All Chapters of 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた: Chapter 41 - Chapter 50

59 Chapters

執筆と孤独

妊娠九ヶ月を迎えたある午後。瑞希はマンションのリビングのソファに深く腰を下ろし、暖かな秋の陽光を全身に浴びていた。お腹は今や大きく張り出し、歩くだけで息が上がる。出産まであと数週間——医師からは「いつ破水してもおかしくない」と言われていた。彼女はノートパソコンを膝の上に置き、ゆっくりとキーボードを打っていた。静かな部屋に、乾いた打鍵音が規則正しく響く。そのリズムに合わせるように、胎動が優しく、力強く、命の息吹を刻む。瑞希は左手で自分の大きなお腹を撫でながら、小さく微笑んだ。「もう少し待っていてね……お母さんは、この物語をちゃんと書き終えてから、あなたを迎えるわ」出産が近づいた今、執筆は産後に本格的に続けることに決めた。今は体調を最優先に、章立ての整理と記憶の確認だけに留めている。しかし、指がキーボードを叩くたび、過去の情景が鮮やかに蘇ってきた。◇◇◇自叙伝『新婚初夜、あなたは妹のベッドにいた』 執筆中の断片第一章 影の双子私は双子の姉として生まれた。生まれた瞬間から、私は「健康で強い」存在として定義された。三歳の頃、真希の車椅子を押して公園に行った。私が転んで膝を擦りむいて泣くと、母は冷たく言った。「真希ちゃんより痛くないでしょ? お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」その言葉は、私の人生の呪文になった。第二章 結婚という名の鍵結婚が決まった夜、陸斗くんは桜の木の下で曖昧に微笑んだ。「家族が喜ぶから」その一言で、私はすべてを理解した。私は「配偶者枠」として選ばれた。真希の治療を無料で続けるための、便利な鍵だった。第三章 新婚初夜ウェディングドレスを脱ぎ捨てたベッドで、私は一人だった。陸斗くんは「急患」と言い残して家を出た。後で知った。彼は真希の特別個室で、彼女を抱きしめ、唇を重ねていた。私はドアの隙間からその光景を録画した。真希はカメラに向かって、勝ち誇った微笑みを浮かべていた。あの微笑みは、私への宣戦布告だった。第四章 半狂乱の罵倒普通病棟に移された真希は、半狂乱になって私を罵倒した。「お姉ちゃんなんか死ねばいいのに!」「全部お姉ちゃんのせい!」その叫びは、今も私の耳に残っている。私は冷たく微笑みながら、彼女の言葉をすべて受け止めた。もう、私は「健康で強いから我慢しろ」と言われる立場
last updateLast Updated : 2026-04-24
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小さな光

妊娠九ヶ月も後半に差し掛かったある夜。瑞希はソファに体を預け、静かにスマホを手に取っていた。執筆は産後に本格的に再開すると決め、今日は軽くメモを取る程度に留めていた。部屋は静かで、ただ自分の息遣いだけが響く。LINEの通知音が、柔らかく鳴った。画面には「岡部智久」の名前が表示されていた。打ち合わせの予定はない。瑞希はゆっくりと指を滑らせ、トークを開いた。目に飛び込んできたのは、クマのイラストが『おつかれさまです』と書かれたコーヒーカップを手に、ゆらゆらと揺れている可愛らしいスタンプだった。思わず、瑞希の口元が緩んだ。小さく吹き出してしまった。(……笑ったのは、いつ以来だろう)心の中が、じんわりと温かいもので満たされていく。最近はつわりも落ち着き、胎動が毎日感じられるようになったけれど、夜になるとまだ孤独が胸を締め付ける。そんな中、このスタンプはまるで、暗い部屋に小さな灯りをともしてくれたようだった。続けてメッセージが届いた。岡部智久今夜、マンションに伺ってもよろしいでしょうか?原稿の進め方について、少しお話したいことがありまして。瑞希の心臓が、ドキッと跳ねた。指が画面の上で止まる。(……今夜? ここに?)次の瞬間、すぐに追加のメッセージが来た。岡部智久あ、佐倉も一緒です!夜遅くに申し訳ありません。瑞希さんの体調優先で、30分程度で終わりますので。瑞希は思わず小さく息を吐いた。安堵したような、残念なような——微妙な気持ちが胸に広がる。(美咲も来るなら……大丈夫よね)彼女は少し迷った後、ゆっくりと返信を打った。瑞希大丈夫です。今夜、来てください。軽いお茶くらいなら準備できます。送信した後、瑞希はスマホを胸に当てて目を閉じた。心臓の音が、まだ少し速い。(岡部さん……)最近の打ち合わせで、彼はいつも丁寧で、瑞希のペースを崩さないように配慮してくれていた。美咲の後輩というだけでなく、誠実で、静かな信頼感がある。そんな彼が、夜にマンションに来る——妊娠九ヶ月の今、誰かに「来てもいい」と言える相手がいるという事実は、意外と心を軽くした。瑞希は立ち上がり、キッチンで簡単なお茶の準備を始めた。アールグレイの茶葉をティーポットに入れながら、ふと自分の大きなお腹に手を当てた。胎動が、優しく返ってきた。
last updateLast Updated : 2026-04-25
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夜8時のチャーハン

