぱくて、ひどく渋い。
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第2話

「ええっ、凛ってば隠すのうますぎ!もう婚約するってのに、独身パーティーに参加するなんて」「相手は誰なの?凛ちゃん。いつそんなこと決めたのよ。全然噂にもなってなかったじゃん」「ついさっきよ」ポケットの中のスマホがさっきから何度も震えている。【凛、何血迷ってんだ?】【杏奈を抱きしめたのは俺が悪かった……でも、ゲームに参加しないわけにはいかないだろ?明後日は雅の結婚式なんだぞ。あいつの顔を潰す気か】【いい子にして。結婚するって言ったんだから、絶対に結婚するよ】私はスマホを机に伏せ、一文字も返信しない。ただ、少し離れた場所にいる深也を見つめる。彼は見せつけるかのように腕に力を込め、再び杏奈を抱き寄せた。「せっかく一日カップルになったんだし、お前らキスしろよ」「してして!」周囲に囃し立てられ、二人の体はさらに密着する。杏奈が深也の胸にぴったりと寄り添うほどになり、頬はほんのりと朱に染まっている。「もう、からかわないでよ……私、深也さんと五年ぶりに会ったんだ。急にキスなんてできるわけないじゃない」彼女は嫌がる素振りをしながらも、深也に身を預けている。その唇は、深也の顎に触れそうなほど近い。私が彼を愛していた時間は、この五年間だけではない。幼い頃から、自分の人生が家によって決められていると知っていた。毎日様々なテストに追われ、生活の中に楽しみも期待もなかった。ある日、いつものように図書館を出て、課題を提出しに行こうとした時のことだ。突然、私の顔に向かってバスケットボールが飛んできた。低血糖を起こしていた私は逃げる気力もなく、ただ目を閉じてぶつかるのを待っていた。いっそこのまま、倒れてしまえば楽になるかもしれないと思っていた。しかし、深也が私の名前を叫びながら、前に立ちはだかってくれた。その瞬間、私の灰色だった日常が大きく切り開かれたのだ。どうにか時間を作り、彼のバスケの試合やディベート大会を見に行くようになった。次第に彼に惹かれたが、彼には昔からの幼馴染がいると聞き、その想いは胸の奥にしまい込んでいた。そして五年前。杏奈が海外へ留学し、結城グループも倒産の危機に瀕した。これが私に巡ってきたチャンスなのだと、そう思った。「はいはい、二人をか
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第3話

「えっ、ここにいるの?!誰だよ、そんなに口が堅い奴。ほら、早く自分で名乗り出て」周囲の人々は互いに顔を見合わせ、誰なのかと騒然となる。深也はそれを聞いてホッと息をついたが、次に飛び出した言葉に再び心を締め付けられることになる。「それにしても……凛と結城って本当に似てるよな。どっちも黙ってて突然爆弾を落とすみたいんだから。杏奈ちゃんが留学して結城がヤケ酒飲んでなきゃ、あいつが三年間も片思いしてたなんて誰も知らなかったぜ!」その場の空気が一瞬、妙なものになる。「全部過ぎたことだ。余計を言うなよ」深也は珍しく言い訳がましく口を開き、その声はさっきよりもずっと大きかった。彼の視線は人混みを抜け、まっすぐに私へと注がれている。ひどく緊張しているのがわかった。だが、あの三年間で彼がどれほど杏奈を愛していたのか、その前の十数年間も二人がどうやって互いの生活に溶け込んでいたのか、私は急に、どうでもよくなってしまったのだ。「みんなで楽しんでて。私、ちょっとお手洗いに行ってくるわ」ドアを押し開けると、廊下の冷たい風が吹き付けてくる。そこで初めてスマホを取り出し、ある人物にメッセージを送った。【全部聞こえてたでしょ】【政略結婚の件、受けるわ】相手はかなり興奮しているようで、すぐ絵文字を返事して、どうやら続きの言葉があるようだった。しかし、返信を待つ間もなく、深也が追いかけてきた。彼は私の手首を掴んで高く持ち上げ、壁に強く押し付ける。「凛、過ぎたことだって言っただろ。一体何に腹を立ててるんだ?」圧倒されるようなウードの香りがのしかかってくる。深也は狂ったように、荒々しく、そして焦れた様子で、私の唇を塞ごうとする。意見が食い違うと、彼はいつもこうだ。私が彼を少しでも気の毒に思い、手放せないでいることにつけ込んでくる。私を絆そうとしているのだ。絆されてしまえば、彼を許すとわかっているから。しかし今度、私は顔を背けた。キスは私の頬に落ち、深也は動きを止めた。「ああ、俺が悪かった。それは認めるよ」彼は髪をくしゃっと掻き、苛立ったように言う。「でもな、凛。杏奈は帰国したばかりだし、母さんも昔から家族ぐるみの付き合いだから、よく面倒を見てやれって言ったんださ。他の奴ら
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第4話