インターホンが鳴ったのは、夜の8時を少し過ぎた頃だった。瑞希がドアを開けると、岡部智久が照れくさそうに立っていた。彼は右手にエコバッグを掲げ上げ、にこやかに笑みを浮かべた。「こんばんは! 突然申し訳ありません!」エコバッグの口から、ちょこんとセロリの葉っぱが覗いていて、それが妙に可愛らしかった。岡部は少し耳を赤らめながら続けた。「お腹、空いていませんか?」瑞希は一瞬、言葉に詰まった。そういえば今日は朝にクラッカーを何枚か摘んだだけで、原稿に集中するあまり何も食べていなかった。「……そういえば、空いたかも」その言葉が終わらないうちに、瑞希のお腹が「ぐう……」と小さく鳴った。彼女は慌てて両手でお腹を押さえ、頰を赤らめた。岡部は優しく笑った。「チャーハン、好きですか? にんにくは大丈夫ですか?」「え……はい、大丈夫ですけど……」「では、キッチンをお借りしてもいいですか?」岡部はエコバッグを下げ、手慣れた様子で持参したエプロンを腰に巻きつけた。フライパンを取り出し、冷蔵庫から材料を出す手つきは、意外と慣れているようだった。瑞希は戸惑いながらも、キッチンのカウンターに寄りかかった。「……そんな、ありがとうございます」「いいえ! 先生のお世話も、編集の役目だと思っていますから!」「そんな、先生だなんて……」瑞希が照れくさそうに言うと、ちょうどタイミングよく玄関のドアが開き、美咲が顔を出した。「お邪魔しまーす! 瑞希はもう先生よ! 担当編集者にお任せしなさいな」美咲は笑いながら靴を脱ぎ、キッチンに近づいてきた。岡部はエプロン姿のまま、器用に玉ねぎを刻み始めていた。「瑞希さん、にんにく控えめにしますね。妊娠中は匂いが気になる人もいるので」瑞希はカウンターに座り、岡部が差し入れてくれた温かいほうじ茶を淹れながら、ふと胸が熱くなった。(こんな夜に……誰かがキッチンに立ってくれるなんて)最近は夜になると孤独が重くのしかかり、破水の不安や出産への恐怖で眠れない日が続いていた。そんな中、セロリの葉っぱが覗くエコバッグと、エプロンを巻いた岡部の後ろ姿は、まるで夢のように温かかった。フライパンから、美味しそうな香りが漂い始める。美咲がパソコンや原稿を広げながら、明るく言った。「智久のチャーハン、意外と美味しいんだよ。瑞希、産む前
last updateLast Updated : 2026-04-26
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温かな訪問と「もしも」の影