「何の日なんだ?」深也の顔に微かな戸惑いが浮かぶ。私一人だけが、馬鹿みたいに覚えているかのようだ。彼と結婚する約束を。そして、あのバスケットボールが飛んできた時、彼と一緒にいたいと願ったことを。呆然とする彼の顔を見ていると、胸の奥でくすぶっていた悔しさが、ふっと消えた。「なんでもないわ」杏奈の足音がだんだんと近づいてくる。「後で家に帰ってから話そう」彼は袖口を整え、振り返りもせずに前へ歩き出した。「先に行く。お前は杏奈に見つからないようにしろ」「深也さん、ここにいたのね。すごく探したんだから」深也は半歩横に移動し、私を物陰に隠す。杏奈は彼の袖口を引っ張り、甘えるような声を出した。「深也さん、飛行機が遅れちゃってね、都心のホテルがどこも取れなかったの……今夜、お家に泊まってもいい?」そこは私と深也が一緒に暮らす家だ。彼は無意識のうちに断ろうとしたが、その言葉が口から出る前に杏奈が言葉を重ねた。「おばさんがね、明日遊びにいらっしゃいって言ってくれたの。深也さん、ついででいいから、明日私を一緒に連れて行ってよ」この五年間、深也はいつも、母親のことは自分が何とかすると言っていた。それでも、私が彼の母親の前に姿を現すたびに、髪を掴まれ、ビンタを食らわされるハメになるのだ。一方で、杏奈は昔から彼の母親のお気に入り。深也は長い間、沈黙した。私の心が窒息しそうになった時、彼は口を開いた。「わかった」宙に浮いていた私の心は、もう揺れ動くことはない。ただ地面に叩きつけられ、完全に息絶えただけだ。スマホが何度も鳴った。【凛、今夜は一応、家に帰ってこないでくれ】【杏奈に見られて、俺たちのことが母さんにバレるとまずいさ】正直言うと、もう明日を待つまでもない。彼がずっと杏奈や自分の母親と一緒にいたとしても、私にはもう何の不満もない。私は夜の闇に紛れて家に帰り、大切なものだけをスーツケースに詰め込んだ。どうでもいいものは、すべてゴミ箱に捨てる。ベッドサイドの引き出しからカルテを見つけた時、胸の奥が再びズキズキと痛んだ。昔、深也が会社を救うために、裏社会の連中のビジネスを奪ったことがあった。奴らは彼を拉致し、痛い目を見せようとしたのだ。当時、結城家
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第5話

彼は一目で、私のそばで荷物を持ってくれている男の存在に気づいた。「凛、母さんの言う通りに杏奈の面倒を見るだけだって言っただろ。わざわざ別の男を連れて俺を怒らせたいのか?」大股で近づいてくる深也を見て、私は胸をぎゅっと締め付けられた。しかし振り返ると、政略結婚の相手は素早くマスクと白手袋を身に着けていた。そして、いかにも恭しく腰をかがめ、芝居を打ち始めた。「結城社長の誤解でございます。私は水瀬様にお仕えするプライベートバトラー兼運転手です」「顔も出せないような運転手が、雇い主の手に触れるだと?」深也が信じるはずもない。 彼は冷笑し、嫌味たっぷりに言い放つ。「どこの会社の運転手か知らないが、随分と躾がなってないようだな。その顔、見せてもらおうか!」彼は乱暴に男のマスクを剥ぎ取ろうと手を伸ばした。深也が彼に殴りかかるのではないかと焦った私は、一歩踏み出し、男の前に立ち塞がった。「深也、いい加減にして!帰ってくるなって言ったのはそっちでしょ。だったら、運転手を呼んで帰るのに何か問題でも?夏目さんを放っておいて、ここで何を取り乱してるのよ」深也の手は宙に止まったまま、顔色は青白く染まった。私がただの「運転手」のために、人前で自分を怒鳴りつけるとは思いもしなかったのだろう。ちょうどその時、後ろから杏奈の弱々しい声が聞こえてきた。「深也さん、どうかしたの?どうしてそんなに急いで行っちゃうのよ。車が停まったらすぐ飛び出して、私を待ってもくれないなんて……」彼女は深也のジャケットを羽織り、小走りでこちらへ向かってくる。「あれ、水瀬さん?どうしてここにいるの?まさかお二人って……」私と深也が対峙している様子を見て、杏奈の目がかすかに揺らいだ。その視線が、私たちの間を行ったり来たりする。深也の体がビクッと固まり、息さえも止まった。 この五年間、彼が最も恐れていたのは、私たちが同棲していることが明るみに出ることだったのだ。「夏目さんの考えすぎよ」うろたえる彼の姿を見て、私は冷たく笑った。「この辺りでマンションを買おうと思って、わざわざ運転手に案内してもらったの。でも実際に見てみたら、どうも運気が良くない気がして。値段には見合わないわ。やっぱり買うのはや
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第6話