それから、岡部智久と美咲は、臨月間近の瑞希を気遣い、たびたびマンションを訪れるようになった。ある日は岡部が手作りのおかゆと、妊娠中に安心して食べられるフルーツをエコバッグいっぱいに持ってきてくれた。別の日は美咲が「息抜きに」と最新の映画のBlu-rayと、柔らかいクッションを抱えて現れた。二人が来ると、静かで冷えていたリビングに人の気配が満ち、部屋全体が穏やかな色に彩られていくようだった。「瑞希、今日はどう? むくみは大丈夫?」美咲がソファに座りながら、瑞希のお腹を優しく見つめる。岡部はエプロンを巻き、キッチンで温かいスープを温めながら、「無理はしないでくださいね。原稿は産後にゆっくり進めましょう」と言ってくれる。そんな彼らの存在は、瑞希にとって予想外の癒しだった。夜になると襲ってくる孤独や、破水への不安、出産への恐怖が、少しずつ和らいでいく。胎動を感じながら、三人で他愛もない話をしている時間は、まるで普通の日常のようだった。けれど、ふと——瑞希はパソコンのキーボードを叩く手を止めた。(真希が健康だったら……私たちはどんな人生を送っていたんだろう)その思いが、頭をよぎるたびに胸の奥がざわついた。もし真希が健康で生まれていたら。双子として、対等に笑い合い、喧嘩をし、恋をして、夢を語り合っていたかもしれない。陸斗はただの幼馴染のまま、三人で桜の木の下を走り回っていたかもしれない。家族は「健康で強いから我慢しろ」と瑞希を縛ることもなく、特別枠などという歪んだ仕組みに縛られることもなかったかもしれない。「…………」打鍵音が止まった部屋に、静寂が落ちる。瑞希は画面を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。あの「もしも」の世界では、真希は今も笑顔で生きていて、自分はただの「双子の姉」として、自由に生きられていたのだろうか。それとも、別の形で傷つけ合っていたのだろうか。瑞希は両手でお腹を抱き、静かに目を閉じた。「真希……あなたが健康だったら、私は今頃、どんな顔をしていたかしら」胎動が、優しく、しかし力強く返ってきた。まるで「今、ここにいるよ」と語りかけてくるように。瑞希は小さく微笑んだ。冷たい微笑みではなく、切なく、しかし確かに温かみのある微笑みだった。(もう、過去の「もしも」に囚われない。私はこの子と、今を生きる)キ
last updateLast Updated : 2026-04-27
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突然のプロポーズ

その日、インターホンが鳴ったのは夕方6時を少し過ぎた頃だった。瑞希がドアを開けると、岡部智久の表情がいつもと違っていた。全身から緊張感が伝わってくる。いつものエコバッグはなく、濃紺のスーツにグレーのネクタイをきちんと締め、革靴もいつもより磨かれていた。「岡部さん、いらっしゃい。どうしたの? 入って」彼はぎこちなく靴を脱ぎ、いつものようにソファに腰を下ろした。しかし、言葉は少なく、いつもの柔らかい明るさは影を潜めていた。(私……何か失敗しちゃったかしら?)瑞希まで緊張し、リビングの空気が張り詰めた。お茶の準備をしている間も、岡部はほとんど口を開かず、ただ指を軽く組んでいる。「岡部さんがネクタイなんて珍しいですね。会議でもあったんですか?」瑞希は大きなお腹を庇いながら、ゆっくりとソファに腰を下ろした。すると、岡部がポケットに手を入れ、小さな黒いケースを取り出した。そして、リビングの床に片膝をついた。「……え?」ケースの蓋が開く。プラチナのリングが、室内灯の柔らかな光に静かに輝いた。一粒の小さなダイヤモンドが、控えめながらも美しく光を弾いている。岡部は真っ直ぐに瑞希を見つめ、わずかに震える声で言った。「瑞希さん……僕と、結婚してください」部屋に、時間が止まったような静寂が落ちた。瑞希は息を飲んだ。胸の奥で、心臓が激しく鳴っている。妊娠九ヶ月の大きなお腹に両手を当てたまま、言葉が出てこない。(結婚……?今……?このタイミングで……?)頭の中に、様々な感情が渦巻いた。陸斗に裏切られた記憶。真希の歪んだ微笑み。誰も祝ってくれなかった妊娠。孤独な夜に何度も襲ってきた不安。そして、ここ数ヶ月、岡部が静かに灯してくれた小さな光——。瑞希の目が、ゆっくりと潤んだ。「岡部さん……私は……もうすぐ子供を産むんです。陸斗さんの子供を……そんな私を、受け入れてくれるの?」岡部は膝をついたまま、穏やかだが確かな声で答えた。「はい。瑞希さんが産む子も、全部、僕が一緒に守りたい。この子が『瑞希さんの子』として生まれてくることを、僕は誇りに思います。……僕はずっと、瑞希さんの強さと優しさを見てきました。影の中で戦い続けて、それでも前を向いている瑞希さんが、どうしようもなく、愛おしいんです」瑞希の頰を、一筋の涙が
last updateLast Updated : 2026-04-28
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瑞希の決断

岡部が帰った後の夜、瑞希は一人、リビングのソファに深く腰を下ろしていた。テーブルの上には、まだ開いたままの小さな黒いケースが置かれている。プラチナのリングが、室内灯の柔らかな光を受けて静かに輝いていた。一粒の小さなダイヤモンドが、まるで未来を照らすように淡く光を散らしている。瑞希は両手でお腹を抱き、ゆっくりと息を吐いた。妊娠九ヶ月後半。胎動はもう毎日、力強く感じられる。この子が産まれるまで、あとわずか。(結婚……?私が、岡部さんと……?)頭の中がぐるぐると回る。陸斗の冷たい視線。結婚式で叩かれた頰の痛み。新婚初夜に一人で迎えた朝。真希の勝ち誇った微笑みと、半狂乱の罵倒。両親の「再婚しろ」という非現実的な執着。誰にも祝われなかった妊娠。孤独な夜に何度も襲ってきた「破水したらどうしよう」という恐怖。すべてが、瑞希の心に深い傷を刻んでいた。(私はもう、誰かを信じていいのだろうか……この子を守るだけで精一杯なのに……また傷つくんじゃないか……?)瑞希はケースをそっと手に取り、リングを見つめた。シンプルで、派手さのないデザイン。岡部らしい、控えめで誠実なリングだった。あの夜のことを思い出す。エコバッグを掲げて笑う岡部。つわりで苦しいときに作ってくれたおかゆ。原稿で辛くなった夜に、黙って隣に座ってくれていた温もり。「瑞希さんとこの子の物語を、ちゃんと見届けたい」そう言った真っ直ぐな目。彼は一度も、瑞希を「被害者」として扱わなかった。「強いから大丈夫」と無理を強いることもなく、ただ「瑞希さん」として見てくれていた。胎動が、優しく、力強く、お腹の中で動いた。瑞希はリングケースを胸に当て、目を閉じた。「……ごめんね。お母さんは、ずっと怖がっていたよ。また裏切られるんじゃないかって……誰かを信じるのが、怖かった……」涙が、一筋、頰を伝った。でも、今、この子がいる。そして、岡部という人がいる。瑞希はゆっくりと目を開け、リングを見つめた。「私は……もう、影の中で生きない。この子と一緒に、新しい人生を歩きたい。岡部さんとなら……きっと、できる」彼女はケースを閉じ、そっとテーブルの上に置いた。決意が、静かに胸に満ちていく。翌朝、瑞希はスマホを手に取った。瑞希岡部さん、昨夜はありがとうございました。少し時間をい
last updateLast Updated : 2026-04-29
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祝福と新しい始まり

婚約の報告をした翌週、美咲と岡部が大きな紙袋を抱えてマンションを訪れた。「瑞希! 本当におめでとう!!」美咲は勢いよく抱きついてきて、すぐに紙袋から白い箱を取り出した。開けると、北欧デザインの温かみのあるベビーベッドだった。「こんな高いもの……ありがとう、美咲」瑞希の声が少し震えた。美咲は瑞希の手を握り、優しく微笑んだ。「本当におめでとう。岡部なら大丈夫よ。絶対、瑞希とこの子を幸せにしてくれる。私はそう信じてる」その週末、三人で近所の大型ベビー用品店に出かけた。瑞希はこれまでほとんど通販で済ませていたので、実際に店内を歩くのは初めてだった。柔らかなパステルカラーの服が並ぶ売り場に入った瞬間、瑞希の頰が自然と緩んだ。岡部が真剣な顔で小さなロンパースを手に取った。「このうさぎの柄、どうですか? 男の子でも女の子でも使えそうですね」彼は生地を指で丁寧に触りながら、「肌触りが良さそうです」と呟いた。美咲が隣で笑いながら別の服を掲げた。「こっちの黄色いのはどう? 性別関係なく可愛いよ!あ、でも瑞希、こっちのくまさん柄も捨てがたいよね。智久、どっちがいいと思う?」岡部は二つの服を真剣に比べながら、「くまさんの方が、ちょっとふわふわしてて暖かそうですね。瑞希さんはどちらが好きですか?」瑞希は二つの服を交互に見ながら、ふっと笑った。「くまさん……可愛いわね。この子が着たら、きっと小さなくまさんみたい」三人はベビー服コーナーをゆっくりと回った。岡部が小さな靴下を何組も手に取り、「足が冷えないように厚手のものを」と真剣に選んでいる姿に、瑞希は胸が温かくなった。次に移動したおもちゃコーナーでは、美咲が小さなガラガラを振ってみせた。「これ、音が優しいよ!瑞希が疲れたときに、子守唄代わりに使えるかも」岡部は少し離れた場所で、木製のシンプルなおもちゃを手に取っていた。「こういう自然素材のものがいいかな……赤ちゃんの口に入れても安心なものを選びたいです」瑞希は二人の後ろを歩きながら、静かに微笑んだ。(こんな風に……三人で選ぶ日が来るなんて)妊娠中、ずっと一人で通販の画面を見ながら選んでいた日々が、遠い過去のように感じられた。今は、岡部が時折瑞希のお腹を気遣いながら荷物を持ってくれ、美咲が明るく話しかけてくれる。レジに向かう途中、瑞希は小さ
last updateLast Updated : 2026-04-30
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小さな光