玄関から、あのピンク色のスリッパが消えていた。リビングの窓辺に並んでいたはずの鉢植えも、一つ残らずなくなっている。空気に漂っていた、ほのかなウードと洗濯洗剤が混ざったような香りも、ほとんど感じられないほど薄れていた。深也は狂ったように寝室のドアを押し開けた。クローゼットの中の、凛が使っていた半分だけが、もうぬけの殻になっている。「なぜ……こんなに何もないんだ?」深也は呟きながら、その指先は微かに震えていた。後ろからついてきた杏奈が、無邪気な声で言う。「まあ、深也さん。一人暮らしなのにこんなに綺麗にしてるなんて、本当にいい男ね」いい男か?深也は突然、心臓を何かで深くえぐられたような痛みを覚えた。昔のことを思い出せば、彼はいつも深夜まで仕事に追われて帰宅していた。そんな時、温かいオレンジ色の灯りをつけてくれたのは凛だった。家の水道が壊れたと文句を言いながらも、黙って業者を呼んで直してくれたのも凛だった。この冷たい空っぽだった空間を、少しずつ温もりで満たし、「家」に変えてくれたのも、凛だったのだ。それなのに、彼はよそ者のために、母親の前でくだらない嘘をつくために、彼女自身が心を込めて作り上げたこの小さな家から、彼女を追い出してしまった。そんな仕打ちでは、いくらなんでも凛に対して不公平すぎるのではないか。深也は一瞬、息を止めた。母親が凛に向けたあの疑念に満ちた目を思い出したら、再び立ちすくんでしまった。母親を刺激して症状が悪化するのを恐れ、ずっと本当のことが言えずにいた。しかし、五年間も苦楽を共にしてくれた凛が、こんな目に遭わなければならない理由があるというのか。ガランとした家を見渡し、深也は考えれば考えるほど胸が苦しくなる。そうだ、明日にしようと、深也は心の中で決めた。明日、杏奈を送り届けたら、すぐに凛の前にひざまずいてプロポーズしよう。この五年間に彼女に負わせた借りを、すべて償うのだ。「深也さん、これ何?すごく綺麗ね」深也はハッと我に返った。見ると、杏奈がどこからかベルベットの小箱を引っ張り出していた。それは、彼が半年前から用意していた指輪だった。これを使って、凛にプロポーズするつもりだったのだ。「そこに置け」その声は、恐ろしいほど冷え切っていた。
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第7話

深也は何も言わなかった。だが、強く握りしめられた指の関節と、眉間に浮かぶ警戒の色が、すべてを物語っていた。「本当に彼女を選んだのね」杏奈の声はとても細く、ふざけと嘲笑いのような響きも帯びていた。「みんな、深也さんと水瀬さんは仲が悪いって言ってた。でもパーティーの時、何度も彼女のことを見てたでしょ。家が大変だった時に、そばにいなかったことは、私が悪かったって認めるけど、あれはお父さんが決めたことなのよ。大人しく留学しなかったら、政略結婚させられてたんだから。この数年間、私ずっと海外で深也さんを待ってたのよ。それなのに、一度も会いに来てくれなかったんだ」杏奈の目元がみるみる赤く染まり、泣きながら言う。「忙しいんだって、ずっと自分に言い聞かせてきたの。私たち間の感情は、特別なものだって思ってたのよ。一緒に過ごしてきた時間は、全部嘘だったわけ?」深也は目を閉じ、深呼吸をした。そして、冷ややかな声色に変わる。「杏奈、言ったはずだ。あれは全部過ぎたことだと。この五年間、俺のそばにいてくれたのは凛だ。会社を救ってくれたのも、俺の盾になってくれたのも彼女なんだ。お前の面倒を見るのは、家の付き合いがあるからに過ぎない。俺が愛しているのは、凛だけだよ」杏奈は自嘲するように笑い、涙をこぼした。「彼女を愛してるのに、私が待たれたんだって勘違いさせて、パーティーで私を抱きしめたの?愛してるのに、ずっと自分は独身だって言いふらして、彼女を隠してたの?深也さんの愛し方って、そんなもんなの?私たちのこと、馬鹿にしてるの?彼女、婚約するって言ってたじゃない。五年間も待たせた男と、結婚してくれるとでも思ってるの?」「してくれるさ」深也は勢いよく顔を上げ、その瞳にはほとんど執着にも似た強い確信が宿っていた。「凛はあんなに俺を愛してるぞ。他の男に結婚するはずがない。俺に腹を立てて、機嫌を取ってくれるのを待ってるだけなんだ。これ以上そんなことを言うのなら、昔のよしみなんて関係ない。今すぐ出て行け」そう言い放ち、深也はうつむくと、指の腹で指輪の箱の模様をそっと撫でた。「明日の雅の結婚式には、凛も絶対に来る。彼女が来たら、全員の前で俺がこの指輪を彼女の指にはめるんだ。結婚しよう
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第8話

「彼女に触るんじゃない。手を離せ!」深也は目を血走らせ、男の腕をえぐるように睨みつける。彼は勢いよく一歩踏み出し、凛を自分の腕の中に引きずり込もうと手を伸ばした。「深也、何をするの?」私は眉をひそめ、そっと手を上げて彼の胸元を押しとどめる。そのまま、彼をドンと一歩突き飛ばした。この何気ない動きに、深也はその場で立ち尽くした。彼を突き飛ばした私のその手に、ダイヤモンドの指輪が光っていたからだ。「そ……それは、何だ?」深也は私の薬指を食い入るように見つめ、瞳の奥にあった防衛線が一瞬に崩れ落ちる。「凛、お前のその指輪、どういうことだ?」「言ったはずよ。婚約するって」私は静かに彼を見る。「帰ってから考えたんだけど、週末まで待つなんて遅すぎると思って。だから昨日、お互い家族の立ち会いのもとで、結婚式を挙げたの」「あり得ない……そんなこと、あり得ないんだ」深也は必死に首を横に振り、さらに一歩近づいて、ひたすら卑屈に哀願する。「凛、もう怒らないでくれ。俺に腹を立ててるのは分かる。パーティーで杏奈を抱きしめたことだろう。ずっと待たせたことだろう……一緒に帰ろう?家に帰ったら、どんな罰でも受けるからよ。縛り上げてもいいし、鞭で打ってもいい。凛の気が済むなら、何だってやる……だから頼むから、こんな冗談はやめてくれ」その惨めなご機嫌取りの言葉を聞いて、ただひたすらに滑稽だと感じていた。私が傷つくことも、腹を立てることも、全部わかっていたんじゃないか。にも関わらず、彼はあんなことをしたのだ。「結城社長、ご自重ください」隣にいた男が軽く笑い、ゆっくりと顔を覆っていた黒いマスクを外す。その端整で彫りの深い顔立ちが、完全に人々の視線に晒された。彼は私を自分の背後に庇うように立ち、その瞳に冷ややかな光を宿す。「私の婚約者が、すでに状況をはっきりと説明したはずです。もし結城社長がどうしても人間の言葉をご理解いただけないのであれば、私が代わりに脳の専門医を予約して差し上げても構いませんよ」マスクが外されたその瞬間、周囲で野次馬をしていた人々から、ハッと息を呑む音が爆発するように聞こえる。「嘘だろ……あれ、藤代グループの御曹司、藤代朔夜(ふじしろ さくや)じゃないか?!」
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第9話