その夜、岡部が帰るはずだった時間が、静かに溶けていった。リビングのソファで、瑞希は岡部の胸に寄りかかっていた。布越しの彼の肌の温もりが、ゆったりとしたセーターを通して優しく伝わってくる。「とくん、とくん」と、穏やかな鼓動が耳に響いた。そのリズムが、瑞希の緊張をゆっくりと解いていく。妊娠九ヶ月のお腹が、岡部の体に柔らかく当たっていた。彼は大きなお腹に差し支えないように、体を少し横にずらし、瑞希の肩を抱き寄せた。そして、自然な動作で瑞希の手をそっと握った。指先に感じる岡部の血潮——温かく、力強く、確かに生きている鼓動。その感触が、瑞希の胸の奥から、じんわりと熱いものを込み上げさせた。(……愛されている)これまで感じたことのない、穏やかで、確かな実感だった。陸斗の抱擁は義務的で冷たく、真希の影が常に横たわっていた。けれど岡部さんの腕は、ただ「ここにいるよ」と、静かに語りかけてくれている。岡部は瑞希の髪に顔を寄せ、耳元で優しく囁いた。「瑞希さん……ずっと一緒にいるよ。お腹の子も、俺の子供として育てる。……愛している」その言葉が、甘く、温かく、瑞希の心に染み渡った。瑞希は岡部の胸に顔を埋め、震える声で答えた。「……ありがとう。私も、岡部さんが好き」二人はそのまま、静かに抱き合っていた。言葉はもう必要なかった。岡部さんの指が、瑞希の背中を優しく撫でる。胎動が、二人の間にそっと混ざり、まるでその瞬間を祝福するように動いた。瑞希は目を閉じた。瞼の裏に、過去の影が一瞬よぎった。新婚初夜の孤独、真希の叫び、両親の非難——しかし、それらはもう遠く、薄れていく。今、ここにあるのは、温かな体温と、優しい鼓動と、「一緒にいる」と約束してくれる人の存在だけだった。岡部が小さく笑って囁いた。「産まれたら……三人で、桜の木の下を歩こうね」瑞希は頷き、岡部の胸に体を預けたまま、静かに、幸せそうに微笑んだ。この夜、瑞希のマンションは、これまでで一番、温かく、優しい空気に包まれていた。新しい家族の、静かで、確かに始まる物語だった。その夜から数日後——瑞希は突然の激しい痛みに目を覚ました。深夜2時17分。下腹部を襲う、波のような痛み。破水ではないが、陣痛が始まっていた。「っ……!」瑞希は息を荒げ、ベッドの上で体を起こした。
last updateLast Updated : 2026-05-01
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ひなた