「ずっと海外で事業を拡大していたっていう、あの藤代家の跡取り?いつ帰国したんだ?」「水瀬が誰にも言わずに藤代グループと政略結婚したなんて!」「藤代朔夜……」深也は呆然とし、それに続いて圧倒的な恐怖が押し寄せてくる。「そんなはずない。お前たち、知り合ってから短いだろうが」彼はさっと周囲の人々に振り返り、ヒステリックに叫んだ。「凛、俺たちは五年間も付き合ってたんだぞ。丸五年間だ!どうして他の男なんかと結婚した?」言葉が出た瞬間、その場にいた誰もが衝撃に目を丸くし、信じられないという顔で私たちを見つめる。「なんだって?あの仲が悪い二人が、五年間も付き合ってたのか?」「嘘でしょ……五年間も付き合ってたなら、前のパーティーでのあれって……」花嫁の雅は一瞬で顔面を蒼白にし、今更ながらに口元を覆うと、罪悪感でいっぱいの目を私に向けた。「そんな……凛、この前のパーティーじゃ、私たち結城に杏奈ちゃんとキスしろって囃し立てたり、一日カップルにさせたり……二人が付き合ってるなんて知らなくて、ごめんなさい、本当にごめんなさい」「気にしてないわ、知らなかったんだから仕方ないもの」私は雅に向かって淡く微笑む。「それに、もう全部終わったことだし」「終わってなんかない。凛、終わらせるものか」深也はパニックに陥ったように全身を探り、ようやくスーツのポケットからあのベルベットの指輪の箱を取り出した。ドスン、と鈍い音が響く。驚いたことに、彼は会場にいる全セレブたちの視線を浴びながら、私の目の前にひざまずいたのだ。震えるその両手で指輪を掲げ、大粒の涙をボロボロと絨毯の上に落とす。「凛、俺が身勝手だった。お前に我慢ばかりさせて、気持ちを無視してた。本当にごめん。俺をどれだけ恨んでもいい。でも、あんな男に騙されるな。お願いだから。これは、半年前から用意してた指輪なんだ……お前さえよければ、俺たち今すぐ結婚するよ。今すぐ妻にするから」涙で顔がくしゃくしゃにしている彼を見て、私はただ哀れだと感じた。「深也、あなた忘れたの?」伏し目がちに、ため息のように消え入りそうな声で話す。「一昨日と言えば、ずっと夏目さんを抱きしめて、あんなに楽しそうに笑っていたじゃない。もう私も、あなた自分も、勘弁してよ
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第10話

深也は全身を強張らせた。己のすべてを奪いかねない脅しと、周囲から向けられる無数の探るような視線により、彼はその場に釘付けになり、一歩も動けなくなってしまった。私は二度と彼を見ることなく、朔夜の腕に手を絡ませながらメインテーブルへと歩き出した。……披露宴も半ばを過ぎた頃、私は席を立ってトイレへ向かおうとした。朔夜は少し心配そうに私の手首を掴む。「一緒に行こう。あの狂人は明らかにおかしい。一人にするのは不安だ」「ボディーガードの役がそんなに気に入ったの?」数日前に彼が運転手のふりを完璧にこなしていたことを思い出し、私はおかしくてたまらず、彼の手の甲を軽く叩いた。「心配しないで、ここは雅のところよ。深也はメンツを気にするタイプだから、無茶はしないわ」彼をなだめて座らせると、私は一人で披露宴会場を後にした。しかし、廊下の角を曲がろうとしたその時。突然ある黒い影が飛び出し、私を壁の隅にきつく押し付けた。「凛……」深也は血走った真っ赤な目で、まるで溺れる者が藁を探したかのように私の肩を強く掴んだ。「俺には、本当にお前がいないと駄目なんだ……」「離してよ!」揉み合いになったその時、ビリッという音が響いた。私のドレスの胸元が彼の手の力で乱暴に引き上げられ、左側の鎖骨の下にある肌が大きく露出した。狂乱していた深也の動きが、私の胸元を見た瞬間にピタリと止まる。そこには元々、彼を真っ赤な焼きごてから庇った時にできた傷跡があった。しかし今は、どこにもいない。あるのはただ、うっすらと赤く腫れた痕だけだ。傷跡を消す手術をしたばかりで、炎症を起こしているからだ。あと三、四日もすれば、この赤みも完全に引いて元に戻るだろう。「傷跡は……」深也は震える手を伸ばし、それに触れようとしたが、空中でぎくりと止めた。その声が崩れた。彼の目から涙が溢れ出す。「その傷跡は?どうして無くなってるんだ?あれは、俺のために残してくれたものだったのに……」私は静かにドレスを引き上げ、その肌を再び隠した。崩れ落ちるような彼の姿を見て、淡く微笑む。「深也、これはあなたが教えてくれたことよ。いい加減にしろ、もう過ぎたことだってね。過ぎたことなら、いつまでも体で邪魔に感じる必要はないわ。
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