春の柔らかな陽光が、マンションのリビングに差し込んでいた。瑞希はベビーベッドの横に座り、6ヶ月になった息子・陽翔(ひなた)を優しくあやしていた。小さな手が瑞希の指をぎゅっと握り返す。その感触が、まだ信じられないほど愛おしかった。「陽翔、今日はお父さんが早く帰ってくるよ」岡部が仕事から帰ると、まず最初にベビーベッドに顔を近づけ、「ただいま、陽翔。今日も元気だった?」と微笑む。その後、瑞希の額に軽くキスをして、「瑞希さん、お疲れ様。夕飯の準備、手伝うよ」とエプロンを巻き始める。夕食の支度をしながら、三人で過ごす時間は穏やかだった。岡部が作る優しい味の煮物、瑞希が作るサラダ、そして陽翔がハイチェアでご飯を食べる姿。時折、瑞希は過去を思い出す。真希の病室で聞いた半狂乱の叫び。陸斗が崩れ落ちた調停室。両親の執着。すべてが遠い記憶になりつつある。自叙伝『新婚初夜、あなたは妹のベッドにいた』は、無事に出版された。反響は大きく、瑞希のもとには「同じような境遇で苦しんでいた」という手紙が何通も届いた。本の最後の一文は、こう締めくくられている。——私は影の中で生きてきた。けれど今、私は光の中で、この子と一緒に生きている。岡部は毎晩、陽翔を寝かしつけた後、瑞希を抱きしめてくれる。布越しに感じる彼の温もり、「とくん、とくん」という鼓動。あの夜のプロポーズの言葉が、今も胸に響いている。「瑞希さん、ずっと一緒にいる。……愛している」瑞希は岡部の胸に顔を埋め、静かに答える。「私も……岡部さんが好き。ありがとう」ある夜、陽翔がぐずったとき、瑞希はベランダで夜風に当たりながら、遠くの空を見上げた。(真希……あなたは今、どうしている?私はもう、あなたの影ではない。でも、どこかで、あなたのことを忘れたわけじゃない)それは、憎しみでも、罪悪感でもない。ただ、双子として生まれた運命への、静かな感慨だった。瑞希は部屋に戻り、岡部と陽翔の寝顔をそっと見つめた。温かな布団の中で、三人は寄り添っている。過去の闇はまだ完全に消えたわけではない。けれど、今、この瞬間、瑞希は確かに「家族」を持っていた。「陽翔……お母さんは、あなたを守るよ。ずっと、ずっと」瑞希は小さく微笑み、目を閉じた。影の双子から解き放たれた、新しい家族の物語は、静かに、
last updateLast Updated : 2026-05-02
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花散らしの夜

花散らしの嵐の夜だった。激しい風雨がマンションの窓を叩き、桜の花びらが闇の中で乱れ舞う。そんな夜更けに、玄関のドアを激しく叩く音が通路に響いた。岡部がガウンを羽織ってドアを開けると、そこに立っていたのは、雨でずぶ濡れの陸斗だった。髪は伸び放題で、痩せこけた頬に張り付き、うっすらと髭が生えている。皺だらけのコートが風に舞い上がり、鬼気迫るものを感じさせた。かつて大学病院のエリート医師だった男の面影は、どこにも残っていなかった。「どうしたんですか、こんな夜中に……」岡部が警戒を隠さずに言うと、部屋の奥から、突然の出来事に驚いてぐずる陽翔の泣き声が聞こえた。陸斗の視線が、部屋の奥——瑞希が赤ちゃんを抱き上げている方へ向けられた瞬間、彼の目に、狂おしいほどの渇望と絶望が浮かんだ。「子供を……子供を真希に会わせてやってくれ……」声は掠れ、雨と涙でぐちゃぐちゃだった。陸斗はドア枠にすがりつき、膝を折りそうになりながら、必死に言葉を絞り出した。「真希が……今夜が山かもしれない……余命宣告からさらに悪化して、普通病棟のベッドで、ただ息をするのも苦しそうに……看護師さんも『もう長くない』って……お前が産んだ子を……せめて一目だけ……真希に見せてやってくれ……俺は……もう何も持っていない……医師免許も、仕事も、誇りも……全部失った……真希の最期に、俺がしてやれることなんて……これだけなんだ……お願いだ……瑞希……真希は……お前のことを憎みながら死ぬかもしれない……俺は……それを見たくない……俺が守れなかった……全部、俺のせいなのに……せめて……最期に、真希を少しでも幸せにしてやりたい……俺の人生は、もう終わってるんだ……子供を……ほんの少しだけでいい……真希に会わせてくれ……」陸斗の声が震え、嗚咽が混じった。雨水が彼の頰を伝い落ち、目からは悔恨と罪悪感と、取り返しのつかない喪失感が溢れていた。膝がガクガクと震え、ドア枠にすがる手が白くなるほど力を込めていた。(ざまぁ……)瑞希は陽翔を抱いたまま、静かに玄関に近づいた。彼女の目は、かつての夫を冷たく、しかしはっきりと見下ろしていた。「陸斗……あなたは新婚初夜に、私を一人残して真希のベッドに駆けつけた。結婚式で私を叩き、調停室で崩れ落ち、家族特別枠のために私を利用した。
last updateLast Updated : 2026-05-03
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